ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

緑の中へ、聞こえてくる歌声

2015-05-04 21:33:28 | Weblog



 5月4日

 昨日は、一日中、雨模様の天気だったが、その前の日は、またとない天気の日だった。
 前日の天気予報画面では、日本地図のすべてに、雲マークのつかないお日様マークだけが並んでいた。
 今まで山登りに出かける時のくせから、いつも天気予報だけは毎日気にして見ているのだが、そんな私でもこれほどまでに見事に、まるで小さな子供たちのお絵描きのように、晴れマークが並んでいたのは見たことがなかった。
 明日、何かをするという予定もないのだが、その晴れマークだらけのテレビ画面を見て、何か偶然に幸運なことに巡り合えたかのように、うれしくなった。
 そして次の日の朝、確かに空はさわやかに晴れ渡っていた。

 私は洗濯をして、ベランダいっぱいに干してから、次に庭に出て、小さな畑の土地を掘り返し、さらにプランターに肥料を入れて、そこに花の種をまいた。
 そして午後になって、身支度をして外に出た。
 もちろんこの連休のさ中、クルマに乗ってどこかに出かける気などさらさらなかった。
 そのために、連休に入る前に、いつも行く大きなスーパーで、しっかりと食料品の買いだめをしておいたし、連休の間は、ともかく混雑する外には出かけなくていいようにしたのだ。
 こうして普通に家にいて、後は食べ物さえあれば、しばらくは生きていくことができるということだ。

 それでも、人は外に出かけたくなるものだ。
 そこで私は、いつもの坂道歩きから、さらに続く先の山の林の方へ、つまり今の季節ならではの、”緑の中へ”と歩いてみることにした。
 この日は、日本全国でも気温が上がり、30度を超える真夏日を記録した地点が、何か所もあったとのことだが、こうした山の中にあるわが家周辺でも、25度を超える夏日になっていた。
 今までの長袖から着換えて、Tシャツ一枚でちょうどいいし、それでも坂道歩きではかなり汗をかいてしまうほどだった。
 緑の並木で日陰になった静かな坂道を歩いて行く・・・遠くで、ホオジロの声と途切れがちなウグイスの声。
 木々が途切れたあたりから、視界が開けて、谷を隔てた向こう側に、湧き上がるような新緑に包まれた山が見えていた。(写真上)
 谷側から風が吹き上げてきて、思わずその涼しさを取り込むように、両手を広げてひと時、目を閉じた。
 これがいいのだ、そしてこれでいいのだ、と。

 ほどよく心地よいもの・・・それは、そのためにと追い求める、瞬時の陶酔を含む快楽を意味するのではなく、日常の中にごく普通にあるものに、ふと気づく安らぎなのかもしれない。
 もともとあった変わらぬ山の形と、そこに生い茂る木々の織り成す光景を、たまたま通りかかった私が、新緑の自然の姿として、心地よいものとして感じただけのこと。
 そしてそれはまた、他の人から見れば、別に何も感じるところもない、ただクルマで通り過ぎる風景の一つでしかないのだろう。
 そんな彼らの行く着く先には、おいしい食べ物と、みんなでにぎやかに楽しく遊べる場所が待っているのだから。
 人それぞれに、物事に対する感じ方は違うのだし、どれが正しくどれが間違っているとは言えないけれど、ただこの連休のさ中に、私が行きたかった所は、こうしてしばらく歩いて行けば見られるだけの、どこにでもある静かな里山の風景だったのだ。

 「・・・そうなったのは、中国の達人たちの生活記録や荘子(そうし、そうじ)の比喩(ひゆ)を産む地盤となった知恵、静かで、目立たず、控えめで、いつも少し嘲笑(ちょうしょう)的な性質の知恵に親しんでから後のことである。」

 (ヘルマン・ヘッセ 『幸福論』 高橋健二訳 新潮文庫)

 人は誰でもそれぞれに、こうした”心地よいところ”を心のどこかに持っているのだろう。
 それは、もちろん風景に限らず、何かを楽しめる場所であったり、見ることであったり、聞くことであったり、さらには心の中で思うことだったりと様々にあるのだろう。
 私は今あるように、四季によって移り変わる自然の風景を眺めるのが好きだし、山に登るのはそのための究極の楽しみになるし、本を読むのも絵画を見るのも映画を見るのもテレビでよい番組を見るのも好きだし、クラッシック音楽を聴くのも好きだし、AKBも好きだし、亡くなった母やミャオやその他の人たちのことをよく思い返すし、死にゆく時のことを考えて生きている今のありがたさを思いもする。
 つまりは、”静かで、目立たず、控えめで”風変わりな年寄りにすぎないのだが、そんな”じじい”がAKBを好きだというのはなぜか。
 前にも書いたことがあるが、NHKの『鶴瓶に乾杯!』か何かの番組で出てきた、牛飼いの70幾つかになるじいさんが、これから町にAKBの新曲CDを買いに行くところでと、そわそわしていたのを思い出すが、私にはその気持ちが分からないでもない。

 つまり、日ごろはとてもお目にかかれないような、若い娘たちの集団が、それぞれ笑顔で歌いながら同じ振り付けで踊るさまは、赤ちゃんの笑顔を見て誰でもがほほ笑むように、じいさんたちもまた、若い子の笑顔を見ては楽しい気分になれるからだろう。
 むしろ”オタク”と呼ばれる若いファンほどに、ぎらついた目で彼女たちを見てはいないし、ただ孫娘たちの活躍を楽しく見守るだけの、”老人ファンクラブ”と言った方がいいだろう。

 それならば、他にもアイドル・グループや若い歌手女優タレントなど大勢いるのに、なぜにAKBだったのかということだが、そこにも今にして思えば私なりの理由があったのだ。
 たとえば、一時期はAKBよりも爆発的な人気があった五人娘からなる”ももくろ”、つまり”ももいろクローバーZ”になぜに惹(ひ)かれなかったのかというと、簡単に言えば、彼女たちはただ若さあふれる元気な娘たちというだけであって、メンバーの変わらない彼女たちは、年を取っていけばその限界が見えてくるだろうし、なにより彼女たちが歌う曲そのもの、歌詞の言葉にあまり魅力を感じなかったということでもある。
 さらに、AKBよりは先輩になる”モーニング娘”だが、確かに初期から少しずつメンバーを入れ替えてきて、相変わらず若いままのグループであり、最近では”モーニング娘’15”と、年ごとに数字を入れてその新しさをうたっているし、厳しい訓練を受けてのダンスや歌には確かに見るべきところも多いのだが、私とすれば、あの”つんく”のプロデュース作詞作曲による曲が、年寄りの感覚としては今一つ肌合いが違う感じなのだ。
 
 子供のころから、長い間日本の歌や歌謡曲を聞いてきた私は、その聞き手としての、多くの場数を踏んできた経験から言わせてもらえれば、今の若い人たちが歌うJポップスと呼ばれる曲には、ついていけないというよりは、むしろ同じような言葉とその歌詞の単純な内容に、もう聞き続ける気をなくしてしまうのだ。
 もっとも、若い人たちからは圧倒的支持を集めている、Jポップスやアニメ・ソングのファンたちからすれば、同じようにAKBと聞いただけで、ジャリ・アイドルの歌う理屈っぽい歌なんか、聞く気もしないということなのだろうが。
 つまりAKBにはそれだけ、おやじ世代やじいさん世代の、カッコよく言えば”シニア世代”のファンが多くて、あのAKB劇場で”シニア限定”の日が設けられているのもそのためなのだろう。
 
 しかし、私は、AKBの新曲CDやDVDを買いに行くつもりはないし(中古の105円CDを買ったことはあるが)、まして握手会やAKB劇場やコンサート、さらには総選挙の投票などにも参加するつもりはなく、つまり誰か特別な”おしめん(推しメンバー)”がいるわけでもなく、ただテレビを通して見ているだけの、AKBグループ全部が好きな消極的ファンにしかすぎないということだが、それだけにAKBグループ全体をなぜに好きなのか分かるような気もする。

 前回にも少しふれたように、乃木坂46を含めてのAKBグループ(他にSKE,NMB,HKT)に共通しているのはただ一つ、創設者でもある秋元康によるプロデュースであるということと、さらにはほとんどの曲の作詞を彼一人で(超人的!)手がけているということだ。
 特に私にとって大きいのは、歌として聞いた時に、日本語としてまず心に響く、彼が書いた歌詞の言葉に納得できることが多いからでもある。
 ”最初に物事が作られていく時には、たった一人のDICTATOR(独裁者)が必要である。” という、歴史上の事例をあげるまでもないことだが。
 危険な部分を含む、事の良し悪しはともかくとして。 
 
 彼の手になるAKBの歌の歌詞については、今まで何度も触れてきたので(’14.10.20や’13.12.16の項参照)、またあらためて詳しく書くつもりはないけれども、ともかく理にかなった歌の詞(詩)になっていることが、私たち人生経験豊かな年寄り世代までも納得させる、大きな要因の一つであるとも言えるだろう。
 さらに”釣り師” としての、彼の巧みなプロデュース力で、私たちはさらにAKBグループにひきつけられてしまうのだ。(今年の4月13日の項参照)
 こうして私は、ネット上での”オタク”に”アンチ”入り乱れての、見るにたえない書き込みなどに加わることもなく、ただの”隠れAKBファン” から、静かな”AKBオタク”になりつつあるのかもしれない。 

 さて、前置きがすっかり長くなって、本論の”乃木坂46”について書くのが、遅くなってしまったが、書きたいことは二つ。
 まず3月に発売された「命は美しい」、この曲は前回山に登った時にも、歩きながら思わず口にしたほどのいい曲なのだが、ピアノの前奏を受けての静かな出だし部分には、しびれてしまう。 

 「月の雫(しずく)を背に受けて、一枚の葉が風に揺れる。
 その手離せば楽なのに、しがみつくのはなぜだろう・・・」  (秋元康作詞)

 この一行目の言葉は、夜の光の中に、その鮮やかな光景が目に浮かぶようで、まさに詩と呼ぶにふさわしい。
 さらには、あの有名なO・ヘンリ(あるいはヘンリー)の短編『最後の一葉(一枚の葉) 』 (新潮文庫、岩波文庫、宝島社DVD BOOKなど)の、一シーンさえも思い起こさせる。
 そして、次のフレーズから、歌の題名にもなる”命の美しさ、大切さ”を語りかけていくのだが、以下の歌詞についてここでは割愛するが、まだまだ幾つもいい言葉がある。

 ともかくこの歌でも、今までもそうであったように、自分の生徒たちでもある、乃木坂他のAKBグループの少女たちへの、秋元康校長からの、心を込めたお話、訓示にもなっているのだと思う。(前回にも書いた、あの峯岸みなみの言葉のように、それをちゃんと受け止めている子も多いということだ。)
 そして、もちろんそれは生き急ぐ、今の社会に生きる若者たちに対してのメッセージでもあるのだろうが、併せてその思いは、誰しも昔の弱者としての傷を負った大人たちにも響いてくることだろう。
 付け加えて言うべきは、作曲者のHiroki Sagawaの曲調作りも見事であり、出だしの言葉を生かしたソロの歌い出しは秀逸である。
 それにしてもいつも思うのは、秋元康の詞がいいのはともかく、それに合わせて、ピタリとはまる曲を作り出す、有能な作曲家陣の多彩さである。

 ただ、一つだけ難点をあげるとすれば、なぜこの静謐(せいひつ)さのただよう名曲に、あのような乃木坂としては激しすぎるようなダンスを振りつけたのかということ。
 AKBの5月の新曲「僕たちは戦わない」が、同じように激しい踊りの振り付けになっていて、さらにその前のSKE、NMBの新曲でも、曲調からでもあろうが、身ぶりの激しい動きのダンスになっていた。
 前にも書いたように、ダンスならあの”Eガールズ”には及ぶベくもないし、さらに訓練を重ねた”モーニング娘’15”でさえも、さすがにと思うほどだったのだが。

 乃木坂は、他のAKBグループと違って専用劇場を持たないし、それだけに定期的な公演がファンにとっては貴重なものだろうし、今までの曲調の流れからして、何も他のアイドル・グループと同じような振り付けをする必要があるのだろうか。
 乃木坂の曲の中では、第一の名曲だと思う「君の名は希望」でも、やさしく体を揺らしてリズムをとるぐらいの振り付けだったからこそ、あの詞の内容も素直に心に響いてきたのだ。
 だから、今回も詞の内容からいえば、もっと簡単な振り付けでよかったし、あえて言えば、むしろエレガンスな色合いの乃木坂にふさわしい、簡単なバレー風な振り付けでもよかったのではないかとさえ思うくらいだ。

 次に、これはどうしても書いておきたいことだが、乃木坂46の合唱能力の高さについてである。つまり彼女たちは、素人アイドル集団のような他のAKBグループの歌とは違って、生歌でさえ、見事に”ハモって”歌うことができるのだ。
 それはそういうふうな、ボイス・トレーニングを受けているからなのか、それとも音大に通いピアノの弾き語りまでもできるほどの、あの”いくちゃん”生田絵梨花などが中心となって、日ごろから”ハモる”歌い方をしているのか。

 その違いは、あの”YouTube(ユーチューブ)"の、「君の名は希望」でのいくつかのバージョン映像録音で、聴き比べることができる。
 最初に乃木坂公式MV(ミュージック・ビデオ)の映像音声を聞けば、さすがに編曲の巧みさで、弦楽セクションも厚みがあるし、インテンポで続く伴奏のドラムスの音が小気味よく、後半の希望溢れる詞の内容と曲の推進力が合わさって、感動的ですらある。
 ここでの歌声は、それぞれのメンバーたちの歌割り当てはあるものの、合唱の部分はそのまま何人かの声を中心に重ねただけのものである。
 そして次は、最初の映像での伴奏として使われていた、弦楽奏やリズムセクションとしてのドラムスなどを使わずに、生田絵梨花のピアノによる伴奏だけで、16人のメンバーたちがライブのスタジオ録音として歌っている映像録音なのだが、そこでは全員の合唱部分で、メロディー部と低音部パートに分けて、”ハモって”歌っているのだ。
 そこでさらに気になって、YouTubeで調べてみると、やはり他にもあったのだ。
 それは、録音された曲の中から、デジタル音質調整をして、楽器演奏部分を取り除き、歌声だけを取り出したものが新たに作られていたのだが。
 素晴らしい!
 
 そこでは、”ハモリ抽出”として、乃木坂の曲の中から、「君の名は希望」と「バレッタ」の一部だけが取り上げられていたのだが、おそらくはデジタル音声操作の出来る音楽愛好家の手になるものだろうが(音声ソフトもあるし)、それにしても、いいものを聞かせてもらってと感謝したいくらいだ。
 ということは、それほど生歌での合唱能力を持っている乃木坂ならば、できることなら、無伴奏(アカペラ)もしくはあの”いくちゃん”のピアノだけでの、”ハモリ”歌をもっと聞かて欲しいと思う。
 もちろん、あの”ブルガリアン・ヴォイス”の驚異的な歌声などとは比較するべくもないが、日本にはあのゴスペラーズをはじめ、素人たちでさえ見事な”ハモリ”を聞かせるグループはいくらでもいるし、そこまでとはいかなくとも、せめてAKBグループの一員として、その能力の一端を世間に見せてほしいものだ。

 と、ここまで素人意見で勝手なことを書き綴(つづ)ってきたのだが、音楽門外漢の私がこうしたことを書くのは余計なことという気もするが、それでも、まだまだその音楽性が低く見られがちなAKBグループにも、十分にその歌声の能力があるということを知ってもらえればという、親心ならぬファン心から書いたものだと、多少の思い違いを含めてあわせて理解していただければ幸いである。
 さらに、この乃木坂以外のAKBグループの生歌や合唱能力が低いからと言って、彼女たちの歌のすべてがだめだというわけではなく、むしろそれを補って余りある何かを彼女たちが持っているからこそ、私は変わらずAKBファンでいられるのだし、そしてあの4月13日付けブログ記事の時点では、まだ聞いていなかったHKTの新曲「12秒」は、テレビでさらに二度ほど見て、まさに若いHKTの今の勢いを伝えるような、楽しい曲に仕上がっていて、うれしくなったほどだ。

 AKBグループ総選挙まで、後一月余り、誰が一位になってほしいとか誰が選抜に入ってほしいとかという特別な思いはないけれど、その時々の悲喜こもごもの彼女たちの思いとともに、しばしささやかな一体感を持てることが、このじじいの孫娘たちにしてやれるすべてのことなのだ。
 さて長々と、AKB乃木坂のことなどについて書いてきたが、まだまだAKBグループやメンバーたちのことについても思うことがあって、さらに書きたい気もあるのだがまた別な機会に譲ることにしよう。

 それよりも先ほどの、坂道歩きの長距離散歩がまだ途中のままだったので、先を続けることにしよう。
 ともかくこれほどさわやかないい天気なのに、いつもと同じ道を行くだけではもったいないと、山へと登る道に入っていった。
 午後も遅い時間だったから、これから山頂まで行く気はなかったし、ただ途中までの新緑の広葉樹の林を楽しみたいと思っていた。

 もちろん誰ひとりもいなかったし、まだ午後の光を浴びて照り輝いている明るい林の向こうでは、少しゆっくりとしたオオルリのきれいな鳴き声が聞こえていたが、私が林の中の道を登って行くと、すぐに谷側の方へと飛んで行ってしまったが、しかしそこでもまだ鳴いていた。
 林は、クヌギ、コナラ、ブナ、ヒメシャラ、カエデ、ミズキなどの広葉樹林帯にあって、二次林だから幹は細いけれども、下草も少なく低いササが所々にあるくらいで、道を外れてもそう歩きにくくはなかった。杉林に入る所で戻ることにして、下りは道を使わずに谷沿いに下って行った。
 まだ続く青空の下、何度も立ち止っては、新緑の木々の写真を撮った。(写真下)
 そして大回りになる道を通って、人家の庭先に咲く鮮やかな色のツツジなどを見ながら家に戻った。
 いつもの坂道歩きの散歩と比べて、倍以上の2時間半近くもかかったけれども、連休のさ中に家にいて、心地よい疲れを感じるいいトレッキング歩きになった。

 昨日は、ミャオの命日だった。庭の隅にある、岩を置いただけのお墓の前で手を合わせた。
 3年前のあの時のことを書いた、このブログのページを、いまだに見られないでいる。ああ、ミャオ。
 思い出は、残された人の胸に、いつまでも色あせることなく残っているものだから・・・。