10月12日
西風が強く吹いている。窓の外を見ると、まだ緑色のままの木の葉から、黄色や橙(だいだい)色に変わりつつある葉まで、それぞれが一枚一枚、日の光を浴びて、風にヒラヒラと揺れている・・・やがてそのうちに、一枚二枚と枝先から離れて、舞い落ちていく・・・。
暖かい日差しと、冷たい風の中で、秋が深まってゆくのだ。
こうして秋になると、天気の良い日が多くなり、夕焼け空を見ることができるようになる。
数日前、小さな冬型の気圧配置になり、西風が強く、十勝平野を区切る日高山脈に沿って、雲が並び連なっていた。
さらに、そこから青空をはさんで、平野部の上には、風の強い時にできる、平らな底面の大きな雲が並行するように横たわっていた。
それは、やがて夕日の照り返しを受けて、黄金色(こがねいろ)に輝いていた。(写真上)
その空いっぱいに広がる雲を、じっと見ていると、いつしか、私がそこに立って見上げているのかどうかも、疑わしく思われてきた。
私は今、夕闇迫る地上界から、逆さまになって、天上界の黄金色の雲に向かっているのではないのかと・・・。
不思議な感覚だった。
周りには、もちろん人影もなく、走る車の音も聞こえず、風の音だけが梢(こずえ)を揺らしていて、そうした中に私がひとりでいたからこそ、地上界と天上界の区別もつかなくなり、つまり生きているのか、それとも死んで天上界に向かっているのかさえも分からないような・・・。
「 よだかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼっていきました。
・・・。
もうよだかは、落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。
・・・。
それからしばらくたって、よだかははっきりとまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。」
(『宝島別冊 宮沢賢治』 「よだかの星」より 宝島社)
この宮沢賢治の「よだかの星」の一節は、前にもこのブログで引き合いに出したことがあるのだが、何度読み返しても他人事ではなく、身につまされるような話である。
キリスト教信者でもあった宮沢賢治の思いは、この世に生きる弱い者や心貧しき者に対する憐(あわれ)みだけではなく、彼らが行くであろう幸いなるかなたの世界をも、示唆(しさ)していたのだろう。
あの”山上の垂訓(すいくん)”でも有名な、『マタイ伝』からの言葉が思い出される。
「こころの貧しい人たちは、さいわい(幸い)である。天国は彼らのものである。
・・・。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
・・・。
あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるだろう。」
(『新約聖書』マタイ書 第5章より)
その後、黄金色の雲は次第に赤みを増して茜(あかね)色に染まり(写真下)、やがては、すべてが色褪(あ)せて、暗闇の黄泉(よみ)の世界の中に沈んでいった。
その一部始終を、私は見ていた。
なんという、劇的な天空のドラマの一シーンだったことだろう。
こうしたことを、家の周囲で、いつも見られることのありがたさ。
それは、この広い十勝平野のただ中に、私が立っているからであり、それも街中にではなく、不便な田舎の一軒家に住んでいるからであり、それも都会を離れて広い所へ、自然の中で暮らしていきたいと思ったからであり、それまでのすべてを棄ててでも、そこには、それを補うに余りある大切なものがあると思っていたからである。
もちろん、あのまま都会に住み続けていれば、それなりに努力してそれなりの生活を送れていたのだろうが、どう考えても、常に周りに聞こえるあの都会の喧騒(けんそう)と雑踏には耐えられそうにもなかったからだ。
人には、街中がいい人と、田舎がいい人とがいて、その割合は、大都市や中小都市を含む市街地に住む人と、田舎の散村的な集落や離れ家に住む人たちの数を調べて見ればわかるように、9対1どころか、おそらくはコンマ以下の、比較にならないほどの比率にしかならないだろう。
少し飛躍するけれども、かろうじて今の時代にも残る原始生活の中で生きる人々、あのアマゾン原住民の生態を見てもわかるように、私たち現代人からすれば不便極まりないと思える、あの何もないジャングルの中こそが、彼らが最も安心して暮らしていける場所であり、彼らはジャングルを離れて現代文明の中ではとても暮らしていけないだろうし、そのまま大自然の中の小さな共同体として、その一部族として、一緒に固まって生活していくことが、住み慣れた最善の生活環境ということになるのだろう。
最近たびたび書いていることだけれども、ここでは井戸が枯れて飲み水にさえ苦労するし、風呂どころか日常の洗い物にさえケチって水を使わなければならず、さらに簡便に作った外のトイレだから、季節の変化や日々の天気にさえ使用する際の不便さを感じてしまう。
裏の林では、前回書いたように大風で倒れる木もあって、日ごろから周りの林の木々の手入れをしなければならないし、蚊、ハエ、アブ、スズメバチなどの害虫たちとも折り合いをつけて暮らしていかなければならないし。
そうした不便なことは多くても、ここにいれば、それ以上に私を喜ばせてくれる様々なよいことがあるのだ。
ビルの一室の中に暮らしていては気づかない、萌えいずる春の新緑、そして夏のあふれる緑から秋の紅葉へ、冬の白一色の世界へと、鮮やかな四季の移り変わりを目にすることができるし、春の山菜、秋のキノコ、野原の草花など、周りの自然から多くの恵みを受け取ることもできる。
そしてこの、壮大に繰り広げられる、朝夕の天空の舞台・・・。
そういうことなのだと思う。いつの時代でも、どこにいても、誰であっても、自分の思う幸せのすべてを手に入れることはできない。
そのためにも、どのあたりで、自分のあいまいな満足の境界線を引けるかであり、その思いを持って、いかにぶれずに生きていけるかなのだろう。
ただそのためにも、それまでに、どれほど多くの選択の引き出しを開けて学んだことがあるかどうか、これがだめなら、もう一つの別な方向へ行けばいいのだという、経験から学んだものがあるかどうか・・・。
そうして、自分の人生を振り返ってみた時に、この世に生まれ落ちた時から、子供時代を経て、多感な青春時代を送り、やがては独り立ちして生きていき、こうして老年期を迎えようとする今、すべてのことは自分にとって有意義なものだったと思えること、つまりこれまでの人生の中で、様々な引き出しを開けてみたことは、決して無駄ではなかったと思えること・・・。
この世では何の役にも立たなかった、一匹の虫けらのごとき人生だとしても、穏やかな老境の果てに、黄金色の雲の天上の世界があるのだと思うことで、それでいいのではないのかと、自分に言い聞かせているのだ。
今日は北を通過した低気圧の影響で、やや暖かい強い西風が吹いていた。
明日からは、西高東低の気圧配置になり、北海道の日本海側や山間部では雪の予報が出ている。今年の初雪になるだろう。
この十勝地方では、日高山脈が障壁となって、雪雲を押しとどめ、ただ冷たい北西の風が吹き降りてくるだけだ。
それでも私は早めに、車のタイヤを冬タイヤに変えてしまった。できれば近いうちに雪の峠を上がって、このシーズン初めての雪山歩きを楽しみたいとも思っているからだが。
今日の暖かい西風は、そうした冬の前触れの風であり、これからは、日増しに冷たい北西の風の吹く日が多くなってくるだろう。
そういえば、西風で思い出したのは、ギリシア神話に出てくる西風の神”ゼフィロス”のことだ。
あのルネッサンスの画家、ボッティチェルリ(1445~1510)の描いた大作『ヴィーナスの誕生』は、貝殻の上に立つ女神ヴィーナスが、西風の神ゼフィロスが吹きつける風と、花の女神フローラのやさしい吐息によって、今まさに春の岸辺へとたどり着こうとする、その時を描いた夢のような絵画であるが、もしここで今吹いている西風が、やがて冷たい北西の風に変わり、冬の女神が雪氷の海を渡り、白い北海道にたどり着くところを『雪の女王の誕生』という絵にしたら、どうなるのだろうかと想像をふくらませてみる。(もちろんこれはディズニー・アニメの『アナと雪の女王』などとは全く別な、芸術絵画の世界としてだが。)
これは、時代を超えての話だと断ったうえで、暖かいイタリアに住んでいたボッティチェルリに、そんな雪国の絵が描けるはずはない。
そこで、依頼して描いてもらうとすれば、あの『氷の海(難破した希望号)』を描いた、ロマン派の画家カスパール・フリードリッヒ(1774~1840)か、『死の島』で有名な象徴主義の画家ベックリン(1827~1901)か、ということになるのだろうが、彼らの画風からして、とても『ヴィーナスの誕生』と対になるような明るい華やかな絵にはならないだろうし、どのみち題材からして暗い冬の絵画だから、それならばむしろ日本画として、『焔(えん)』で壮絶な狂女の姿を描いた上村松園(1875~1949)あたりに依頼すれば、どうなるのだろうか・・・と、ヒマな年寄りは一人、空想の世界を楽しむのであります。はい。
こんな余分なことをだらだらと書き綴ってきたのは、二つのスポーツの試合の結果を見てのことなのだが。
まずは、朝のニュースで、日本チームがラグビー・ワールド・カップで、最終戦のアメリカに勝ったことだ。それも、予選ながらも世界を相手に、通算3勝1敗という信じられないほどの成績を収めるような時代が来るなんてと、ひとり喜んでいたのだが、それは、ささやかながらも高校時代にラグビーにかかわったことのある身として思えばなおさらのことだ。
(勝因はジョーンズ監督、選手個人個人、さらには日本らしいチームプレイといろいろあるのだろうが、まず昔と比べて言えることは、昔の全日本の選手たちとは比べ物にならないほど立派に向上した、今回の選手たちの体格にある。もちろん、大きな外国選手に立ち向かうためにと、筋肉の塊のような身体を作るために、ひたむきにつらいトレーニングに耐えてきた選手たちの努力の結果でもあるのだが。)
もう一つのゲーム結果は、パリーグのクライマックス・シリーズで、わが北海道日本ハム・ファイターズが、4時間近い長い試合を闘い(そのためにこのブログを書き上げるのが遅くなってしまったが)、何度ものチャンスを逃して1点差で負けてしまったことにあり、ラグビーでの勝利の喜びも吹き飛んでしまうくらいに悔しい思いになって、そのはけぐちにと、自分の持っている他の引き出しを開けて、このブログの記事として書きまくっては、気をまぎらそうとしたからである。
つまり、様々な引き出しとは、日常のちょっとしたストレスをすぐに転嫁できるようにするために、自分で用意した自分のためだけの小さな楽しみの数々のことなのだ。
こうしてブログを書くのも、テレビでAKBの歌を聞いたり見たりするのも、乃木坂46の新曲がいつものようになかなかいい曲だと思うのも、テレビで放送されるクラッシック番組を思わず引き込まれて見続けてしまうのも、 さらにはあのタモリと宮沢りえとの大人の会話の『ヨルタモリ』が終了してしまい、残念に思っていたところ、昨日のNHKでいつも見ている『ブラタモリ』があって、今回のテーマは富士山で、地理学、地形学ファンの私には、さらにたまらない番組になっていたこと、さらに二年ほど前にも特集が組まれていたが、今回も単発の特集番組があって、久しぶりに、あのアメリカ人の日本文学研究者ドナルド・キーンさんの話を聞けたこと。
東日本大震災と原発事故の後、彼はその時期に、あえて日本に永住するために日本国籍を取ったのだ。多くの外国人が日本から去って行ったのに抗議するかのように・・・なんという、日本を愛する心を持った人だろうと思う。
彼は言うのだ・・・まずは冗談交じりに”私は日本文学の伝道師です。”と言って、外国人の彼が,日本人の私たちに日本について話しかけるのだ。
”日本は戦後、いい道を選んできたと思いますが、しかし残念なのは、自分の国の伝統に興味を持たないという弱点を持っていることです。過去のものの良さを知ることは大切なことです。伝統は見えないけれども、流れとなって続いているのです。”
私たちは、日本人にとって一番大切なことを、外国人である彼から教えてもらっている。
93歳の今も彼は、あの名著『百代の過客』の続々編としての、日本文学作家たちの日記の研究と執筆に、余念のない毎日を送っているのだ。
生きるということ、自分の大切な引き出しがあるということ・・・。