ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

梅雨と梅ジャム

2015-07-13 22:12:10 | Weblog

 7月13日

 数日前に、私は、北海道の帯広空港から飛行機に乗って九州へと旅立った。
 天気予報では、北海道と東北には晴れマークがついてはいたが、東京以西は雨のマークが並んでいた。
 いつも楽しみにしている、飛行機からの眺めも、今回は期待できそうにもなかった。
 その上に、北海道の家を出る時には、朝早くから晴れていたのだが、日高山脈上部には雲がかかっていた。

 離陸からの急角度の上昇で、またたく間に層雲(そううん)を抜けて、青空の広がる上空に出た。するとそこには、ずらりと日高山脈の山々が立ち並んでいた。
 この夏の時期に、飛行機から日高山脈全山を見たことは余りなくて、もちろん晴天の日にうまく乗り合わせるタイミングにもよるのだろうが、久しぶりに目の前に広がる大展望に興奮しては、顔を窓に押しつけて見入ってしまった。  
 中央部には、あのカール壁にくっきりと雪を残した、日高山脈最高峰の日高幌尻岳(ひだかぽろしりだけ、2052m)が大きくそびえ立ち、右側に続いて戸蔦別岳(とったべつだけ、1960m)、北戸蔦別岳(1912m)、1967峰(日高第3位の山)、チロロ岳東西峰(1880m)と並んでいて(写真上)、さらに北に伸びて芽室岳(1754m)から佐幌岳(1059m)へと高度を下げながら連なっている。
 その後ろ遠くには、十勝岳連峰と大雪山の山々も見えている。なんという山日和(やまびより)の日なのだろう、飛行機なんかに乗っている場合かとも思ってしまう。

 その間にも飛行機は飛び続け、中央部から左側には、カムイエクウチカウシ山(1979m、日高第2位)からペテガリ岳(1736m)へと続いて、その先の神威岳(かむいだけ、1600m)からピリカヌプリ(1631m)、さらに広尾町音調津(おしらべつ)の海岸へと至る主稜線は、その頂きが見え隠れしていて、日高側からの雲海の幾らかが見事な滝雲となって十勝側に流れ込んでいた。 (写真下、広尾町上空から)



 この上空からの眺めで、西高東低の気圧配置の時に、特に冬場などに、十勝地方の天気が良いことの理由がよく分かるのだ。
 つまり、偏西風などの西側から押し寄せてきた湿気を含んだ雲は、日高山脈にぶつかり上昇気流となって雲を発達させ、日高側の山沿いに雨や雪を降らせて、そのうちの幾らかの雲が十勝側に流れ込んだとしても、ほとんどは乾いた風となって、あの冬場の身を切るような烈風(れっぷう)となって、晴れ渡る十勝平野に吹き荒れるのだ。
 また夏場の今の時期に、そうした気圧配置になって西からの風が吹きつけると、十勝平野を越えて降りてくるときには、例のフェーン現象となって、平野全体の気温を上げることになるのだろう。
 ちなみに昨日の、全国の36度以上の気温のほとんどの地点は、北海道の十勝地方だったとのことだ。帯広36.3度!(今日は北陸や秋田で38度とのこと。)
 一方で、小雨模様の天気だった九州北部のわが家での気温は、26度(今日も同じ気温)で、クーラーをつけるまでもない涼しさだった。
 その気温の差は10度余りにもなり、どちらが北で南だかわからないほどだ。
 そうした、南北に連なった島々からなる、日本の自然の多様性や四季の変化を思うと、それは、”うまし国”日本のありがたい豊かさでもあると気づくのだ。

 ”・・・とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原は かもめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和(やまと)の国は”

 (『万葉集』巻一 天皇の御製歌(おほみうた)より 角川文庫)

 私は、激しい雨の降りしきる梅雨のさ中に、九州に戻って来た。
 いろいろとやるべき仕事はあったのだが、まず最初に気になったのは、今年のウメの実のなり具合だった。
 去年は、大豊作の年に当たり、腰を痛めていたにもかかわらず、(そのためにとうとう夏の遠征登山にも行けなかったのだが)、何とかここはとがんばって13個もの、瓶詰(びんづめ)ジャムに仕上げたのだが(’14.7.21の項参照)、果たして今年はと見ると。
 明らかに去年と比べれば実の数は少なく、すでに下に落ちているものもあり、その大半は痛んでいて半分は土色に変わっていたが、まだ使えるものもあった。
 しかしその前に、やるべきことが、行くべき所に行って様々な支払いをすませ、さらには家の仕事、庭木の剪定(せんてい)などもあり、すぐにはジャムづくりに取りかかれなかったのだけれど、ようやくこの二日ほどで、とりあえず大中小のビン5個ほどのジャムを作ることができたし(写真下)、まだもう一回分くらいは枝先に残っているから、友達などにあげる分もそれで十分だろう。




 
 ただ難しいのは、いつ作るかなのだ。つまり、梅の実は痛みやすく、下に落ちて一日もたたないうちにもう傷み具合が目立ってきて、二日もたてば半分以上変色して使えるところは少なくなってしまうのだ。
 かといって、毎日落ちてくるのは10個余りで、だからと言って高い枝の上のものをいちいち高枝切りバサミ(今回のNMB48の新曲「ドリアン少年」では、主人公の娘が欲しいもは高枝切りバサミと言っていたが)、それで一つ一つ採ってしまうわけにもいかず、なるべく完熟(かんじゅく)のものをまとめてと待っていると、一方では腐ってきてしまうし、そこが難しいところなのだ。 

 そういえば梅雨(つゆ)という言葉には、梅に雨という言葉が使われているが、確かにこの雨の時期にその実が色づく梅になぞらえてつけられたものだろうし、またもう一つの、黴(かび)の生えるような長雨の季節だからということで、黴雨(ばいう)と名付けられ、さらにその言葉の見栄えが良くないということで梅雨に変わったのだという、二通りの説があることは知っていたのだが、今回改めてネットで調べてみて、他にも幾つかの説があることを知って、なるほどと思った次第なのだ。
 それは、梅の実が色づいて地面に落ちて、すぐに痛みそして潰(つい)えてしまうような長雨のことを、潰(つ)ゆ時の雨と言いっていて、さらにこれも分かりやすい漢字に換えられて、梅雨になっということ。
 まさしく、これは梅の実の収穫に取り掛かっている私には、最も納得のいく説でもあるのだ。
 さらにもう一つ、草花に毎日、露(つゆ)が宿るほどに小雨が降り続くころのことを、露の雨と言うようになり、これもまた分かりやすい当て字をして梅雨になったのだという説もあり、ともかく主なものだけでも四つもの説があるということだ。
 
 物事の成り立ちを調べていく時に、その文献を調べていくうちにさらに興味が募り、一つずつ疑問が解き明かされ、または想像の思いがふくらんでいく楽しみ・・・それはたとえば、あの明治大正期の文豪、森鴎外(もりおうがい、1862-1922)は、後年になって陸軍軍医高官としての職を辞する前後には、古文書文献調べに没頭していて、彼の後期著作物の一大高峰群となる幾つもの伝記風歴史小説(『栗山大膳』『渋江抽斉』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』)を書き上げている。
 私たち読み手としては、ただ事実だけを書き連ねただけのような、まるで文献を読んでいるような物語の経過に、多少の味気なさを覚えるのかもしれないが、たとえば一般にもよく知られていて、同じように淡々と物語が進んでいくだけのような短編小説である、あの『阿部一族』のように、事実記載として書かれているだけの登場人物たちが、その文字の裏側では、脈々と波打つ思いにあふれていて、やがては荒々しくいきり立っていくさまを知らされることになるのだ。
 つまり、私たちはそこで初めて理解するのだ。物事を叙述する際に、いかに美辞麗句で飾り立てようとも、簡潔な事実記載の積み重ねに勝るものはないのだということを・・・。

 さらには、あの『日本百名山』で有名な深田久弥が、古文書文献を調べては、日本の山々の名前の由来を一つ一つ探し当てて行ったように、それらは、今の若者たちが夢中になって液晶画面に向かっているゲームのように、いやそれ以上に、知的興味と好奇心を満足させてくれる、”いにしえ”の年寄りたちの真実を探る謎解きゲームだったのかもしれない。

 いつもの悪いクセで、話が大きく横道にそれてしまったが、元に戻れば、梅雨時のウメの収穫とジャムづくりは難しいということだ。
 私は長年にわたって、野山に実る様々な果実類を採っては、ジャムにしてきた。
 コケモモ、ガンコウラン、クロマメノキ、ハマナス、コクワ、ヤマブドウなどなどだが、ごらんの通りに、最近は寄る年波に勝てず、さらに前にもまして外出嫌いのぐうたら病にかかってしまい、数年前からそれらのジャムづくりを止めてしまい、最近では唯一、このウメジャムを作るだけになってしまったのだ。
 なぜこのウメジャムづくりだけに、こだわっているのか。それは、今では死んだ魚の目のようにも見える、この年寄りの瞳の奥を注意深く見ればいい。
 そこに、若かりし頃の残り火のように、かすかにちょろちょろと揺らめく炎があることに気づくだろう。

 どうしてどうして、疲れたとか年だとかほざいているわりには、どっこいその裏では健康であることには気をつかい、蛇のような猜疑心(さいぎしん)と、兎のような小心者の心を持って情報を仕入れては、陰ながら日々健康であるべく自分なりに心を砕いているのだ。
 瞳の奥に見える、疑り深いじじいの、打算に満ちたこすっからい思い、何としても長生きして”いじわるじじい”として生き延びてやるという、いやらしい情炎の揺らめき・・・。

 このじじいは、自分の身に体験したものしか信じないという始末に負えない性格であり、最近では、医者にかかるのはもとより、市販されている薬でさえなるべく服用しないようにしている有様なのだ。
 というのも、亡くなった母親が時々飲むためにと作ってやっていた梅酒づくりを止めた後、ただ落ちては腐るだけの梅の実を見てもったいないと思ったからでもあり、それもテレビや雑誌からの情報もあってのことなのだが、ともかく体にいいとされる梅エキスや梅ジャムを作っては、毎朝食のパンに塗って食べてるようにしてみたのだ。
 以前から、小さな鼻風邪をひきやすく、熱やセキはあまり出ないのだが、頭痛が取れなくて、仕方なく市販の風邪薬を飲んでは抑えていたのだが、ある日、薬を多用する現代の医療などを批判する、今はやりの健康本の見出しを見たのだが、そこには”風邪を治したければ、風邪薬を飲むな”と書いてあったのだ。

 それは少し考えてみれば、すべてに納得のいく言葉であることが分かる。薬が耐性菌に慣らされて効かなくなってしまう前に、自分自身が本来持っている免疫機能を高めようという至極当然な話であり、早速それを実行することにしたのだ。
 以前にもここで何度か書いたことのある、頭の”はちまきカイロ”(最近ではこれでさえめったにすることはない)と、この抗酸化作用のあるウメジャム(おいしい味のジャムというのではないが)によって、私はすっかり風邪をひかなくなり、それまで年に2,3箱使っていた風邪薬を一切買わなくなったのだ。
 つまり、私が今の時期に九州の家に帰る理由の一つには、家の庭にこの大粒の豊後(ぶんご)梅のなる木があるからなのだ。
 そして、作ったジャムは熱いまま、これまた熱湯消毒したビンに入れて冷蔵庫保存をしているから、5年10年先までももつことだろう。
 さらに年を取り足腰が弱っても、施設などに入って若い介護士などに陰でいじめられ痛めつけられるくらいなら、這いずり回ってでも家にいて、ウンチまみれになっても生き続けていたほうがましであり、最後に冷蔵庫の前まで這って行って、腕を伸ばして”ウメジャムを”と言ってこと切れるのかもしれない。そしてENDマークが出る。
 偏屈なじじいの記録、『梅と共に去りぬ』・・・映画になんかならんよなあ。

 そういえば映画について、前回”ゆきりんスキャンダル事件”に関連しての、『アイドル白書』という映画企画を考えたのだが、さらにもう一つ思いついた企画がある。
 それは、北海道にいた時に録画しておいた、三つもの放送局から流されたこの夏の長時間歌番組の中から、AKBグループ関連の所だけを編集して、ブルーレイにダビングしていたものをこちらに持ってきて、それを時々見ていて気づいたものなのだが。
 まずは、そこで歌われている乃木坂やNMB、SKEの新曲、さらにはAKB総選挙後の選抜メンバーによる新曲「ハロウィン・ナイト」を含めてのことを言えば、いずれも前作に比べて、踊りの部分の振り付けは簡単になっていて(それいいのだ、Eガールズのようにダンスが売りではないのだから、アイドルふうにで十分なのだ)、歌詞も前作のようなメッセージ性がなく、ただ楽しそうなだけの表現でしかないが、それでもアイドルが歌うにふさわしい曲になっていて、多くの”おたく”ファンは納得するのかもしれない。
 その中でも皆が注目していた、テレビ初披露のAKBの新曲「ハロウィン・ナイト」は、全くあの昔の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年、ジョン・トラボルタ主演、ビージーズ歌)と、昔のモーニング娘の曲とのごった煮でしかないのだが、それでも私は、毎日一度はこのブルーレイの録画で「ハロウィン・ナイト」を見ているのだ。
 つまり、誰でも単純にディスコ調のリズムにのれて、指原莉乃”さしこ”女王様のもと、メンバーのみんなが楽しく歌い踊っているのを見れば、それでいいじゃないかと思えてきたのだ。

 さて私が、前回に書いた『アイドル白書』に続いて、さらにもう一つ映画としてのストーリーを思いついたのは、それらの新曲についてではない。
 2年前の総選挙で、”さっしー”指原莉乃が前回女王の大島優子を破って1位になり、彼女が初めてセンターで歌った時の曲が、「恋するフォーチュン・クッキー」であり、この曲は今ではAKBを代表する曲になっていて、長時間の歌番組でAKBグループが歌うメドレー曲の最後に、必ず全員で歌い踊る曲になっているくらいなのだ。
 もう2年前の曲だから、選抜メンバーたちは何度も歌い踊っていて、曲の中でのダンスの振り付けも、ところによっては、メンバーそれぞれが自分なりのアドリブ的な身振りを加えていたりして、特に今回の総選挙2位の柏木由紀”ゆきりん”と前回女王で今回3位の”まゆゆ”渡辺麻友の二人は、3期の同期生同士で仲が良く、この「フォーチュン・クッキー」でも、いつも二人そろって合わせるアドリブの身振りをしていたのだが・・・そして、今回の歌番組は”ゆきりん”事件発覚後のことであり、この曲で二人はどうするかと見ていたのだが、”ゆきりん”は前のように二人で何かしたかったのだろうが、”まゆゆ”は”ゆきりん”の方を見ようともせずに、ひとりで自分の頭の所から耳が垂れ下がっているようなしぐさをしていたのだ。
 さらに最後の方で、今度は”さっしー”が、前に”まゆゆ”と二人でしたことのある、両手を観客の方に差し出すポーズをとったのだが、”まゆゆ”は応じることなく自分だけの耳ポーズをとり、”さっしー”は一瞬けげんな顔で”まゆゆ”を見ていた。
 そして曲が終わった時のスタンディング・ポーズで、”まゆゆ”はまたひとり耳が垂れ下がっているポーズをしていた。

 あくまでも私の解釈だが、今までAKBとしての恋愛禁止の不文律に従い、清純派のアイドルの立場を貫き通してきた”まゆゆ”にとっては、一月ほど前のTBS系ドキュメンタリー番組『情熱大陸』の中で、”まじめにやってきた子が損をするのがAKB”と悔しい胸の内を語ったことがあったほどで、当然仲良しの同期生であった”ゆきりん”の事件は許せないことだったに違いないし、その本心が舞台上で出てしまったように思えるのだ。

 ”さっしー”に対しても、今度の事件後に最初に”ゆきりん”に同情して、二人の写真を撮ってネットにアップしていたのが”さっしー”だったし、もともと”さっしー”もスキャンダル事件を起こして博多に飛ばされたくせにという思いが、”まゆゆ”の中にあったのかもしれない。
 だから”まゆゆ”にとっては、今自分が信用できるのは、人間ではない”ゆるキャラ”や人形キャラクターたちだけだという思いがあったのだろうか。
 そして、少し前に発表されたばかりの、あの”サンリオ”のキャラクターたちの人気投票順位では、”まゆゆ”が”推しメン”になって投票までしていた、キャラクターの”ぽむぽむぷりん”が何と1位に選ばれていて(あの”キティ”ちゃんでさえ7位)、彼女は「フォーチュン・クッキー」の舞台で、その大きな耳をした”ぽむぽむぷりん”のまねをしていたのだ。

 この三者三様の思いを、またあの芥川龍之介の短編小説『藪の中』に、あるいは黒沢明の映画『羅生門』になぞらえて、ストーリーとしてまとめられないものかと、ヒマなじじいの妄想はまたもやいろいろとふくらんでいくのでありました。
 ちなみに、私はこのAKBの上位を争う三人のどの子も、それぞれにいいところがあって、同じようなくらいに好きなのですが・・・。

 ウメジャムの話から、結局はまたAKBの話になってしまい、今では私も、立派なAKB”おたく”の一人になってしまったのかもしれない。
 母が生きていたら、ミャオが生きていたら、ニャンと言うことだろう・・・南無阿弥陀仏、なんまいだーぶ。 


 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。