ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

山が好っきゃねん

2016-07-04 22:25:03 | Weblog

 7月4日

 数日前に、山に行ってきた。
 前回山に登ったのは、5月半ばのことだったから(5月16日の項参照)、一月半も間が空いたことになる。
 年を取ってきて、山に行くのが面倒になってきたというよりは、ヒザ痛という身体的な障害におびえて、山に行きづらくなったというのが本当なところだ。
 ここまでずっと書いてきたように、もう長い間ひざの状態が思わしくないのだが、それでも山に行きたい気持ちは、ふくれ上がってくる。
 そこで、いまだに多少の違和感が残るひざの状態が、山登りではどうなのか確かめたい気もあって、短時間で見晴らしの良い所に上がれて、悪くなればいつでも引き返せるような、そんな所にと考えて、やはり、いつもの大雪山に行くことにした。

 それには、表側の旭川側からロープウエイを使って姿見駅まで上がり、そこから高山植物の花が咲き始めたばかりの、姿見の池周辺を歩いて回るのが無難なところで、もしひざの調子が良ければ旭岳(2290m)に登るか、それともぐるっと回って裾合平まで行くかだが、ただし私が住んでいる帯広十勝方面から行くには遠回りになってしまうし、いつも観光客でにぎわっている遊歩道歩きではとためらってしまう。
 それでは、帯広十勝側からの、層雲峡ロープウエイで6合目まで上がり、1時間ほどで登れる黒岳(1984m)にするかだが、しかしこちらも観光客登山者が多く、さらには、その登山道途中の展望もそれほどの楽しみがあるとはいえないし・・・(黒岳頂上からの眺めは素晴らしいが)。
 そこで、残るのは二つ、登山口までクルマで行って、そこから歩くしかないが、すぐに展望に優れたポイントまで上がることのできる、銀泉台か、そこでヒザの状態が良ければ、さらにそこから先に駒草平や赤岳(2078m)へと足を延ばすこともできるし、もう一つは、高原温泉からの第一花園で、さらに先の緑岳(2020m)まで行くこともできるし。

 久しぶりの山で、さらに初夏の今の時期に私が見たいのは、咲き始めたばかりの山の花たちであり、さらには青空の下に広がる一面の残雪である。
 どちらとも、もう何回も行き来した道であり、それでも、帯広側から行けばより近い(10分も違わないが)登山口になる、高原温泉から山に登ることにした。

 昔は夜明け前に起きて、すぐにクルマに乗って出かけたものだが、今はもうそこまで焦ることもなく、日の出からしばらくたったころに起きて、それからようやく家を出たくらいで、途中の道路沿いのフランスギク(6月13日の項に書いたように駆除対象外来種だが)や、咲き始めたばかりのルピナス(のぼりふじ)の眺めを楽しみながら走り、三国峠のトンネルを抜けると、青空の下、谷間の向こうに、残雪豊かな旭岳から緑岳、白雲岳といった大雪山の山々が見えてくる。
 その先で、大雪湖近くの高原大橋を渡る。いつものことながら、まだ雪をたっぷりとつけた緑岳、小泉岳、東ノ岳、赤岳と並ぶ溶岩台地の連なりの山なみが素晴らしい。(写真上)

 そして着いた高原温泉の広い駐車場には、”ヒグマ・センター”や営林署関係者のクルマを除けば、ほんの数台のクルマが停まっているだけで、もっともこの高原温泉への砂利道も、冬季閉鎖からようやく開いたばかりのところでということもあったのだろうが、ともかく、これで静かな山歩きが楽しめるというものだ。
 数人ほどの先行者の名前がある、登山者名簿に記入して、歩き始めたころには、もう8時にもなっていた。
 しばらく前までならば、6時前後にこの登山口を出て、緑岳の先の白雲岳(2230m)まで行って、頂上からあの見事な旭岳の縞(しま)模様残雪を見ることもできるのだが、あるいは、いつものように、白雲小屋に泊まって翌朝、白雲岳に登って、そこから朝日に染まる縞模様残雪を見ることもできるのだが。(’14.7.8の項参照)

 まあそれは、今までにもう何度も登っているし、その時の記憶や写真がいっぱい残っているのだから、もう十分ではあるし、今回は何より、じん帯損傷のヒザがどこまで耐えられかの方が問題なのだ。
 この高原温泉口のコースは、最初にエゾマツ、ダケカンバの林の中の急な登りがあり、さらにいくらか低くなったダケカンバとササの山腹を上がって行くと、すぐに周囲が大きく開けた第一花園の大雪原に出て、ひざの状態が悪ければ、このコースタイムで40分ほどの、その雪原辺りまででもいいと思っていたのだ。

 登り始めて、確かにヒザに違和感はあるものの痛むというほどではなく、むしろ1か月半もの登山のブランクがあって、他に運動もしてこなかったことからくる体力の不安があって、ともかく一歩一歩をゆっくりとした足取りで登って行くことにした。
 そして、南側の展望が開ける、いつもの展望台に着く。
 若いころなら、登山口から20分もかからないほどだったのに、今回はここまででもう40分近くもかかっている。
 腰を下ろして、高原温泉沼巡りコースになる森を見下ろし、その上には、なだらかな溶岩台地として広がる忠別岳(1963m)方面が見えている。(写真下)



 小さな雲が一つ二つ浮かんではいたが、ほとんどは青空で、それほど暑くもなく、申し分のない天気だった。
 そして、ここまで何とかヒザが痛くならずに登って来られたことに、まずは感謝し、さらには、こうして大好きな残雪の山の姿を見ることができることにも感謝した。
 いつものルリビタキの声と、ウグイスと遠くでツツドリの声も聞こえていた。
 他に誰もいなかったし、静かだった。この道を選んで、良かったと思った。
 私が、今まで選んできた道は、すべてが最上の選択ではではなかったにせよ、少なくとも、今こうして山々を眺めながら、ひとりだけの安らぎのひと時にいるというだけでも、間違いではなかったのだと思う。

 今にして思えば、若い時の悦(よろこ)びは押し寄せる激情にあふれていて、それだけに刹那(せつな)的なものだったかもしれないが、年寄りになってからの悦びは、ひたひたと身に寄せくる安らぎにあふれていて、それだからこそ、いつまでも心に残るのだろう。
 そういえば、このブログでも何度も取り上げている、あの貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』は、やはり年寄りになってからこそ、読み返すにふさわしい本だと思っていて、もちろんそれは、養生し長生きするためにと書かれた、様々な衣食住の条項を開いて読むということではなく、むしろそのあたりのことは読み飛ばしても、ところどころに年寄りの心構えとして書いてある様々な事柄こそが興味深く、そこに、今の時代も変わらぬ、人が生きていくための単純で複雑な心のあやを感じ取り、自分なりに読み解いていけばいいのだと思う。

 「・・・。
 老後は・・・つねに月日を惜しむべし。
   心、しずかに、従容(しょうよう、いつもと変わらず)として余日を楽しみ、いかりなく、欲すくなくして、残躯(ざんく、としおいたからだ)をやしなうべし。
 老後一日も楽しまずして、空しく過ごすは惜しむべし。老後の一日、千金にあたるべし。」

 「・・・。
 つねに楽しみて日を送るべし。
 人をうらみ、いかり、身をうれいなげきて、心を苦しめ、楽しまずして、はかなく、年月を過ぎなん事、おしむべし。
 かくおしむべき月日なるを、一日も楽しまずして、むなしく過ぎぬるは、愚(おろか)なりというべし。
 たとい家まどしく(貧しく)、幸(さいわい)なくして、うえて死ぬとも、死ぬる時までは、楽しみて過ごすべし。
 貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命を惜しむべからず。」

  「年老いては、ようやく事をはぶきて、少なくすべし。
 事をこのみて、多くすべからず。
 このむ事しげければ、事多し。事多ければ心気づかれて、楽しみをうしなう。」 

 (『養生訓』貝原益軒 現代語訳伊藤友信 講談社学芸文庫) 
 
 これを、自分なりに勝手に解釈すれば、”年を取ってからは、怒ることもなく、欲に溺れることもなく、ただ心静かに、すべてのことを受け入れて、一日一日を楽しい思いで生きて行けばいい。今さら、他人のことにかかわり、あるいは自分のことで、いろいろと嘆き苦しんで何になるというのか。貧しければ貧しいなりの楽しみがあり、そう考えて、死ぬまで楽しく生きていったほうがいいのだし、そのためには、悩みのもとになる身辺雑事は減らして、幾つかの自分の好きな事ことだけをやっていけばいい”のだと。

 つまり、今の私の、”脳内天気”的な考え方と、他人に迷惑をかけずに、自分の好きなことだけを楽しんでいくという、ぐうたら、隠居生活にふさわしい、まさに”お墨付き”の書きつけをもらったようなものであり、思えば年寄りはすべて、今さら”老いては子に従い”的に、年下からどなられ指図されることにはなれておらず、むしろこの年で言うのは何だが、”ほめられて伸びるタイプ(年寄り)”だからなのだろう。

 さてと腰を上げて、まだ一面の雪に覆われているだろう、あの第一花園を目指して登って行く。
 一昔前までは、この道は残雪の雪解け水で、あるいは雨の後などは、ひどいぬかるみになって、長靴でなければ無理なぐらいだったのだが、年々登山道改良化が進み、今では多少水にぬれるところもあるにせよ、登山靴で十分に歩けるようになったのだ。
 そして、木々が低くなり明るくなって、周囲が開けて、前面に大きく雪原が広がっていた。
 その雪原の向こうには、目指す緑岳から小泉岳(2158m)にかけての山塊が横たわっていた。(写真下)

 

 この光景を見ることこそが、ヒザに不安を抱える私の、今日の第一目標でもあったのだ。
 この雪原をしばらく歩き回り、あるいは腰を下ろして山々を眺めて、ひと時を過ごすことができれば十分だと思っていたのだ。
 何という、雪原の広がりだろう。雪面に流れる涼しい風、青空、山、他に誰もいない、一羽のルリビタキの声。
 ここまでで、もう戻っても良かったのだが、幸いにも私のヒザは、まだ大丈夫だった。
 そして、ここからは、私の大好きな雪原歩きが始まる。
 ゆるやかな勾配の雪原では、アイゼンは不要で、むしろ登山靴のトレッドパターンで、程よい硬さの雪を踏みしめて行くのだが、何と心地よいことだろう。
 これだから、残雪の山歩きはやめられないのだ。

 私は、何度も歩みを止めては、周りの景色を眺め、写真に撮り、また腰を下ろして休んだ。
 振り返ると、歩いてきた雪原の彼方に、音更(おとふけ)・石狩岳(1967m)連峰から二ペソツ山(2013m)へと連なる、東大雪の山々が見えていた。
 山の稜線には、雲がついていたが、山の姿を隠すほどではなく、その上空には変わらず青空が広がっていた。
 広大な自然の中に、包み込まれているという安心感と、それとは逆に、広い自然の中に解き放たれているという開放感の、相反する二つの感情の中にあって、私はもう何も考えてはいなかった。
 生きているということは、そんな思いの間を行き来することであり、また死んでいくということは、こうした混沌(こんとん)とした、空間の狭間(はざま)にいる、ということではないのだろうか。

 今は厚い雪の下にある、第一花園から第三花園に至る、1キロ以上にも及ぶ長い雪原歩きだが、昔、何の目印もないこの雪原で、ガスに包まれていて足跡も定かではなく、道に迷ったことがあるが、今では雪原上にしっかりと道標がつけられていて、ガスの中でも迷うことはないだろう。
 最初のうちは、着色剤のベンガラや雪山用のポールや旗竿(はたざお)だったが、今では途中の道での邪魔になるだけだったササが切り取らて、そのササにテープが結び付けられ等間隔に立てられていて、なるほどと思った。
 これなら、ベンガラやポールのように余分な手間がかからなくていいし、と納得したのだが、ただ写真に写り込むのだけは少し気になってしまう。
 
 さて、崖地になった所で、雪原歩きは終わり、これからは山腹に沿って、背の高いハイマツ帯下をトラヴァースして回り込んで行くのだが、その途中で大きなザックで下りてくる人に出会った。今日出会った初めての登山者だったが、それにしても、ああヒザが悪くなかったら、私もいつもの年のように、白雲小屋に泊まって二日間かけて、この大雪山の初夏を楽しむことができたのにと、少し残念に思った。
 もっともそんなことより、今は目の前にあるこの景色を楽しむだけだ。
 そして、これからが緑岳の登りになるという辺りからは、道の両側に、黄色いミヤマキンバイとメアカンキンバイが隣り合わせになって咲いていた。(写真下)



 遠くに高根ヶ原の残雪斜面が見えて、ああ今、大雪山の山道を歩いているのだと思う。
 ”やっぱ、山が好っきゃねん。”

 ハイマツやナナカマドの下には、白いエゾイチゲの花や、薄黄色のキバナシャクナゲの花が咲いていた。
 そしていよいよ、緑岳名物の岩塊帯斜面の登りが始まるが、この辺りですっきりと周りの見晴らしが開けてきて、遠くにトムラウシ山を眺めながら、いつもここで一休みをするのだが、若いころには登山口からここまで1時間もかからなかったのに、今日は、なんと2時間近くもかかっているのだ。

 今回のヒザに不安を抱えての登山では、第一の目標があの第一花園の雪原であり、さらに行けるなら、この高根ヶ原や高原沼群に、遠くトムラウシ山までもが見える、ここまで来ることが第二目標だったのだが、一休みしてまだまだ歩けそうだったので、さらに、この岩塊帯斜面のジグザグ道を登って行くことにした。
 ヒザは何とかもちこたえているが、岩の上でバランスを崩して転んでしまえば、ヒザは大きな衝撃を受けることになるし、ともかく用心深く足元を見つめ、それだけではなく、何しろ一か月半もの間が空いての登山で、息も切れて脚も重たく、一歩一歩がやっとの思いだった。

 ただ、途中の所々の岩の間には、白いイワウメや薄赤のミネズオウにコメバツガザクラなどが咲いていて、それが慰めだったが、それでも今年は下の雪原の雪が多かったように、平年よりは花の時期が遅れているらしく、とうとう一輪のイワブクロ(タルマエソウ)の花さえ見ることができなかった。
 あの冴え冴えとした、薄紫色のぼってりとした花を見たかったのに。

 さらに下の方から、鈴の音や話し声が聞こえてきて、夫婦らしい二人が登ってきていた。
 そのことが、少し気にもなりながら、幸いにも彼らに抜かれることもなく、先に緑岳の頂上に着いた。
 そこには、期待通りのいつもの光景が広がっていた。
 岩礫帯に点々と咲く、黄色いミヤマキンバイと白いイワウメの花を前景にして、右手に熊ヶ岳と間宮岳を従えて、残雪豊かな旭岳(2290m)が見えている。(写真下)



 振り返れば、今登ってきた岩塊斜面の向こうには、まだ半ば雪に埋もれた高原沼群があり、東斜面に残雪をつけた高根ヶ原の溶岩台地は、さらに忠別岳から化雲岳(1954m)へと高まり、その向こう遠くには王冠のような山頂部が印象的なトムラウシ山(2141m)が見え、その右手さらに遠くかすんで、十勝岳連峰も見えていた。
 昼に近い時間で、雲は出ていたものの周囲の山々にかかることもなく、この展望は申し分なかった。
 もちろん、こんな遅い時間に着いたということは、朝家を出るのが遅かったにせよ、なんと4時間もの時間がかかっていて、若いころにはいつも2時間かからずに登っていたのにと、改めて、ヒザの不調と、体力の低下を思わないわけにはいかなかった。
 ただし、行く前に心に決めていた第三の目標である、緑岳山頂まで来たのだから、これで後はヒザに負担がかかる下りのことを考えれば、登りと同じくらい時間がかかるとみて、もうすぐにでも引き返すべき所なのだが、実はここから次の小泉岳までの間が、高山植物の花々が多い所なのだ。
 
 やがて、あの下に見えていた二人が登って来て、さらにもう一人、そして反対側の小泉岳の方からも一人、そしてもう一人と登って来ていた。
 登山口に戻りつくまでの時間、下では風呂にも入っていきたいし、久しぶりに友達の家にも寄っていきたいし、といって家に帰るのが夜になるのは嫌だし、せっかくここまで来て、あの高山植物の花たちは見たいし、何よりもヒザの心配もあるし・・・。
 優柔不断な、私の思いは千路(ちじ)に乱れるばかり。

 ここまで書いてきて、もうかなりの長文になってしまったので終わりにするが、ほんの日帰り登山のことを、二回にまで分けて引き延ばすのは、いささか思わせぶりな気もするが、いつものことで途中横道にそれて余分なことまでを書いたためだと、反省しきりなのです。

 ”やっぱ、山が好っきゃねん。”

  


  


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