ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

空からの眺めと地上の眺め

2015-05-18 21:38:13 | Weblog



 5月18日

 
 高度1万メートル、通常の旅客機が飛ぶ、巡航高度である。
 北アルプスが見え、御嶽山(おんたけさん)、乗鞍岳が並び、中央アルプスから南アルプスの山々が連なり、さらにひときわ高く、残雪の筋模様になった富士山が見えている。
 その日は、全国的には晴れていたのだが、やや春がすみの空で、くっきりとした眺めではなかったのだけれど、まずはこうして旧知の山々に出会うことができただけでも、ありがたいことなのだ。
 私は、半年ぶりに、飛行機に乗った。
 感謝するべきだろう、この年まで生きながらえて、その上にこうして大好きな空からの眺めを楽しむことができるなんて・・・。
 
 やがて富士山が少しずつ遠のいていき、高度が下がってきて、もうすぐ下には房総半島の海岸線が見えてきた。
 安房勝浦(あわかつうら)付近の海岸線だろうか、明るい紺色の海と、白波寄せる磯浜、そして何よりも私の目を引いたのは、あの見事に彩色された地形図のレリーフ画像のように、谷筋に連なる街並みとはっきりと区別された、新緑の里山模様であり、その広葉樹林帯の明るい輝きだった。(写真上)

 ・・・高度2千メートル。私は、飛行機の扉を開けて、身を躍らせて空中に飛び出す・・・海の青い色が、白波が、小さな家々が、そして緑の里山のふくらみが近づいてくる。激しく風切る音が聞こえ、喜びとも恐怖ともつかぬ声が、私の口をついて出てくる。スカイダイバーのように手足を広げて、落下していく。背中にはパラシュートもなく。すべての景色が近づいてくる。あの緑の中へ。カウントダウンの数字が頭の中に鳴り響く。10.9.8.7・・・。
 そこで、夢が覚める。奈落(ならく)からの生還。それは、生きているからこそ見る夢なのかもしれない。

 羽田で乗り換えた次の帯広行の便でも、さらに東北の山々の眺めを楽しむことができた。
 日光、塩原、会津の山々、飯豊連峰に朝日連峰、月山に栗駒、焼石山などの残雪の山々が、まるで島のように浮かんでいる。
 (鳥海山は遠くかすんでいて、岩手山はすっぽりと笠雲に包まれて見えなかった。)
 それらの山々の中でも、地形学的な意味からも特に目についたのは、栗駒山(1627m)である。(写真下)



 この栗駒山は、今までに登山地図や地形図などを見ていても、噴火口のある火山だとは分からなかったのだが、それが今回、空からの眺めで、それも残雪期であっただけに、よりはっきりと火山としての姿を見ることができたのだ。
 つまり南面(写真下部)に向けての、広大な火口壁を擁(よう)した爆裂火口跡を、北西の卓越風で東側に吹き寄せ集められた残雪の帯として、容易に見て取れたからだ。
 もっとも、それは中央部の丸い火口ができた後から、さらに噴出した側火口が並んでいるだけなのか、それとも単なる長い溶岩流の流れかもしれないのだが、素人地形学ファンには、そうして想像してみることが楽しみでもあるのだ。

 さて、この栗駒山は、それほど目立った急峻な山ではないし、さほど高い山でもないが、テレビや写真で見ると、その穏やかな高原状の山容は、いかにも東北の山らしい味わいが感じられるし、地元の人たちにとっては、四季を通じて、四方に通じた登山路を組み合わせて様々なルートて登ることができる、親しみ深い山なのだというのもうなずけるし、私としても、死ぬまでに何としても登りたい山の一つである。
 栗駒山は、いわゆる”深田百名山”には選ばれていないけれども、いつも書いているように、私は百名山などにこだわる気はさらさらないし、その中の幾つかの百名山には、これからも登るつもりはない。
 そんな百名山に登るくらいなら、自分の好きな山に二度三度登った方がましだとさえ思っているのだ。
 ただ気になるのは、自分だけの名山リストに選んでいても、この栗駒山のように、まだ登っていない山が幾つも残っているということ。
 それだから今は、ヒマラヤ、アンデス、カナダなどのまだ知らない外国の山を見に行くよりは(外国の山は、若いころに行ったヨーロッパ・アルプスの素晴らしさだけでも十分だと思っていて)、今は、この残された日本の山々に何とかして登らなければと考えているのだ。

 今にして思えば、私は、自分の人生の多くの時間を山登りにさいてきたわけだし、そうした時間の過ごし方の是非はともかく、若いころに漠然と考えていた、日本全国の山に登ってやろうなどという思いは、もうこの年になっては、今さらかなえられそうにもないことになったし・・・。
 その程度の山の経験しかないのに、誰でもがそうであるように、山登りについては一家言を持っていて、ここで偉そうにあれやこれやと書いてきてはいるものの、結局のところ、今までに私がちゃんと登ってきたのは、北海道の山と、南北・中央の日本アルプスの山々くらいなものなのだ。
 特に、四国や近畿地方の山には、全く登っていないし、上信越国境と東北にしても、登りたいと思っている山の半分以上がまだ残っている有様だ。
 もっとも、そうしてこの年寄りを責めたところで、今さらどうにもならないし、ただあとは、最近とみにあちこち動くのがいやになっている、ぐうたらジジイのやる気を起こさせ、ここまで来たら、最後までわがままに自分の好きなことを貫徹させるべきだと、それがあちらで待っている人たちへの、”冥途(めいど)の土産(みやげ)話”になるのだから、と自らに言い聞かせてはいるのだ。

 さて、そうして数日前に、北海道に戻って来た。
 今は、もう5月の半ば、いつもよりは一月遅れで帰ってきた私の目の前には、すっかり春になった十勝平野の光景が広がっていた。
 ビート(砂糖大根)の苗やジャガイモの種イモの植え付けが終わり、秋まき小麦や牧草地は緑の草原になって続いていて、青空の下のシラカバ林の新緑が、目にまぶしかった。
 そうした草や木や、遠くに見える日高山脈までもが、みんなでこんなに遅くなって帰ってきた私を見ているようで、気恥ずかしい気さえした。

 家に続く道には、もう草取りをするほどに草が生い茂っていた。
 あのエゾヤマザクラの花はとうの昔に散っていて、今はコブシとスモモの花が咲き、リンゴの花もいっぱいにつぼみをつけていた。
 庭のハゲた所が目立つ芝生にも、今や新しい芽が伸びてきていて、シバザクラの小さな花も咲き始め、それ以上に庭のあちこちに植えてある、チューリップの大輪の花が色鮮やかに並んでいた。
 それなのに、そのチューリップ畑の上には、何と折れた太い木の枝が折り重なっていたのだ。
 そこだけではない。見回すと、家を取り囲む林のあちこちで木々の枝が大きくしなって曲り、あるいは折れていた。
 春先の、重いドカ雪にやられてしまったのだ。昔はこれほどの被害は受けなかったのだが、ここ数年で何本もの木の被害が出るようになって。
 一般人である私が、何の確たる資料もないのに、これは地球温暖化のせいだと騒ぐのは、性急に過ぎるのかもしれないが、今年の早い台風といい、何かの迫りくる足音に聞こえなくもないのだか・・・。 

 そんな倒木を片付けるよりも、先にやるべき仕事が幾らでもあった。
 まずは家に入って、すべての窓を開けて空気を入れ替え、越冬バエなどの死んだ虫が散らばる床の掃除などは後回しにして、水を抜いて家の中に入れておいた井戸ポンプを出して、外の井戸土管の上に据え付け、取り外しておいた、数メートルもの長さの、取り入れ口と吐き出し口のパイプをボルトでつなぎとめるのだが、このボルトのねじ山が浅くなかなか入らないし、ようやくつなぎ終わって、迎え水を入れて動かしてみるが、つなぎ目のパッキンがあまくて水が噴き出して、またやり直しと、結局1時間余りもかかり、それでもようやく水が出てくれて、これで水と電気はあるから、何とかこれから生活できるメドはついたのだと一安心する。
 大げさなようだけれど、すべてがスイッチ一つでオン・オフできる都会と比べて、こうしたライフラインがすべて整ってはいない田舎で暮らすには、不便さに慣れて何でも自分で解決していく覚悟がいるのだ。
 
 まして私のように、季節が変るたびに行き来している人間にとって、その度ごとのセット・オンやオフ作業の数々には、寄る年波とともに、その根気が続かずに面倒に思えてくるのだ。
 とりあえず、水は出ても、浅井戸だからいつ水が枯れるかわからない、だからジャブジャブと水は使えないし、つまり洗濯はたまにしかできないし、風呂にもたまにしか入れない。水が使えないからもちろん水洗トイレではないし、外に作った自家製のトイレで用を足すしかなく、特に年を取って夜中にトイレに起きるようになった私には、寝ぼけまなこで外に出るのはつらいことだ。もしヒグマが待ち構えていて、寒空に突き出した私の先っちょをがぶっとかじったらどうする。そう思っただけで、ドキドキして、目は覚めてしまうし、先っちょからの出は悪くなるし・・・。

 まあ冗談はともかく、そうした水にまつわる、洗濯、風呂、トイレの三重苦が、年寄りになった私にとって、北海道への足を遠のかせるようになった原因の一つでもある。
 若いころには、この家をたった一人で建てたように、元気に満ち溢れていて、そんな水に関する不自由さなど苦にもならずに、いろいろと工夫していくことで、むしろ面白く楽しくさえ思えたのだが。
 
 さて帰ったその日は、ポンプ据え付けの後、家の中をあれこれ掃除しては、長旅の疲れもあって夜9時過ぎには寝てしまった。
 翌日、分かってはいることだけれども、窓の外を見ては、枝木が倒れて広がっている光景にただ茫然としてしまうのだ。
 それでも、不幸中の幸いというべきか、木の枝が家の屋根や壁などを直撃しているわけではなく、その手前で倒れているだけなのだ。チューリップの何本かが、その下敷きになってはいるが。(写真下)

 

 高さ十数メートル余りにもなっていたナナカマドの木が、すぐ上の所で二股に枝分かれしていて、その片方の大枝が根元から折れていて、さらに先の方で何本にも枝分かれしていて、それをチェーンソーで切り分けていく。
 さらに、隣のゴヨウマツの折れ曲がった太い枝も切り分けていく。
 この日は、いかにも北海道らしく、前の日は暖かくて18度もあったのに、朝の気温2度からあまり上がらず、最高気温6度という肌寒さだった。
 それなのに、この倒木片づけ作業だけで数時間もかかり、さらには大汗をかいてしまった。
 家の中に入って一休みする。下着を着かえてさっぱりして、久しぶりの、薪ストーヴの暖かさが心地よい。
 労働があってこその、一休みの心地よさなのだ。今までにここで何度も取り上げた、ヘーシオドスの『仕事と日(労働と日々)』の一節を思い起こす。

「また働くことでいっそう神々に愛されもする。」 (松平千秋訳 岩波文庫)

 思えば、わが家の周りの、この林の景色、たたずまいに、春夏秋冬とどれほど心いやされて喜ばしく思ったことだろう。このくらいの木々の手入れ片づけ作業など、その楽しみのために必要な準備作業にすぎないのだ。
 何事も、”労なくしては、真にわが物とは成り得ず”ということなのだろうか。
 さらに翌日も、残りの倒れ曲がった木々を、その中には花をつけていたコブシや、新緑の若葉が美しいモミジにシラカバなどがあったのだが、仕方なくその部分も切り落としては片づけた。
 
 そして、遅すぎるとは思うけれども、いつものダニに取りつかれるのを覚悟で、山菜取りへと出かけたのだが、やはりヤチブキ(エゾノリュウキンカ)の花はもうすっかり終わっていたし、タラノメはすべて開いてただのタラの木の葉になっていたし、かろうじて、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)だけが、葉が大きくなりすぎて茎も固くなりかけてはいたが、何とか食べられる状態で袋いっぱいに採ってきて、あとは家の周りに出ているコゴミを採れば、ここ当分は野菜を買う必要はないのだ。
 そして家のそば、林のふちには、いつも咲く赤いオオサクラソウが一輪だけと、あのオオバナノエンレイソウの白い花が、今年もまた同じ数で咲いていた。(写真下)



 3週間ほど前に、九州は九重山系の黒岳山麓で見た、あのムラサキエンレイソウを思い出す。(4月27日の項参照)
 私の記憶の中だけで、積み重なっていく花の思い出。
  ひとりでいるからこそ、出会えるものもあるのだ。
 その思い出は、自分だけのものであり、いつかは私とともに消え去っていくもの。

 この花たちのように、時の流れの中でも永遠に繰りかえし、咲き続けていくものがあるからこそ、束の間の命に生きる永遠ではない人間たちは、刹那(せつな)の美しさに酔うのだろう。
 めぐりゆくもの、永劫輪廻(えいごうりんね)の世界があるのだと思いながら。

「老いぬと知らば、何ぞ、閑(しず)かに居て、身を安く(やすらかに)せざる。・・・」

(吉田兼好 『徒然草』 第百三十四段より 岩波文庫) 

 
  


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