ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

春の山、ほほえむ

2015-04-21 00:04:58 | Weblog



 4月20日

 何と2か月ぶりに山に登ってきた。山は、英彦山(ひこさん、標高は長い間1200mだったが、最近の測量で1199m)。
 この山には、高校生の時に登った記憶があり、数十年も前のことで、憶えているのはその時に廻った登山コースと、頂上への登り道が急であったことと最後は疲れ果ててしまったことぐらいで、道の途中の景観や山々の眺めがどうだったのかなどの細かいことは、ほとんど憶えていない。
 さらに悪いことには、この時の山行の写真が、なぜか1枚も残っていなくて。
 ということは、その時にはまだ自分のカメラを持っていなかったということだし(だからフィルムも残っていないし)、おそらくはその時同行したであろう友達からもらっていたはずの写真も、なくしてしまったのだ。

 今まで度々、写真と記憶の関連について、その重要性を思い知らされていたのだが、たとえば、まだ2歳くらいの私が若い母と一緒に写っている写真があって、その手には木工細工のゾウのおもちゃが握られているのだが、セピア色の写真なのに、今でもその色を憶えているのは。
 それは、当時の写真があることで、子供のころの記憶がよみがえってくるという一つの例だが、英彦山の場合は、1枚の写真もないことで、十分に成長した高校生の時の私でさえ、記憶がほとんど残っていないことになるのだろう。
 それだから、今回の英彦山登山では、様々な景観に出会い、ほとんど初めて登る山と言ってもいいくらいの経験ができたのだ。

 前日の天気予報から、全九州的に晴れのマークが続いていて、それもありがたいことに、人々で込み合わない平日に。
 前回にもこのブログで、ヤマザクラを見に山に行きたいと書いていたのだが、ようやくそれがかなうことになったのだ。
 それにしても、なぜに数十年ぶりに、この英彦山に行く気になったのか。
 大体今の時期は、もう九州を離れて北海道に行ってしまっているころなのだが、今年はまだこうして九州にいる。
 その理由は後述するが、ともかくこうしたヤマザクラから新緑へと変わる時期には、九州にいないことが多いのだ。(もっとも母とミャオがなくなったのは、この時期だったので、その時には家にいて、寂しさを紛らすためにも、新緑の山を歩き回ったのだが。)

 さて今回登った英彦山は、名にしおう九州一の霊山であり、調べてみると、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)がこの山に降臨したとして祀(まつ)られていて、その”天照、日の神の子”つまり”日の子の山”が”日子山”さらには”彦山”と呼ばれるようになったのは、平安時代初期の9世紀の嵯峨天皇の勅使をうけてのことであるとされており、さらに後年、接頭語としての”英”の称号を与えられて、以後”英彦山”と書かれるようになったとのことである。

 その歴史は古く、その9世紀の初めには、すでに山伏修験道の山として開かれていて、以来あの羽黒山、大峰山とともに日本三大修験道場としてその名を知られるようになり、江戸時代から明治初期に至るまでは、”お山参り”の”英彦山講”の人々でにぎわい、800もの山伏たちの坊舎を含む宿舎があったという。
 その後、明治時代になり、新政府の”神仏分離”の政策は、いわゆる”廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”の運動となって全国に広がり、こうした”お山参り”の”講”の数も激減していき、それとともに宿舎であった”坊”の数も少なくなり、門前町としての形も衰退していったのである。
 二年前に登った、あの中国地方一の名山であり、霊山でもある大山(だいせん)のふもとに続く門前町、大山寺町の石畳の街でも同じことを感じたのだが。(’13,3.12、19の項参照)

 もっとも、こうして宗教と山との資料を調べていくのは、当時の状況や賑わいさらには人々の思いなどがしのばれて興味深く、あの『日本百名山』を書いた深田久弥が、名山の条件として、山の標高と山としての品格の他に、人間とのかかわり、つまりその山に歴史的宗教的なかかわりがあることなどをあげていたのが、私も今そうした年寄りになってきて、彼の言うことがいささかでも理解できるようになってきたのだ。
 とはいっても、私はいまだに、山はその姿にあり、自然が彫琢し(ちょうたく)した芸術的なその姿かたちこそが、一番にあげられるべきものだと思ってはいるのだが。

 さてそうした英彦山に、またいつかは登りたいとは思っていたのだが、ベストな時期としては、春の桜と新緑、さらには紅葉の頃がいいと聞いていたので、その季節に行くつもりでいたのだが、あいにくそのころはいつも北海道にいて、チャンスがなかったし、また正直に言えば、頂上まで木が生えているような、高山景観に乏しい標高の低い山には、それほど登りたいとは思っていなかったということもあるのだが。 
 ところが今回、平日の快晴の日、新緑のころと条件がそろい、私は出かけることにしたのだ。
 英彦山まではそう遠くはなく、九重山と同じくらいで家からはわりと近い山だから、もっとしばしば登りに行ってもよいのだが、それは例えば思春期に、映画雑誌の外国美人女優ばかりに目がいって、日本の女優たちに目がいかなかったのと同じようなもので、年寄りになってようやく日本の古いものの良さが分かるようになってきて、こうした低い山の静かな森林歩きのよさもまた分かるようになってきたのだ。
 だからその意味では、今回の登山は、そうした年寄りの私の思いがかなえられた山行になったともいえるだろう。
 
 朝、家を出たのも遅かったし、途中で道に迷ったこともあって、登山口の別所の駐車場に着いて、そこから出発したのは、もう9時半にもなっていた。
 それでも、昨日の雨上がりの後の、青空が広がっているし、今頃から登ろうとする人はいないのか、前後に人影はなく、かえっていい時間帯に来たのだと納得した。
 そして、すぐに下の銅の鳥居から来た石畳の参道に出た。
 そこで、私は一瞬、立ち止まってしまった。何という見事な景観。(写真上)
 はるか上まで続く石畳の参道には、誰ひとりの姿もなく、両側のサクラ並木はすでに散ってしまっていたが、その緑や赤の色とりどりの新緑の鮮やかさ・・・。
 宿坊跡の石垣は苔(こけ)むしていて、まるで京都の静かな寺に来ているかのような・・・ただ青空の下、いっぱいに日が差していて、小鳥の声だけが聞こえていた。
 後ろを振り向いて参道の下の方を見ても、その宿舎や土産物屋などが並ぶ屋並みに続く道にも、他に人影はなかった。

 今までに多くの人々が行きかっただろう、すり減って丸く磨かれた石畳の階段を、私はひとりゆっくりと登って行った。 はるか上の方に、英彦山神宮奉幣殿(ほうへいでん)の屋根が見えていた。
 杉の並木の石段の道の途中に、両側にいっぱいになって白い花が咲いている。その灌木(かんぼく)の群落は・・・山で見る春の花の一つでもある、ミツマタだった。
 もう花は盛りを過ぎて、しぼみかけてはいたが、こうして集まって咲いていれば、まだまだ見頃かとも思えるほどだし、ましてこれほどに群れて咲いているのを見たのは初めてだった。
 上から杖をついて降りてくるお年寄りがひとり、あいさつを交わした。
 後になって分かったことだけれども、この表参道に人が少ないのは、この道から少し離れて並行して走るスロープカーと呼ばれるケーブルカーがあって、下の銅の鳥居から奉幣殿まで、このきつい石段を登らなくても行けるということ、さらに他にも幾つものコースが開かれていて、この英彦山では、登山だけが目的の人たちは、頂上まで続くこの表参道の石段の道を使わずに、北西尾根コースやうぐいす谷コース、さらには反対側の鬼杉コースそして北岳への豊前坊コースなどをそれぞれにつないで、”お山参り”ではない山登りを楽しんでいるからなのだろう。

 国宝にもなっている、英彦山神宮の奉幣殿前の広場に着いた。わずか30分ほどの登りだったのに息が切れて、まずはお手水場でのどをうるおし、奉幣殿の前で手を合わせた。
 そこから、上に続く石段を上ると、すぐに外宮に出て、さらに右手に曲がり、石段の面影は残しているが、幅の広い山道になって、杉林の中をジグザグに登って行く。
 やがて、あずまや風な休憩所があって、その先から少し杉の木がまばらになって一部見晴らしが開けてくる。
 後ろからいつ上がって来たのか、私と同じ世代くらいの夫婦が、息をはずませながら私を抜いて行った。
 ぐうたらな生活を続けて、二か月ものブランクがあれば当然のことだ。今の私には、こののろのろと動く足がやっとの所だった。

 やがてゆるやかな尾根に出て左に、中宮の社跡があり、立ち寄って手を合わせる。
 そのゆるやかな尾根道から、南側に、ヤマザクラの点々と見える谷を挟んで、ギザギザの尾根を連ねて、その名も恐ろしげな岳減鬼山(がくめきさん、1040m)が見える。
 この英彦山から耶馬溪(やばけい)、国東(くにさき)半島にかけては、修験道の山が多かったのだろうか、仏教用語的な名前が多く付けられていて、他にも経読岳、釈迦岳、求菩提(くぼて)山などなどとある。
 さらにゆるやかに登って行くと、左手の谷から北西尾根が続いていて、辺りには天然の杉の木の多くが立ち枯れしていて、それは明るい光景であり、前にテレビで見た大台ケ原の光景にも似て、いかにも高山地帯的な雰囲気ではあったが、一方では荒れ果てた山の哀れな姿にも見えた。
 立ち枯れの原因は何だろうか。台風被害がその始まりなのか、それとも中国大陸やそれまでの北九州工業地帯などの煙害による影響を受けての、酸性雨の被害なのか。

 そこで、行く手に社の屋根が見えてきて頂上かと思ったら、それはまだ手前の行者堂と呼ばれる御堂だったが、そのそばには湧水を集めた小さな井戸があって、冷たい水をおいしくいただくことができた。
 そこから先も枯れ杉の明るい尾根道で、ゆるやかな登りは続き、やっと行く手に2つ並んだ上宮の社の屋根が見えてきた。
 ここまでにさらに、若い人たち一人ずつの3人に追い抜かれていたが、もう気にすることもない。年寄りは年寄り並みの亀の歩みでいいのだ。いつかは着くのだから。
 そして、大きな社殿が2つ並ぶ上宮の頂上に着いた。何とコースタイム2時間足らずの所を、30分近くも余計にかかっている。

 この山行で私が知ったのは、日ごろからのぐうたらな不摂生(ふせっせい)の報いだということ。
 こんな体では、とても内地遠征の縦走の山旅などできるはずもないだろう。
 80歳でエヴェレストに登った三浦雄一郎さん、モンブラン山頂で卒寿を祝った今は亡き久留米医大の脇坂先生、75歳になっても富士山に毎日登っている佐々木茂良さん(新潮新書)・・・私よりははるかに年上の、山の諸先輩がたがこうして強い意志を持って山に登っているというのに。
 それなのに、ぐうたらに毎日を過ごし、体重は全盛期のころより10kg近くも増え、ろくに運動もせず、2か月ぶりに山に登れば、バテバテになるのは当たり前だ。
 このブログでは、もっともらしい偉そうなことを書いているわりには、自分で実践していることは何一つなく、ただ無為大食の自堕落な日々を送るだけで・・・あの医学バラエティー番組ではないけれど・・・検査を受けては悪い数値ばかりが並び・・・”いつかくるー、きっとくるー”とのアナウンスが響いてくるのだろう。
 さらには、あの”ブッダの最後の言葉”が、”怠けるな”とも聞こえてくるのだが・・・。(『ブッダの最期のことば』 田上太秀著 NHK出版) 
 
 この上宮の社殿が並ぶ頂上の下には、広場があって、私を抜いて行った人々など10数人余りでにぎわっていた。
 木々の間から、北岳に続く尾根道が見え、さらに南側の展望はかすんでいて、かろうじて由布岳の山影が見えるくらいだった。私はそこで、数分の間腰を下ろしただけで、人々の声から離れて、南岳へと向かう急斜面を下りて行った。
 その鞍部(あんぶ)辺りには、たぶんシロモジなのだろうが、黄色い小さな花を枝いっぱいにつけた木が幾つもあって、まだ枯れ枝の多い木々の中、そこだけ春が来ているかのようだった。
 ただ残念なのは、この中岳からの南斜面には、古いゴミなのだろうが、ガラスやプラスティックなどの破片が点々と見えていたことだ。
 思えば、この英彦山は、飯塚や田川の盆地方面からのどこからもよく見えていて、さすがに北九州随一の高さを誇る山であり、そうして名山として古くからよく登られているだけに、今ほどに山の美観がうるさく言われなかった時代だから、気楽に捨てられていたゴミがこうして残っているのだろうが、霊山としては余りにも残念な光景ではあった。
 
 さて今度は同じような急坂を登り返して、最高点の三角点がある南岳に着くが、ここもまばらな木に囲まれていて、そばにある壊れかけの鉄製の展望台に上がってみるが、やはり九重方面は霞んでいて見えなかった。
 この南岳からの下りで、少し長い鎖場が三か所ほど出てくるが、注意して下れば鎖に頼らなくても降りて行くことができるし、なにより、鎖のある岩場だけに露岩になっていて、南西方向の展望が素晴らしく、やはり目の前の点々と見える、ヤマザクラの谷を隔てた岳減鬼山の眺めが素晴らしい。
 途中で、元気に登って来る中高年グループに道を空けた。そして、ようやく、むき出しの岩場を終えて、所々にブナの木がある林の中に入って行く。
 
 さらに下ると、材木岩と呼ばれる見事な柱状節理(ちゅうじょうせつり)の岩があり、他にも溶岩が押し出されたような岩や、灰色や赤い色の土が見えている所もあって、英彦山が噴火口を持たない、幾つかの古いトロイデ(鐘状形)からなる火山だったようにも見えるのだが。

 そこで、下から登って来る若い男とすれ違ったのだが、その後は奉幣殿に戻るまでの間、人の声ひとつ聞こえず誰にも出会わない、林の中の静かな山歩きを楽しむことができた。
 そこから涸れ沢状の急坂を下ると、四つ辻に出て、道標の方向へと下ると、途中から水の流れる音がして、あたりには高い杉の木が目立ちはじめて、その中でも一際巨大な幹回りで、天空をめざしてそびえ立つがごとき一本の杉が見えてきた・・・それは”鬼杉”と呼ばれるもので、推定樹齢1200年、幹回り12m樹高38mにもなるという。
 どうしても、あの4年前に行った屋久島の”縄文杉”のことを思ってしまう(’11.6.25の項参照)。
 どちらがどうと比べるのではなく、周りの木々から抜きん出てひときわ高く長く生きてきたものが持つ、あたりを払うがごとき威厳あるたたずまいに、私は立ちずさんでただ手を合わせるだけだった。
 せせらぎの傍で腰を下ろし、鬼杉の傍で、誰にも邪魔されない幸せなひと時を過ごした。
 
 このまま下って行ってもいいのだが、先ほどの四つ辻まで戻った方が距離的には短いからと、少し登り返し、洞窟(どうくつ)の中に作られた大南神社を経由して戻り、それからは英彦山の南西面をトラバース気味に下って行く道になるが、途中杉林の中の大下りが二か所、さらに小さな登り返しも何か所かはあるが、水場になる沢の流れが三か所もあり、さらには北海道だけかと思っていた、フッキソウの一大群落地があり、所々に見える新緑の緑とヤマザクラなどの見どころもあって、なかなかにいい道だった。
 そして山側には、四王寺滝や梵字(ぼんじ)岩、虚空不動などへ行く道標もあったが、私が楽しみにしていたのは、地図に展望岩と書かれていた所で、玉屋見口(たまやみぐち)の標識の所から、山側とは反対側の細い尾根をたどって行くと、何とその先は露岩の幅数十センチくらいしかない両側が切れ落ちた、まさしくナイフリッジの所を通らねばならず、一瞬ひるんだほどであるが、期待していた展望を得るためにはと、神経を張り巡らせてようやく向こう側の平たい岩の上に出た。

 振り返ると期待通りの素晴らしい眺めだった。
 まず北側には、私のたどってきた奉幣殿からの表参道尾根が続いていて、谷あいを埋める春色に変わりつつある杉林との間には、まだ枯れ枝色の木々の間に、ヤマザクラの暖かいふくらみが点々と見えていた。(写真下)

 

 その光景は、青空に向かって、さらには春に向かって、山がほほえんでいるようにも見えた。
 この眺めこそが、私の見たかった九州の山の春の景色だったのだ。
 さらにこの尾根を右手にたどって、東側に目をやると、萌えいずる新緑の木々の彼方、奥の方に上宮の屋根が少しのぞいている中岳と、南岳が並んで見えていた。(写真下)

  
 
 その露岩のバルコニーに腰を下ろして、今日一番の眺めを楽しんだ。
 辺りには、人の気配ひとつもなかった。山に対座して、私がひとり居るだけだった。
 これだから、山はやめられないのだ。
 
 私は満足して、再びせまい岩の道を戻った。もう後は、ゆるやかに杉林の道を下っていくだけだった。
 この山行の間、私の口をついて出ていたのは。
 あのAKBの姉妹グループの一つ、乃木坂46の歌う「君の名は希望」 だった。(2月9日の項参照)
 それも登りでは、前半の少し悲しい歌の部分が多かったのだが、今口をついて出てくるのは、後半のまさに希望に満ちた歌詞の部分だった。

 「未来はいつだって、ときめきと出会いの場。

 君の名前は、希望と、今知った。・・・」  (秋元康作詞)

 ほどなく奉幣殿に戻り、再び社殿に手を合わせて、痛むヒザをかばいながら石段を下りて行った。
 行きに見た、新緑の緑と赤い色が再び逆光に映えてきれいだった。
 別所の駐車場に戻ると、クルマは数台残っているだけだった。
 もう4時に近かった。コースタイムよりは長く、6時間半近くもかかってしまったけれど、私にはこれ以上時間がかかるのはもう無理だし、程よい時間だった。
 ただし、無駄に長い月日を空けての、2か月ぶりの登山ということは、やはりその報いを受けても当然のことでもあったのだ。
 つまり、次の日から三日間、ふくらはぎからふとももにかけて、激しい筋肉痛が続いて、私は歩くのがやっとの状態になったのだ。

 今回もまた、ここまででいっぱいいっぱいの原稿の量になり、乃木坂46の歌についての話を書くことができなかったし、気になるAKBメンバーたちの話題についても書くことができなかった。
 それよりも、最初にも少しふれたのだが、今頃はもう北海道に戻っているはずなのに、なぜまだここにいるのか。
 理由は簡単だ。
 年寄りになって、すっかりわがままになってしまったのだ。
 長い旅行で動き回るのが、いやになってしまったのだ。
 さらには、あんな水も十分に使えない所に、それだから、風呂にも洗濯にも苦労するような所に、夜中のトイレにさえ外に出なければならない所に、帰るのかと思うと・・・。
 若いころには、それほど苦労とは思わなかったことが、年を取るにつれ少しずつ面倒に思えてくるのだ。
 もっとも、自分が好きで住み着いた北海道だから、行けば行ったで、ああやっぱりいいなと思うのだろうが、そこに行くまでの決心をするのが・・・。
 それは、北海道だけではない。この冬は、恒例の本州の雪山登山にさえ行かなったのだから。

 このままここで、水も豊富に使えて、風呂にも毎日入れて、毎日洗濯もできて、夜中に起きても家の中に水洗トイレがある、それが普通の一般家庭なのだろうが、そんなこの家にずっといたほうが楽なのだ。
 さらに、これから5月の連休にかけては、ビートルズのポールが来てあちこちでコンサートを開くし、日米首脳会談はあるわ、その他の催し物で込み合うことは必定、それなら家でAKBのビデオでも見ていた方がいいと、このタヌキおやじは考えたわけでありまして、はたしてこの腹黒ダヌキが自分の巣からはい出してくるのはいつになるのでしょうか。
 ああ、ここまで書いてきたら、もう真夜中になってしまった。
 春が来た。チョウチョが飛んでいる・・・よいよいと。
  

 


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