ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

冬の日の幻想

2015-12-14 21:22:45 | Weblog


 12月14日

 ”ここはどこ、私はだれ”。
 九州の家に戻ってきて、もう十日余りもたつのに、いまだに北海道の家にいたころの、一瞬の幻覚にとらわれることがある。
 特に最初の二三日は、朝起きた時に、そして昼間にうたた寝をして目覚めた時に、いつでもはっとして、今自分がどこにいるのかわからなくなる時があったのだ。
 ここは、いつもの北海道の家なのか、それとも違うどこかなのかと、いぶかしく思い、たじろぎ、回りの光景が目に入ってきて、ようやく自分が九州の家にいることに気づくのだ。

 それは、ほんのひと時に過ぎない幻覚の瞬間なのだが、私にはただそれだけのこととは思えないのだ。
 日常が習慣化され、脳の中で蓄積記憶されていたものが、一瞬、周りの環境の変化の中でも、同じように繰り返し、再現プログラムの日常へと導こうとする力。
 そのプログラムが現れたかと思うと、現実の光景を目の当たりにして、ゆるやかに消え去っていく・・・。

 それは私のように、こうして違った所に、長く居住することを繰り返していると起きる、私だけの小さな幻覚なのだけれども、それが実は、何かを暗示しているように思えてきたのだ。
 赤ちゃんが眠りから覚めた後、そのまま泣き出してしまうことがあるように、それは自分のそばにいつもの母親の温かい肌のぬくもりがなく、自分を見守っている優しいまなざしもない、と気づいた時の不安からくるものかもしれないが、そこになぜか年寄りになった今の自分との、小さな共通点を感じてしまうのだ。
 若い時には、まして働き盛りのころには、目まぐるしく行きかう様々な義務遂行処理に追われて、感じることも余りなかった、人間の始原的な存在への不安感が、一瞬の間だけれども、その姿を現すこと・・・。

 年を取るにつれて、幼児がえりをする、とはよく言われることだが、この幼児期と老年期のどこか似通った不安感は、もしかしたら生から死へのやさしき前ぶれとして、あらかじめ心得知っておくべきことの一つなのかもしれない。
 つまり、”ここはどこ、私はだれ”の状態になってこそ、今いる現世からのゆるやかな訣別(けつべつ)ができるのではないのか、これはそのための習熟期間の始まりなのかもしれないのだと・・・。 

 
 私は、死を恐れているわけではない。少しの口惜しみを含めて、開き直っていえば、十分に生きてきたと思えるからだ。
 今までの自分の人生は、この年になれば誰でもがそう思うように、様々な良し悪しの起伏を越えてきたわけであり、それだからこそ、自分がたどってきた人生の足跡だけが、振り返る価値のあるものであり、それは、他人の人生とくらべて羨望(せんぼう)のまなざしで見ない、ということにもなるのだが。
 つまり、私は、他人の人生などをうらやましいとは思わないし、そう思ったところで今さらどうなるものでもないからだ。
 自分は自分にできることをやるだけで精いっぱいだし、他人の体に群れるきれいな蝶を見ていたり、あるいは他人の頭の上のハエを追ってあげたりと、そんなヒマなんぞはないということだ。
 ましては、どこかの映画やドラマのように、時空を超えて自分が生まれ変わってと、ありもしないできもしないことに思いを馳(は)せるような夢想家でもない。

 年寄りになって大切なことは、限りある時間の中での今の時間であり、そこで いかに毎日をありがたく思って生きていけるかだけなのだ。
 今までたびたび取り上げてきた、あのドイツの哲学者、ハイデッガーが言っているように 、”死を意識して、初めて真の時間を理解し、今ある自分の存在を知るようになる”のだろう。
 つまり、それは”生”を強く意識するがために大切な、”死”の意識だということになるのだろうが。

 これも前にもあげたことがあるけれども、アンドレ・マルローの小説『王道』の最後で、死にゆくペルカンがクロードを前に、もうろうとした意識の中でつぶやく言葉・・・。

 「死など・・・死などないのだ。ただおれだけが・・・ただおれだけが死んでゆくのだ・・・。」 

 (『王道』 マルロー 小松清訳  筑摩書房版世界名作全集)

 ここまで、こうした重いテーマを書いてきたのは、昨日の新聞の書籍広告欄に載っていた、今までも、『臨死体験』などでたびたびあげてきた、ドキュメンタリー作家・評論家でもある立花隆氏の、新刊本『死はこわくない』の案内広告のキャッチコピーの一文を目にしたからだ。

 ”死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで自然に人は死んでいくことができるんじゃないか”。 

 さらに加えて、最近の体験で、目覚めかけた時の夢うつつの中で見る幻覚は、それはまた昼間の通常の感覚の中でも、まるで”白日夢”のごとく起きる、幻想的な風景が見えるということにもつながっているのではないのか、と思ったからでもある。
 そこで、前々回の記事からの続きになるが(11月30日の項参照)、この時の大雪について記述した中で、わが家から歩いて行ける近くの雪の丘への、”ワンダリング”(さまよい歩き)をした時のことについて、改めて今ここで書いておくことにする。

 あの時の二回もの大雪で、併せて70cmもの積雪になった日の午前中に、私はさっそく出かけることにした。
 冬の間もここにいた時には、たびたび裏の丘へとさまよい歩く”ワンダリング”を楽しんだのだが、今回の大雪でそんな真冬の時期が早くも来たような気がして、それならばその”雪中散歩”に出かけようと思ったのだ。
 しかし、深い雪は意外にやっかいで、表面は朝の冷え込みで凍りついていて固そうに見えるが、その下はやわらかい雪で歩きにくく、とても長靴では無理だし、冬用スパッツをつけての登山靴でも歩きにくいだろうからと、冬用長靴にスノーシューをつけて、ストックを手にして歩いて行くことにした。
 まず、自分の家の林の中に入って行く。どこでも自由に歩いては行けるが、そのスノーシューをはいてでさえ、表面の氷が割れて、下の柔らかい雪に足を取られて、たびたび転んでしまうほどだった。
 
 やがて、林を抜け、広い畑に沿ってゆるやかに上がって行く。
 風もなく、青空の下に、一面の雪原が広がっている。
 振り返ると、十勝平野のかなたに、白い日高山脈の山々が続いていた。
 耕作地と牧草畑が続く丘へと登って行く。
 これこそが、私の好きな冬の風景なのだ。(写真上)

 さらにゆるやかにたどって行って、丘の高みのあたりに近づくと、そこから遠く雪原を区切って、陰影をつけた山々が立ち並んでいた。
 右から十勝幌尻岳(1864m)、カムイエクウチカウシ山(1979m)、1823峰、コイカクシュサツナイ岳(1721m)へと続くあたり・・・。(写真下) 

 

 さらにこの雪原が、真冬の吹きすさぶ風雪にさらされて、シュカブラや風紋による様々な陰影ができると、私の望む冬の光景の一枚の写真が出来上がる・・・幻想の風景。
 そこに立ち止まり、景色を眺めている私の耳に、懐かしい響きが聞こえてきた。
 フルートに導かれた主題のメロディーが流れ、すぐに弦楽セクションの響きがその主題の厚みを増してふくらんでいく・・・。
 ロシアの作曲家チャイコフスキーの、交響曲第1番ロ短調「冬の日の幻想」、冒頭分部の音の流れである。

 ロマン派というよりは、民族楽派と呼ばれるにふさわしいチャイコフスキーの、自国ロシアの冬の光景を見事に表現した、”交響詩”と呼ばれるにふさわしい曲である。
 レコードの時代、私は、国内盤よりは安い輸入盤の中でも、さらに安かった当時のソ連メロディア盤を、よく買っていたものだった。
 ”鉄のカーテン”の時代、自由な海外コンサートでさえままならなかったソ連の演奏家たちだが、その伝統に裏打ちされた演奏技術は素晴らしく、西欧系の並みの演奏家には及びもつかぬ見事な演奏を聞かせてくれたものである。ムラヴィンスキー、ロストロポーヴィチ、リヒテル、ギレリス等々・・・。

 そんなメロディア盤の中でも、私が多く買ったのは、タネーエフ弦楽四重奏団のシューベルト弦楽四重奏曲のシリーズであり、さらにはロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団による、このチャイコフスキー交響曲シリーズである。
 最初に、この第1番の「冬の日の幻想」を買ってきて聴いたのだが、意外にも情景が生き生きと活写されているかのような、そのオーケストラの響きが素晴らしく、次々に最後まで買ってしまうことになったのだが、特に第2番「小ロシア」、第3番「ポーランド」などは私のカタログを埋める曲でもあったので、それだけでも十分に価値あるものだったのだ。(ちなみに、チャイコフスキーの交響曲は、有名な「悲愴」を含む後期の4番から6番までが有名であり、若き日の作品でもある1番から3番までは演奏される機会も少ないのだ。)

 そして、指揮のテクニシャンとも呼ばれたロジェストヴェンスキーの指揮による演奏は、確かにこうした標題音楽的なものでは定評があったのだが、一方ではブルックナーやマーラーなどの、長大な楽曲を深く掘り下げて、作曲家の心の深淵を描くといった演奏には、余り向いていなかったようにも思える。
 その意味でも、このレコードの「冬の日の幻想」における彼の指揮ぶりは、秀逸なものだったと言えるだろう。
 この曲については、後年CDで、定評あるカラヤンとベルリン・フィル演奏のものも聴いたのだが、やはり私には、あのロジェストヴェンスキーの明るくにぎやかで、なおかつ冷たい凛(りん)とした空気が伝わってくるような、音の響きこそがふさわしく思えるのだ。

 人は誰でも、一つの風景から聞こえてくる、自分だけの音の響きを思い浮かべるのだろうが、それはそのまま自分の歩いてきた人生の、”交響詩”としての一節になっているのかもしれない。

 さて、私はひとり、自分の思うままにゆるやかにうねる雪原の中を、スノーシューの足跡をつけて歩いて行った。 
 丘の高みから少し下ると、斜面になった雪原に切り取られて、十勝平野の雪の平原が広がり、その果てに、雪の峰々が立ち並んでいた。
 左から、ペテガリ岳(1736m)、ルベツネ山(1727m)、少しだけ1839峰が見え、ヤオロマップ岳(1794m)、コイカクシュサツナイ岳へと続く・・・。(写真下)



 こうして、私は1時間余りの、雪の丘への”ワンダリング”を楽しんできたのだ。
 「冬の日の幻想」の響きの、ひと時は終わり、家の中では、今の私の音楽である、AKBの歌声が聞こえていた。
 何という、脈絡もなく雑多なままの、私の音楽人生だろうか。
 
 今回も、例の土曜日夜遅くの、NHK・BSでの『AKB48SHOW』を録画して見たのだが、なかなかに興味深く考えさせられた番組でもあった。
 まず、好評の朝ドラ『あさが来た』の主題歌、「365日の紙飛行機」を、初めてフルバージョンで最後まで聞くことができたこと。
 もちろんそれは、今までにも書いてきたように、私がAKBを好きになったきっかけが、秋元康の作詞にあることを、あらためて再認識させるような歌詞の続きを聞くことができて、やはりいい歌だと思ったのだが。(11月23日の項参照)

 次に、もう長い間、病気やケガのために、AKBの歌番組やコンサートに出ていなかった”ぱるる”こと島崎遥香(総選挙9位)が、元気な顔を見せていたことであり、さすがに他の若手には代えがたい存在感があって、それは今どきの言葉で言えば、”ハンパなかった”のだ。

 さらに、もう一つ気になったのは、前にもいろいろと書いたのだが、あの”ゆきりん”こと柏木由紀が、メンバーと一緒に歌う時の立ち位置が、きわめて後ろの方に下げられていることが多いのだ。
 総選挙2位という実力から、総選挙後すぐの「ハロウィン・ナイト」では、1位の”さっしー”こと指原莉乃のすぐ隣で歌っていたのに、最近の歌番組では、ずっと2列目以降に下げられているのだ。
 それはAKBファンならば誰にでもわかるように、選挙後に有名ジャニーズ・タレントとのスキャンダル写真が暴露報道されて、AKBオタクたちからの、ごうごうたる非難にさらされたのだが、本人はもとよりAKB運営サイドも、かたくなに沈黙を守り通して、”人のうわさも四十五日”のことわざ通りに、火種も消えたかに思えていたのだが、最近の歌番組等における”ゆきりん”の立ち位置の冷遇ぶりを見ていると、今さらにしてと思わされるものがあったのだ。
 指原や峯岸のスキャンダル事件の時には、運営側から対外的にもはっきりとわかる処分が下されたのに、今回の”ゆきりん”の場合には、今に至るまで何の処分も下されなかったというのは、あれは週刊誌報道の行き過ぎたねつ造スキャンダルだったのか、とさえ思っていたのに。
 しかし、最近の”ゆきりん”に対する、運営側の冷遇ぶりは、彼女が総選挙2位という位置にいることを考えれば、あまりにも目に余るものがあって、つまりは、これが運営側の処分であり、あのスキャンダルは事実だったということになるのではないのか。

 いやー他人事ながら、はたから見れば、そういうふうに想像を働かせていく面白さがあり、ということは、私も立派なAKBオタクになりつつあるわけだし、”ソープ・ドラマ”や”昼メロ、不倫ドラマ”にうつつを抜かす、そこら辺のヒマな主婦たちと、何ら変わりないことになるのだろう。
 はい、ワタシが、ヒマなじいさんです。あ、ヒマなじいさん、ときて、ヒマなじいさん。だっふんだー。

 しかし、20歳を過ぎたくらいの若い娘の、恋愛関係の一つや二つが、スキャンダル扱いされるなんて、いかにアイドルとはいえ、本当にかわいそうな話だと思う。
 私なんぞの若き日のことを思えば、もし同じようなタレントだったら(そんなことは金輪際あり得ないが)、何度週刊誌ネタになっただろうか。片手をついて、深く反省。
 あの指原が、”ゆきりん”をかばう意味も込めて、”AKBも恋愛解禁にすれば”と言ったのも、わからないではない。
 しかし、多くのAKBファンが、アイドルとしての彼女たちに求めているのは、架空恋愛対象としての、自分だけの清純なアイドルの彼女たちなのだろう。
 だからと言って、娘ざかりの彼女たちに”恋愛禁止令”の不文律を守らせるのは、あまりにも酷な話だと思う。
 まさに、美しいさかりの若い時に・・・”命短し、恋せよ乙女”であるべきなのに。

 つまり、できるならば、”恋愛解禁”を表ざたにはしない不文律として、絶対にバレないようにすることを条件として、内々で認めてやればいいのではないか。
 もし見つかり公表されれば、自らの退団の決意を含ませて。
 何事も、”秘すれば花”なのだ。

 つまりは、アイドル稼業とは、様々なファンの思いのあと押しをうけての人気商売でもあり、それほどに厳しいものだということを、まずAKBに入るにあたって、そんな年端もいかぬ娘たちにしっかりと教え込むべきだと思うのだが。
 もう一つの方法は、宝塚歌劇団にあるように、”男子禁制”の絶対的条文を掲げて、アイドル”聖女化”することだろうが。

 
 今回は他にも、テレビで放映された有意義な番組がいくつもあって、それについて書こうと思っていたのに、そうしたまじめな話や哲学めいたことを書いてはいても、一方では、こうしてAKBの話になると、いつしか下世話な興味がわいてきて、一転、下劣な品性丸出しの馬脚(ばきゃく)を現す始末で、まあ”悪女の深情け”ならぬ、AKBを想う”悪爺の深情け”と思って、お見逃しくださりませ。
 ヒマなじじいの、”世迷いごと”と”戯(ざ)れごと”にございますれば・・・。
 
 それにしても、今、雪もない九州の山の中にいて、想うのは、あの時の「冬の日の幻想」の光景・・・。
 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。