ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

「いづかたより来りて」 後立山連峰(1)

2015-08-04 20:43:18 | Weblog


 8月4日

 とうとう、山に行ってきた。
 台風崩れの温帯低気圧が、北に去るのを待って、もうその日に行くしかないという日に、私は九州の家を離れて、本州の山に向かった。
 空路ではなく、珍しく陸路伝いに新幹線(2年前の大山に行った時以来、’13.12,19の項参照)、中央線特急と普通電車に乗り継いで、信州大町に至り、そこで一晩泊まった。

 ヒザの痛みも残り、まだ確定していない天気への不安もあり、しかし夏山混雑時期を考えると、もうこの日以外に選択の余地はなかったのだ。
 そして、何としても、2年ぶりの北アルプスの山に登るつもりだった。
 その前から、今年も一つの長い縦走のコースを考えていたのだが、前回にも書いたように、6月終わりの大雪山の登山でヒザを痛めてしまったのだ。
 それでも何とかして山に行きたいから、そのヒザに負担をかけないように、ゴンドラ、リフトなどを使って上の方まであがり、なるべく短い距離で山小屋や山頂に登れるような所へと・・・白馬栂池(つがいけ)からの白馬岳(しろうまだけ)方面、白馬八方(はっぽう)尾根からの唐松岳方面、五竜遠見(ごりゅうとおみ)尾根からの五竜岳、あるいは新穂高(しんほたか)からの西穂高岳か、それとも観光客とともにバスで高所まで上がれる乗鞍岳か立山か。

 しかし、私には思いがあった。
 最近とみにも増して、登山体力の衰えを実感している私としては、昔から登ってきた思い出の山々に、”今生(こんじょう)の別れ”を告げるべく、今一度登りたいと思っていたのだ。
 去年は腰を痛めてどこにも行けなかったのだが、その前の年には北アルプス裏銀座コースからの黒部五郎岳(’13.8.16~26の項参照)、さらに前には南アルプス主脈縦走からの塩見岳(’12.7.31~8.16の項参照)など、いずれも天気と景観に恵まれて、もう思い残すことはないほどの素晴らしい山旅になっていたのだ。
 もちろん私には、日本の中にまだ登っていない山が幾つもあるけれども、それらはいつも言うように”百名山”などにこだわった山々ではなく、あくまでも自分の登りたい山々なのだが、しかし、それらの山々を差し置いても、私にはどうしても先に登りたい、その姿を眺めておきたい山々があるのだ、もう何度目かになる山々ばかりなのだが。

 まして7年前、私は、白馬(しろうま)岳から南下して鹿島槍ヶ岳からさらに先の針ノ木(はりのき)岳、蓮華(れんげ)岳へと続く、いわゆる後立山(うしろたてやま)連峰への三度目の縦走を試みたのだが、天気が悪く十分な展望を得られないまま、あきらめて唐松岳から八方尾根を下った苦い思い出がある。(’08.7.29~8.2の項参照)
 その再挑戦としての、今年の夏の全山縦走はもう無理だとしても、後立山の後半部分である、鹿島槍と五竜だけでもと、さらにこれもまた私の好きな山の一つである針ノ木岳を回ってのコースにすれば、今の私でも山小屋四泊で十分に歩けるはずだと考えていた。(若いころにはその四泊で白馬からの全山縦走ができたというのに。) 

 ところが、去年の腰の痛みに続いて今年はヒザと、まるで年寄りの病気の話のようでイヤなのだが、実際年寄りなのだから仕方ないとしても、ともかく心配な体の痛みをかかえているわけだから、いつでも途中から引き返して下りてこられるようなコースを考えなければいけないし、といってあの鹿島槍の雄姿を今一度、”冥途の土産(めいどのみやげ)”として目に焼き付けておきたいし、と考えて扇沢手前の柏原新道からのコースをとることにしたのだ。
 北アルプスでは、上にあげたゴンドラにロープウエイや高所まで上がるバスなどを使って、高い所まで行く以外は、普通には下の登山口から稜線に上がるまでには、おおむね数時間、あるいはそれ以上はかかるのだが、その中でも取り付きからの短い時間で登れるコースとして知られているのが、この柏原新道なのである。
 それは、コースタイムでもわずか4時間足らずで稜線の山小屋、種池山荘に着くことができるし、さらにほとんどの人の目的である鹿島槍までも、そこから4時間ほどで登れるから、北アルプスの一泊二日の人気コースの一つとして有名であり、若い歩きなれた人なら、日帰りする人もいるくらいなのだ。

 ともかく、途中でヒザの痛みがひどくなればすぐに引き返せばいいし、何とかがまんできれば種池の小屋泊まりで、翌日1時間ほどで登れる爺ヶ岳(じいがたけ)に行って、そこから鹿島槍の姿を見るだけでもいいし、さらにそれほどの心配がなければ、行程に余裕をもって鹿島槍、五竜に登って遠見尾根から下ればいいと考えたのだ。

 翌日、夜明け前に起きて外を見ると、山際から上には所々雲がかかっていた。5時前には宿を出て、駅前まで歩いて行った。
 扇沢までのバスはまだずっと後の時間だし、周りに同乗してくれる登山客の姿も見えないし、えーい、ここは大盤振る舞いだと覚悟を決めて、タクシーに一人で乗り込んだ。
 同年輩らしいタクシー運転手は、山に詳しいらしく、雲の切れ間から見える唐沢岳(からさわだけ、2632m)や鳴沢岳(なるさわだけ、2641m)までもちゃんと指摘してくれた。
 私はどちらの山にも登ってはいるが、こうした一般受けはしない隠れた名山を、ちゃんと知っているというのはうれしいではないか。
 聞くと神奈川の出身で、北アルプスの山々が見えるこの安曇野(あずみの)が好きで、30代のころにはこちらに移り住んで、ずっとタクシーを運転しているとのことだった。
 人それぞれの思い、そしてその人生も様々なのだ。

 30分ほどで、扇沢手前の柏原新道登山口に着く。
 余り広くはない駐車場は車でいっぱいで、数人の登山者が出発の準備をしていた。
 小さなテントが張られていて、登山カード提出係員のおじさんが、こんな早くから一人で立ち働いていた。
 木々の間から、青空の見える方向には岩小屋沢岳(2630m)から鳴沢岳にかけての稜線が続き、左手には木々の間から蓮華岳(2799m)の大きな山体も見えていた。

 5時半、急な山腹につけられたジグザグの道を登って行く。
 ヒザの心配もあり、ゆっくりとしかも足元をしっかり見て、たたらを踏んだりして余計な負担をかけぬように注意深く登って行った。 
 しかし、何といっても北アルプスの山だ。稜線や尾根は鋭く刻まれていて、その急坂を一気に登って高度を稼ぐ道になっていることが多いのだが、この道は新道と呼ばれるだけあって、登山者の負担にならないように、急勾配の少ないゆるやかな登り道が続いているのだ。
 最初のうちに、同年輩らしい夫婦とさらに先で私よりはずっと年上らしいお年寄りを抜いただけで、あとはもう全く早さの違う、競走馬で言う脚色(あしいろ)の違う若者たち何人にも抜かれてしまったが、それも当然のこと、私は今の自分にふさわしい歩みで、亀のようにのろのろと登って行けばいいのだ、何もあせることはない。
 ただ、この道の良いところは、南に下る森林帯の尾根の、主に西側につけられているから、夏山の時には、朝からの熱い日差しを浴びなくてすむし、その分涼しいということだ。

 その木々の間が切れて、斜め後ろ側には、針ノ木谷の雪渓を刻みつけて針ノ木岳(2821m)が、右にスバリ岳(2721m)を伴ってそびえ立っている。(写真上) ああ、北アルプスに来たのだと思う瞬間だ。
 時には尾根右手の日の当たる所を歩いたりもするが、おおむね左手斜面をたどって行き、やがて、今までのシラビソなどの木々からダケカンバの木が目立つようになってきて、行く手の稜線には種池の小屋が見え、小さな雪渓を横切り、最後の坂を上りきると、森林限界を越えた明るいお花畑の斜面に出る。
 雲は多いけれども、所々に日の当たっているお花畑には、あの小さな白い花をびっしりとつけたコバイケイソウの群落や、黄色のシナノキンバイ、ミヤマキンポウゲに、薄赤紫のハクサンフウロなどが咲いていて、背景には周りの雲の中から岩小屋沢岳の稜線だけが見えていた。(写真下)

 

 コースタイムよりは30分近くも余分にかかってしまったけれども、まずヒザがそれ以上痛まなかったことと、それほど息がきつくて足が疲れてというわけではなかったことで、何よりも一安心することができた。
 周りには、家族連れや夫婦や中高年仲間たちなど20人近くがにぎやかに話していて、私は、少しだけこの種池小屋のベンチで休んで、すぐに爺ヶ岳に向かって歩き始めた。

 前後には誰もいない、ハイマツの中に続くゆるやかな道をたどって行く。
 晴れていれば左手に、棒小屋沢の谷を隔てて、高度差1000m余りで、あの鹿島槍ヶ岳(2889m)がそびえ立っているのが見えるはずなのだが、その上部はすっかり雲に覆われていて、山の形さえ分からなかった。
 一人で下りてきた若者に、今日の鹿島槍山頂での天気模様を聞くと、朝早くには頂きだけが雲海の上に出ていたが、すぐに隠れてしまい、その前の日には雨も降って残念だったと言っていたが、”君は若い、また天気のいい時に来ればいい”と、偉そうなじじいらしい顔をして励ましてやった。よれよれ歩きで、励まされるべきは私の方なのに。
 ともあれ、今、前方に見える爺ヶ岳は、その南側を湧き上がる雲に洗われながらも、南峰、中央峰(2670m)、北峰と三つ並んで見えていた。(写真下)



 岩くずのジグザグ道をたどって、南峰の頂上に着くと、ここもにぎやかなグループに占められていて、一休みした後縦走路に戻り、今度は中央峰へと登り返すが、この頂きにも数人ほどがいて、外れたところに座って少し長めに休んだ。
 もう目的の冷池(つべたいけ)の小屋までは、1時間ほどで着くだろうから、急ぐこともなかったし、それよりも何とかして雲が取れて鹿島槍ヶ岳が見えてくれないものかと待っていたが、雲はそれ以上に減ることも増えることもなかった。
 急な斜面の下り口には、所々に紫のイワギキョウと、さわやかな乳白色のトウヤクリンドウの花が咲きはじめていたし、さらに下の方では、あのエーデルワスの仲間であるミネウスユキソウも咲いていた。(写真下)
 爺ヶ岳の下りの道を、反対側から登り返してくる人たちが何人もいた。霧に包まれて何も見えなかった鹿島槍への往復の道のりの後には、この登り返しはつらいことだろう。
 
 コルまで下って森林帯の中を少し登り返すと、そこには小さな池を前にして冷池山荘の小屋があった。
 今日の行程は、休みも含めて7時間半ほどで、確かに疲れはしたが、とにもかくにもヒザが痛み出すこともなく、ここまでもってくれたことがありがたかった。
 これでどうやら、明日へとつなぐことができそうだ。
 ここは、昔は暗くて古い小屋だったのだが、今ではすっかり明るい感じの小屋に建て替えられていた。
 さすがに夏山シーズンで混んではいたが、幅の狭い布団に一人とまずは十分だった。(さらに混み合えば、その狭い布団二枚に3人で寝るような、すし詰め状態になるのだろうが。)

 まだ1時過ぎで夕食までの長い時間があったが、その後で私の隣に来た二人連れの同年輩の人と、方言の言葉がきっかけで、いろいろなことを話し合った。
 企業城下町で、定年までを働いてきて、今こうして友達と山に登ることができるようになったこと、青春時代のアメリカのフォークソングの話から彼も聞くというクラシック音楽までの話などをして、それではとAKBの話を持ち出したのだが、やはり私の周りの友達と同じように、テレビに出ていたらチャンネル変えるとまでは言わなかったが、興味ないからと一蹴(いっしゅう)されてしまった。
 もちろん私は、ロリコン趣味のおやじというわけではなく、あくまでも秋元康の歌詞が良くて歌を聞きはじめ、今では元気な孫娘たちにいやされているとは言っておいたのだが。
 その後も、国際情勢から国内問題に至るまでの話をしたが、お互いに名前も知らない同士が、山小屋でたまたま隣同士の布団で寝ることになって、それを機にいろいろと語り合うなどということは、下界での日常の生活の中では考えられないことであり、その偶然の出会いは、しかし山登りのための山小屋泊まりという同じ目的のために集まった人々同士であり、だからこそひと時の間、心をゆるめて話し合える仲間になれるのかもしれない。
 
 夕方になって、何と雲が取れてきて、小屋の前から双耳峰(そうじほう)の鹿島槍の姿が見えてきて、泊まっている人々で黒山の人だかりになった。
 みんなは、こうして鹿島槍が見えただけでも大満足だと言ってはいたが、やはり明日の天気を期待しているのだ。

 翌日は、何と夜明け前からガスに包まれていて、何も見えなかった。
 それでも、ほとんどの人は鹿島槍を目指して出かけて行った。
 私は、今日はどのみち鹿島槍を越えたキレット小屋までの数時間足らずの行程だからと、しばらく待って見ることにしたが、ガランとした小屋に一人残っているのはどこかむなしい気がする。
 そこで、もしかしたらこのガスは低い雲で上空は晴れているのではないのかと思い、ようやく6時過ぎになって小屋を出た。
 そして途中のお花畑あたりから、何と青空が少しずつ見えてきたのだ。

 よしこれはいけると、喜び勇んで布引山(2683m)へのジグザグ斜面を登って行ったのだが、再び辺りはガスに包まれ、その布引山の高みを過ぎたあたりから、稜線は吹きつけるガスと雨になってしまった。
 すぐに雨具上下を取り出して着込み、再び歩き始めたのだが、すぐに立ち止まった。
 私は、何も雨の中を歩くために山に来たのではない。4度目になる鹿島槍の頂上を踏むために、そこからの展望を楽しむために来たのだ。それも、”今生(こんじょう)の見納め”になるべく覚悟をして来たのだ・・・。
 私は頂上へとあと30分余りの所で引き返すことにした。

 下りてくると、下の方では雨が降っていなくて、穏やかな白いガスに包まれたままだった。
 お花畑で花の写真を撮りながら、ゆっくりと戻ってきたが、小屋に着いたのはまだ8時半にもならなかった。
 そこで幾らか気にはなったが、すぐに連泊の手続くをすませて、しばらくして掃除がすんだ後の別の部屋に案内され、角の位置にある布団を割り当てられて、そこでしばらくひと眠りした。
 というのも、昨日、ものすごいいびきで部屋中の人たちを震撼(しんかん)とさせた人がいて、そのために眠られなかったからでもある。
 その後で、出入り口の登山者のための広い土間に下りると、ちょうど昨日隣同士で話した二人が戻って来ていて、やはり頂上は何も見えなかったが、これから種池の小屋まで行って、明日扇沢に下りるつもりだと言っていた。

 そうして山頂を往復した人たちが何人も戻ってきた後、彼らも帰るために出て行ってしまい、小屋は再び静かになって、私は談話室に行って、持ってきていた文庫本を読んだ。
 もう何度も折に触れて読んだ本であり、何を今さらとも思うが、言葉の響きと、言っていることの意味がそのまま心に入ってくる素直さで、何度も読み返したくなるのだ。
 ましてこんな山の上では、あまり深く考えるような本は頭に入らないし、かといって現実社会に引き戻されるような小説などもあまり読みたくはないし、だからということもあって、荷物にもならない薄い文庫本であるこの本を選んだのだ。

 「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来(きた)りて、いづかたへか去る。」

 (『方丈記』 鴨長明 岩波文庫)

 明日の天気予報も、さして好転する気配はなかった。
 高気圧の張り出しが少し弱く、そのふちを回って湿った空気が流れ込んでいるためらしかった。
 もし明日もこうした天気なら、鹿島槍はあきらめて、このままただ爺ヶ岳に登っただけで下りてしまうことになるのか、それとも計画を変えて、南下して、鳴沢岳から赤沢岳、スバリ岳、針ノ木岳へと向かうことにするか、私の思いは千路(ちじ)に乱れるばかり、ああ、私の鹿島槍ヶ岳は・・・。 

 次回に続く。


 

  


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