ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

「もしうららかなれば」 後立山連峰(2)

2015-08-10 21:17:59 | Weblog



 8月10日

 猛暑にあえぐ内地に比べて申し訳ない気もするが、ここ北海道では涼しい日が続いている。
 北アルプス遠征の旅を終えて、こちらに戻ってきてから三日ほどは暑い日が続いたが、その中でも1日だけ、ここでも36度というべらぼうな気温になった日があったが、そこは何と言っても北海道であり、日差しは暑いが湿度が低く、まして締め切った丸太小屋の断熱効果はさすがであり、扇風機さえ使わずにすむような室温24度くらいの涼しさだった。
 もっとも翌日には、生暖かい空気がロフト(屋根裏部屋)などに残り、今度は逆に保温状態がいいから、その暑さを朝の涼しい空気に入れ替えるのに、また一苦労というわけだが。

  ともかく、この4日ほどは最低気温が15度以下という涼しさで、朝だけは上にフリースを着こむほどだった。
 さらに、低い雲に覆われる曇り空の毎日ということもあって、最高気温でさえ20度を越えないという心地よさなのだ。
 あの真夏の蒸し暑さが嫌で、それが東京を離れる一因となったことは確かであり、そんな涼しさ寒さマニアの私としては、これが当たり前の真夏の涼しさになっているのだ。

 ところで、1週間ほど前には、そんな涼しさを、私は山の上で味わっていたのだ。以下は前回からの、北アルプス後立山(うしろたてやま)連峰への山旅の続きを・・・。
 信州の大町に一晩泊まった後、翌日には柏原新道を経由して冷池(つべたいけ)小屋に至り、次の日に鹿島槍ヶ岳を目指したのだが、稜線で雨に降られて引きかえし、またも小屋で長い時間を過ごすことになり、それでも本を読んだり、また同じ部屋の同年輩の人と、少し難しい話などをしたりして有意義に過ごしたのだが、何といっても問題は、明日の天気なのだ・・・。

 そして深夜、お寺の鐘がゴーンと鳴り・・・まさか山の上だもの、鳴らない鳴らない。その真夜中の薄暗い廊下を、ミシリミシリと足音を立てて歩く男一人・・・ギーッと扉を開けて、おもむろに立ちずさみため息を一つ、チョロチョロと小さな音、勢いがないのだ・・・哀しい年寄りの、夜中のトイレ風景のおそまつでした。

 しかし、窓の外には、満月の光に照らし出されて、薄白く輝く山々の姿が見える・・・なにとぞ、この天気が朝になっても続いていますように。
  この日の同じ部屋に割り当てられた8名は、昨日とは違って、皆が静かな寝息を立てていた。
 私はさらに一眠りした後、夜明け前に早立ちする人たちの物音で、目を覚ました。それでも、しばらくはうつらうつらしていたが、やがて外の様子を見に出たらしい人が戻って来て、隣の人にささやいているのが聞こえた。
 「いい天気だ。山が見えている。」
 ああ何とうれしいその言葉だろう。私は起きて、カメラを持って外に出た。

 昨日、白い霧に包まれて何も見えなかった東の空に、黎明(れいめい)を告げる明るい黄金色の帯が見え、その下の安曇野は雲海に覆われていて、左手にはまだ暗闇を残している鹿島槍ヶ岳が、くっきりと明け方の空を区切ってそびえ立っていた。
 5時の朝食を慌ただしくかき込んで、支度をととのえて、二日間お世話になった山小屋を後にした。
 天気のいい日の朝に、まだ山道が冷気に覆われていて、草花に光る露の光を眺めながら歩いて行くことのうれしさ。山登りの醍醐味(だいごみ)の第一歩は、こうした晴れた朝にあるのだ。

 昨日も行き来したお花畑の斜面の向こうに、朝の光を浴びながら、南北二つの峰をそばだたせて、鹿島槍ヶ岳がすっくと立っている。何度見ても見あきることのない姿だ。(写真上)
 今日の行程は、キレット小屋までのわずか数時間足らずだから、何も急ぐことはないのだが、早出(はやで)して空気の澄んだ朝のうちに、ゆっくりと稜線歩きを楽しみたいのだ。

 樹林帯から草原帯を抜けると、ハイマツと礫地(れきち)の稜線になって、左手西側の展望も大きく開けていて、黒部の谷を隔てて並行するように、残雪をたっぷりと残した立山、剣岳の姿が見えていた。
 ただ昨日までの湿った空気の名残りなのか、少しモヤがかかっているようで、ややかすんで見えていたが、何よりもこの上天気なのだからぜいたくは言えない。
 (しかし、このかすんだモヤは、何と時がたつにつれて薄れてゆき、その後は夏山には珍しく、秋空のような澄んだ空気の中で、はっきりと遠くの山まで見えるようになったのだ。)

 昨日往復した、布引山のジグザグ斜面を登り、後は岩礫(がんれき)の稜線になるが、右側斜面の所々は草地になっていて、両側に咲いているいろいろな花々が私の目を楽しませてくれた。
 岩礫側には、たっぷりの花束になって咲いている、白いイワツメクサやタカネツメクサに、この稜線歩きを通じて最も目にすることの多かった、まだつぼみのものがほとんどだったクリーム色のトウヤクリンドウや、紫色のチシマギキョウにイワギキョウ、さらに赤紫のイブキジジャコウソウなどが咲いていて、草地の方には、赤いタカネイバラに赤紫のヨツバシオガマ、ハクサンフウロにクロトウヒレン、紫のミヤマトリカブトに、クリーム色のシロウマオウギ、黄色のコガネギク、ウサギギクなどを見かけたが、中でも久しぶりに見てうれしかったのは、こんな稜線にも咲いててくれたシナノナデシコ(写真下)の花だ。

 

 何という、いい登山日和(びより)だろう。
 前回にもあげた、あの『方丈記』の中の一節を思い出した。

 「もしうららかなれば、峰によじのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ・・・」

 とあるように、何も山登りは、言われているような山岳信仰や修験道ばかりではなく、千年近くも前の昔から、一般の人たちによって気晴らしや楽しみの山歩きとして、気軽に登られていたのだ。 

 そして私は、最後の岩くずの道を登っていき、快晴微風の鹿島槍ヶ岳南峰(2889m)の頂上に着いた。
 周囲には、北アルプスの山々の大展望が広がっていた。

 四度目の鹿島槍山頂だったが、これほどまでに晴れ渡った日の眺めを見ることができたのは、初めてだった。
 いつもガスがかかり始めていたり、半分に雲がついたままだったりで、山頂には立ったものの、十分な展望を得ることはできなかったのだ。
 晴天山頂を正式な登頂だと思っている私には、鹿島槍は、長い間どこか十分ではなかったという思いが残る山だったのだ。
 それだけに、年寄りになってもう登れなくなる前に、日本全国には他にもまだ登っていない山々があるというのに、それらを後回にしても、この鹿島槍だけは、どうしても晴天の日にその山頂に立ちたい思っていた山だったのである。
 そして今回、その思いは、またとない快晴の日の澄んだ空気の下で、これ以上ないという条件のもとでかなえられたのだ。
 あー神様。人は誰に感謝していいかわからない時には、こうして神様の名前を口にするものだ。

 私は、10数人ほどがいたにぎやかな山頂部分から離れて、西側に少し岩礫斜面を下った所で、ひとり岩の上に腰を下ろした。
 目の前に、今やモヤも取れて、くっきりとした山肌と残雪模様も鮮やかに、剣・立山連峰が並んでいた。(写真下)
 左側から、立山雄山(3003m)、大汝山(おおなんじやま、3015m)、富士ノ折立(2999m)と並ぶ三つの頂の間に残る見事なカール(氷河圏谷)、さらに真砂岳(まさごだけ、2861m)の両側の二つの広大なカール、そして剣沢の雪渓から、黒い鋼(はがね)の頂を持ち上げる剣岳(2999m)、その右下に長大な三ノ窓雪渓を刻み、さらに小窓、大窓の雪渓も見えている。

 

 『万葉集』にある、あの有名な大伴家持(おおとものやかもち)の一首を思い出す。

 「立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏(とこなつ)に 見れども飽(あ)かず 神(かむ)からならし」

 (『万葉集』 巻十七 4001) 
 
 そして同じ巻十七の三首後(4004)には、また似たような歌がもう一首。

 「立山に 降り置ける雪の 常夏に 消えずてわたるは 神ながらとぞ」 

 読んで分かるとおりに、前作の方がまとまりもよく、心地よく聞こえる。
 なかでも終句の”神(かむ)からならし”(神様がいるからなのだろう)の言葉の響きは、他の言葉に置き換えられないほどだ。 
 
 『万葉集』の中でも、最後の部分にあたる巻十七から巻二十には、ほとんど大伴家持の歌が収められており、この歌は、国主として越中(富山)に赴(おもむ)いた時の歌であり、他にも雪の降り積もった景色を歌ったものなど、当時から変わらぬ冬の北陸地方の景色を思わせせて、興味深いものがある。

 ちなみに、今の呼び名である立山(たてやま)を、”たちやま”と言っているのは、おそらくは富山平野側からは一番大きく高く見える、今の剣岳を指して、”たちやま”つまり”太刀(たち)山”と呼んでいたのだろうし、後年その”太刀山”が”剣(つるぎ)の山”、すなわち”剣岳”へと書き改められたのだろうとのことである。
 さらに、終句の”神(かむ)からならし”は、口に出して言えば”かんからならし”と聞こえ、さらにこの”神”という言葉が勇壮に響いてくる。
 そして、この”神”は、”かむ”と読めば、あのアイヌ語の”カムイ”に近く、北海道にある山の名前、神威岳(かむいだけ)として各地に幾つも残っているのだ。
 そうして、言葉探しへの思いはふくらんでいくのだが、もっともこれは私だけの勝手な想像にすぎなのかもしれない。 

 すっかり話がそれてしまったが、元に戻そう。
 その鹿島槍南峰からの展望はさらに続く、南方には、今までたどってきた爺ヶ岳(2670m)からの山稜が続き、その奥には、常念岳(2857m)、大天井岳(2922m)から、穂高岳連峰(3190m)、槍ヶ岳(3180m)へと高まり(写真下)、針ノ木岳(2821m)の上には裏銀座の山々と水晶岳(2986m)に赤牛岳(2864m)、その向こうに薬師岳(2926m)も見えている。
 ただ一つ残念なことは、南アルプスから富士山、八ヶ岳へと続く、遠く離れた山々が見えなかったことではあるが。
 



 振り向けば、今まで見えなかった後立山連峰の北半分の山々が、五竜岳(2814m)から唐松岳(2696m)そして白馬鑓ヶ岳(しろうまやりがたけ、2903m)白馬岳(2932m)へと縦位置に重なって見えている。
 北アルプスのほとんどの山を見渡すことのできる、何というぜいたくな展望だろう。
 私の後ろの頂上の方からは、にぎやかな声が聞こえていたが、そこから離れて西側の岩の上に腰を下ろしている私の目の前には、ただ山々が広がり続いているだけだった。
 いつしか人々の声が消えていき、青空と山々と私だけがいて・・・。

 さて、この鹿島槍南峰に20分余りいた後、私はさらに北へと縦走路をたどって行くことにした。
 急な岩塊帯の下りで、いよいよ気の抜けない稜線歩きが始まる。それだけに、行きかう登山者も少なくはなるのだが。
 南峰と北峰をつなぐいわゆる”吊り尾根”の南側には、いつものように雪渓の始まりになる雪がまだたっぷりと残っていた。
 そして、次なる登りが始まり、ほどなく鹿島槍のもう一つの頂きである北峰(2842m)に着いた。
 さらにすぐ後から一人の男の人が登ってきたが、彼は一休みしただけですぐに下りて行った。
 私だけの頂上になった。
 何よりも眼前に、今登ってきたばかりの南峰が大きくそびえたつさまが素晴らしい。(写真下)
 そのぶん、立山が隠れてしまうけれども、右手に剣岳が見え左手には薬師岳から先へ槍・穂高へと続く北アルプス核心部の山々は見えていた。 

 
 
 こうして、晴れ渡った日の、鹿島槍ヶ岳南北峰それぞれの頂きに立ち、長年の憧れでもあった大展望を前にして、私にはもう思い残すものはないとさえ思った。
 さらに反対側の、鹿島槍北壁下のカクネ里雪渓を眺め下ろし、30分近くもひとりでこの山頂にいて、ちょうど若い娘二人が登ってきたのを潮時に、下りて行くことにした。もうおそらくは二度と来ることもないだろう、鹿島槍北峰に別れを告げて。
 縦走路に戻り下っていくと、反対側から額に汗して重たいテント装備で登ってくるおじさんたちもいた。
 若い”山ガール”から、おじさんたちに至るまで、みんな山が好きなのだ。まして、この年寄りの私においておや、というところだが。
 
 岩稜帯に取り付けられたクサリ場からハシゴ場を繰り返し、狭い隙間になったキレット(尾根続きの所が両側から切れ落ちた所)を抜けると、キレット小屋が目の前にあった。
 まだ、10時半にもなっていなかった。今日の行程は、休みを入れても5時間余りにしかならない。
 小屋の人からは、まだ早いし、天気がいいのだから先の五竜まで行けばと勧められたのだけれども、私は、自分の方針を変えたくはなかった。今回の私の目的は、山々を踏破(とうは)することではなくて、山をじっくりと楽しむことにあったのだから。

 この小屋には過去に二度泊まっている。小さな小屋だが、鹿島槍と五竜の岩稜帯の縦走路の間にあって、まさに天候急変時などの避難小屋の意味合いも兼ねているのだ。
 しかし、私は、ここにあるこの小屋に今回も泊まりたかったのだ。西に開かれた正面に、剣岳を見ることができるからだ。
 そして、朝夕のあかね色の空を背景にした剣岳の姿だけでなく、今日のような晴天の日に、午後になってもずっと、その剣岳を見て過ごしたいと思ったからである。
 そして、この日は何というべきか、まるで秋の日の澄みきった空のように晴れ渡ったまま、剣岳は、午後からの雲がかかることもなく、終日見え続けたのである。
 
 小屋の前のテーブルに陣取って、昼前からの長い一日を過ごした。
 まだまだ、これから五竜まで行くという人たちが立ち寄って休んだ後、再び先を目指して歩いて行った。
 さらには、私と同じように、今日はここまでだという人たちが次々に小屋に入ってきた。もっとも、今日の出発地が私と同じ冷池の小屋だという人は一人だけで、他は種池小屋や新越山荘、あるいは扇沢からという人たちばかりだった。
 そういえば、先ほど五竜を目指して行った女の人は、朝の出発地点は扇沢だというのだから恐れ入る。私の若いころでさえ、一日で歩くには考えられないほどの長距離であり、全コースタイムはおよそ15時間、それを10時間余りで踏破することになるのだろうから。
 おそらく彼女はトレイル・ランか何かの選手かもしれないが、山に対する思いや歩き方は人それぞれなのだ。

 私はそこで、今日もまた、二三人の人と、社会問題から、音楽、文学などにいたるまでの少し難しい話もした。
 そして、一昨日昨日と冷池に連泊し、今日はこのキレット小屋で、明日は五竜小屋までという、私のゆっくりとした、物見遊山(ものみゆさん)の大名(だいみょう)登山を、みんながうらやましがったが、「なあに、北海道のニシン漁でもうけた金の使い道がなくて、困っているほどだから」、と煙(けむ)にまいてやった。
 名前も知らない、今日出会ったばかりの人たちだけど、山が好きでこの小屋に泊まるのだという共通項だけで、こうも気兼ねなく話をすることができるのだ。
 日ごろはいつも一人でいることの多い私だから、おそらくはこの山旅で、1年分の会話をしたような気分だった。

 夕方、西の空に、毛勝(けかち)三山の山際に日が沈んでいき、剣岳は、赤い夕陽の照り返しを受けて、いつまでもそのくっきりとした山稜を見せていた。(写真下)
 おそらくは、私の夏山登山史上に残る、稀有(けう)と言ってもいい素晴らしい天気と展望の、一日だったのだ。
 この、日頃は哀れな年寄りのために、神様がふと目を留めて、ひと時の間ほほ笑んで下さったような、そんな一日だったのだ・・・。
 それが、明日も続けばいいのだけれども・・・。

 次回へと続く。