ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

夏の終わりの思い出

2016-08-29 21:37:56 | Weblog



 8月29日

 今、札幌などの北海道の西半分は晴れているというのに、十勝地方をはじめとする東部には前線が停滞していて、霧雨や小雨の毎日が続いている。
 冬場には、毎日、凍(しば)れた青空の”十勝晴れ”が続く天気とは真逆の、夏によくある空模様だ。
 その上に、台風が三つも続けて来て大きな被害を受けたばかりなのに、さらに大きな台風が近づいてきているのだ。
 もう、これ以上の雨風は、日々の民(たみ)の暮らしをも壊すことになりますれば、なにとぞ、その民の嘆きをお聞き入れなされて、八大竜王様、雨風をやめ給え!(源実朝の短歌より。) 

 とは言っても、良かったこともある。まずは、井戸水を心おきなく使えるようになったことであり、もう一つは、一気に気温が下がって、夏が終わったと実感したことである。
 昨日の気温は朝13度で、その後も霧雨の中、日中も気温は上がらず17度くらいで、一日中、フリースの上着を着て、靴下をはいているほどだった。
 ともかく、内地はもとより、この北海道でさえ時々感じることのある、日本の夏の、あの”ねっとり”とした暑さが、私は苦手なのだ。
 そのために、この北海道に住みたいと思ったくらいなのだから。
 若いころに行った海外旅行の途中で、乗り継ぎのために、香港やシンガポールなどに立ち寄ったことがあるが、秋や春だったにもかかわらず、あのむっとするように体を包み込む生暖かさには、閉口したものだった。私は暑い所には住めない体質なのだろう。
 最近では、移住するなら7割以上の人が、沖縄などの南方移住を望んでいるというのに、その沖縄に一度も行ったことがない私は、そういう人たちとは逆に、こうして寒い北海道に居続けたいと思っているのだが。(ここでは、井戸水、風呂、トイレと問題点もあるが。)

 過疎化が深刻になり、移住者が来るどころか、若者たちの内地への脱出者が増えている北海道。外国人たちにとっての、北海道ブームは続くかもしれないが、日本人、特に若者たちにとっての北海道とは、さほど魅力がない所になってしまったのだろうか。
 リュックサックを背に、1か月有効の鉄道周遊券で、北海道の若者宿を巡り歩いては、一緒になって、”拓郎”や”チューリップ”や”かぐや姫”などを歌い、みんなが仲間だった時代。
 ”うたごえ喫茶”から”西口フォーク集会”へとつながり、北に向かう”カニ族”の若者宿へと続いてきた、歌声の流れは、すべて、新しく生まれた”カラオケ・ボックス”の中に小分けにされていってしまい、今の時代のポップスやロックのコンサートでの、一体感あふれる手拍子とかけ声に変わってしまったのだ。
 それが時代というものだろうと、年寄りとしては、ただ深い感慨を持ってながめているだけなのだ。
 
 昨日の午後は、テレビのチャンネルをあちこち替えながら、いろいろな番組を見ていたのだけども、例の”24時間テレビ”は、いつもの難病と闘う子供たちの姿が涙を誘うけれども、やはりどうしても、感動ドラマに仕上げようとする部分が多すぎて、さらには取り巻き連が多すぎて、鼻につくという批判もわかる気がする。チャリティーの趣旨は正しいだけに、何とかできないものだろうか。

 その裏番組として、私が長い時間見ていたのは、NHKの”民謡フェスティバル2016”だった。
 それぞれの大会での優勝者たちなどが出場していて、日本中のいろいろな民謡を聞かせてくれたのだが、プロの民謡歌手とは違う、それぞれの個性ある歌い方が、別な歌を聞いているようで、実に興味深かった。
 ただし、6月に開かれたその大会の出場者60組のうち、このテレビで放送されたのはその半分だったとのことだが、その中から選ばれて優勝したのは、およそ一般受けはしないだろう、「津軽音頭(つがるおんど)」を、土の臭いあふれる地元感たっぷりに、少し武骨なまでの地声を響かせて歌っていた、年配の男性だったが、民謡界のお歴々が審査員に名を連ねるこの大会ならではの、結果だったとも思う。
 普通に考えれば、きれいな伸びのある歌声で歌っていた、他の若い人たちのほうが良かったのにとか、どうしてあんな聴き映えのしない、浪花節(なにわぶし)語りのような歌い方の、あのおじさんが選ばれたのかと思った人も多かったと思うけれども、私もまた、民謡に詳しくはない素人の聞き手にしかすぎないのではあるが、ある意味納得できる結果でもあった。

 というのも、前にも書いたことがあると思うが、東京で働いていた時に、音楽担当部門にいた私は、日本の流行歌や民謡の古い録音を聞く機会があって、それぞれに聞いていったのだが、その中に、村田文三の歌う「相川音頭(あいかわおんど)」が入っていて、最初聞いた時には、こんな素人っぽいじいさんの歌のどこかいいのだろうとさえ思っていたのだが、二回三回と聞くうちに、その昔のあの源義経(みなもとのよしつね)の活躍ぶりを、口説(くど)き風に素朴に歌っていく歌い方に、すっかり魅せられてしまったのだ。
 感情あらわに表現するのではなく、逆に淡々と歌詞を並べていくことによって、次第に物語の詠嘆的な哀しみが浮き上がって見えてくるということ。

 私はその時、そこから大切なことを、教えられたような気がしたのだ。
 例えば映画の一シーンで、極端に言えば、主人公に悲しみが襲ってきた時に、辺りをはばからず泣きわめくように演じるのか、(もちろんそれは監督に指示されてのことだが)、それとも、感情を押さえて、その顔に一筋の涙が伝うだけの静かな演技にするのか、ということで、観客に伝えるそのシーンの意味が、全く違ったものになってしまうのだということ。
 
 もちろん、この大会での「津軽音頭」の歌い手は、顔を赤くしてのこぶし回しを聞かせた歌い方ではあったが、そのほかの若い歌手たちのような、よく通るきれいな声とは縁遠いものであり、それだけに、その昔の祝い唄、仕事唄などから歌い継がれてきたという、民謡の一つの流れ、伝統の芸を目の前に聞くような気がしたのだ。

 そしてこの時の”奨励賞”には、若い男女の二人が選ばれていたのだが、その一人、若い娘が歌った茨城は大洗(おおあらい)の民謡「磯節(いそぶし)」の歌には、思わず引き込まれてしまった。
 同じ民謡でも、その後”お座敷唄”として、芸妓たちによって、ある時は”長唄”ふうに洗練されていった、もう一つの民謡の流れがあり、そんんな「磯節」だが、今までにも、そうして洗練された芸妓たちの歌う、”お座敷唄”ふうの「磯節」を聞いてはいたのだが、今回の振り袖姿の彼女はまだ20代初めぐらいだろうが、十分な技巧を身につけていながらも、高い声にも無理がなく滑らかで、そこに若さの初々しさも混じっていて、私が今まで聞いてきた「磯節」の中でも、特に印象に残る一曲になったのだ。そして、彼女は、なにより、孫娘のようにかわいかった。

 さらにここで、他にもう一つあげるならば、同じ”奨励賞”を受けたもう一人の若い男ではなく、彼も確かに将来性を感じさせはしたが、私にはそれ以上に、あの独特の音階が心に響いてくる、奄美沖縄地方の民謡の中からの一つ、奄美島唄の「うらとみ」であり、それを、大島紬(おおしまつむぎ)の振り袖を着た若い彼女が、三線(さんしん)の弾き語りで歌っていて、思わず聴き入ってしまった。
 やはり私には異国の響きに、ついほろりと来るような感受性があるのかもしれない。
 上に書いたように、暑い所だからとまだ一度も行ったことのない、奄美や沖縄なのに。


 そして、夜になって、ふと見たNHKのドラマ「キッドナップ・ツアー」。
 日ごろからドラマなど見ない私だが、情けない弱い父親役を演じていたのが妻夫木聡だから見たわけではなく、その小学生くらいの子役の女の子の、演技というかセリフ回しの巧みさに、思わず感心して、途中からだったがつい最後まで見てしまったのだ。
 この子は、将来きっと、あの大竹しのぶクラスの、演技派女優になるに違いないとさえ思ってしまった。
 つまり、リオのオリンピックで、日本のスポーツ界にも次々と若い力が台頭してきているように、さらには何かと、落ち目のAKBだとか言われてはいるが、その中から少しずつ、次世代へと受け継いでいく将来性あるメンバーの娘たちが、AKBグループそれぞれに育ってきているのと同じように。
 もっとも、この私がもうこの世にはいないだろう、そんな先のことまで、どうなるかなどと、気を回すことはないのかもしれない。
 時代は少しずつ新しいものに代わっていき、また少しずつ古いものがなくなっていくというだけの話だ。

 ところで話は変わるが、冒頭に写真を掲げたように、今回は、ヒザを痛めてもう2か月も山に行っていない代わりに、その山恋しさを埋めるべく、昔の山行の中から、今の時期に登った山の思い出の一つを取り出してきて、今の時期の、夏の終わりの山行を追体験してみようと考えていたのだ。
 ところがいつものクセで、話が横道にそれてしまい、そしていつしか民謡の話になって、そこに時間をかけすぎてしまったので、以下簡単にその時の山の話を書いていくことにする。

 8月下旬の今頃は、私は、いつものように日高山脈の沢登りに行くことにしていた。
 今の時期、山の稜線を歩くにはまだ暑いし、かといって秋の紅葉には早すぎるし、さらにはお盆の時期まではあちこち人が多くて出かける気にはならなかったし、それならばといつもお盆過ぎのころに、沢登りに出かけるのを楽しみにしていたのだ。
 いつものごとく、単独行の沢登りだから、ザイルを使うような難しい沢には入らないし、(かといって20mのロープ一本はいつも持っては行くのだが使ったことはなく)、つまりやさしい沢での、水しぶき浴びての楽しみながらの沢登りであり、それでも目的は山登りだから、山頂までは行くという山行だったのだ。

 そうした時に、真っ先に頭に浮かぶのが、日高山脈南部の山、野塚岳(のづかだけ、1353m)である。
 この山の下を貫いての国道が開通して以来、この周囲の南部日高の山々へのアプローチがどれほど楽になったことか。
 基本的には、登山者は誰でも自然保護の立場であることに変わりはないのだろうし、こうして自然豊かな日高山脈を削って道が作られても、その自然破壊状態にもよるのだろうが、すべての登山者がその利便性の恩恵に浴することになり、大きな反対の声にならないのが現実でもある。
 (とは言っても、生活道路としての実用性がない、あの大雪山銀泉台からの道や然別湖線が、自然保護団体の反対の声もあって、途中で廃止になったことは、実に喜ばしいことではあったのだが。)

 ところで、この山行は、このブログを書き始める前のことで、9年も前のことになり、ちょうど私がデジカメを使い始めたころで、わずか500万画素のコンパクト・デジカメではあるが、今こうしてパソコン画面でその写真を見る限りにおいては、最近のデジタル一眼カメラのものと比べて、それほど大きく見劣りするものではないということが分かる。
 つまり私たち素人写真家が写真を撮るには、何も最近の5000万画素を超えるようなカメラまで使う必要はないということだろう。

 さて、帯広方面からの国道を南に走り、日高山脈に分け入って、野塚トンネルを抜けて、その南側の出口の所にある駐車場にクルマを停める。
 ここからは、下を流れるニオベツ川の直登沢をつめて野塚岳へと登ることができるし、少し下った翠明(すいめい)橋の所からは、オムシャヌプリ(1379m)南西面の沢を直登して頂上に行くこともできる。
 さらに少し先の、上二股の沢からは、オムシャヌプリ東西峰の間のコルへと、涸れた沢をつめて登って行けるし(’09.10.4の項参照)、またそのまま二股の沢本流を行けば、十勝岳(1457m)西面の直登沢をつめてのルートにもなる。雪のある冬季には、ここを起点にして、十勝岳西尾根をたどることもできる。
 さらに同じ冬季には、このトンネル出口からすぐに尾根に取りついて、野塚岳西峰(1331m)から伸びてきた南尾根の稜線に上がることもできるし、その尾根上のコブ1120m付近からの、十勝岳(1457m)は、とてもその高さには思えないほどに立派な姿で見える。

 ともかく、下のニオベツ沢に降りて、すぐに左岸にわたり、二股を過ぎて、そのまま広い河原を歩いて行く。
 まだ、朝の光の影の中で、ウラジロタデが群落になって咲いていて、その上には朝日に照らし出された、野塚岳東西峰の姿が見えている。(写真上)
 やがて、沢らしくなってきて、沢靴のまま水の中を歩いて行くのが気持ちがいい。
 左側から、一本の滝が落ちてきていて、光を浴びた水しぶきがきれいに見える。
 そして周りの灌木(かんぼく)が低くなり、明るく開けてきて、ゆるやかなナメ滝状になった所に出る。(写真下)



 ここは、私の好きな場所で、いつも一休みすることにしている。
 さらに、大きな滝もなく沢をたどって行くと、900mを越えた二股に出る。まっすぐ行けば、最初の写真に見える東西峰のコルの所に出るが、写真で見てもわかるように、ガレ場になっていて落石が心配だから、とても行く気はしない。
 右股の直登沢に入ると、やがて急な小滝の連続になり、しぶきを浴びて登って行くと、高度感もあって少しドキドキする所だ。(写真下)



 そこを過ぎて、そのままつめて頂上へと直登しても良いのだが、左の頂上南斜面の草花が気になって、左に小沢をたどって行く。
 それまでにも、日高山脈に多いミヤマダイモンジソウやオオイワツメクサなどの白い花と、エゾノシモツケソウやタカネナデシコなどの赤い花も咲いていて、まだ十分に夏らしい感じも残っていたのだが、さすがにこの高さまで来ると紫色の秋の花が目立つことになる。ヒダカトリカブトやエゾオヤマノリンドウが咲いていて(写真下)、中には変種の白い色のものもあった。
 やがて頂上からコルに下る踏み跡に出て、一登りで野塚岳頂上だった。

 トンネル出口の駐車場から、3時間半ほどかかっていたが、あいにく頂上付近には雲がついたままで、1時間ほど待ってみたが十分な眺めを楽しむことはできなかった。
 まあ、何度もこの野塚岳の頂上には立っているので、それほどこだわることもないのだが、山登りは頂上からの展望が第一と考えている私には、いささか残念なことでもあった。

 下りは同じ沢を戻って行くのではなく、別のルートで、国境稜線を少し南に下り、その辺りからまた周りの景色が見えるようになってきたのだが、1220mのコブからその一直線の南尾根を下って行く。ただし、最後の二股に降りるあたりが背丈を超えるササの密集地で、一苦労して河原に降り立った。
 頂上からの下りは、2時間半ほどで、ヒグマの気配もなく、ただ頂上の展望がなかったことは残念だったが、適度な沢登りの一日を楽しむことができたのだ。
 これが、この年の、私の夏の終わりの思い出だった。

 つまり、ヒザが悪くて山に行けなくなっても、今まで登ってきた、山々の思い出の引き出しを一つずつ開けていく楽しみがあるということだ。
 このブログを書く以前の、フィル写真時代のものがまだまだごっそりとある。
 こうしたいくつもの山での思い出を、しみったれじじいの愉(たの)しみとして、これからも少しずつ小出しにして書いていくことにしよう。
 ほうーれ、ひとーつ、またもうひとーつ・・・ローソクに照らし出されて薄笑いを浮かべる、じじいの横顔の不気味さ。

 まあ、人それぞれに、いろいろな愉しみがあるのだから・・・。

 



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