ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

山の夢を見る

2016-08-15 21:43:47 | Weblog



 8月15日

 最近、夢をよく見るようになった。
 少し前のことや、昔のことや、断片的につなぎ合わせたものや、一場面だけのものもある。
 それらは、時と場所を越えて、私の記憶の中にあるものと、ないものとが入り混じっている。
 私は、どこからきて、どこに行くのだろうか。

 こうして、毎晩のように夢を見るようになったのには、一つには、よく言われているように、睡眠が浅く、いわゆる”レム睡眠”の時間が多いからなのだろうが。
 このところ、例のヒザ痛で、山に行くどころか、家周りの仕事さえ全くしなくなって、ぐうたらな毎日を送っているからだと、自分ではわかっているのだけれども・・・。
 それは、スポーツ選手たちの引退の時の言葉で、よく言われているように、確かに年を取ってきて、体力気力の衰えが目立つようになってきたからだ、というのは否めないけれども、やはり基本としての、歩くことに差しさわりが出てくると、こうにまで外の活動が制限されるものかと、たいしたことでもないと思っていたヒザの損傷が及ぼす影響について、改めて思い知らされたのである。
 もちろん、そんなことは百も承知で、今までにも、小さな指一本のケガで不自由することとか、他人のケガや病気、不幸などを見て、自らの教訓戒めとしてきたはずなのに、人は何事も自分の身に起きて初めて、事の大きさに気づくものなのだろう。

 そのために運動しなくなり、体が疲れないから、脳だけがその分はしゃぎまわって、あることないことの私の記憶を引き出してきては、ごっちゃまぜにして、時空を超えた意味不明のいくつもの夢を作ることになるのだろう。
 体の運動の不足分を、脳が補ってくれているのだと考えるべきなのだろうか・・・。

 二三日前に、私は山に登っている夢を見た。
 急勾配に切れ落ちた、チムニー状(煙突状になった狭い溝)の岩壁の下りの所だった。
 それまでは、確か日高山脈のカムイエクウチカウシ山(1979m)の下りだと思っていたが、カムイエクには三度登っているが、確かルートになった登路にあんな所はないはずだ。
 三股から八ノ沢のカールに上がる所がかなり急だけれども、むしろ泥壁状で、ダケカンバやミヤマハンノキの枝をつかんでの登り下りだったと思うが。

 とすれば、北アルプスは穂高連峰の涸沢岳(からの北側への下りか、あるいは剣岳の下りだったか、しかしいずれの時も天気は良かったから、夢に出てきたほどに暗い感じではなかったし、とすれば、今になって思い出したのは、去年の鹿島槍ヶ岳(2889m)から五竜岳(2814m)縦走の時のキレット付近か、それもまた夢で見たほどに陰鬱(いんうつ)な感じではなかったし、そこで再び思い出したのは、さらにさかのぼること8年前の白馬岳(2932m)から唐松岳(2696m)への縦走の時で(詳しくは2008.7.29,31,8.2の項参照)、この時は天気が悪く、白馬岳で二日も停滞した後、結局、目的の鹿島槍ヶ岳までは行くことができずに、途中の唐松岳から八方尾根経由でエスケープ下山してしまったのだが、その時の、ガスにまかれた不帰ノ儉(かえらすのけん)のキレット付近の光景に似ていることに気づいたのだ(写真上)・・・人の記憶の何という、変幻自在(へんげんじざい)な湧出(ゆうしゅつ)ぶりだろうか。


 それも、こうしてヒザ痛のために、もう2か月近くも山に登れずにいる私の思いを察してか、私の脳内処理班が昔の記憶の中から、幾つかのものを掘り起こしつなぎ合わせたムービー・フィルムとして、私の頭の中にある私だけの試写室で上演してくれたのだ。
 わが身のことながら、何とけな気な脳の働きぶりだろうと思うし、感謝もするけれども、できることなら、もっと爽快な気分で歩いていた、会心の登山の時の光景をつなぎ合わせた、山の夢を見させてくれればと、いささか虫の良い思いにもなるのだが。

 (この8年前の、天気に恵まれなかった後立山(うしろたてやま)縦走の時に、晴れたのは、最初の日の白馬大池までと、天狗の小屋での夕日の時だけであり、もっともその時に、暮れなずむ空にシルエットで浮かび上がった剣岳(2999m)の姿だけは、今でも忘れがたいが。写真下)
 
 

 そういえば、さまざまに見る夢の中でも、まだ年寄りになる前のこと、それでもいい年をしたおじさんではあったが、そのころの夢として、恋人ふうに親しくなった娘と、どこかに行く途中だったり、何かをしようとしていたりする夢を見たことがあるが、それも、もっと先まで見たいと思っているのに、昔の映画館のフィルムのように、突然ぷつんと切れて、目の前に暗闇の館内が広がり、周りに人々が座っている現実に引き戻されるように、布団に一人で寝ている自分に気づかされることになるのだ。
 できることなら、それらの続きを、私が死を迎える時でもよいから、あの映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)のように、それまで自分の脳内検閲で、夢の途中で終わっていたハッピー・エンドになるはずのカットされたフィルムをつなぎ合わせて、快哉を(かいさい)の声をあげ続けるような一連のフィルムとして、あの世に向かう私の頭の中で上演してほしいものだ。

 映画史に残る名作であるあのオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年)で、自分の権勢をほしいままにして生きてきた彼が、最後には孤独のまま死んでいくことになり、かすかに微笑みながらつぶやいた「Rose bud(バラのつぼみ)・・・」という言葉。
 そんな、他人が聞いてもわからないような謎めいた言葉も悪くはないが、やはり自分の夢の中で検閲削除された、いくつもの夢をつなぎ合わせての影像シーンに勝るものはないと思うのだが。
 もっとも、何事もすべてが思い通りに運ぶとは限らない。むしろ、ハッピーエンドのほうがまれなのだ。
 今までいつも途切れていた、それらの夢の終わりが、実際見てみると、すべて悲喜劇の結末になっていたとしたらと考えると、やはり、それも賢明な選択ではない。
 ということは、私が常日頃から思っているように、バッハの音楽が流れる中で、眼前に山々の景色が広がる映像が見られれば、それが一番なのかもしれない。

 (数日前に、いつものNHK・BSで、今年の6月に録画された演奏会の模様が、もう放映されていた。
 ベルリン古楽アカデミーによる、バッハとその息子であるエマニエル・バッハなどの曲が演奏されていた。
 できることなら、私もそのトッパン・ホールでの、この時の演奏会のすべてを聞きたかったのだけれども・・・特に、あの有名な「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」の、第二楽章のまさに”天国的”な音の流れに・・・ただただ陶然(とうぜん)として、聴き入るばかりだったのだ。)
 
 こうして、ヒマな年寄りは、自分の最後のことを、穏やかな気分になるべく夢想するのであります。
 まさに、死して後(のち)のことなど誰にもわからないのだから、すべて生きているうちなのだよ。

 「されば人の死にて後のようも、さらに人の智(さとり)もて、ひとわたりのことわりによりて、はかりしるべきわざにはあらず。」

 (本居宣長 『玉勝間(たまかつま)』 岩波文庫、梅原猛 『百人一語』 新潮文庫)

 これは江戸時代の国学者、本居宣長(もとおりのりなが、1730~1801)の言葉であるが、彼は、賀茂真淵(かものまぶち)を師として学び、さらに『古事記』『万葉集』などを研究しては、それまで日本に深く根付いていた、”阿弥陀成仏”の仏教世界観を否定して、独自に国学の集大成を行ったのだ。

 それゆえに、彼は、私の愛読書の一つでもあり、ここでも何度も取り上げてきた『徒然草(つれづれぐさ)』の著者でもある、兼好法師の、仏教の教えから来た”無常”の世界観を批判してもいるが、もっともそれは、彼なりの日本文化の解釈として十分に評価されるべきものでもある。
 上の言葉のおおまかな意味は、「人が死んだ後のことなど、こざかしい知恵と(仏教の)大まかな通りいっぺんの理屈だけで、理解できるようなものではない」と、一喝(いっかつ)しているのだ。
 そして、同じ『玉勝間』の中の言葉から。

 「この世を厭(いと)い捨つるをいさぎよしとするは、これみな、仏の道にへつらえるものにて、多くは偽(いつわ)りなり。」
 
 と、舌鋒(ぜっぽう)鋭く、似非(えせ)の世捨て人たちを批判している。

 「人の真心(まごころ)は、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思わず、命惜しまぬ者はなし。」
 
 この言葉からは、たて前に生きるのではなく、現実的には、どんなにひどい状態にいても、誰も死にたくはないのだからと、医者でもあった彼の冷静な観察眼を知ることができるし、この時代にすでに、近代的な自我の意識を有していたということもできるだろう。
 江戸時代から受け継いできた旧来の日本的社会観と、明治に入ってからの西洋的な意識構造の文化が流れ込んできた中で、自我の意識に悩んだ、あの夏目漱石(なつめそうせき、1867~1916)に至る道筋の一つが、そこにあるのだと言えなくもないだろう。
 すべての事がらの、意識改革や表現変革は、何も一夜にして一個人の思いだけで突然生まれたわけではなく、そこに至る多くの人たちの考え方や、いくつもの道筋が合わさって、一つの大きな意識や思想として定着していくことになるのだろう。
 もっとも、だからと言って、その大多数が認める考え方がいつも正しいとは限らないのだが。

 今日8月15日は、終戦記念日。それは”敗戦記念日”だという人もいるが、私には何とも答えられない。
 今後の国の行方は、若い人たちが決めることだ。
 私は、静かに林の中で暮らし、静かにそこで一生を終えれば、それでいいと思っているだけで。
 残すべき何物もないし、残してあげたいなどという大それた思いもない。
 
 それにしても、リオ・デ・ジャネイロにおけるオリンピックでの、若い選手たちのひたむきな集中力と意志の強さは、見ていて何と素晴らしいことかと思う。
 そして、競い合う相手への、仲間意識にあふれている。
 宗教の違い、人種の違いなどで、殺し合いをしている場合ではないのだ。
 そこには、オリンピックの舞台ならではの、崇高にして、唯一無比の力があり、世界は、こうして続いていくのだろう。