ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

枯葉・秋の歌

2016-11-28 21:18:43 | Weblog



 11月28日

 ”秋の日の ヴィオロン(ヴァイオリン)のためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。”

 確か、高校の国語の教科書に載っていたように記憶しているが、秋についての一篇の詩をといえば、すぐに思い浮かぶのが、この一節である。
 今までにも、秋が過ぎ行くころになると、このブログでもたびたび取り上げてきたのだが、今回は上にあげた冒頭の第一節目だけではなく、続く残りの二節についても併せて載せておくことにする。

  "鐘のおとに 胸ふたぎ 色かえて涙ぐむ 過ぎし日のおもいでや。

   げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らう 落葉かな。”

 (WEB上の”青空文庫” 上田敏「海潮音」より)

 誰でもが聞いたことのあるだろう、この有名な詩は、フランスの詩人、ヴェルレーヌ(1844~96)によるものであり、それを明治時代から大正時代初期にかけての文学者、上田敏(うえだびん、1874~1916)が和訳して、「落葉」という題名をつけたものである。
 その後、あの堀口大学(1892~1981)による、訳詩集もあり(新潮文庫)、他の現代語訳もあるようだが、私にとっては、この古い韻を含んだ古典文体の訳文が、一番しっくりと口になじむ気がするのだ。
 今ではもう、”伝統芸能”の舞台以外では使われることもない、”古典文体”・・・しかし、そんな古めかしい文体になじんでいる私たちだから、年寄り趣味だと言われるのでもあろうが、しかしこのまま、文学研究者や愛好者たちだけのもので、一般には理解されないまま、いつしか時の流れの中で埋もれてしまうのは、あまりにも惜しい気がする。 

 思えば、飛鳥・奈良の”万葉集”の時代から、培(つちか)われ進化してきた日本語の文体が、あの『平家物語』の有名な冒頭部分、”祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・”に見られるように、早くもその時代には一つの頂点を築き上げ(琵琶の弾き語りという、聞かせるための口伝”くでん”文章であったことにもよるのだろうが)、さらに時代とともに生まれた幾多の名文の数々を経て、近世の町方文化の洗練の極みとしての、浄瑠璃(じょうるり)文があり、その台本作者としての、近松門左衛門の『曾根崎心中』の出だしの、これまた名文の一つである、「この世の名残(なごり)、夜も名残、死に行く身をたとふれば・・・」の名調子の一節へと昇華してゆくのだ。

 さらにその後、日本文化そのものが近代化されていくようになる明治時代に入ってもなお、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉などの古典・擬古典文体作家が活躍していたのだが、次第に言文一致体への切り替えが進み、今にある現代文の世界になっていったのだが、確かにその変化は、誰にでもわかる現代文の普及という点では大成功を収めたのかもしれないが、その一方では、昔の古文体が持つ、韻を含んだなめらかな文章の流れ、あの心地よく耳に響く音の流れが、失われてしまったような気もするのだが。 

 私たち年寄り世代は、かろうじて、その古典文の世界の名残りを、読み知っていた最後の世代だったのかもしれない。
 それだから、こうして昔の詩に出会うと、その詩に初めて接した時代の訳文に、どうしても目が行ってしまうのだ。
 例えとしては、正しいかどうかはわかないけれど、鳥類によく見られる、いわゆる”刷り込み(すりこみ)”現象によく似ていて、つまり生まれて目が開いて歩き回れるようになった時に、すぐそばにいたものを親だと思ってしまう、ヒナ鳥の経験とよく似たもので、古い古典文体で習っていれば、それが原典だと思ってしまうのだ。

 付け加えて、この上田敏による「落葉」という訳は、原文と異なっており、正しいフランス語訳は、堀口大学訳にある通り「秋の歌」である。
 もっとも、彼が「落葉」と和訳したのも、わからないわけではなく、特に最後の一節を見れば、この詩の主題が、”落葉のような自分のゆくえ”になっているからだ。
 
 それにしても、上田敏は、この「落葉」を含む訳詩集としての『海潮音』の作者として有名であり、近代日本文学の扉を開く一つのきっかけを作った、西洋文学の紹介者でもあったのだが、そのことが今さらながらにして、この詩を読むと実感できるし、ただ惜しいことには、彼は42歳という、あまりにも早すぎる年齢でこの世を去っているのだ。
 思えば、樋口一葉24歳、尾崎紅葉36歳、石川啄木26歳、正岡子規35歳、芥川龍之介35歳、中原中也30歳などなど、あまりにも痛ましく、惜しみて余りある短い生涯である。
 それに引きかえ、彼らの二倍もの年数を、まさに駄馬(だば)に等しき無芸大食のまま、いたずらに馬齢(ばれい)を重ねて、今日まで生き延びてきた、このじじいの私・・・全くこの世は不公平なことばかりで、もっとも、それが天命なのだと割り切るほかはないのだろうが・・・結局、人には人それぞれの、自分だけの人生があるだけなのだからと。

 冒頭に掲げた写真から、話を始めようとしていたのだが、その本意から外れて、いつの間にか、日本文学の話にまでふくらんでしまい、これ以上には、とても浅学菲才のわが身に負える事柄ではなくなってきたので、このあたりで尻尾を巻いて退散することにする。

 さて、上の写真は自宅の庭に散り敷いた落ち葉であるが、私が一月前に戻ってきたころには、もうサクラの葉がだいぶ散っていたし、それに続いてウメやカキの葉も落ちて、カツラやサルスベリ、ウツギなども散り、春からずっと紅葉色のヨシダモミジも散ってしまい、それらの上にウリハダカエデの黄色い大きな葉が落ちていて、最後になるだろう、コナラの葉が赤色から枯れた茶色に変ってしまった。
 それらの落ち葉たちが、上にあげた詩に書いてあるように、風に吹かれて、ゆくえもわからず、かさこそと音を立てている。
 その庭の枯葉や枯れ枝を集めて、もう二度も”落ち葉たき”をしたのだが、まだ後二回は必要だろう。
 そうして、私が落ち葉を燃やしているのを、母がベランダから眺め、ミャオがその焚火のそばに寄ってきていた。そうした日々もあったのだ。(’10.11.24の項参照)
 急に寒くなり、気温が零下にまで下がる日が続き、もう秋は終わったのだ。

 それでも、まだ私の思いの中には、秋の色合いが多分に残っている。
 それは、いつものことだが、私はパソコンのモニター画面の背景に、いつも行ってきたばかりの山の写真を、長時間間隔のスライドショーにして映し出していて、パソコン画面をつけるたびに繰り返し、その行ってきたばかりの、秋の山の景色を見ているからだ。
 それは、一回の山行で、いつも百数十枚ほどの写真を撮っているから、それだけの枚数があるスライドショーになり、あきることはない。
 話は少し変わるが、二三日前のテレビで、山の自然ガイドをしている彼女が、自分の好きな場所からの山の姿を、朝霧の中から山々の姿が立ち現れてくる様を、一つ一つよく憶えていて、だから写真にとる必要はないのだと言っていた。

 他にも、山では、カメラで景色を写すことに気をつかうよりは、じっくりと山を眺めて”心眼”に刻み付けておいたほうがいいという人もいる。
 彼らの言うことはよくわかるし、山に対面する立場としては、そのほうが正しいのだろうが、しかし私は、長年の自分の体験から、そうではないのかもしれないと思い始めていて、今では、なるべく多くの写真を撮るようにしているのだ。

 それは、古い山の写真フィルムを整理していて、スキャナーにかけて、デジタル化して、パソコン・モニター画面でも見られるようにしているのだが、その時に気づいたことは、その一枚一枚の写真を見ると、その時々の思い出はよみがえってくるのに、その写真と次の写真との間の景色が、はっきりしていなくて、全く思い出せない時もあるということだ。
 つまり、5年10年位前のことなら、写真がなくてもまだ憶えているのかもしれないが、20年30年前のことまで、その時々の光景を覚えているかというと、わずか幾つかのシーンはよみがえってくるかもしれないが、多くの見てきたはずのシーンはもう思い出すこともできないだろう。
 しかし写真があれば、少なくとも、その場所でのことは思い出すことができるかもしれない。

 つまり、写真は、複雑にして千変万化の人間の脳の記憶状態を刺激して、その時の記憶を引き出す手助けになると思うのだ。
 私は、数十年に及ぶ山登りで、そのほとんどを写真にして撮っているし、さらには、若き日のオーストラリアやヨーロッパへの旅でも、かなりの量の写真を撮ってきたし、そのことが、私の昔の記憶を豊かなものにしていることは確かだ。

 ちなみに、私には、ごく最初のころの山登りの写真がないのだが、当然のごとくその時のことは、今でも断片的な情景の記憶としてはあるが、景色などは全く浮かんでこないし、さらには北海道に移ってからでも、一度だけだが、その山行で写した写真フィルムを取り出す時に、うかつにも巻き戻しをせずに、カメラの裏ぶたを開けてしまい、すっかりだめにしてしまったことがある。
 それは、晴れた日の三度目になるトムラウシ山の写真だったのだが、あまりの悔しさにあきらめきれずに、その日のうちに、必死になって思い返しては、20枚くらいのシーンに分けて、画用紙にスケッチして、色付けをして、何とか見られるような画像に仕上げた。
 それは、つたない絵ではあるが、今でも、その時の記憶を引き出す大きな手掛かりにはなっている。
 
 さらには若き日のオーストラリアや、ヨーロッパでも、同じようなミスをして、それぞれ36枚撮りフィルムの1本をダメにしたことがあるが、今でもその部分での私の記憶は、半ば欠落したままである。
 その場所に行ったことは憶えているのだが、明確なシーンとして浮かんでこないのだ。
 もし1枚の写真があれば、その時の光景を、鮮明な写真画像のように思い出すのだろうが。
 私は、何も科学万能崇拝者ではないのだが、少なくとも、写真の有り無しが、その時の記憶の呼び戻しに大きな影響を与えることだけは確かだと思っている。
 それだから、写真なしで、”心の眼”に写し取っておけばいいという、話には同意しかねるのだ。

 私がこの年になっても、相変わらず写真を撮り続けているのは、残りの短い人生を考えれば、無駄なことなのかもしれないが、こうして日々、モニター画面に映して見ることができる山々の姿は、まさに写真があってからこそのことであり、さらに言えば、デジタルカメラになったことで、今までカメラにメモリーカードを含めて、一度の失敗もないし、何より気のすむまで、枚数を気にせずに写せるようになったことが、何よりもありがたいのだ。
 ”下手な鉄砲でも数打ちゃ当たる”の例えではないけれども、かといって、人様に見せるためのものではなく、あくまでも自分で満足するために撮っているだけだから、一向に写真術とやらは上達しないのだが。

 ここで、前回の紅葉見物の登山の時の写真を、もう一枚だけ載せておくことにする。
 それは紅葉の写真ではなく、足元の枯葉で埋まった斜面をゆるやかに上がって行く、登山道での光景だったのだが、斜め上からの光が立ち木と枯葉の影をつけて、何ともまた、秋らしい雰囲気が漂っていた。(写真下)
 おそらく、この写真などは、もし写真がなかったら、何年後かには私の記憶から消えてしまうことだろうが、この一枚があるおかげで、私は見るたびにこの時のことを思い出すだろう。
 私は、思うほどに精神主義者でもないし、思うほどに科学信奉主義者でもなく、ただ毎日に従うだけの、現実主義者にしか過ぎないのだ。

 今回は、前回少し触れた、イギリスの詩人、ワーズワースのことや、最近放送された山の番組などについて書くつもりだったのだが、わき道にそれて戻れなくなってしまった。
 それらについては、次回以降に書くことにしたい。

 今日は、昨日の雨を引き継いでの曇り空で、肌寒く、気温も8度くらいまでしか上がらなかった。
 明日は天気になる予報だが、私の(能天気ではなく)脳天気な頭の中にも、チョウチョウが飛ぶのだろうか。
 あーした天気になーれ。