ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

冬の飛行機からの眺め

2015-12-07 21:43:59 | Weblog



 12月7日

 -10度。快晴の空、日の出前の、冷え込んだ空気の中を歩いて行く。
 毛糸の帽子に冬用手袋と、雪山に登るときの格好だが、冷たい空気が鼻から入り込んで、むずがゆく凍りつきそうだ。
 車道は除雪作業が行き届いていて、雪がないが、その横の歩道部分は除雪が十分ではなく、残った雪が凍りついていて歩きにくい。
 しかし、まだ朝早く、ようやく明るくなり始めたころの時間だから、車はたまにしか通らず、そこで楽な車道に降りて歩いて行く。
 7時前、ようやく日が昇ってきた。
 トラクターによる秋耕(しゅうこう)跡の、畝(うね)の縞模様に、朝日が映えている。(写真上)
 山ではないが、平野部の”モルゲンロート”の光景だ。もちろん、背後の日高山脈の山々も、少しかすんではいたが、同じ”モルゲンロート”の日の出の薄赤い色に染まっていた。
 30分ほどかかって、バス停に着いた。

 これは、数日前の光景だ。
 私は、ようやく雪の北海道を離れて、九州に戻るところだった。
 その長距離旅行には、長い移動時間がかかるから、帰り着く時間が少しでも早くなればそれにこしたことはない。
 そこで、朝一番の飛行機で行くことにして、バスもそれに間に合うように、朝早い時間のものにしたということだ。

 前回書いていたように、今年は、早めに九州に戻るつもりでいた。
 しかし、事情があって出発の日を伸ばさざるを得なくなり、さらに追い打ちをかけるように、十勝地方の11月としては珍しく、二回で併せて70cmもの大雪が降って、外のトイレに行くのも一仕事になり、冬の間の井戸ポンプの取り外し作業に一苦労したりなどと、急に来た冬のためにやることがいろいろとあったのだ。
 まあ、日ごろからのんびりぐうたらに過ごしているタヌキおやじには、心身ともにちょうど良い”お仕置き”の時間だったのかもしれない。
 
 しかし、そんな一苦労があれば、また良いこともあるものだ。
 この日に乗った、飛行機からの眺めが素晴らしかったのだ。
 残り少ない人生だもの、大好きな飛行機からの山々の眺めのためには、何としても天気のいい日のフライトを選びたいものだ。
 確かに、下界の天気が悪くて雲に覆われている場合でも、成層圏から上にはいつも青空が広がっているから、そのあまりにも深い青空の色と、下に広がる雲を見ているだけでも楽しくはあるのだが、何といっても、山が好きで、地図が好きで、地理地学マニアである私としては、こうして雪に覆われた山々の姿がくっきりと見える時にこそ、飛行機に乗りたいものなのだ。
 
 この日は本州の中央部が高気圧に覆われていて、中部以北には晴れマークの予報が出ていた。天気の変わり目になっていた九州では、午後から雨マークだったが、主要山岳地帯が続く、中部以北の天気さえ良ければ何の問題もない。
 ただ、この日の残念な点は一つだけ。帯広空港からの出発が、南に向かっての離陸だったことにある。
 飛行機の離陸は、風に乗って上空に上がりやすいように、風が吹いてくる方向に向かって飛び立つ。
 冬場のこの時期には、北海道は冬型の気圧配置になることが多く、十勝地方には北西の風が吹きつけてきて、飛行機はその風向きに北側に向かって飛び立ち、その時には、上昇していく進行方向に中央高地大雪山の山々が見えてくるのだ。
 そこで、すぐに右旋回して南へ、東京へと向かい、高度が上がった位置から、右手に日高山脈の山々を見下ろすことになるのだ。
 しかしこの日は、西から張り出してきた高気圧の圏内にあり、弱い西風が吹いていたと思われる。それならば飛行機としては、燃料を使わない南に向かって飛び立った方がいいわけだから、つまり大雪山を背にするような方向で離陸して、そのまま上昇して行って、とうとう大雪方面の山々の姿を見ることはできなかったのだ。

 もっとも、こんなことを気にしているのは、窓辺にカメラを構えて写真を撮り続けている私くらいなもので、他の乗客たちにとっては、どうでもいいことなのだろう。そして思うのは、こうして私のように、飛行機から写真を撮り続けている人に、いまだ出会ったことがないということだ。
 先日の、国産旅客ジェット機初飛行の時のニュースで流れていたように、飛行機そのものが好きなファンは多くいるようだが、ただ上空からの眺めが楽しみで、その写真を撮ることを趣味にしている人などいるのだろうか、プロの写真家の人は別にして。
 もっとも鉄道ファンにも、”撮り鉄”や”乗り鉄”などがいるように、飛行機にもそうしたファンは多くいるのだろうが、ただ窓からの眺めをというファンはほとんど見かけないのだ。
 しばらく前に、確か『中央線から見える山』という、鉄道車窓からの写真集が出ていたくらいだから、それを楽しみにしている人もいるのだろうが、そうした類のファンとして、飛行機の場合にも、空中撮影山岳ファンとでも呼ぶべき人たちが他にもいるはずだし、それならば、プロ写真家が写した『飛行機から見た山』という空撮写真集を、新たに出してくれてもいいと思うのだが。

(だいぶん前のことだが、セスナ機から写した『日高山脈』という写真集が出ていて、今手元にはなく、北海道の家に置いてあるのだが、そこには、私の好きなあの日高山脈の山々のすべてが見事に映し出されてて、それは眺めて楽しむだけでなく、未知なる山々を目指す沢登りや冬の尾根ルートなどで、たびたび参考にしたほどだった。ただ残念なことは、この写真家があまり山には詳しくないらしく、写真のネーム、キャプションに数多くの誤りがあったことだ。) 
 
 話がそれてしまったが、その日の飛行機からの眺めに戻ろう。
 帯広空港を離陸した飛行機の右手の窓からは、期待していた日高山脈の山々が、次々にその姿を現しては雄々しく立ち並んでいた。
 もっともこの時にも、斜め後ろになって、日高幌尻岳以北の山々は写真には取れなかったのだけれども、あのカムイエクウチカウシ山(1979m)に始まって、1823峰、コイカクシュサツナイ岳(1721m)、ヤオロマップ岳(1794m)、1839峰、ルベツネ山(1727m)、ペテガリ岳(1736m)と続く中部日高、さらに南部日高三山の、神威岳(かむいだけ1600m)、ソエマツ岳(1625m)、ピリカヌプリ(1631m)に、冬山最短ルートの野塚岳(1353m)、オムシャヌプリ(1379m)から十勝岳(1457m)、そしてこの春久しぶりに登った楽古岳(1472m)、さらにピロロ岳(1269m)から広尾岳(1230m)へと連なっている。
 (写真下、左からピロロ岳、楽古岳、十勝岳) 


 やがて、日高山脈最南端の山、豊似岳(1105m)が見えてきて、その先で山の勢いは衰えて、襟裳(えりも)岬の列状岩礁となって海に消えていく。
 しばらくの間、太平洋に広がる雲海の上を飛んでいくと、やがて右手には、4年前の大津波の跡が今も残る、東北三陸の海岸が見えてくる。
 その先の内陸部に見える、二つの白いこぶ。北と南からなる八甲田(はっこうだ1584m)の山々だ。
 そして、東北の内陸部に入っていく。手前に早池峰山(はやちねさん1917m)、その先にひときわ大きく岩手山(2038m)から、左右に秋田駒乳頭山群(1637m)と八幡平(1613m)の広がりがある。
 機体はやや南寄りに方向を変え、右手に沿って次々に東北の名山たちが姿を現す。それも山が雪に覆われ始めた今の時期だからこその、くっきりとしたコントラストのきいた眺めになるのだ。
 焼石岳(1548m)、栗駒山(1627m)と並んだ向こうに、ひとり大きく鳥海山(2236m)、そして、あの樹氷がきれいだった蔵王山(1841m)と、その後ろの霧に覆われた山形盆地の向こうに、月山(がっさん1984m) と朝日連峰(大朝日岳1879m)。
 息つく間もなく、小さな火口の吾妻小富士を手前に吾妻連峰(2035m)が広がり、米沢の盆地を隔てて飯豊連峰(2128m)の大きな山塊が見えてくる。(写真下)
 




 真下に安達太良山(あだたらやま 1709m)と、すぐ上に磐梯山(ばんだいさん1819m)があり、左手に猪苗代湖の湖面が光っている。
 やがて、東北と上越国境にかけては、多くの山々が群れあふれている。
 それらの山々の中でも、尾瀬の燧ヶ岳(2356m)が高く目立つけれども、私の目が行くのは長年のあこがれでもあり、去年も同じように飛行機から眺めた、あの越後駒ケ岳(2003m)と中ノ岳(2085m)の姿である。(’14.12.15の項参照)
 那須山群(1918m)は真下になって見えにくいが、日光の山々が近づいてきて、その中でも、さすがに日光白根山(2578m)がひときわ高く堂々としている。
 東京の天気予報は曇りだった通りに、関東平野は雲海に覆われていて、その上に遠く小さく富士山が見えていた。
 ”よし”と心の中で叫ぶ。これで、東京から福岡に向かう乗り継ぎの便からも、富士山がよく見えるだろうから。

 その乗り換えの時間は30分ほどで、長い待ち時間にうんざりするほどでもなく、かといって長い連絡通路を、大股急ぎ足で歩かなければならないほど、せかされる時間でもなかった。
 さて福岡行きの座席は、今度は左側になる。富士山を見るためだ。
 他の山々、南アルプスに中央アルプス、遠く北アルプスさらには御嶽山などを見るには、右側の座席がいいのだが、その時には右側の窓の所に行けばいいのだ。
 ともかく、最初に近づいてくる、巨大な山、富士山をまず写真に収めておきたいのだ。
 一昨年の便でも、よく見えていて、夢中でシャッターを押し続けたのだ。( ’13.12.9の項参照)

 今年は、どうか。
 機体の順番待ちで、離陸に時間がかかったが、雲海を突き抜けると、すぐに青空が広がっていた。 
 ただ翼のすぐ後ろの席で、少し角度が悪くて写しにくい。
 それでも、まずは山中湖側から、次に河口湖側から、そして大沢崩れ側からと、少しずつ違う雪の富士山の姿を撮ることができた。
 さて次は、南アルプスだ。(これも’13.12.9の項参照)
 北の甲斐駒ヶ岳(2967m)から塩見岳(3047m)までがはっきりと見えている。(荒川三山・赤石・聖は機体の真下になって撮りにくい。いつかは写したいものだが。) 
 そして伊那谷を隔てて、今度は中央アルプスが同じように縦に連なり、その上には乗鞍岳(3026m)から北アルプスの山々が大きな塊になって、見えている。
 乗鞍のすぐ上に笠ヶ岳(2897m)、右手に槍(3180m)と穂高(3190m)、そのさらに右に常念山脈から表裏銀座の山と後立山から白馬岳(2932m)までが、さらに笠ヶ岳の上に黒部五郎岳(2841m)から薬師岳(2926m)があり、そして立山(3015m)と剣岳(2998m)が最後の高みになる。(写真下) 


 

 そして、最後の雪に覆われた大きな山が近づいてくる。
 まだ記憶に新しい、あの一年余り前に、多数の登山者たちの噴火遭難事件を引き起こした、木曽御嶽山(3067m)である。その時の噴火口から、まだ白い噴煙が上がっていた。
 
 それから先には高い山もなく、雲が広がっていて、福岡に着いた時には小雨が降っていた。
 しかし、私は十分に満たされた思いだった。
 平野部と山間部に色分けされた、地図帳に描かれている通りに、北から南へと、高い山々を空の上から眺めてきたのだから。
 今までに何十回となく、福岡・北海道間を往復して、飛行機から見下ろしてきた山々の眺めなのに、いまだにあきることなく、そのたびごとに、カメラを構えては写真を撮っているのだ。
 誰のためにでもなく、誰に見せるためでもなく、ただ繰り返し写真を撮って(今回写した分だけでも170枚ほどになったが)、ひとりモニター画面を見ては、ニヒニヒと笑うのだ。
 それは、”マニア”と呼ぶほどに正統派的なものではなく、日本的な”オタク”というほど、陰にこもって仲間を求めているわけでもなく、ただの”偏執狂(へんしつきょう)”と呼ぶのにふさわしい、私だけの楽しみの一つなのだ。

 おそらくは、山に興味のない人たちは、ただ山々の名前が羅列(られつ)されただけの、この記事を辛抱強く読むこともなく、まずは写真だけでもと見ただけのことなのだろうが、それでいいのだ。
 私は、ただ自分のためだけに、楽しい思い出を書いているだけの話で、私と同じ体験をと訴えかけているわけでもない。
 ”蓼食う虫も好き好き(たでくうむしもすきずき)”の例え通りに、誰も食べようとはしない蓼の葉を食べる虫もいるくらいだから、世の中の人それぞれの好みは様々なのだ。
 こうして、北海道と九州に分かれて、行ったり来たりの生活をしているのは、ほとんどの人から見れば、ぜいたくこの上ないことに思えるのだろうが、ちなみにこの同じ生活を、他の誰かが、すぐに入れ替わってできるとは到底思えない。
 それほどに、いざその人の立場になってみなければ分からないことが幾らでもあり、というのも、人間はいつも自分の今いる立場でしか、ものを見ることはできないからだ。

 九州にいる私は、北海道にいた自分を思い返して見ては、つくづくこう思うのだ。 
 まあ、何とありがたいことだ。水が自由に使えるなんて。
 北海道の家では、いつ枯れるともわからない井戸のために、いつも水を節約していて、まず食事で食べた皿などは舌でなめてきれいにしたうえ、それらの洗い物などすべては、まずボールにためた水で洗っていたのに、ここでは、蛇口から流れる水で洗いものができるし、北海道の五右衛門風呂にはほとんど入れないのに、ここでは浴槽をいっぱいにした風呂に毎日入ることもできるし、その残り湯で毎日洗濯もできるし、水洗トイレがあるから、北海道の家のように、雪の中、寝ぼけ眼(まなこ)で外に出て行ってまで、用を足す必要もない。
 ここにいて外で用を足すのは、木々に栄養分を与えてやるためだ。生肥やしは、効かないというけれど。
 さらには、ここでは燃えるゴミ、分別ゴミと分けて出しておけばゴミ収集車が来てくれるが、北海道の家でのゴミの多くは、自分で処分しなければならないから、一部は分別ゴミ場まで運ぶことになるし、ともかく食品の包装ポリ袋、トレイ、パックなどが多すぎるのだ。(店側は、レジ袋有料化よりは、その何百倍にもなるだろうまず食品包装トレイなどを減らす工夫をするべきだと思うのだが。)

 その代わりに、ここにいては足りないものも多くある。
 この古い家では、すきま風が多いから、コタツと灯油ストーヴと電気ストーヴだけでは、薪(まき)ストーヴのある北海道の家にいるより寒いのだ。
 さらには、目の前に広がるあの北海道の、広大な大自然の風景が見られないのだ。
 ただし、母とミャオの墓は、ここにあるから、ここにもいるべきなのだろうが。
 ともかく、いずれの家にいても、便利さと不便さの相反する日常の中で、暮らしていくしかないということなのだろう。

 思えば、その他にも、もろもろの小さなことがあるのだが、その中で一つ言えば、北海道のテレビでは見られるAKBグループ関連のバラエティー番組が、ここではそのいくつかしか見られないのだ。
 AKBファンの私としては、何よりも残念なことなのだが、それならば有料ケーブルテレビを引けばとか、有料BSやCSに加入すればと思わないでもないが、そこまでのAKBオタクではないし。
 ともかく、NHK・BSでの『AKB48SHOW』という、歌とコントとその時々でのAKBニュースを含んだ極めて優れたバラエティー番組があるから、それだけでもありがたいことだし、さらに歌番組でのカメラワークに定評のある、テレビ朝日の『ミュージックステーション』で、時々AKBグループが歌っているのを見ることができれば、それだけで十分だとも思う。 

 まあ、いずれにせよ、どこにいるにせよ、いつもそばにあるものだけで耐え忍び、そのことに早く慣れて、いくらかでも満足してやっていけば、それでいいのだと思ってはいる。 
 そうしているうちに、無駄な欲望に駆り立てられることも次第に少なくなっていくのだろうし、それがまた、年寄りになっていくことの良いところなのかもしれない。


 「・・・はじめにこらゆれば、かならず後のよろこびとなる。灸治(キュウジ)をしてあつきをこらゆれば、後に病(やまい)なきが如し。杜牧(とぼく)が詩に『忍過ぎて、喜びに堪えたり』といえるは、欲をこらえすまして、後はよろこびとなる也。」

(『養生訓』 貝原益軒著 岩波文庫)