ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

クチナシの白い花と色あせた花

2015-07-27 20:55:25 | Weblog



 7月27日

 いまだに家にいて、ただじりじりとした思いで、待っているのだが。 
 本当の天気の続く夏空と、ヒザの痛みの回復を待って。
 しかし、いずれとも思わしくはない。

 関東、甲信に続いて、さらにはその後の北陸地方も含めての梅雨明け宣言だったのに、下界では猛暑日が続いても、山上の天気は晴れた日ばかりではないのだ。
 その上に、先週に続いてまた台風がやってきて、直撃したわけではないが、その余波で天気もまた影響を受けることになり、まだまだ安定した太平洋高気圧の下の青空ということにはなりそうにもないし。
 こうした、短い周期の天気変化に、今一歩の踏ん切りがつかずにいるのだ。
 私が、夏に遠征登山に登山に出かけるのは、何よりも梅雨明け後の”梅雨明け十日”といわれる、天気の安定した日々をねらってのことなのだ。
 何よりも静かな山旅を好む私が、こんな夏山シーズンのさ中に、縦走路や小屋が登山者で混雑する時に、あえて出かけて行くのは、ただただ晴れた日の山々を見たいがためなのだ。
 さらに言えば、その上に寄る年波で体のあちこちに心配なところが出てくる、今ならばなおさらのこと、今回で、もうこの山の見納めになるかもしれないという思いが強くなってきて、年寄りの疑り深い慎重さで、何事も決められないまま、今回も、ぐずぐずと時間だけが過ぎていくというパターンになっているのだ。
 
 去年の今頃は、腰を痛めていて、長い間続けてきた夏の遠征登山を止めてしまう羽目になり、山登りが好きな私としてみれば、どこにも行かなかった夏山シーズンは、まさに屈辱の”一敗地にまみれた”年になったのだが(’14.7.28の項参照)、今年もまた同じように、ヒザと天気のために山をあきらめることになれば、いよいよ”ダルマさんが転んだ”の世界と同じ、手も足も出ない状態で山にも登れずに、これから先も生きていかなければならないのかとさえ思ってしまうのだ。
 まだまだ、日本各地には登りたい山見たい山が幾つも残っているというのに・・・。
 しかし、今から嘆くのも馬鹿げているし、まあそうなった時に考えればいいだけの話で、むしろここまで長年にわたって、わがままいっぱいに様々な山に登ってこられただけでも幸せなことだったし、むしろそうした自分の幸運に感謝すべきなのだろう。

 ところで先日、何気なく見ていたテレビのバラエティー番組の中で、最近近隣住民に大きな迷惑をかけては問題になっている、あのいわゆる”ゴミ屋敷”について、その当の本人は罪の意識などなく、心理学的に言えば、”喪失感や孤独感を埋めるために行っている代替(だいたい)行為”だとコメントされていたのだが、それを聞いて他人事ならずに、少しドキリとした。
 もちろん私は、きれい好きな方であり、部屋の中が散らかっていることはもちろんのこと、食事後の食器が洗い場に残っていることさえ嫌なくらいだから、そうした”ゴミ屋敷”になる心配はないのだろうが、足りないものを埋めるための収集癖という言葉が浮かんできて、それには少なからず思いあたるふしがあったからだ。

 思えば、若いころの身勝手な思いや振る舞いで、周りの人たちに特に彼女たちにどれほど多くの迷惑をかけてきたことだろうか、結局今になってそれらはすべて報いとなって自分の身にふりかかってきているようなものだが、特に3年前にミャオに死なれててしまって以降、ひとりになった私が、今まで以上に自分の趣味に熱を入れるようになったのは、ひとえにそのなくしたものの大きさに気づき、飢餓(きが)感をまぎらわせるために、それらの代替物で何とか満たされたような気分になっていたのかもしれない。
 山登り、写真、本、絵画、クラッシック音楽、様々な分野のテレビ録画、そして思えばミャオがいなくなったころから始まったAKB熱、そのテレビ出演を録画記録したブルーレイ・ディスクの数々・・・。
 そういうことなのだ、私の心の奥深くにあるものの”代替物”としての、私だけの”コレクション”を作り上げてきたのだ。
 もちろんそれらは、誰かに迷惑をかけて集めたものではなく、ただ自分のできる範囲内で、少しずつ集めてきたものであり、他人にとってはあまり意味のないものであり、私の死とともに、それらの”コレクション”は意味を失い、瓦解(がかい)し雲散霧消(うんさんむしょう)していくだけのものにすぎないのだろうが。

 考えるに、人は自分が求めていたものが得られない時には、あきらめるか、それともその代わりになるものを探し出し、そこにかなえられなかった分だけの思いを注ぐことになるのだろう。
 それは、今までにもこのブログで、自己心理分析を試みる際に何度も取り上げてきたことなのだが、つまりはあのフロイトの精神分析における”転移感情”そのものであり、 さらに言い換えれば、これまたアドラーの心理学における”代償行為”、つまり”劣等性の補償そのものの行動”と同じことを意味しているのかもしれない。
 さらに詳しくと、ネットで調べてみると、いわゆる”ゴミ屋敷”問題を引き起こす人たちは、強迫性貯蔵症(ホーディング)やストレスによって引き起こされた統合失調症などの、精神疾患にかかっているのだとされていた。

 こうした人々を単純に、精神的な病だと決めつけてしまうのもまた危険な気もするが、それはつまり普通の生活を送っているように見える私たちでさえ、それぞれに思い通りにならない様々なストレスを抱えながらも、自分なりに代替物となるべきものへの転移感情を持ち、あるいは代償行為によって切り抜けているのであって、誰もが体の中に、大なり小なりのがん細胞を知らず知らずのうちに抱えているように、私たちはいつも幾つもの精神疾患の種になるものを持っているものなのだ。

 ただその中の一つが、今の時代に顕在化(けんざいか)しただけのことであり、近隣住民を巻き込んでの”ゴミ屋敷”問題も、それもまた私たち社会が作り上げてきたものに内在する”ひずみ”への、警告のサインなのかもしれない。
 それは、いわゆる”ごみ屋敷”があるのは町中だけであって、一戸一戸が離れた田舎にはないということでもあるのだが。
 つまり田舎に住む私の家は、私の性格もあって、おそらく”ゴミ屋敷”化することはないだろうが、 しかし何と言っても”じじいのわび住まい”、ゴミ以前に、誰もが近づきがたい”じじむさい”たたずまいであることは言うまでもないことだが。

 そのじじいが、最近、前にもましてはまっているのが、ネット上のAKBファンたちの情報サイトを見ることであり、今やこの私めが、まさに”病膏盲(やまいこうもう)に入る”というほどに夢中になっているのだ。書き込みなどはしないし、ただ見るだけなのだが。
 それらのサイトを見ることによって、テレビの歌番組やネットのニュース記事だけでは分からない、AKBグループ・メンバーたちの最近の動向を知ることができるし、さらにはそこに書き込まれた、”おたく”ファンたちの様々な意見が面白く、よく言えば百家争鳴(ひゃっかそうめい)、悪く言えば玉(ぎょく)の少ない石ころだらけの、玉石混交(ぎょくせきこんこう)のありさまなのだが、AKBファンにとっては、ひとときの無聊(ぶりょう)を慰めるには、またとないサイトであると言えるだろう。

 その中から最近のエピソードを二点。
 一つは、先日の東京は隅田川での花火大会で、AKB選抜他の16人の面々が(多くはゆかた姿で)、チャーターした船の後部デッキで集合して写っている写真であり、さらにメンバーそれぞれのツィッターなどでは、他の写真と一緒に楽しかったという言葉が書き込まれていた。
 それは、私にとっては今ではもう顔なじみのようなAKBの娘さんたちが、みんなで楽しそうに笑って写っている写真であり、もちろんこれもまた何かの撮影の合間のひとときに撮られたものだろうが、テレビの歌番組などで見せる笑顔とは違ったほほえましい気持ちにさせてくれるいい雰囲気の写真であり、思わずその写真を自分のパソコンに取り込んで保存したほどなのだ。

 そしてそれに続く、”おたく”ファンたちの書き込みも、”楽しんでいる皆がかわいいし、見ていてこちらもいやされる”と、あたたかい反応の言葉が多くて、それを読んでいる私もまた楽しい気分になっていたのだが、途中から、例の”アンチ”と呼ばれる、特定の子だけを推す”おたく”ファンたちからの、他の子に対する悪口の書き込みが始まって、またそれに対する応酬があって、もうそこからは不快な気分にさせられるだけになってしまったのだ。
 前にも、こうした行き過ぎた”おたく”ファンたちの書き込みが、余りにもひどすぎるとここでも書いたことがあるのだが、相変わらず後を絶たないのが現状なのだ。
 ここはAKBファンの情報サイトであり、特定の子だけをほめたたえ、他の子をけなし悪口を書きたてるというサイトではないし、そうしたAKBファンではない者への書き込みができないようにできないものかとも思うが、そこは現代の民主主義国家の日本であり、言論の自由は守られるべきものなのだろうが・・・。 
 
 もう一枚は、楽屋でメンバー同士がふざけ合っている写真をもう一人のメンバーが写したもので、さながら若い娘たちの教室でのおふざけ遊びのようで、思わず吹き出してしまった。
 一番年上の加藤玲奈(れな)が、後輩のバラエティー・キャラの西野未姫(みき)をつかまえて、両手で変顔にさせて笑い、それを向井地美音(むかいちみおん)が3枚続けて撮っているのだが、それは写真的に見ても見事なスナップ・ショットだった。
 ちなみに”かとれな”は歌番組などで選抜にも選ばれる、次世代候補の一人であり、”みき”はお笑いキャラとはじけたダンスで人気の子であり、”みーおん”は大島優子の後継者と言われるほどの、これまた次世代候補の一人である。
 しかしこの西野は、そのキャラが注目されて、先々週の”AKB48SHOW” では、特別にそのダンスを披露するコーナーまでもが設けられていて、今回の総選挙ではランクインできなかった”みき”だが、どこに幸運が潜んでいるのかはわからないものだ。

 そして、この時の”AKB48SHOW”では、AKBの7人とNMBの4人がそれぞれスタジオで歌っていたのだが、余りにも歴然とした歌唱力の差があることを思い知らされたのだ。
 今までこの”AKB48SHOW”では、様々なユニット組み合わせでのスタジオ・ライブが収録されていて、その中には、さすがの私が録画するのを中断するほどにひどい歌の時もあって、特に若いメンバーによるものが多かったのだが、今回のAKBユニットでは、AKBから新しく作られる新潟のNGTに、新キャプテンとして移籍する北原里英を送別する意味も含めて、「Choose me!(私を選んで)」という歌にしたのだろうが、ともかく出だしから、彼女たちの歌のキーが、演奏されている音楽のキーに合っていなくて、最後までそのまま調子はずれの歌を聞かされて、私でさえ、あの”おたく”たちがよく使う”放送事故”ではないのかと思ったほどだ。
 この時のメンバーは、北原の他には、1期の峯岸、次期総監督の横山にAKB次世代を代表する、高橋、小嶋、向井地、大和田という、上位ランクインのメンバーたちによる組み合わせだっただけに、確かに一般人が”AKBは歌が下手だから”と言うのも否定できないと思ったくらいだ。

 この歌い方を、リハーサルの時に気づかなかったのだろうか。AKBのボイス・トレーニングや歌唱指導する体制はどうなっているのだろうか。
 せっかく有能なプロデューサー兼作詞家の秋元康がいて、取り揃えた作曲家陣の顔ぶれに、衣装の”しのぶ”総支配人など舞台裏のスタッフたちがいるのに、極端に言えばなんら進歩のないAKBの歌唱力に、ファンである私でさえ、アイドルだから許されるというレベルではないと思ってしまうのだ。
 
 その一方で、眼を開かれた思いがしたのは、この時の最後に歌われたMNBの4人ユニットによる、「この世界が雪の中に埋もれる前に」 である。
 私は、この歌も知らなかったし、一人を除いて、その名前も顔も分からなかったし、唯一見覚えのある顔の子も、画面にその名前が出てようやく思い出したほどである。
 しかしその子、岸野里香がソロで歌いだした瞬間、その声量のあるなめらかな歌声に魅了されてしまった。
 その彼女の歌う一節が終わった後は、他のメンバーたちそれぞれにソロで歌い継いでいって、その中では何とちゃんとハモっている所もあって、私は、NMBでは前列で歌っている何人かしか知らないのにと、その彼女たちの歌唱力にあらためて感心したのだった。
 本店AKBと大阪支店のNMBとの差を、考えないわけにはいかなかった。
 
 さて話を元に戻して、私がこれらの情報サイトを見たくなるのは、確かに見るのも嫌な悪口の書き込みがある反面、時にはきらりと光るユーモアや、なるほどと思わせる知識あふれた書き込みがあるからである。(6月15日追記2の項参照)
 たとえば、今度のNMBの新曲「ドリアン少年」で、センターに選ばれた須藤凛々花(りりか)は高校時代全校一の成績だったというほどの才女だったらしくて、愛読書はあのニーチェの『悲劇の誕生』だと答えて、将来の夢は哲学者だとさえ言っているほどだが、それはキャッチコピーにすぎないとしても、今までにはなかったAKBの知識キャラであり、結構な知識人のおじさんが多いAKBの”おたく”ファンがほっておくはずもなく、これらのサイト上で、ニーチェについてなどの論争が書き込まれたほどだった。
 このことについては、また別の機会に改めて書くことにして、ともかく最初は、余りにも”おたく”同士のののしり合い的な書き込みが多く、多少とも辟易(へきえき)していた私だが、こうして実りの多い情報や論争などを知ることができることもあって、石ころだけの中の玉(ぎょく)を見つける喜びがあることも知ったのだ。
 

 晴れた日が二日続いた後、台風の影響による雨や曇り空が続いているが、この後の天気はどうなるのだろうか。
 庭には、いつもこの時期に咲く白いクチナシの花が、あたりにかぐわしい香りを漂わせながら、次々に咲いては、色あせ枯れ落ちていく、その対照的な二輪・・・。(写真上)