ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

「要なき楽しみを述べて」 後立山連峰(3)

2015-08-17 21:01:54 | Weblog

 8月17日

 二週間以上も前の、わずか四日間の山旅の話を、こうして長々と伸ばして3回にも分けて書いてきたのは、ひとえに私個人の愉(たの)しみのためであり、ヒマな年寄りらしく、良い思い出は長い間ねちねちと味わい尽くしたいからなのである。
 今、モニターに映る山の写真を見ながらこのブログを書いていると、あの時の山々の姿や風や冷気や暑さまでもが、よみがえってくるようで・・・。
 もちろんそれは、やがては老境に入ろうとする私だからなおさらのこと、あの短い夏の山旅が、何ものにも代えがたい山の思い出として、ひと時の至福(しふく)の時間を与えてくれるからなのだ。
 一昨年の、黒部五郎岳(’13.8.16~26の項参照)や、その前の塩見岳(’12.7.31~8.16の項参照)に登った時と同じように・・・。 

 しかし、山登りなんぞに興味もない人たちからすれば、私の話は、前二回でも取り上げてきた、あの『方丈記』の中の一節にあるように・・・。
 「いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。」・・・これを私なりに訳すれば、”役にも立たない自分だけの楽しみを語って、大切な時間を無駄に過ごしてはいけないのに” ということになるのだろうし、そんな年寄りの、ただの繰り言(くりごと)にすぎないことではあるのだが。
 人は、他人の話を聞いて、少しは分かったつもりではいても、しょせんは他人事でしかないし、その思いのすべてを理解できるはずもないのだから。
 それだからこそ、私は私だけのために、わずか四日の山旅のことを、ここにこうしてだらだらと引き伸ばし味わいつくすべく書き込んでいるのだ。

 若い時に体験する、喜びとの出会いのひと時は鮮烈であり、身が打ち震えるほどの感動を憶えたりもするが、しかしその喜悦(きえつ)のひと時は、移り気な若さゆえの、つかの間のきらめきでしかない。
 しかし、年を取れば、そうした悦(よろこ)びにめぐり会える機会は少なくなり、それだけに、もし出会えたならば、その時にこそと自分だけの愉しみに執心(しゅうしん)しては、長く幸せな気分に浸(ひた)りたいと思うのだろう。
 どちらの年代の時の楽しみ方がいい、というのではない。それぞれの年齢にふさわしい、それぞれの楽しみ方があるということだ。
 
 ちなみに、話は飛ぶけれども、あの大正から昭和の時代にかけての文豪、谷崎潤一郎(1886~1965)の小説について、私は若い時には、『刺青』に代表されるように、あやしくきらめく感性が響きあうような、初期から中期の作品にひかれたものだったが。
 しかし、こうして私自身が作者と同じような年代に近づいてきて、そこではじめて、『鍵(かぎ)』や『瘋癲(ふうてん)老人日記』などの後期作品群に描かれているような、まるで老人臭漂う未練がましいとさえ思われる主題を、あえて作者が書いたことの真意が、見えてくるように思えて・・・つまりそこに、老年期に至る作者の美意識の変化と、そのねばりつくような年寄りの生命観がうかがい知れて、今にして深い共感を覚えるのだ。

 そうした、年齢に応じたものの見方の変化は、身の回りや社会を見る目だけではなく、こうして、昔読んだ本や、昔見た映画や絵画、昔聴いた音楽といった芸術作品などを、新たに読み直し見直した時に、さらにはっきりと自覚することになるのだが。
 つまり、自分の人生を生きるということは、その年代に応じて、ものの見方が変わり、常に新たな地平が開くように、実に面白い仕掛けが用意されていて、決してひと時の間もあきさせぬようにできているのではないのかと。

 だから私は、負け惜しみや強がりで言うのではなく、本当に思うのだが・・・多くの人は、若いころに戻りたいというのかもしれないが、私はそうは思わないのだ。
 何も分かってはいなかった小生意気なだけの若いころ、そんな自分の『仮面の告白』をすることもなく、ただ精いっぱいに背伸びをして、分かったふりをして、周りに対して粋(いき)がっていただけの、あの虚飾(きょしょく)に満ちた青春時代なんかに、今さら戻りたくはないのだ。
 そこに、たとえ熱情にあふれた恋愛があり、さらに固い絆の友情があり、そしてひたむきな思いと真摯(しんし)な努力に満ち溢れていた、若き日の自分がいたとしてもだ。

 荒れ狂う嵐の日の白波のうねりから、大きくたゆとう波のうねりだけを見ている今の私・・・ようやく彼方に島影が浮かび上がり、すべてのものがおぼろげながらにも見えてきたように思えて・・・今こうして、年寄りの時代にいることが本当にありがたいのだ。
 様々な雑念は次第に薄まっていき、ただ終末の日に向かってゆるやかに年を取っていくだけの、厳粛(げんしゅく)な時の流れを感じつつ・・・。

 と書いてくると、まるでどこかの修行僧のような達観の境地を、自ら演出しているように思われるかもしれないが、なあにそこは、舌を出したアインシュタインの写真のようなもので、日々生きている実態はと言えば、暑い寒い疲れた腹へったとつぶやいては、ひとり屁をこきわめくだけの、ただのぐうたらでわがままなジジイの日常にすぎないのだ。

 さて前置きから、すっかり余分な話になってしまった。以上のことは、ほんの人生の冗談だと読み飛ばしてもらって、本題の山の話を続けよう。
 一日目は、扇沢から柏原新道経由で爺ヶ岳に登って冷池小屋に泊まったのだが、次の日は白い霧の中で雨にもあって引きかえし、もう一日を同じ小屋で過ごして、翌日の三日目は、見事に晴れ渡った空の下鹿島槍ヶ岳に登り、短い行程の後、キレット小屋に泊まったのだ。 

 翌日、日の出の1時間前の4時ごろから、あちこちで起きて支度する人々の物音が聞こえていた。
 東の空からの朝日は、稜線の上まで行かなければ見られないが、剣岳は、今日もはっきりと西の空を区切って見えていたし、背後の薄い雲があかね色に染まっていた。
 小屋に泊まった人たちの多くは、日の出前に足早に出発して行った。
 小屋での5時の朝食を食べる人たちは、夕食時の半分もいなかった。

 私も食事を終えて、すぐに小屋を出た。
 実は、今日泊まるつもりだった五竜小屋が、昨日から混みはじめていて、あの狭い布団一枚に二人だったとか聞かされていて、さらに今日は土曜日だから、昨日以上に混むのは確かだろうし、さすがの私も恐れをなして、今日は一気に下まで降りてしまおうと決心していたのだ。
 ただしそうすれば、問題はこの山旅に出る前から気になっていたヒザの痛みなのだが、幸いにもこの三日の山歩きでも目立って悪化することはなく、ずっと現状維持の小さな痛みをかかえているだけだったから、距離を伸ばしても何とかいけそうだという気はしていたのだ。
 五竜岳から遠見尾根経由で、下のゴンドラ乗り場まで、コースタイムで9時間足らず。
 まあ普通の、一日行程でしかないのだが、現に昨日小屋に泊まって五竜方面に向かう人たちのほとんどが、そのコースで下りて行くと聞いていたくらいだから、別に無理な距離というわけでもないのだけれども、何しろ最近、のろのろとだらけて歩く楽しみを知った私にしては、それ相応のきつい行程にはなるのだけれども。

 さて、すぐに小屋の前から登りが始まり、先にはクサリ場も出てきて、今日も気を引き締めての岩稜歩きが始まるのだ。
 しかし、それにしても、二日続けての、全天を覆うこの青空の広がりはどうだろう。
 右手の信州側は、昨日と同じように雲海の波の下にあり、ただうれしいのは昨日は雲に隠れていた遠くの山々が見えていたことだ。
 北側には意外に近く、頚城(くびき)三山の妙高山(2454m)、火打山(2462m)、焼山(2400m)が並んでいて、上信国境の四阿山(あずまやさん、2333m)と浅間山(2560m)が雲の上に頭を出していて、遠くに奥秩父(金峰山、2595m)の山々が見え、その手前には長々と八ヶ岳(主峰赤岳、2899m)が連なり、富士山(3776m)がひとり大きく、そして甲斐駒(2967m)から北岳(3192m)を経て聖岳(ひじりだけ、3011m)に至る南アルプスの山々。
 反対側に目を転じれば、昨日から変わらずに立山(3015m)と剣岳(2999m)の姿があり、後ろに振り返れば、裏銀座に表銀座の北アルプスの峰々があり、それらの山々の手前に大きく、昨日たどってきた、あの鹿島槍ヶ岳(2889m)の双耳峰(そうじほう)が立ちはだかっているのだ。
 そして、前を向き、行く手の岩稜が続く先には、ひとり確かな高みをもって五竜岳(2814m)がそびえ立っている。(写真上)

 特に、G5と名付けられた岩峰の前後は、ザレ場(細かい岩礫や砂の滑りやすい斜面)や岩塊帯のクサリ場が連続していて、気をつかう所だが、息を切らして登り続けていて、ふと目をやった岩棚に、鮮やかなイブキジャコウソウの花などを見かけると、ほっとして一息つきたくなる。(写真下)



 ましてその背後に、青空の下、絵葉書写真のように、山肌に残雪を刻んだ剣岳から立山連峰が見えていると、確かに今、北アルプスンの縦走路を歩いているのだと実感するし・・・これこそが山歩きの、大きな楽しみの一つなのだろう。
 最後のクサリ場を抜けて、ジグザグ斜面の登りを繰り返すと、ようやく頂上稜線に上がり、その山稜を少し西側にたどると五竜岳山頂に着く。三度目の山頂だった。

 あまり広くはない頂上部分には、十数人の人々がいて笑い声が響いていた。
 私は、悪天候時に迷い込まないように×印がつけられている岩稜の先に行って、そこで休んだ。 
 目の前には、昨日と変わらぬ、大展望が広がっていた。
 まず大きく開けた北側の眼下には、五竜山荘の小屋が見え、唐松岳(2696m)から天狗の大下り斜面、白馬鑓ヶ岳(しろうまやりがたけ、2903m)、白馬岳(2932m)、そして小蓮華山(2769m)に白馬乗鞍などの山々が見えていた。
 そして西側には、僧ヶ岳(1814m)から越中駒ヶ岳(2003m)、毛勝三山(2414m)から、圧倒的な山稜を連ねる剣岳が依然として素晴らしい。
 さらに残雪多く彩られた立山から、南下して薬師岳(2926m)、並行するように赤牛岳(2864m)から水晶岳(2986m)に野口五郎岳(2924m)と連なり、その先には槍ヶ岳(3180m)と穂高連峰(3190m)ものぞいているが、何よりここでの見ものは、この五竜岳といつも相対するようにそびえ立つ鹿島槍ヶ岳の姿だ。
 黒部峡谷の谷から分かれた東谷の長大な沢を、その北西面に刻み込ませて、双耳峰の姿でそびえたつ鹿島槍の姿は、白馬岳から針ノ木・蓮華へと連なる後立山(うしろたてやま)連峰の中にあって、高さでは白馬岳に劣るけれども、それ以上に、 盟主たるべき威厳と気品を兼ね備えているといっても過言ではないだろう。

 ただ悲しいかな、頂上で大きな音でラジオを聞いている人がいて、人々の笑い声とともに、私には余りにも居心地が悪い場所だったので、わずか15分いただけで、頂上を離れることにした。
 これほどに天気が良くて、周りの山々もくっきりと見えているのに、もう二度と来るかどうかも分からない山なのに、しかし今日は、これから先に長い遠見尾根の道もあるしと、複雑な思いで、頂上稜線の道を戻って行った。
 右手に、広大に開けた北西面の全容を見せて、その東谷の雪渓が上がって行った上に、鹿島槍の二つの頂きが見えていた。(写真下)




 ”ああ、鹿島槍”。
 もう二度と見ることもないかもしれない、五竜からの鹿島槍の姿に、私は思わず涙してしまった。
 周りに行きかう人もなく、サングラスをかけていた両目から、幾度となく涙がこぼれれ落ちてきた。
 母とミャオと彼女たちへの、感謝の言葉を心の中でつぶやいた。
 それにしても、思いもしない感情の発露に、私自身がとまどうほどだった。
 年寄りは、小さなことでも、すぐに涙目になってしまうものだから・・・。
 
 そして、岩稜を北側に下って行くと、鹿島槍はその陰に隠れて見えなくなった。
 ゆるやかに砂礫の道をたどり、右下のお花畑を見ながら、人々で賑わう五竜山荘に着いた。
 親切な小屋のおねえさんに、今日の混み具合を尋ねると、昨日以上になるだろうとのことであきらめがついて、神城(かみしろ)からの電車の時間を教えてもらい、遠見尾根を下ることにした。

 小屋の裏手から白馬方面への縦走路と分かれて、少し登っては下って行くと、草原性のお花畑があって、ずっと下まで続いていろいろな花が咲いていた。
 黄色のシナノキンバイ、ミヤマキンポウゲ、ウサギギク、薄紫のハクサンフウロ、ミヤマアズマギク、ミヤマウツボグサ、赤色のシモツケソウなどであり、その背景には肩をいからせてそびえたつ五竜岳の姿があり、さらに遠く鹿島槍の二つの頂きも見えていた。(写真下)
 しかし、山々が見えたのはそれが最後だった。




 雲に包まれて展望のきかない樹林帯の尾根道、小さな登り下りを繰り返しながら、次第に高度を下げて行く道・・・時々日が差して、蒸し暑く、さらに気になるヒザのこともあって、途中からは何度も休んでは水を飲んだ。
 まだまだ、何人もの人々が登って来ていた。
 下りとはいえ、その延々と続く道は、これほど長かったのかといぶかしく思うほどで、汗まみれの体と疲れからだろうが、中遠見山(2037m)のコブの登りに差し掛かるころには、もう半ば意識が遠のいて、ふらふらの状態のままやっとのことで、標識のある高みにたどり着いた。
 あきらかに、熱中症一歩手前の状態で、前にも似たような状態になって、ふらふらになって歩いたことがあった。
 数年前のあの飯豊山(いいでさん)縦走の時に、胎内(たいない)からの長い尾根の登りで、バテにバテてふらふらになり、途中の雪渓の雪の冷たさに助けられて、ようやくのことで小屋に着いたのだった。(2010.7.28の項参照)  

 もう二度とあんな目には合わないようにと、休みと水を多く取るようにはしていたのだが、その一方で、早く下に降りて、松本に少しでも早く着きたいから、急ぎたいという気持ちもあったのだ。
 しかし、もう限界に近いこの有様だ。そこからは無理しないように、30分ごとに休みを取っては水を飲み、小遠見山(2007m)に着くと、もう後は確か下りだけのはず、何とかヒザがもってくれただけでもありがたいと、心も楽になった。
 ようやくのことで、観光客でにぎわう高山植物園を経て、ゴンドラ乗り場(1530m)に着いた。
 やれやれだ。この遠見尾根だけでも4時間半近くかかり、今日一日の行程としても、今の私の限度いっぱいの9時間半にもなっていて、いずれもコースタイムをはるかに超えてはいるが、年寄りの久しぶりの遠征登山としては十分にがんばったと言えるだろうし、ともかく晴天の日の山を楽しみ、無事に下りてこられたことだけでもありがたいことなのだ。
 
 神城から大町行きで乗り換えた松本行の電車は、何と浴衣(ゆかた)姿の若い娘たちでいっぱいになった。今日は松本の”盆踊り祭り”の日だったのだ。
 同じボックス席に座った、浴衣姿の二人の女子高生と、ずっと話をしていた。
 私の孫娘だと言ってもいいくらいの二人は、山帰りの汗臭いおじさんを嫌がることもなく、素直に話相手になってくれて、明るい笑い声をあげていた。そして、高校を卒業しても、東京に行かずに、地元に残りたいと言っていた。えらい。 

 私は、松本のビジネスホテルに一晩泊まり、翌朝一番の電車で東京に行って、羽田から飛行機に乗った。それも幸運にも、キャンセル待ちでの残りの1席に座ることができて、ようやく涼しい風の吹く北海道に戻ることができたのだ。
 出かける前の様々な不安は、いつの間にかすべて消え去り、ただ晴れた空の下に鹿島槍ヶ岳と五竜岳があって、そして尾根道では、いつもあの剣岳が見ていてくれたのだ。・・・いい山旅だった。

 こうして、何事もなく歩いてきたように見える、今までの人生の道のりの途中には、実は様々な危険や恐怖が潜(ひそ)んでいたのかもしれない。
 ただ私たちは、幸運の連続の中にいて、それに気がつかなかっただけのことで。

 それだから、そのことを忘れないためにも、自分の心のうちに思い浮かべることのできる、自分だけの神様に、まず感謝しなければならないのだ。
 昨日に対して、今日に対して、あるかもしれない明日に対しても・・・。