ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

草山に吹く風

2015-07-20 20:43:16 | Weblog



 7月20日

 数日前、それは台風が来る前のことだったのだけれども、こちらに戻ってきてようやく初めて、朝から快晴の空が広がっていた。
 朝の青空、緑の林、風吹きわたる稜線・・・と思いをめぐらせると、もう、山に行かないわけにはいかないのだ。
 かと言って、クルマに乗ってまで出かけて行くほどではないし、何より午後からは町に出かける用事もあり、だから午前中までには戻ってきたいし、そこでいつものように、家から歩いて登れる山に行くことにした。
 今までに、数十回は登っているだろう、この小さな草山・・・下に広がる、スギの植林地と照葉樹の森林帯を抜ければ、頂上付近の稜線だけがカヤとススキの草山になっていて、展望が開けているのだ。

 今までに何度も書いてきたように、私が山に登るのは頂上からの眺めを楽しみたいからであり、だから頂上が木々に覆われて展望のきかない山には登りたくないし、さらには頂上に電波塔などの建築物があるだけでも、大切な自然環境が損なわれるようで、これまた余り登りたくはないのだ。
 さらに付け加えれば、登山者が少ないこと、できるならば誰とも出会わないことの方が望ましいくらいなのだ。
 と言うのも、あのモリエールの『人間ぎらい』の中で描かれているような、人づきあいのわずらわしさがイヤになってとか言うのではなくて、むしろ人と話すのは好きな方なのだが、それでも自然の中にいるときには、その人気(ひとけ)のない静謐(せいひつ)なたたずまいを、目と耳で静かに楽しみたいと思っているからだ。

 その昔、アメリカの地理学者センプルが言ったように、”私たちは地球を母として生まれたその子供である”から、時には自分たちが作り上げてきた、このごたごたとした物に溢れた世界から離れて、限りなく豊かに広がる母の胸の中に帰り、そこで憩うべきなのだろうと思うのだ。自分の本性の出自(しゅつじ)を知るためにも。 

 と、まあごたいそうな理屈を書いては見たもの、本当のところは、持って生まれた性情と子供のころからのさまざまな自然体験が、私を山好きにしただけのことで、それはたとえば、”何代も続く江戸っ子の家に生まれてここにずっと住んでいるから、東京から離れた田舎で暮らすなんて考えられないし、祭りが近づくと、無性に御輿(みこし)をかつぎたくなるんだ”、と言う人の思いと何ら変わることはないのだろう。

 そういえば、前回書いたAKBの”まゆゆ”渡辺麻友を取り上げたドキュメンタリー番組『情熱大陸』の一場面で、彼女が道を歩いている時に、一匹の虫が飛んできて、”まゆゆ”はキャーと叫んで手で払いのけて、”わたし虫がキライなんです”と言っていた。
 都会育ちの彼女にとって、田舎や自然などは、落ち着いて日々暮らすことのできる町中とは違う、慣れていない別の世界なのだ。
 といって、このシーンを見て、私は”まゆゆ”を嫌いになったわけではない。
 AKBの中でも、変わらずに孤高のアイドル・スタイルを通し続けている、”まゆゆ”の姿勢は立派だし、歌声もすずやかで、顔つきも最近は大人の美人風になってきたし、ただ総選挙で3位に下がり、初主演のテレビドラマの評判がいまいちだったからと言っても、AKBの中では他に代えがたい大切なメンバーの一人であることに変わりはないのだ。 

 つまり、ことほど左様に人間の好みとその思いは様々であり、それらをすべてひとまとめにして成り立っているのが、今の社会であり、国家であり、この世界ということなのだろう。
 昔のように、一個人の独裁者的な考え方や価値観だけに、すべての人々がなびき従うことなどありえない時代なのだし、すべての異質なものを含めての妥協点を見つけることで、今の現代社会は成り立っているということなのだろう。(狂気のイスラム原理主義の台頭は、また別の問題として。) 
 そういうことで今思うのは、最近のギリシア債務危機に対して、EC、ヨーロッパ議会参加諸国が互いに粘り強く討議を重ねて、不十分ではあるが、ともかくの妥協点を見出したことである。もちろん、まだこれから先にも難問が山積みではあるが。
 (同じことが、イラン核開発問題についての長期にわたる国際会議においても言えることなのだが。)

 今回のギリシア問題については、もとより多民族からなるヨーロッパの国々は、さらに一つの国の中にさえ、本来の都市国家的地域割りがあり、それらの二重三重にも及ぶ複合集合体でからできていて、一見、統合不可能的なモザイク民族集団なのに、何としてもユーロ圏内の経済的混乱を避けるためにという共通益をもとに、最大の債務国ドイツの不満を抑えつつも、ギリシア援助の方針を打ち出したのだが、その長期の交渉会議の過程における、それぞれの国の忍耐強い努力を見ていると、”ヨーロッパという旗のもとに”という思いを強く感じるのだ。

 もちろんそこに至るまでには、ヨーロッパ諸国間での何度もの戦争が繰り返され、いやと言うほどに破壊と混乱の辛酸(しんさん)な経験をなめ尽くしてきているがゆえに、そうした長い歴史からの教訓を学び取ってきたのだろうが・・・あの昔の映画『会議は踊る』(1934年)では、ある意味華やかな貴族社会のルールに従って、第1次大戦後の各国間の処理交渉が描かれていたのだが、そこでは、ダンスと食事のパーティーに打ち興じての、”会議は踊る”だけのように見えて、実はそれぞれの国が適当な”落としどころ”を探りつつ、時間をかけたうえでの合意点を見つけるべく、それぞれに画策していたのだろう。

 その時代において大切なことは、お互いに紳士としての威厳を保ちつつ、ルールにのっとって信頼して話し合うことだったのだろう。
 今の世界における、さまざまな国同士での敵対関係と混乱は、昔は単純な特権階級同士の話し合いですんだことが、今ではすべての階層を代表する国々から成り立っているから、なかなかまとまるはずもなく、昔あったような最低限度の信頼よりはお互いの疑いの方が先に立っていて、これ以上話し合っても無意味だと打ち切られることになるのか・・・。
 それでも、昔に比べれば、今では多くの人が世界の国々をひんぱんに行き交うようになっているから、その意味からも”世界は一つ”の理想へと近づいているのだという気もするのだが。
 そこに、たとえ根深い対立や、誤解と憎しみが限りなく残っていたとしても、未来への小さな光が見えるような・・・。 

 山に登る時には誰とも会わない方がいいという話から、またも横道に大きくそれてしまったが、ともかく、世界の大多数の人々が都会に住む生活を好むとしても、私は、今さら町の中に住むことはできないし、こうして田舎に住んでいても、なおかつ時には、大自然そのものである山の、内ふところに包まれていたいと思うのだ。

 さてそうして、いつもの山に登ることにしたのだが、最近ではすっかり私のメイン・ルートになってしまったと言うよりは、今ではもうここだけしか残っていない北尾根への道をたどることにした。
 というのも、この山には、かつて下のそれぞれの集落から3本の道がつけられていたのだが、そのうちの一つは、もう道を探すのが困難なくらいに草に埋もれた廃道になっているし、もう一つの正面道も、今では所によってはササが両側から生い茂り、ヤブこぎかき分けて行かなければならないほどで、早晩、同じような廃道になるのだろう。

 そんな中で、残された一本の登山道だが、もっとも、冬にたどった時には降り積もった雪で道から外れてしまい、最後はやぶの斜面を登ることになったのだが、もともと低い山だし地形も十分に分かっているし、天気のいい日にしか登らない私だから、心配するほどでもなく、むしろそこには予想外の素晴らしい雪の景観が待っていたのだ。(1月5日の項参照)
 ともかく、今は、夏の緑濃い森林帯をゆるやかに登って行くだけなのだが、木々の間をたどる道には、鮮やかな光と影の陰影が映し出されていた。
 下草のササが草のように低く生えていて、ここではどこでも歩いて行けるほどだ。
 ひと登りして、カヤとススキの草原の稜線に出ると、ここからは、気持ちの良い尾根歩きになる。
 ただ残念なことに、朝早く下にたなびいていた雲が上がってきて、時々周りの景色を隠したけれども、もちろん一時的なものでしかなく、それ以上に尾根歩きの涼しい風が心地よかった。
 2時間余りで頂上に着いたが、周りは半ばガスにつつまれていて、午後からの用事もあることだし、わずか5分ほど休んだだけで頂上を後にした。

 夏色の鮮やかな草尾根が、風に揺れていた。(写真上)
 山にいることの喜びを味わう一瞬だ。
 さらに下っていくと、行きに見逃していた紫のノハナショウブが一輪だけ、周りのササのやぶの中から伸び上がり、太陽の光をいっぱいに浴びるように咲いていた。(写真下)
 




 周りに他の花があるわけでもなく、ただ一輪だけ咲いている花。
 風に吹き飛ばされて、あるいは鳥や獣たちによってこんな山の上にまで運ばれてきた種子が、そこで根を下ろし、ひとり花をつけたのだ。
 周りに交配できる同じ仲間の花粉もなく、それでも営々と続いてきた花の本能で、ただひとりでも生きていくたくましさ・・・何かにつけて、教えられることが多い自然の世界、それを見習うことができるのかどうかは、別として。 

 さらには、行きに見ていたアザミの花に、チョウが二匹とまっていた。
 別に珍しくもないウラギンヒョウモンなのだが、緑の草の中にひときわ目立つアザミの花があり、そこに鮮やかなだいだい色のチョウの羽があって、思わず足を止めたのだ。(写真下)
 
 今回は、いつもの尾根別れをする表登山道から下らずに、そこは急な下りがある上にササやぶがひどく、かき分けて行かなければならないから、行きと同じ道を戻ることにした。
 というのも、今回の登山は、梅雨明け後の遠征登山を予定していて、そのための足慣らしでもあったのだが、実は前回の大雪山への登山で、黒岳からの下りを急いだために少し左ヒザを痛めてしまい(7月6日の項参照)、その痛みがいまだにあって、そんな状態で山に登れるかどうかを確かめるためでもあったのだ。
 そして、確かにこうして、山を登り下りすることはできたのだが、片方のヒザをかばいながらの下りはさすがにつらいし、こんな状態で、長時間の登り下りがある高い山になど登れるだろうかと考え込んでしまったのだ。

 そして、今日現在でも、まだ違和感が残っている。
 これでは、長期間の縦走の山旅は無理だろうし、それでも山には行きたいし、一日だけの小屋泊まりで、すぐに戻れるような山に行くしかないのかと思っているのだが。
 去年は、腰を痛めて遠征登山自体を実行に移せなかったし、今年もヒザを痛めてあきらめるしかないのか・・・とうとうこの山好きジジイも、もう終わりなのか・・・考えれば、そりゃそうだろうよ、今までさんざん身近な人たちには迷惑をかけて、自分勝手のし放題、その悪運もつきて、いよいよ年貢(ねんぐ)の納め時がきたのかとも思う。
  
 さらに、今日になって分かったことなのだが、昨日の関東甲信に続いて、今日は東海近畿などでの梅雨明けが気象庁から発表されたのだが、ライブカメラで見る限り北アルプスの山々などには、稜線に雲がかかっていて、おそらく山の上でもガスの中という天気だろうから(槍ヶ岳ライブカメラ)、とても梅雨明けだと喜んで出かける気にはならないのだ。
 そのあたりの所を、例のTBS系の情報番組「ひるおび」の気象解説のコーナーで、いつもの森気象予報士が詳しく説明してくれた。
 つまり今年の夏は、いつもの太平洋高気圧の張り出しが弱く、湿った空気が流れ込みやすく、午後にかけては、にわか雨に雷などの不安定な空模様になるところが多く、気象庁の梅雨明け発表はもっと後でもよかったのでは、と話していたのだ。

 もっとも、このことを自分の都合のいいように解釈すれば、ヒザが治るまでの休息期間を作ってくれたのだ、と思えばいいのだろうが。
 もしそうして家でおとなしくしていても、ヒザの痛みが取れずに慢性的なものになっていたとしたら、もうこの後、山には登れないことになってしまう。
 しかし、ただ転んでは起きないのがこのジジイ。
 なあに、”えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、ヨイヨイヨイヨーイ”と他人事のようにはやし立てながら、日頃からそんな時のことを思って、ちゃんと他にもやるべきことはたっぷりと用意してあるのだ。
 まずは”書斎の人”になって、今まで買いそろえてきた本が山積みになっているから、ともかくページをめくらなければならないし、CDレコードの整理だけでも一仕事だし、さらには今まで写真に撮ってきたフィルムのデジタル化という、とても生きているうちには終わらないだろう仕事もあるし、それにここ2年ほどですっかりファンになってしまったAKBの、”ジジイおたく”になるべく、ネットでの”おたく”たちの話について行けるように、まだまだ勉強しなければならないし、かといって歩けないほどひどいわけでははないのだから、いつもの林や丘への散歩などはできるだろうし、ただ山登りという自分の一つの趣味がなくなったことぐらいで、落ち込んでいられないのだ。

 不肖、鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)はこのようにひとりうそぶき、相変わらず元気なふりをしては、不気味に笑うのでした・・・あの”くまむし”ふうな顔をして、生きてやるんだからー。