12月28日
今までここで何度も書いてきたように、この九州の家は、古い家ですきま風も多いから、薪(まき)ストーヴのある北海道の家よりも寒く感じるくらいなのだが、それでも、最近は気温が高くて(一日だけ雪の降った日があっただけで、前回の項参照)、寒い日には一日中つけている石油ストーヴも消している時が多いほどで、この冬が暖冬だというのもうなづけるのだ。
もっとも今日は少し寒くなり、北海道や東北では、寒波襲来の吹雪に見舞われていて、暖冬どころの話ではないのだろうが、一方の沖縄では、最近は25度を超える夏日になっているとかで、ことほどさように、南北に長い日本列島では、一言だけで冬の寒さを表すことのできる言葉はないのかもしれない。
そんな、やや暖かい感じがするこの九州の、わが家の庭で、何と数日前にユスラウメの花が開いたのだ。そして満開の今、春先に咲く時と同じように、二、三十輪もの花をつけている。(写真上)
調べてみると、このユスラウメは中国原産とのことで、古来、サクラとはこの花のことを指していたともいわれていて、他のサクラ科の木と同じように、初夏のころには小さなサクランボの実をつける。
この木は母が植えたものだが、今では周りの木が大きくなって、日当たりも悪くなってしまった。
ただでさえ、栄養分の少ない山土のやや湿った場所にあって、ユスラウメにとってはあまり良くない環境なのに、もう何十年もそんな中でがまんして、あまり大きくもならずにここで生き続けていて、毎年こうして、細々ながらも花を咲かせて、春の到来を教えてくれていたのだ。
山の中にあるわが家の庭では、そうして3月初めに咲く花なのに、師走の12月終わりに咲くなんて、来年の春は、どうするのだろうか。
そうならば、もう一つのブンゴウメの木はどうなるのだろうか。何らかの異変があれば、毎年収穫している大量の実から作る、自家製のウメジャム(7月13日の項参照)が作れなくなってしまう。
しかし世間にとっては、このくらいの異変では、たいした驚きではないないのだろう。そんなことより、今世界規模で起きている、地球温暖化による影響や、数々の天変地異(てんぺんちい)による、自然のもたらす災害のほうがより逼迫した問題であり、それなのに、今私たち人間はただうろたえているばかりなのだが。
日ごろから、自然の多大な恵みを享受して生きている私たちにとって、またこうした災害も、あらかじめ自然が与える過酷な裏の一面として、いつも心しておかなければならないことなのに。
前回ここでも、すべての物事は、”五分五分”というところに起因すると書いたように。
考えてみれば、人それぞれの思いは、その人の数ほどさまざまにあって、誰もその人と全く同じ経験をしているわけではないから、その人のすべてを理解できるわけでもないし、逆に同じように似た経験をしているからこそ、そんな人たちのことに思いが及ぶし、少しは理解することもできるのだろうが。
先日、日曜日なのに、 いつもの朝ドラを見る習慣で8時になってもテレビをつけていて、ふと見たのが『小さな旅』の特集番組だったのだが、それはNHKが得意な、悪く言えば”じじばば”向けの、”ほっこり”した雰囲気づくりのお涙ちょうだい番組とも言えるのだが、しかし、まともに見れば日本人の心の”琴線(きんせん)”に触れるような心温まる番組であり、特にこのシリーズの”山の歌”はよく見ていることもあって、同じ”じじばば”仲間の一人として、とうとうその1時間もの番組の最後まで見てしまった。
それは視聴者からの、昔の思い出の旅をつづった手紙をもとに構成された、数本のエピソードからなるもので、それぞれの筆者たちの当時の写真や近影の姿までもが映し出されていた。
恋に破れた娘が、北に向かうつもりの列車を間違えて新潟に着いて、宿もなく教えられるままにそこから佐渡へと向かうフェリーに乗って、そこで見た佐渡の海の光景に慰められたこと。
戦争時代の北海道での勤労奉仕の日々の中で、珍しく休みが与えられて、当時の先生に引率されて摩周湖の山に登り、そこでこの世のものとは思えぬ深い湖の色を見たこと。
友達と行く予定の京都旅行が、ひとりだけになり、そこで当時の文通相手だった京都在住の若者に連絡を取り、彼に案内してもらった京都旅行の日々、二人はその後結婚して、”友禅(ゆうぜん)染め”作家の彼のそばで、やさしく微笑んで見守る今の彼女の姿があった。
筋萎縮(きんいしゅく)性硬化症で体が動かせなくなった夫の介護をする妻は、彼がようやく動かせる眉の動きを文字に変えることのできるパソコン画面で知った、夫のもう一度富士山五合目に行きたいという思いをかなえてあげるべく、周りの多くの人と準備して、車椅子の彼をクルマに乗せて、夕暮れ近い富士山五合目の駐車場に向かい、そしてそこからの光景を彼はじっと見続けて、「生きていてよかった」と言ったとのこと。
終戦直後、夫を亡くした母は子供二人を育てるために、近くの農家からコメ野菜を買い入れて東京で売るという、いわゆる”闇屋(ヤミヤ)”をして生計を立てていたのだが、幼い彼はその母親と離れたくなくて、東京までついて行っていた。ある時、東京に向かう列車がデッキにまで人がいっぱいで乗れずに、家に戻る列車もなく、仕方なく20キロの道を、母に手を引かれて歩いて戻ることになってしまい、まだ4歳の彼は疲れ果てて、母におぶってもらいたかったのだが、重い荷物を背負っている母にそのことは言えずに、黙って歩いていた。しかし、途中の橋の所から見たホタルの乱れ飛ぶ光景が、今でも忘れられないと書いていた。
(前にもここで、自分の子供のころの忘れられない思い出を書いたことがあるが、同じように、幼い私が働きに出る母を見送って、一緒に歩いた橋のたもとの光景を思い出すのだ・・・その時に母が言った言葉は、「一緒に死のうか」・・・。幼い私は何もわからずに、ただ「いやだいやだ」と泣いて後ずさりしたのだった。・・・その話を知っている唯一の人、母はもうこの世にはいない。)
学童疎開で、長野県の木崎湖畔の宿に逗留(とうりゅう)して、子供たち集団の毎日が始まり、そんな中でふさぎ込んでいる子供たちを見て心配した先生は、子供たちを連れて裏山に登り、そこで思い切り叫んでもいいからと言ってあげたのに、子供たちはみんな「お母さーん」と叫んで余計に寂しくなって、みんなで泣いてしまったこと。しかし、今にして思うのは、あの時、本当につらかったのは子供を手放した母だったということが、自分も子供を持って初めてわかったと語る老婦人。
今の時代に生きる私たち誰もが、彼女たち彼たちと全く同じ体験をしたわけではないから、同じ感情にはなれないのかもしれないけれど、幾らかでも似たような体験をしていれば、もしこれからそうした事に遭遇した時には、相手の気持ちをわかってやれるだろうし、さらに少しでも”やさしくしてあげたい”と思うのではないのだろうか。
(話は変わるが、今年のAKBの総選挙1位2位コンビ、”さっしー”指原莉乃と”ゆきりん”柏木由紀による歌、「やさしくありたい」は、いい曲なのに余り話題にされることもなかったが、後述の「365日の紙飛行機」と併せて、CDのAB面として売られるべき曲だったのにとも思ってしまう。)
こうして今記事を書いていて、一休みするべくお茶を飲んでテレビをつけたら、あのNHKの『あの日わたしは。証言記録・東日本大震災』という、今までも時々番組の間に5分番組として放送されている、ミニ・ドキュメンタリーの一つを映し出していて、そのまま見たのだが、今回はあの原発被害によって、全町民避難の対象となった福島県双葉町の話で、その中学校で英語の先生をしていたイギリス人の彼は、自分の生徒たちや知り合いになった日本人たちを見捨てるわけにはいかず、そのまま避難先で滞在していたのだが、イギリスでは、毎日日本の原発事故のニュースを流していて、母親がそれを見ては心配し泣き暮らしていると聞いて、彼はその母親の願いを聞いて、いったんイギリスに戻って母親を安心させたものの、日本の教え子や人々のことが忘れられずに、根気よく母親を説得して、今は日本に戻り、避難先のいわき市にある双葉町の仮中学校で、毎日明るく子供たちを教えている姿が映し出されていた。
一方で一昨日のニュースから、ある有名お笑いコンビの一人が、今までに何度も土日で休みの都内の高校校舎に忍び込み、女子高生の制服などを盗み出していて、逮捕されたとのこと。
まさに、人様々であり、その人生も様々だということなのでしょうか。
そして、先日のクリスマスの日には・・・私は日本人の仏教徒の一人であるから、表立ってキリストの生まれた日のお祝いなどはしないけれども・・・あの18世紀ドイツのキリスト教新教徒信者であり、その教会に属する音楽家でもあった、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)が、クリスマスの祝祭のために書いた、「クリスマス・オラトリオ」だけは聴くことにしているのだ。
つまり、今まで私が様々な分野で学び親しんできた、キリスト教に心からの敬意を表して、ほぼ毎年の習慣として、ひと時の間、当時の信者たちの思いを、音楽家バッハの思いをたどるように聴いていたいのだ。
もっとも、ここに含まれる6曲は、 クリスマスの祝日の三日間と、新年の三日間の祝祭日に、一曲ずつの”カンタータ”が演奏されていたものが、まとめられて一つの「クリスマス・オラトリオ」と名づけられたものとのことであり、本来は、教会でその一つ一つを聴いてゆくべきものなのだろう。
ただし、今に生きる私たちは、6日間に渡ってなどと悠長な気分にはなれずに、気ぜわしく、この祝祭気分にあふれた6曲を、いつも通して聴きたくなってしまうのだ。それほどに、それぞれの曲が次につながり、全体を形作っているように思えるのだが、なんというバッハの天才だろう。
この「クリスマス・オラトリオ」のCDは、古い順からいえば、旧東ドイツのクルト・トーマス指揮によるもの、そしてカウンター・テナーの名歌手でもあるルネ・ヤーコブス指揮によるもの、さらには日本の鈴木雅明指揮のものを持っていて、それぞれにいいところがあり、毎年その時の気分で、どのCDにするかを決めて聴くことにしている。
ところで、私は、死んでいく時には、ヘブラーの弾く、ピアノ演奏での「フランス組曲」か、ジャンドロンの弾く「無伴奏チェロ・ソナタ」か、あるいはピエローのヴァイオリンと通奏低音のオルガンによる「ヴァイオリン・ソナタ集」(写真下)の演奏を聴きながら、と思っているのだが、こうしてバッハの声楽曲を聴くと、このそれぞれに有名なカンタータのうちの一曲でもいいなとさえ思ってしまうのだ。
今どれほどAKBの歌にうつつを抜かしていてもやはり、私が帰るべきところはバッハをおいて他にはないのかもしれない。
と言いながら、その舌の根の乾かないうちに、やはりAKBのことに触れないわけにはいかないのだ。
年末になって、特別な歌番組が幾つか放送されて、AKBグループもあちこちで必ず顔を出していて、録画編集するのに大忙しだった。
今年のAKBのベストは、選挙投票券が付くので最大の売り上げとなった「僕たちは戦わない」よりは、”たかみな” 卒業ソングの「唇にBe My Baby」のB面扱いとなってはいるが、今までもここに何度も書いてきたように、何といっても、広く人口に膾炙(かいしゃ)した朝ドラ『あさが来た』の主題歌になった、あの「365日の紙飛行機」であることに異論はないだろうし、また幾つもの歌番組で彼女たちが歌う姿を見ても、改めて良い曲だと思うのだが。
そして、乃木坂46の紅白初出場は、最近の乃木坂のヒット曲の連続を見ていれば誰もが当然だと思うだろうし、(それによってSKEやHKTが落選したのは残念だったけれども )、その乃木坂の名曲ぞろいの中からどの曲が歌われるのか、一番新しい「今、話したい誰かがいる」も良い曲だし、それでもいいと思っていたのだが、何と選ばれたのは、3年近く前の、あの私の好きな名曲「君の名は希望」だったのだ。
AKBグループの歌すべての中で、二つだけあげろと言われれば、私は迷うことなく、AKBの「UZA(ウザ)」と、この乃木坂の「君の名は希望」を選ぶことだろうし、それほどの曲だから、紅白なんぞで多くの人々の目に耳にさらされるのは、うれしい反面こんなところでは余りにももったいないような、娘を嫁にやるような気分にさえなるのだ。
私は、クルマで1時間ほどの街まで買い物に出かける時は、いつも乃木坂とAKBの歌を入れたCDをクルマの中で聞きながら行くのだが、最近ではその一枚のCDの三分の一は、乃木坂の曲になっている。
今まで何回となく書いてきたように、私が2年前にAKBを好きになったのは、AKBの可愛い娘たちのこともあるが、ひとえに秋元康の歌詞にあって、その青春時代のただ中にいる若者たちの、屈折した純粋な気持ちがつづられた詩を、彼は、乃木坂だけには変わらず提供し続けているように思えるのだ。まるで、自分の若き日の思い出のよりどころを失いたくないかのように。
だからと言って、他のAKBグループへの歌詞がいい加減だとは言わないが、NMBの「Must Be Now」は、「UZA」以来久しぶりに、歌ダンスともにそろった良い曲だと思うけれども、一方で本家AKBの「ハロウィン・ナイト」と次の「Be My Baby」 ともに、あまりにも表面的、類例的な歌詞に見えて仕方がないのだ。
そっともそれは、”さっしー”センターのダンス曲だから、そして”たかみな”センターのアイドル曲だからと言えなくもないのだろうが、厳しく見れば、この2曲とも、曲調が歌詞を上回っているとさえ思うくらいだ。
最近、秋元康は引退を口にしているとのことだが、もしそうなればAKBの根幹部分が崩壊することにもなりかねないし、ただあまりにも広げすぎたAKBグループ全体を再度見直して、少数精鋭の大改革をして、それまでのように、彼は歌詞とプロデュースだけに力を注いでほしいとも思うのだが・・・それにしてもAKBは10周年にもなるし・・・これほどの数を抱えるアイドル・グループを、よくも変わらずに10年間も率い続けてきたものだと感心するし、やはり彼は名作詞家であったとともに、日本芸能史に名を残す一大プロモーターであったことは、後世にまで語り継がれるだろう。
そして私は、まだまだAKBのファンであり続けるのだろう。