ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

たっぷりの自然の中

2015-05-25 21:21:27 | Weblog



 5月25日

 晴れた日が続いている。
 今朝の気温、3度と冷え込んだけれども、ありがたいことに霜は下りていなかった。
 昨日の最高気温は25度と、日向では暑いくらいなのだが、ともかくやらなければならない仕事がいっぱいあった。
 いつものように、雪が溶けるころに、ようやく春が始まったころに帰ってきていれば、これほど慌ただしいことはなかったのだが、今回は北国の春の勢いが爆発的に広まっていく、そのさ中に戻ってきたものだから、今まで九州で、のうのうとぐうたらに暮らしていた私も、さすがにのんびりとはできずに、人が変わったように働き動き回るほかはなかったのだ。
 人は誰でも、生まれつきの”ぐうたら、ものぐさ”というわけではなく、それらは環境がなせる業(わざ)であり、”火の車”を引かなければならないハメになった時には、誰でも理屈を言う前に、必死になって駆け出すしかないのだ。

 前回書いたように、まずは家の周りの、雪の重みで倒れ曲がった木々を切り片づけて、次に三か所に分けた小さな畑の草取りゴミ片づけをして、シャベルで掘り返し、野菜畑にはストーブの灰をまいて、自分のトイレと生ごみを混ぜて2年以上たった堆肥を入れて、畝を作り、そこに買ってきた野菜苗やジャガイモを植え付けていく。
 ひとりで食べるだけあればいいだけだから、このくらいの小さな畑でいいし、あとはほとんど放任栽培で、お義理にもおいしいとは言えない収穫でしかないが、それで十分。
 次に、家から表の道までの通路に生える雑草の草取りがある。雑草といっても、そのほとんどは、今は見た目にもきれいな黄色のタンポポであり、その砂利道深く根を張ったタンポポを一つずつ掘り起こしていく。
 さらに、オオバコとセイタカアワダチソウは、小さいものでも見つけ次第引き抜いていく。
 この三種類は、放っておけばあっという前に増えて、辺りを埋めつくしてしまうことになるからだ。

 さらには庭の草取りが待っている。こちらは、小さなスカンポ(スイバ)がほとんどで、毎年繰り返し取ってはいるのだが・・・。
 このスカンポは酸性の土壌を好むから、この芝地にもアルカリ性のストーヴの灰や、食品の乾燥材として入っている消石灰などをまいてはいるのだが、一向になくなる気配はない。 
 周りが野原だから、他にもさまざまな雑草の芽が出てきて、一つずつ引き抜いていかなければならない。
 その間にも、芝生は伸びてきて種をつけた稲穂状になってきて、横に根を伸ばし広がるよりは縦に伸びるばかりだかりだから、相変わらずのだんだら模様でハゲちょろけの情けないグランド状態なのだ。
 ともかく何とか草取りを早く終わらせて、芝生の刈りこみをしなければいけないのだが、もう長く伸びすぎていて、持っている電気芝刈機ではすぐに巻き込んでしまって、仕事がはかどらずに、仕方なく草刈りガマで刈っていく他はないのだ。
 そうこうしているうちに、もう道の草刈りもしなければならなくなるし、とにもかくにも雪が来るまでの間、庭仕事が終わることはない。

 と書いてくると、単なる草取りのための単純労働の日々のようだけれども、もちろんそれだけの繰り返しだと思っていたら、ここまでやってはいられない。
 そこには、緑に囲まれた場所ならではの愉(たの)しみもあるのだ。 

 「いずれにしても自然は好意的で、結局は無精者の庭にも、ひと畝(うね)のホウレンソウ、ひと畝のレタス、少しばかりの果物と、目を慰めてくれる喜ばしい、あふれるばかりの夏の花々が育つであろう。・・・すぐ近くでは、ひとなつこくツグミがさえずり、シジュウカラがおしゃべりしている。灌木(かんぼく)や樹木は元気に冬を越した。・・・一刻一刻すべてのものが私たちに親しいものになってくる。」

(『庭仕事の愉しみ』 ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 草思社)

 私は、座り込んで庭の草取りをする。
 林の中からは、出てきたばかりのエゾハルゼミの鳴く声が聞こえ、遠くでカッコウもこだまするように鳴いているし、家の前の牧草地からは、ひばりの気ぜわしく上下する声も聞こえている。
 見上げる青空の下には、ライラックの紫の花と、リンゴの白い花が風に揺れている・・・いい季節だ、たっぷりの自然の中で。
 そんな時に、私は今までの無精者の生活を後悔しては心に誓うのだ。

 「そして、勤勉で、平和な生活をしようと思い、このよい決心を実行しようという気持ちになってくる。」

 (同上) 

 あれほど九州でのぐうたらな生活に慣れて、北海道での不便な生活を嫌がっていた私が、いざ来てみれば、やはり自分が決めて長年生活してきた所だけのことはあるし、いや、むしろあのままだらだらと九州の家で暮らしていなくてよかったとさえ思うのだ。
 水には不便するし、仕事で汗をかいても毎日風呂に入れるわけでもないし、トイレはいちいち外に出てすまさなければならないし、と面倒なことばかりだが、それもすべては、時間と慣れが解決してくれるものなのだ。
 水を十分に使えないことで、台所の洗い物を簡単にしようと、食事の手はずも簡単になるし、後片付けも少なくなる。 
 洗濯はできないし、風呂にも入れないから、一週間に一度は街の銭湯に行って、体にしみわたるお湯のありがたさを感じ、コインランドリーでは、時に店のおねえさんとお話しできる楽しみもある。
 トイレは外でするしかないが、誰もいない野原で、自分のヒナ鳥ちゃんと一緒に日高山脈を見ながら、木の根元に栄養水をかけてやるのは、実に気分のいいことだ。
 さらに、九州にいた時には、夜中に一度は目が覚めてトイレに行っていたのに、こちらに戻ってきてもう十日余りになるというのに、真夜中にトイレで起きたのは一度だけで、あとは夜明け(4時過ぎ)のころまで、ぐっすりと寝ているのだ。
 つまりは、毎日汗をかくほどに仕事をして、快適な睡眠へと向かうべく9時には眠たくなるし、膀胱(ぼうこう)括約筋も正しい状態に働いているからだろうか。
 なあに、すべて”案ずるより産むがやすし”ということわざどおりなのだ、と納得しては、ひとり、カンラ、カラカラと笑う、お調子者のジジイではありました・・・。

 家の周りの林の中も歩き回って、冬の間に落ちていたカラマツの枯れ枝などを片付ける。
 今は、下草のササに負けじと、群落になっているベニバナイチヤクソウが咲き始め、ツマトリソウも点々と、白い小さな花を咲かせている。
 何よりもうれしいのは、一昨年去年と咲いてくれたクロユリ(’13.6.11、’14.6・2)が今年もまた数を増やして、五株十輪もの花を咲かせてくれたことだ。
 それも前回ここに書いた、二つに折れたあのナナカマドの木の根元の所で、よく巻き添えを食わなかったものだと、感謝して手を合わせたくなる。
 北アルプスで南アルプスでそして白山でと、いろいろと見てきたクロユリの花だが、それらの少し淡いこげ茶の色合いよりは、よりクロユリの名前にふさわしい、北海道産のつややかな黒こげ茶色の花びらを見せて咲いているのだ。(写真上) 

 こうして、本州では高山植物として見られている花が、この北海道の平地や丘陵部では、普通に咲いているのだ。
 このクロユリだけでなく、ベニバナイチヤクソウやツマトリソウもそうだし、他にもハクサンチドリ、コケモモ、ガンコウランなどもあり、あのハイマツでさえ海岸線に生えているくらいなのだ。
 つまり、北海道は、本州の高山環境以上の、苛酷(かこく)で冷涼な気候帯にあるという訳だし、それだけに、冬を耐えて、春から短い夏に向けての生育期間に、一気に花を咲かせることになるのだろう。
 それはともかく、わが家の庭のそばに、おそらくは鳥たちが運んだであろう種から、クロユリが咲くことになるとは、まるで”掌中の珠(しょうちゅうのたま)”を手にしたごとくに、今や私のいとおしさあふれる喜びの一つになったのだ。

 眺める楽しみは、この花たちだけでなく、この十勝平野の彼方に連なる日高山脈の山々もそうであり・・・まだ残雪が豊かに残る今の時期に、登りたいのだが・・・。
 そして今日は、まさにそんな素晴らしい登山日和(びより)の一日だったのに、私はこうして一日家にいて、ブログ書きのキーボードを叩いているのだ。
 上に書いたように、朝は3度と冷え込んだが、日中は暑かった昨日よりは8度余りも低い17度くらいで、さわやかな風が吹き渡り、快晴の一日だったのに・・・。

 行かなかった理由の一つには、このところの天気続きで気温が上がるだけでなく、空気も暖められてモヤのようにかすんでしまい、昨日は山も見えないくらいだったから、これでは展望もあまりきかないだろうし、行っても仕方がないと思っていたのだが、今朝早くは確かに山もどこかまだかすんで見えていたのだが、それが時間を追うごとにヴェールを脱ぐように、くっきりはっきりと山が見えるようになってきたのだ。山に行くべきだった。
 思えばその兆候(ちょうこう)といえるものは、昨日の天気予報での最高気温の低下にあったのだ。天気は晴れのままなのに、気温がぐんと下がる。つまり暖かい空気に代わって、澄んだ冷たい空気が入ってきたということだったのだ。
 その変化を読めなかった私が悪い、明日から天気は下り坂とのことだし。
 
 さらに自分に言い訳をすれば、月曜日にはこのブログを書かなければという、誰のためでもなく自分だけに課した、大した意味もない義務感みたいなものがあって。
 そして付け加えれば、家から日帰りで行ける山のほとんどには登っているし、どうしても今登りたいという山があるというわけでもなかったからなのだが。

 さて、こうしてブログを書いている間の一休みの時には、花と山だけではない、もう一つの眺める楽しみでもある、AKBの番組を見ていた。
 昨日録画したばかりの、いつものNHK・BSの『AKB48SHOW』。
 今月の新曲「僕たちは戦わない」は、2週間後の総選挙投票券との抱き合わせとはいえ、今の日本音楽界では他には考えられない、一桁違う145万枚という初日売り上げ枚数があったとのことであり、その32人選抜による歌とダンスは、壮観だと言えなくもないが、いまだに踊りにばらつきが目立つし、その上に今までの歌のように気安く口ずさめるような歌でないことだけは確かだ。この歌が、今の世界へのメッセージであるという気持ちはわかるが。

 そんな中でも今回面白かったのは、博多のHKT4人によるコーヒーショップのコントだ。
 ”はるっぴ、もりぽ(まどか)、める、らぶたん” (今では呼び名までも憶えてしまった)その4人が、それぞれ息もぴったりにお客を相手に繰り広げる寸劇、中でも舌足らずなセリフでボケる”はるっぴ”のおかしさ、少し前まではどこかぎこちなさの残っていたHKTメンバーたちの演技やセリフが、なんとそれぞれ自信に満ちて自然な演技に見えることか。
 この録画時期がいつだったのかは分からないけれども、どうしてもひと月前のあの東京明治座での、”指原梨乃座長、HKT公演”の、大きな成果の一つだろうと考えてしまうのだ。

 このHKTの成長ぶりを見れば、あの大阪のNMBはもともと吉本所属だし、もっと難波花月などの舞台に立ってほしいし、名古屋のSKEにしても、あの御園座での公演ができるようになればいいのにと思う。もちろん、AKB本店には、もともとミュージカル仕立ての公演があるし。
 となると、AKBグループは、歌と踊りのアイドル・グループというだけでなく、ミュージカル、演劇舞台、お笑い舞台などにまで道が広がるのだろうか・・・そのためにはもっと、宝塚並みとは言わないにしても、プロとしての訓練が必要だし、いやいや、その前にAKB自体が衰退してしまうことも・・・。

 昇る朝日に、沈む夕日・・・物事の始まりと終わり・・・次に昇ってくる朝日は、繰り返しての同じ朝日ではなく、その時々での次なる別な朝日なのだ。
 昨日、日中にはかすんで見えなかった日高の山なみが、落日の時には、それと分かるシルエットになって見えていた。
 沈みゆく太陽を、丸いカサが囲んでいた。(写真下)


 
  

  


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