ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

一匹狼の遠吠え

2016-07-11 21:20:45 | Weblog



 7月11日

 前回、7月4日の項からの続きである。
 大雪山、高原温泉登山口から山に登り始めた私は、ヒザの痛みの不安を抱えながらも、何とか緑岳(2020m)の頂上にたどり着くことができたのだが、問題は、さてその先をどうするかだった。
 もう時間は12時になっていたし、ヒザの心配もあってここから戻るのが妥当なところなのだが、私は、これから先に行く道を何度も歩いていて、今の時期に何があり何が見えてくるかをよく知っていた。
 咲き始めたばかりの、高山植物の花たち・・・もう何度も見てきているのに、それでも今年もまた、あの美しく可憐な花々を見たいのだ。できるならば、あのウスバキチョウさえも。
 ここまで来て、いつもの花を見ないで帰ることができるだろうか。小泉岳の頂上まで行く必要はないし、その手前の、ゆるやかな小さなコブを二つ三つ越えた辺りまで行けば、十分なのだから。

 上空を見上げると、山々の上に雲は出ているけれども、すぐに天気を崩すような天気ではなかった。
 私は背中を押されるように、緑岳頂上からゆるやかに下る道を下りて行った。(写真上。左は白雲岳)
 反対側からは、若者が一人二人と、この緑岳へと登り返していた。
 朝6時前後に高原温泉を出れば、小泉岳からさらに白雲岳に登り、そこであの旭岳の残雪の縞模様の光景を眺めて、後は一気に戻って来て、12時になる今ごろちょうど緑岳というのは、確かに若者たちのコースタイムとしては、納得できるものだった。
 私も、かつてはそうだったし、そうしてより多くの景色を眺めてきた。 
 しかし今、私は年相応の時間をかけて、それでも若い頃よりは、よりありがたい思いを込めて山々の道を歩いているのだ。

 「・・・。
 ああ、自然よ
 父よ
 僕を一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守ることをせよ
 常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
 この遠い道程(どうてい)のために
 ・・・。」

 (高村光太郎 「道程」より 『日本文学全集』集英社) 
 
 まず緑岳から下っていく前に、頂上付近では唯一緑濃い東斜面にある、湿性のお花畑をのぞいてみた。いつものように白いチングルマの花や赤紫色ののエゾノツガザクラなどが咲いていたが、こちら側の吹きさらしの砂礫地の縦走路には、途中でも見てきたように、あの黄色のミヤマキンバイや白いイワウメがモザイク模様に咲いていた。
 その他にも、いろいろと小さな花々たちが咲いていたが、やはりあの第一花園からの広大な雪の斜面が物語っているように、今年の山の雪は多く、そのために全体的に見て、開花の時期が遅れているようだった。
 私は何度も立ち止まり、腰を下ろしては小さな花たちの写真を撮っていった。
 まだ咲いていなかったものは、あの緑岳岩塊斜面での薄紫色のイワブクロや、この砂礫地での、白いチョウノスケソウや黄色のチシマキンレイカにキバナシオガマ、赤いエゾツツジにコマクサの花も見かけなかったし、いくつかがようやく咲きかけていた、薄紫のホソバウルップソウも数が少なかった。

 と書いてくると、まだ花には早すぎたとも思えるのだが、ハイマツのそばに咲くキバナシャクナゲ(黒岳からの縦走路付近の群生が有名で’15.6.30の項参照)や、上記のミヤマキンバイにイワウメ、さらにミネズオウにエゾオヤマノエンドウなどは今が盛りで、さらに白い花のチシマアマナも久しぶりに見ることができた。
 以下に二枚の写真をあげるが、一枚目のミネズオウは、その小さな花の勢いが、そばにある岩と相まって、ちょっとした石庭の趣さえ感じさせるし、もう1枚のエゾオヤマノエンドウの写真からは、他にも、周りに生えているウラシマツツジの新緑と、大雪山固有種であるエゾハハコヨモギのもえぎ色のもこもことした葉と、さらに上のほうには一輪だけのエゾコザクラが咲いていて、右上にはハイマツの枯れ枝も見える。





 
 この写真から見えてくるものは。
 一年中、強い風が吹きつけていて、冬でも吹きさらしになるいわゆる風衝地(ふうしょうち)にあって、ハイマツでさえ枯れてしまうほどの劣悪な環境の中で、わずかな夏のひと時だけの太陽の光と、乏しい土壌の上に根づいては、長い年月にわたって時代更新しては生き続ける植物たちの今ある姿、それを激しい生存競争の勢力争いの縮図とみるのか、あるいはお互いに身を寄せ合うことで(あの冬場のニホンザルたちの”猿だんご”のように)、過酷な環境から自分たちの身を守ろうとしているのか。
 私は、道の上に座り込んで、じっとその場の光景を眺めていた。

 緑岳から、途中何枚もの写真を撮りながらここまでで、もう40分ほどもたっていた。小泉岳の平らな頂上(2158m)へは、さらにこのゆるやかな斜面を30分ほど登っていけばいいのだが、今回は、もうここまで来れば十分だった。
 私は立ち上がり、来た道を引き返して行った。
 小さなコブが三つほどあり、その向こうになだらかに盛り上がる緑岳の頂があり、さらに遠くにトムラウシ山(2141m)も見えていた。山々の上には雲が広がってはいたが、山の姿を隠すほどではなかった。
 右手にはずっと、鮮やかな残雪模様に彩られた、白雲岳(2230m)と旭岳(2290m)の姿が見えていた。

 30分ほどかけて、緑岳頂上に戻り、そこで一休みして、旭岳の姿に別れを告げて、いよいよ、ヒザにとっては最大の難関になるであろう、岩塊帯の岩だらけの斜面を下って行った。
 なるべく、ヒザに大きな負担がかからないように、恐る恐るゆっくりと一歩一歩下りて行った。
 幸いにも、ヒザが痛むほどのことはなかったのだが、何しろ久しぶりの登山だから、脚の筋肉が疲れ果てていて、途中で二度ほど腰を下ろした。
 その私の横を、後ろから来た若者が、駆け降りるように下って行った。
 私にも、あんな時代があったのだと思いながら、高根ガ原から続く雪の斜面を見ては、さらなる彼方にあるトムラウシ山へと思いをはせた。

 さて、ようやく岩塊帯とそれに続く下り坂が終わり、ハイマツ帯のトラバース道から、あの大雪原の斜面に出る。
 雪は、ヒザにやさしく衝撃を受け止めてくれるし、その上にゆるやかな下りだから、雪の上をずんずんと下って行ける。
 それでも私は、二度三度とその雪面の上に腰を下ろした。疲れというよりは、周りに誰もいない雪原にひとりいることが、何とも言えずに心地よかったからだ。
 その雪原が終わる第一花園入口のあたりで、私は、雪原の彼方に並んでいる、緑岳から小泉岳、東ノ岳へと続く山なみを、しばらくの間見ていた。(写真下、比較、前回掲載の写真は朝10時ごろ)




 それは、今までに何度となく見てきた光景であり、何一つ目新しいものはなかったけれども、見慣れているからこその、なじみのある、安心できる居心地の良さが感じられる眺めだった。
 今年の山の雪は、おそらく久しぶりにと言ってもいいほどに、多くの残雪があって、実はこのあたりでも、いつもの年の早い時で7月初めに、そして遅くとも7月下旬のころまでには、雪がほとんど溶けていて、わずかに上のほうに残るだけで、この辺りの斜面には目も鮮やかに、赤いエゾコザクラやエゾノツガザクラの群落が、さらには多くを占める薄黄緑色のアオノツガザクラの群落で覆われているというのに。
 それでも何度も言うように、残雪の光景が好きな私には、そうした花々の群落が見られなくとも、何とも心が広々とすがすがしくなるような、大雪原がまだこうして残っていたことは、実にありがたいことなのだ。
 しかし、こんなヒザでは、もう再び来られるかどうかもわからないし、という思いにもなって、何度も振り返り緑岳を見た。
 
 そんな感傷に浸る間もなく、問題はそこからだった。
 雪がなくなってからの、登山道の下り道がつらかった。筋肉疲労とヒザの痛みも出てきて、階段状のところは一段ずつ降りていく始末で、ようやく登山口に着いたころには、もう4時にもなっていた。
 コースタイムからいえば、緑岳の先まで行ったにせよ、大体で6時間足らずで行けるところを、8時間もかかっているのだが、何よりもヒザがどうなるかとの心配を抱えながらの、久しぶりの登山で、何とか青空の下、最終目的の稜線の花々まで見ることができて、足の疲れはともかく、満足のいく山登りだったのだ。
 
 家に帰る途中で寄り道をして、いつもはなかなか会えない友達の家に行った。
 家族の皆としばらくぶりで話をして、山とともに心までやさしく包まれた気分になって、家路につくことができた。
 とはいっても、家までの途中には、すっかり夜になってしまい(できるならばあまり夜はクルマで走りたくはないし)、さらには脚がつってクルマのペダル踏むのがやっとになるしと、かなりヤバイ状態になったのだが、何とか家に帰りつくことができた。
 これも草葉の陰で見守ってくれている、母とミャオのおかげだと、神妙にも小さな仏壇の二人の写真に手を合わせたものだった。

 しかし、望外の喜びで充たしてくれた今回の久しぶりの登山には、それに見合うだけの大きな代償が待ち構えていた。
 翌日から、ひどい筋肉痛とヒザ痛に苦しむことになったのだ。
 平らな所では、何とかぎこちないまでも歩くことができたのだが、階段の上り下りは、もう苦行(くぎょう)に等しいつらさだった。
 脚の筋肉痛は、5日ほどで何とか収まったのだが、ヒザが治らない。ヒザ内部の違和感はもとより、裏側の痛みがずっと取れないのだ。
 市販薬の、コンドロイチン剤を飲み、ヒザを冷やし、あるいは湿布薬を貼ったところで、痛みはひかないし、いまだに階段の上り下りでは苦労する始末だ。
 じん帯の損傷は、少しずつひどくなっていき、最終的には手術をするしかなく、入院1週間にリハビリ3か月とのことだが、この病院嫌いのじじいにそんなことができるわけもなく、ただ今後とも、激しい運動をしなければ、普通の生活を送るのに差支えはないとのことで。

 つまり、今後はもう北アルプス縦走などの、何日もかけての山旅ができなくなるということであり、あとはせいぜい翌日の痛み覚悟で、日帰りの小さな登山をするしかないのだ。
 もうずいぶん前から、山登りの下りでヒザが痛むことはわかっていたのだが、少しずつ悪化してきていて、決定的だったのは、去年の北アルプス鹿島槍・五竜縦走(’15.8.4~17の項参照)の時の最後の日を、つまりキレット小屋から神城(かみしろ)まで、のんびりと二日で行く予定だったのに、その日の五竜小屋が超満員だと聞いて、無理してそのまま一気に遠見尾根経由で下ったことが、ヒザ痛ひどくなった最大の原因だと思っているのだが、普通の人には一日コースでも、年寄りの私にはさすがにこたえて、その時のヒザの痛みが以後も、ずっと残っている感じなのだ。

 もっとも、あれが私の北アルプス最後の山旅だったとすれば、まさしく掉尾(とうび)を飾るにふさわしい、素晴らしい天気の下での鹿島槍・五竜縦走の山旅であり、そのことに感謝こそすれ、後悔することなど何もないのだ。
 最高の天気の山旅一回と、あまり天気の良くないままの十年間毎年の十回の山旅、どちらかを選べと言われれば、私はためらうことなく前者を選ぶだろうし、それが展望登山派の私の山に対する思いでもあるのだ。

 ”ワオーン、ワウワウ”と、一匹狼の遠吠えが聞こえてくる。
 ”桐一葉(きりひとは)、落ちて天下の秋を知る”。 

 ところで数日前、私は九州のわが家に戻ってきた。いくつかの用事があって、さらにはまたいつものように、再び北海道に戻る途中で、北アルプスなどに行くつもりでもあったのだが、こうしてヒザを痛めていては、いかんともしがたく、あの2年前に、腰を痛めてただ寝ているしかなかった時(’14.7.28~8.11の項参照)と同じく、今年の私の夏山は。もう終わってしまうのだろうか。
 それでもやるべきことがあり、他の楽しみもいろいろとある。まずはここでの、ウメとヤマモモのジャムづくりであり、さらには地味に日本の古典を読んでいくことであり、そして総選挙後の、新しい選抜チームで新曲を出した、AKBの動向を、日々ネットやテレビで見ることでもある。
 本物の参議院選挙には、もちろん行きましたけれど、それが何か?

 たかが山登りができなくなったくらいで、落ち込んでいられるかい!こちとら、まだまだ”憎まれっ子、世に憚(はばか)る”ような、元気なじいさんだい!は、はっくしょーんとくらあ。