ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪渓と藪の中

2015-07-06 21:07:01 | Weblog



 7月6日

 もう一週間以上も前のことになるが、前回からの続きである。
 初夏の青空の下、咲き始めているだろう花たちと残雪の山を見るために、私は山に行ってきた。
 層雲峡からロープウエイとリフトを使って六合目まで上がり、そこから登山道を歩いて黒岳(1984m)に登り、なだらかな雲ノ平を通って北鎮岳(2244m)への最後の登りに差しかかったところで、辺り一面がガスに包まれてしまったのだ。

  それでも、下から見上げていた時にも時々雲がかかっていたから、ガスの中ということも覚悟はしていたのだが、むしろ辺りが乳白色に包まれた中を登って行くのは、暑い日差しを避けることにもなって、それほど落胆することでもなかった。
 もっともこれが、初めて登る山だとしたら、その頂上からの眺めが何よりも大切な私にとっては、このガスを恨み悔しがったことだろうが、もう何度も登っている山だし、そこからの展望も知り尽くしているから、さほどあわてることもなかったのだ。
 年寄りの歩みで、やっとのことで北鎮岳頂上に着いた。六合目登山口から休みも入れて4時間10分と、コースタイムよりは1時間も余分にかかっているが、まあ一カ月のブランクがあってのことだから、ここまで来ることができただけでも十分なのだ。
 若いころには、さらにこの先の鋸岳(2142m)を経て、比布岳(ぴっぷだけ、2197m)や安足間岳(あんたろまだけ、2194m)にまで足を伸ばしたものだし、あるいは御鉢(おはち)縦走路に戻って、間宮岳(2185m)に北海岳(2149m)と廻って黒岳に戻り、ぐるりと一周する元気があったのだが・・・と言って今を嘆くよりは、むしろ若いころにそんな遠くにまで行っておいてよかったと思うべきだろう。

 誰もいない頂上にひとり腰を下ろして、雲がとれるのを待った。
 頭上には青空が広がり、上川地方を覆う雲海が遠くにまで続いているのだが、すぐ近くにある旭岳(2290m)や比布岳は時折チラリと見えるだけで、完全に姿を見せることはなかった。
 惜しいかな、大雪の山々の標高があと100mほど高かったら、雲海の上に突き出たこの山の頂から、まるで島のように浮かんだ周りの山々を見ることができただろうにと思ってしまう。
 再び大きな雲の塊が押し寄せてきて、私はそれを機に30分余りいた頂上を後にした。

 ガスに包まれた斜面の所々には、キバナシャクナゲの他に、イワウメ、ミネズオウ、コメバツガザクラなどの小さな花たちが咲いていた。
 下りてきて、なだらかになった登山路のすぐ左手には、一面の雪渓が見えてきた。
 ただ残念なことに、まだガスがかかったままで、雪渓の先の様子が全く見えなくて、降りて行く方向がよく分からない。
 これでは、いきなりここから”尻セード”で滑り降りていくわけにはいかないし、それでも雪面に、かかとからけり込んでザクザクと降りて行くのは、これまた実に気分がいい。
 しかし、次第に勾配が急になってきて、その上に所々表面が凍って固くなった所があって、滑らないようにストックを雪面に差し込んでの三点支持で注意深く降りて行く。

 と、ガスが取れてきて、この雪渓の下に続く前景が見えてきた。方向も大体あっていたしと安心して、早速しゃがみこんで尻セードで滑って行く。
 雪の斜面もあっという間に通り過ぎ、立ち上がると、この雪渓支流末端の所から雪解け水が流れ出している水場の所で、辺りには咲き始めたばかりの色鮮やかなエゾコザクラの群落があった。(写真下)

 

 岩の上に腰を下ろして、ひと時の間、この残雪と青空とエゾコザクラの織り成す光景を楽しんだ。静かだった。
 私は、再び雪の上に立ち上がり、もう尻セードするほどの勾配もない雪面の上を歩いて行った。
 この雪渓はずっと続いていて、先の石室の小屋の下あたりに出ることができるのだが、何しろここはヒグマの通り道として知られていて、目撃例が後を絶たないし、その上もっと雪が多い時ならまだしも、雪渓からハイマツの藪をかき分けて上に出なければならないし、今の時期には高山植物も踏みつけてしまうことになるから、最後までこの雪渓をたどって降りて行くわけにはいかないのだ。
 雪渓上の足跡もすぐの所で、御鉢縦走路に戻っていて、私もその足跡に従った。
 まだまだ続くこの雪渓の先に、凌雲岳(りょううんだけ、2125m)から桂月岳(1938m)、そして黒岳と並んでいた。雲はそれらの山々の頂上辺りにかかったりとれたりしているだけで、午後になっても依然として青空が広がっていた。 (写真下)



 雪渓を利用して、山の登り下りに使うのは、歩きやすい路になって時間が短縮できるし、それ以上に雪面の開けた解放感が素晴らしいからでもあるが、しかし注意しないと、本来の登山道への出入口が分からなくなって、ハイマツやミヤマハンノキの藪につかまって、かえって時間がかかり体力を消耗することにもなる。

 そこで思い出したのは、芥川龍之介の『藪の中』という一編である。
 あの夏目漱石から激賞されるほどの、時代短編小説の名手でもあった彼は、日本の古典や漢文書籍に造詣(ぞうけい)が深く、この短編『藪の中』も、平安時代の『今昔物語』の中の一編をもとに書き上げられたものであり、他にも昔の物語に題材をとった多くの短編を残こしている。
 そして、映画史に残る名作『羅生門』(1950年)は、その『藪の中』の話をもとに、さらにもう一つの短編『羅生門』からの話を少しくわえて(本当は悲惨でおぞましい話なのだが、その部分はカットして)、黒沢明はこの映画を創り上げたのだ。

 私の敬愛する数少ない日本映画の監督の一人である、黒沢明の名作『七人の侍』(1954年)が、日本の映画史のみならず世界の映画史上にも名を残す不朽の名作であることに異論はないが、他にもう一つだけ黒沢の作品を挙げるとすれば、『羅生門』を置いて他にはない。
 ただし映画における、原作『羅生門』から取り入れた最初と最後のシーンが、少しくどくどしく思われなくもないが、ともかく中心になる映画のほとんどを占める原作『藪の中』からのシーンは、ある意味で時代を超えた本来の生々しい人間の性(さが)を見事に描き出している。
 つまり、前後に付け加えられた余分な人情表現とも思える羅生門でのシーンを除けば、というのは世界の名監督黒沢に対して、あまりにも畏(おそ)れ多い不遜(ふそん)な提言ではあるのだろうが、この映画が『藪の中』の部分だけで発表されていれば、間違いなく日本映画の、否世界の映画の中でも、私のベスト3の一つにも入れたいほどの完成度の高い作品になっていただろうにと思うのだ。

 前にもこの映画『羅生門』については、このブログでもたびたび触れたことがあるのだが、原作小説の確かな意匠を、見事に映像として具現化した映画の世界・・・三船敏郎、京マチ子、森雅之の三人の俳優の見事な演技、光と影をきらめくように画面に映し出した宮川和夫のカメラ、橋本忍と黒沢明による今の時代風に書き改められた脚本、あのラヴェルの「ボレロ」に似た単純なリズムを生かした早坂文雄による音楽、そしてそれらをまとめ上げ一編の映画にした黒沢明の驚くべき力量・・・。

 どうも好きな映画の話になると止まらなくなってしまうが、ここで取り上げたかったのは、山の雪渓のそばにあるハイマツなどの藪の話であり、そこから、小説『藪の中』そして、映画『羅生門』へとつながっていったのは、その時に口ずさんでいたAKBの歌から、ふと”ゆきりんスキャンダル事件”のことに思いが及んだからなのだ。
 この事件は、どうやら関係者の間で表ざたにされないように巧みに処理されて、当事者二人も不問のままに結局事件は”スルー”されてしまい、まさにファンたちから見れば、すべてが”藪の中”にあるような感じなのだろうと思ったからでもある。
 そこで考えついたのだが、この小説『藪の中』 あるいは映画『羅生門』になぞらえて、そして題名はあのアメリカ映画『いちご白書』(1970年)をまねて、『アイドル白書』として、映画が一本作れないだろうかと。

 それは、事件が芸能界三面記事的なものであるだけに、下手にのぞき見的な興味本位のことなどは入れずに、あくまでもインタヴューだけの映像で構成する、ドキュメンタリーふうな映画にしたい。
 まず最初に、二人の密会写真を掲載した週刊誌側の意図を聞くことから始まり、そしてそれによって事件を知った”ゆきりんオタ(おたくファン)”たちの様々な反応を取り上げていき、次に両者の事務所、AKB運営側とジャニーズ事務所の対応ぶり、そして本人たち二人へのインタヴュー、最後にはこの写真を撮った人物、あるいはその写真を週刊誌側に売った人物へのインタヴューを、黒い布に囲まれたボックスに座らせて声も変えて録音録画して、画面はそのまま次第に暗くフェードアウトしていって、終わりの文字が出る。

 あるいはこの事件を喜劇的に扱うのなら、最後にそれまでインタヴューを受けた人たちが全員、一人ずつあのアインシュタインのように舌を出した写真を、フラッシュ・バック風に(1988年の『シネマパラダイス』のラストのように)流して終わるという手もある。
 音楽は前編を通して、静かに小さく、あのハッヘルベルの「カノン」のメロディーが繰り返して流れる。
 そして、最後のクレジットロールには、インタヴューを受けてくれた人々や関係者の皆様への感謝の言葉が流れて、最後に監督の名前が・・・鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)・・・あら見てたのねー、お久しぶりね、あなたに会うなんて・・・もう何が何やら、何を書いているのやら。

 ヒマな年寄りが考える、とんだ白日夢のお話でした。
 せっかく、久しぶりに山に登って、残雪に花々の光景を心ゆくまで味わっているというのに、AKBの話なんて、このふとどき者めがと言われそうで、はいすいません。

 さて縦走路に上がって、再び朝たどってきた道を戻って行く。
 同じ道でも、行きと帰りでは見え方が違っていて、あらためて写真を撮り直したりもする。
 今の時期の大雪山といえば、大体は高原温泉登山口からの、緑岳(2020m)から小泉岳(2158m)のなだらかな尾根道を歩くことが多いのだが(’14.6.30,7.8の項参照)、確かにそこは高山植物の種類も数も多いから、たとえば青や紫の花のホソバウルップソウやエゾオヤマノエンドウ、黄色のキバナシオガマ、赤いエゾツツジに白いチョウノスケソウなど、彩(いろど)りも鮮やかで、どうしてもあの花々を見るためにと足が向いてしまうのだ。
 今回は、久しぶりの登山ということもあって無理しないで、すぐに戻れるロープウエイからの道を選んだわけであり、花の種類が少ないのも分かっていたからこの程度でいいとしても、ともかくいたるところで見かけたキバナシャクナゲの群落は、確かに見ごたえのあるものだった。
 そして、他に目を引いたのが、エゾノツガザクラの小さなひと塊りだ。(写真下)



 本州の山では、同種のアオノツガザクラだけしか見られないだけに、この北海道固有のエゾノツガザクラは、お花畑にまた別の鮮やかな色彩りを加えてくれる。
 大雪の山では、他にもこの写真の数倍もあるような、大きな広がりを持ったエゾノツガザクラの群落を見ることもあるのだ。

 雲ノ平の縦走路を戻って行く所で、これからおそらくは御鉢展望台まで行くのだろう老年のご夫婦と、ドイツ語らしい言葉で話していた若い二人の外国人にすれ違った。
 昔はそれほど外国人に会うことはなかったのだが、最近では大雪の山に登るたびに、何人もの外国人と会うことが多く、実に結構なことだと思う。”若いうちに旅をすることはいいことだ”と、年寄りはひとり言するのだった。
 
 さて、もうバテバテの足でやっとのことで黒岳へと登り返しで山頂に着くころには、再び辺りはガスに包まれてしまい、休息もそこそこに山頂から降りて行くことにした。
 まだまだ三々五々に登ってくる人もいるが、何しろ朝にはなかった雪どけのぬかるみがあちこちに増えていて、それだけでも神経を使って疲れてしまう。
 ようやく、登山口のリフト乗り場に戻ってきたが、今日の行程は7時間半ほどで、年寄りにはいっぱいいっぱいの時間だった。
 
 ロープウエイに乗り継ぎ、層雲峡の駐車場に戻ってきたが、これからまだ遠い所にある家まで帰らなければならない(どこかで1泊すればよかったのだが)。
 そこで、いつものようにこの層雲峡の温泉に入ることもなく、さらに久しぶりに会うべく友達の家に寄って行くこともあきらめて、ただ途中の糠平の店で、”あずきアイスキャンディー”2本を買って、それをなめながらやっとのことで、暗くになってしまう前に家に帰り着くことができたのだ。
 というのも、最近歳のせいか夜道が少し見えにくくなったようで、夜にはあまり運転したくないのだ。年寄りは、夜はおとなしく家にいて、AKBの娘たちが歌うのを見ているに限るのだ。

 ところで、最近立て続けにそれぞれの放送局による長時間の歌番組があって、ともかく全部録画しておいて、後でAKBグループの歌っているところだけを編集してまとめ、後々繰り返し見ては楽しむことにしている。
 ワー、キャー、かわいいーと思いつつテレビを見ていると、じじいのくせに、おまえはアホかと言われるのかもしれないが。
 そして、総選挙後の新たな序列による新曲が初披露された。「ハロウィン・ナイト」。
 あきらかに、一昔前に流行って誰もが知っているようなディスコ調のダンス・ナンバーであり、AKBファンよりは一般受けを狙ったような感じで、それなりに悪くはないと思うのだが、やはり秋元康の詩には期待していた分、今回は少し物足りなく思ってしまう。
 ただし、あのゴテゴテしたハロウィンの衣装は、あの名曲「UZA(うざ)」以来のものであり、少女集団のAKBから”おねえさま”集団のAKBに変わったようで、なかなかに見栄えがするし、何よりもセンターに立つ”さしこさま”の女王然とした風格はどうだろう。
 2年前に、初めて1位になり、初センターで歌った「恋するフォーチュンクッキー」の時の、少しおどおどしていた様子と比べると、えらい違いだ。
 ”地位は、人を作る”のたとえ通りに。
 
 ところで、一方では・・・先日、フジテレビの『ザ・ノンフィクション』で”AKB48と日本人、圏外の少女たち”というタイトルで、AKBの中堅メンバーの二人に焦点を当てた、ドキュメンタリー番組が放送されていた。
 私はその後になって、ネットの書き込みでその番組を知ったのだが、何とか見てみたいと思って調べてみるとやはりYouTubeに録画されていて、パソコン画面で見たのだが、いつしか引き込まれて最後には思わず涙してしまうような、普通は見られない視点からAKBの一面をとらえた、なかなかに見事なドキュメンタリーだった。

 今度の総選挙では、再び1位に返り咲いた指原梨乃の喜びの涙はともかく、歌番組などのテレビ出演ができる、メディア選抜と呼ばれる16位までに入ることがメンバーの子たちの夢であり、さらにはその前に80位までが発表されるのだが、それぞれに名前を呼ばれてその総選挙の舞台でスピーチができるだけでも、やっとのことでランクインできた彼女たちにとっては、まさに涙、涙の瞬間なのだ。
 しかし、300名近いAKBグループのメンバーたちの中で、名前を呼ばれるのは80人まで、残りの7割の子たちは、いわゆる”圏外”となって悔し涙にくれるほかはないのだ。
 もっとも、まだ若いうちはまだ次の年があるからと夢を持てるのだろうが、20歳前後になってしまえばAKB内での自分の立ち位置も分かり、将来への大きなジャンプアップなど到底無理なことだと思うようになる。
 まして、この番組で取り上げられていた島田晴香と中村万里子の二人は、AKB9期の同期生であり(同じ同期には”ぱるる”島崎遙香と次期総監督の横山由依といういつも上位にランクされる二人がいる)、彼女たちはたまにはテレビのバラエティー番組にも出ていて、一般にも少しは知られてはいるのだが、総選挙での”圏外”のレッテルは何ともつらいことなのだ。
 思わず彼女が漏らした一言、「私は、アイドルといえるのだろうか」・・・余りにもせつない言葉だ。

 しかし、そんな彼女たちにも、ファンがついているのだ。圏外の彼女たちを、変わらずに”推しメン(メンバー)”にしているいわゆる”オタ(オタク)”たちであり、彼らはなけなしの金をつぎ込んで投票券付きのCDを何枚も買っては、何とか彼女たちをランクインさせるべく努力しているのだ。
 妻と離婚して、ひとりで働いているという40代の男の顔には、自分の決めたものに、ひたすらにかかわり続けていくのだという、むしろある種の潔(いさぎよ)い誇りの表情さえ浮かんでいた。
 一方で、ただ孫娘たちの姿をテレビで見ているだけの、ぐうたらなジジイとの何たる違い。
 それでも言わせてもらえるならば、残り少ない人生の中で、もう今ではできることの配分が決まっていて、AKBだけにそう力を入れることもできないし、他にも山登りをはじめとして、やりたいことがいろいろとあるからであり、AKBだけにそう時間を割くこともできないのだ。
 だから、今の私には、小さな息抜きと安らぎのためにもAKBは必要だし、それくらいでちょうどいいとも思っているのだ。 

 ともかく以上のように、久しぶりに山登りに行ったのに、風呂にも入らずに汗まみれの体で家に戻ったので、さっそくお湯を沸かして頭を洗い体を拭いて、幾らかさっぱりして眠りにつくことはできたのだが。
 しかし、やはり風呂に入り温かいお湯で疲れをほぐし、そこで脚マッサージをすることもなかったので、結果、翌日から、三日間、小さな段差にさえ苦労するほどの、まして階段の上り下りでは声を上げるほどの、ひどい筋肉痛に悩まされることになったのだ。
 ”年寄りの冷や水”にならぬためには、日ごろからの小さな積み重ねの鍛錬(たんれん)が必要なのだが、はたして次の山行へは・・・。

 女子サッカー”なでしこジャパン”・・・戦後間もない日本を描いたジョン・ダワー著作のタイトル、”敗北を抱きしめて”・・・前回のW杯でアメリカ・チームがそうであったように・・・。 

  


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