8月1日
カナカナカナ、ジー、ギー、ツクツクッーシと鳴く、セミたちのほかに、とうとうクマゼミまでもが、シーワシワシワシとひときわ大きな声で鳴き始めた。
木々に囲まれたわが家の周りは、まるで”セミの鳴き比べ大会”さながらのにぎやかさである。
こちらに戻ってきた当初は、朝夕のヒグラシの声がうるさいほどで、そばに近づいて木をゆすったりしたぐらいだが、時間がたてばまた同じようにいっせいに鳴き始め、けっきょくは”元の木阿弥(もとのもくあみ)”状態で、いつしか慣れて、セミたちの声にはもう何とも思わなくなってしまった。
しかし、このヒグラシの鳴き声の習性は、実に興味深い。
つまり、ほかのセミたちが鳴かない、夜明けのころと日が沈む夕方に、いっせいに鳴くのだ。
それは、オスたちがメスたちに自分たちの存在を示すための、一大歌比べの場だからなのだろうが、みんなそれぞれに必死なのだ。子孫を残すための本能に導かれて。
しかし、そうしたことを、人間社会に比べてなどと感傷にふけるまでもなく、ヒグラシの鳴き声は、一方では、天気の番人といってもいいほどに役にたつ鳴き声でもあるのだ。
私はこの家にいる時には、毎日風呂に入りその残り湯をそのままにしておいて、朝、寝汗で首の周りがべたついているから、その残り湯の風呂にさっと入り、そしてほとんど毎日のように洗濯をしている。
北海道にいる時には、風呂は四五日おきにしか入らず、洗濯も二三週間に一度コインランドリーに行くくらいで、こことはまるで違う生活を送っているのだが、それはさておき、その洗濯ものをベランダに干していて、もし急に曇って通り雨や夕立になりそうな時には、その前にこのヒグラシたちが鳴き始めて、天気が悪くなってきたことを教えてくれるので、部屋の中にいても、すぐにベランダに出て空模様を見ては、素早く洗濯物を取り込むことができるのだ。
ヒグラシは、その名の通りに朝夕に鳴くが、日中でも、日差しが陰って曇り空になった時にも鳴くのだ。まるでほかのセミたちが鳴くのをやめた、そのつかの間の時までもねらっているかのように。
そこで思い出すのは、北海道の家の周りを取り囲む林で鳴く、あのエゾハルゼミたちのことだ。(5月30日の項参照)
彼らは、ここのヒグラシとは逆で、朝、太陽の光が林の中にも差し込むようになってから、ようやく鳴き始め、夕方、日が沈む前まで鳴いているが、その間にも曇って日差しがなくなり、冷たい風が吹いてくると、いっせいに黙り込んでしまう。まさに、シーンとした状態だ。
前回に書いた、あのキツネノカミソリもそうだが、ほかの草花が枯れている冬の間に、ただひとり緑の葉を茂らせ、春になってほかの草花たちが芽を出し茂り始めると、自分の葉はいつしか枯れてしまい、夏になるころには一本の長い茎だけを伸ばして、その先に鮮やかな花を咲かせるのだ。
彼らは、長い進化の過程の中で、自分たちの環境に合わせて生きていく生き方を、もう体の本能として会得しているのだろう。
そんなことをしみじみと考えたのは、もちろん自分の身を思ってのことでもあるが、依然としてヒザの状態が思わしくないのだ。
予定では、7月初めにこちらに帰ってきて、2種間ほどで、梅ジャムづくりやほかの用事仕事をすませて、梅雨明けを待っていつもの夏の遠征登山に行くつもりでいた。
ところが今年は、その中部地方以北の梅雨明けが遅れ、さらには、その夏の天気がいつもの太平洋高気圧の張り出しによる晴れではなく、東シナ海や日本海にある小さな高気圧と北のオホーツク海付近にある高気圧の張り出しによる天気だから、一定するはずもなく日々不安定で、とても長期の山登りに適した天気だとは言えないのである。
もちろんそれ以上に、自分の足のヒザの状態がよくなくいこともあって、それは、普通に生活するときにはあまり差しさわりはないのだけれども、坂道や階段の上り下りでは、いまだに痛みが出てしまい、とても山に行ける状態ではないのだ。
この長く続くヒザの痛みは、多分じん帯の損傷によるものだとは思うが、そおれをなおすには、ギブスをはめての、あるいは手術を受けての長期間の治療が必要になり、今こうして二つの家を行ったり来たりしている私には、あらかじめ長期間いる所での治療の覚悟が必要になるのだ。
といった具合に、梅雨明け後の天気も思わしくなく(九州は毎日猛暑日が続くほどの夏空が広がってはいるが、写真上)、ヒザは悪いし、結論を先延ばしにしてぐうたらに過ごしていたら、なんともう一月近くも、こちらにいたことになるのだ。
夏の盛りに、それも今年の十勝地方では、雨が多く気温が低くて冷害さえも心配されているほどで、そこにあるもう一つのわが家を、いつまでもそのままにしておくわけにもいかないし。
山はもうあきらめるとしても、といっても、いつまでもここにいるわけにもいかないのだ。
ただ、正直に言えば、今は北海道には帰りたくないという気分なのだ。
それは、良くも悪くもここでの生活に慣れてしまって、再び環境が悪くなる所へ戻るのはとためらい、二の足を踏んでいる状態なのだ。
ということだ。
確かに、夏の九州は暑く、もう1週間近くも35度を超える猛暑日が続いている所もあるくらいだが(幸いにもここは山の中で、周りにも木が多くて、30度を少し下回るくらいなのだが)、家には古いながらもクーラーがあるし、夕方までは扇風機だけでも過ごせるほどに、暑さには慣れてきたし、何より毎日風呂に入ることができて、毎日洗濯もできて、夜中のトイレで起きても家の中に水洗トイレがあるし、そうした居心地の良さが、私を北海道へ帰る思いから遠ざけているのだ。どうしよう。
「唄(うた)を忘れた金糸雀(カナリア)は
後ろの山に棄てましょか
・・・
いえいえ それはなりません
唄を忘れた金糸雀は
象牙(ぞうげ)の船に銀の櫂(かい)
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄をおもいだす」
(「かなりや」 西条八十作曲 成田為三作曲 1919年大正3年)
こうして、ふと古い童謡の1節を思い出したのだが、考えてみれば、私たち世代は良い時代に育ってきたものだと思う。
父母が苦しんだ、戦争の悲惨さを直接体験することもなく、当時まだ残存していた大正ロマンからの残り香も漂い、戦前の古めかしい芸術体系を受け継いできた、日本の大衆文化の系譜とでも呼べる芸能の世界を、わずかばかりでも味わうことができたからだ。
今のテレビ・アニメの歌で育ってきた世代と比べれば、なんともありがたいことに、こうした雑多な土俗的あるいは都会的な、大衆芸能の抒情世界に触れることができて、その中で育ってきたことが、私たちをいわば、江戸の昔から続く”情におぼれる”日本人として、性格づけていくことになったのだろうか。それが良かったのか悪かったのか、評価は分かれるとしても・・・。
そうした思いにふけりながら、今ここで自らのドラ声をあげて歌うことは、近隣への多大な影響を考えて差し控えることにするが、今でもいくつかの童謡唱歌がふと口をついて出たりするくらいだし、その後、ここでも自分の経歴として書いたことだが、会社に入ってからの担当部署が、自分の好きな映画・音楽部門だったこともあって、当時から仕事とはいえ、日本の童謡・唱歌から民謡・流行歌に、外国の民族音楽からクラッシック・ジャズ・ロックに至るまで、節操もなくあちこちに首を突っ込み、いろいろと聞いてきたおかげで、何かといえば、それらの歌のある一節が、今でもふとした時に頭の中に流れてくるのだ。
「早春賦(そうしゅんふ、”春は名のみの”という歌い出し)」「牧場の朝(”ただ一面に”という歌い出し」「からたちの花(”からたちの花が咲いたよ”という歌い出し、島倉千代子の「からたち日記}もいい曲だが)」「冬景色(”狭霧消える港への”という歌い出し」「叱られて」などから、「七里ヶ浜哀歌(”真白き富士の嶺”の歌い出し)」に、旧制高校時代の部歌や寮歌としては、「琵琶湖周航の歌(”われは海の子”の歌い出し)」「嗚呼玉杯に花うけて」「人を恋うる歌(”妻をめとらば”の歌い出し)」「都ぞ弥生(”都ぞやよいの雲むらさきに”の歌い出し)」などの名曲の数々に、さらに加えて応援歌などを、学校の先輩に教えてもらうことができたし、当時はやっていた”うたごえ喫茶”では、もちろん女の子を”ひっかける”目的で行っていたのではあったが、そこでもさらに多くの名曲唱歌を知ることができたのだ。
もちろんカラオケもなく、アコーディオンやギター一本の伴奏で、数十人や何百人もの若者の男女たちが一緒になって歌っていた時代・・・。
そして、そんな私たちが育ってきた子供時代とは・・・ラジオからは「赤胴鈴之助」や「新諸国物語・紅孔雀(べにくじゃく)」「風雲黒潮丸(”黒潮さわぐ海越えて”の歌い出し)の歌が流れていたころ、私たち子どもは、腰に棒きれの刀を差して、”ポケモンGO”ならぬ、横町にいる隣の小学校の敵を探して歩き回っていたのだ。
プラモデルなどはもちろんのこと、ゲーム機さえもなかった時代、みんなが貧乏だった時代、子供は隣近所の大人たちに怒鳴り散らされていた時代、相撲や力道山を見るために、テレビのあるお金持ちの家に見せてもらいに行っていた時代、島倉千代子や三橋美智也の歌が流れていた時代・・・あの時代が良かったなどと言うつもりはないが、ただあのころは、日本文化の人情的なロマンチシズムにあふれていた時代だったと思うのだが、良きにつけ悪しきにつけても・・・。
「カナリア」の歌の話から、すっかり話がそれてしまったが、ともかく今では、すっかり山の歌を歌うことを忘れた私だが、そこは日ごろから深く考え込まずに、脳天気(ちなみに認知症に近づきつつある私としては、能天気ではなく脳天気と書くのがふさわしい)私にとって、すでにもうだいぶん前から山に代わるものをと考えてはいるのだが。
なあにヒザが悪くて山に登れなくなったぐらいで、自分の目の前に広がる世界がなくなるわけではなし、自分の考え方ひとつでどうにでもなるというものだ。
ここでは、前にも取り上げたことのある、あのフランスの哲学者アラン(1868~1951)の言葉をあげておこう。
「 わたしが考えているこの幸福となる方法のうちに、悪い天気をうまく使う方法についての有効な忠告を加えておこう。
わたしがこれを書いている今、雨が降っている。
屋根瓦が音を立てている、無数の小さな溝がざわめいている。
空気は洗われて、濾過(ろか)されたみたいだ。雲はすばらしいちぎれ綿に似ている。
こういう美しさをとらえることを学ばなければいけない。
しかし、雨は収穫物を台無しにする。とある人は言う。なにもかも泥で汚れると別な人が言う。
そして第三の人は言う。草の上に座るのは、たいへん気持ちがいいのに、と。
言うまでもないことだ。だれでもそれは知っている。あなたが不幸を言ったからといって、どうともなるものではない。
そして、わたしは不幸の雨にびしょぬれになり、この雨は家のなかまでわたしを追いかけてくる。
ところが、雨降りのときこそ、晴れ晴れとした顔が見たいものだ。
それゆえ、悪い天気のときには、いい顔をするものだ。」
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。」
(『幸福論』 アラン 白井健三郎訳 集英社文庫)
どれほど天気のいい日ばかりが続いても、いつかは雨降りになるのだし、いくら雨の日ばかりだとはいっても、いつかは必ず晴れるものだ。
夕方には、昼間の入道雲が崩れて、向こうの山の端を区切って、夕焼けの空になっていた。(写真下)