ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

釣り師に釣られて

2015-04-13 22:33:27 | Weblog



 4月13日

 前回、ここに写真を載せていた、咲き始めたばかりのシャクナゲの花が、今ではもう五分咲き位に開いていて、周りが明るく見えるほどである。
 毎年見慣れているはずなのに、それは思わず見とれてしまう華やかさだ。
 しかし一方では、その下には、雨に打たれ風に吹かれて舞い散ったサクラの花びらが、地面いっぱいに散り敷いている。(写真上)
 物事には、すべて時の順番があり、まして短い盛りの花の命ゆえに、人の身に置き換えて物思いにもふけりたくなるのだ。

 昔の人が歌に詠(よ)んだ、春に咲く花への思いは、まさにその散りゆく美しき花々への、惜別の思いを込めて、三十一(みそひと)文字の和歌の中に組み入れたものなのだろう。

 「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 (『古今集』あるいは『百人一首』の中の、小野小町の歌)
 
 美しいといわれるのは、散りゆくまでのほんの短いひと時でしかないだけに、思いはかきたてられて、狂おしいばかりの恋慕の情となってあふれ出てくるのだ。
 花への思いは、美しき相手への思い、そして若き日の恋、大人の恋、老いらくの恋・・・。
 本能に駆られての激情に身をふるわせて、またある時はそのあふれる思いを、ただ我が心のうちに押しとどめて・・・。
 互いの思いは交錯し、近づき離れ、そのまま時の流れの中で、淡い薄墨で書かれた言葉のように、いつしか消えていき、ついには互いの身さえもこの世から去っていくのだから。

 だからこそそれだけに、美しいと思える今の時が、なによりも貴重なひと時なのだ。
 あのNHKの朝の連続ドラマ『マッサン』の中で、エリーが歌っていた歌。

 ”いのち短し、恋せよ乙女。

 あかき唇あせぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に。

 明日の月日はないものを。” 

 (「ゴンドラの唄」 吉井勇作詞 中山晋平作曲 松井須磨子歌 1915年・・・何と今から100年も前の歌になるのだ。)

 そこで、私は、どうしてもあのAKBの娘たちのことを思ってしまう。
 
 今回は、それまでに少し小むずかしく考えてきた社会文化各論としての話からは離れて、このAKBグループについていろいろと書いてみたいと思うのだが、最初に言っておきたいことは、それはあくまでも、じじいである私が、孫娘たちすべての幸せを願うゆえの、老婆心(ろうばしん)ならぬ老爺心(ろうじいしん)から、あれこれと書き綴(つづ)るのであって、もとより他意はなく、もしいきすぎた思いや間違いがあれば、哀れな年寄りのたわごと、世迷い言葉として見過ごされますように。
 さらには、ここに書くことは、自分のためにでもあって、今の彼女たちの”青春の光と影”を見ることによって、遠い昔の自分の若き日の姿を、その硬軟(こうなん)織り混ぜた、今にして思えば、あのころの余りにもあやうい自分の姿をも、思い出させてくれるからなのだ。
 そうした、今と昔のわが身を振り返り見ることのできる視点からいえば、彼女たちが、今という時の中で、大小取り混ぜた中にある一輪の花のように、それぞれが自分なりの姿でツボミから花へと開いてゆき、それが後になって自分だけのかけがえのない青春だったことがわかるように、それらのすべてのことが、若き日の輝かしい記憶として刻まれていくように願うばかりなのだ。

 それは、”オタク”と呼ばれる熱心なファンたちのような、一人の子だけの”推しメン(バー)”としてではなく、300名もいるすべての子たちの顔は憶えられないとしても、AKBグループという群れの中にいるメンバーの一員として、それぞれに光が当たるように、さらには、姉妹グループとして、東京のAKB、名古屋のSKE、大阪のNMB、福岡のHKTさらには乃木坂46のどこかだけのファンで、他は敵などというのではなく、さらには違うファンの間で敵味方としていがみ合うのではなく、それぞれの良いところを認めつつ、ファンである自分たちにとっては、AKBグループの歌や踊りが、日々の心の癒(いや)しになるものだと分かったところで、AKBグループのすべてに感謝の気持ちを持つようになってくれればと思うのだが・・・理想的には。
 ともかく、AKBグループのすべては、秋元康(あきもとやすし)という、作詞家であり稀代(きだい)の興行師(プロデューサー)でもある多才な男の、芸能界への一つの挑戦から生まれた、”やさしくゆるい”歌合戦リーグの中にある、同じ仲間なのだから。

 さて、まずこの春に発表された各グループへの新曲は、今までにもこのブログ内で少しふれてはきたが、いつものようにその作詞を一手に引き受ける秋元康によって、それぞれにその曲の趣向が考えられていて、なかなかに興味深いものだった。
 AKBの総選挙投票券が付いている、5月発売予定の新曲CD「僕たちは戦わない」は、まだ一回聞いただけだから十分に評価はできないが、3月9日の項で「Green Flash」での若手3人のセンター並びが素晴らしいと書いていたのだが、この新曲ではその通りの形になっていて、見た目からいえば申し分ないのだが。
 NMBの「Don't Look Back」は、中心メンバー山田菜々の卒業曲ということで、去年のAKB大島優子の卒業曲「前しか向かねえ」に似た、力強いリズム感が心地よい。
 SKEの「コケティッシュ、君に渋滞中」は、ダブル松井がセンターに戻ってきて、いつも通りの明るく元気な歌と踊りで、いつものSKEだということで安心して見ていられる。
 HKTの「12秒」は、HKTらしく若々しさのあふれる曲のようだが、まだちゃんと見ていないので、評価のしようがない。

 それにしても、秋元康は、時々中高年の世代しか知らないような言葉を使って、平成生まれの娘たちに歌わせているのだが、この”コケティッシュ(蠱惑的こわくてき)” というフランス語は、セクシー女優のフランソワーズ・アルヌールやミレーヌ・ドモンジョなどがいた時代に使われていた言葉で、日本語としては忘れ去られていた言葉だったのに、今聞くとどこか新鮮に聞こえてしまう。
 そういうふうに、彼が書く曲の詩には、AKBグループの若い娘たちにとっては、おそらく聞いたこともないだろう言葉が、かなりひんぱん出てくるのだが。
 この”コケティッシュ”だけでなく、例えば、私の好きな名曲「でもでもの涙」の中で、”緞帳(どんちょう)を下ろすように”と歌われているが、これはまさに初恋に破れておごそかに幕が下ろされるイメージにふさわしい言葉なのだが、若い彼女たちのイメージとしては”白いカーテンが閉められるように” とした方が分かりやすいだろうに、あえて”緞帳”という言葉を使ったのは、つまり彼は、私たち中高年のもどかしいロマンチックな感情を揺り動かすために、中高年好みの言葉を使い、今の時代の若い娘たちに歌わせては、私たち中高年のファンに、若いころの疑似(ぎじ)体験をさせようとしているのではないのか、とさえ勘ぐってしまうほどなのだ。

 全国でその時々に開かれる、AKBグループ・メンバーたちの握手会では、大阪NMBの”ミルキー”渡辺美優紀が有名であり、来てくれるファンの一人一人と親密に、それこそ”コケティッシュに”握手してくれることで、彼らを自分のファンとして取り込んでしまうことから、”釣り師”と呼ばれているのだが、実は私たち中高年のAKBファンは、この秋元康の作詞の言葉と、さらには”山師”である興行師による若い娘たちの舞台を見せられて、いつの間にか”釣られていた”のではないのだろうか。

 つまりAKBの最大の”釣り師”は、秋元康その人なのかもしれない。

 その”釣り師”秋元康が、仕掛けた次なる一手が、日本橋浜町の明治座での、あのHKT”さっしー”『指原莉乃(さしはらりの)座長公演』だったのだ。 
 その昔、東京にいたころ、上京してきた母を連れてその明治座の舞台を見せに連れて行ったことがあるが、当時の歌舞伎座や新橋演舞場などと同じく、なかなかに伝統を感じさせる内外観であったことは憶えているが(今では巨大なビルの中にあるそうだが)、その時の演じものが”新派”だったのか”新国劇”だったのかなども、今では思い出せない。
 そんな日本の古典、伝統演劇を演じる花道のある舞台に、何と今の時代のキャピキャピなアイドル・グループ福岡のHKTが出演するなんてと、その話を聞いた時から、どうなることかと親心ながら心配はしていたのだが、一方では、何も伝統演劇ファンが見に来るわけではなく、HKTのファンが見に来るわけだから、1400足らずという座席数からいえば(2週間公演で約2万人だとしても)、一回のコンサートで何万人も動員できるHKTからしてもそう無理な数ではないし、ただ曲がりなりにも舞台での書き下ろし演劇をやるとなれば、テレビやコンサートとは違う、演技発声を含めての舞台での作法というものがあるから、素人(しろうと)同然の彼女たちに、果たして観客に披露できるまでに立派に演じることができるのか、などなど気がかりな点は尽きなかったのだが・・・。

 そして4月8日に開演したその舞台について、翌日のAKB情報サイトだけでなく、一般ニュース・サイトにもその『指原莉乃座長・明治座公演』のニュースが取り上げられていて、実際に行って見てきたHKTファンの書き込みがすべて好意的で興奮気味なのは分かるとしても、ニュース・サイト記事でさえも”革新的成功”とさえ讃えている所もあった位なのだ。
 まずは良かった。あとは2週間公演の最後まで、無事に続いてやり終えてくれることを祈るばかりだ。
 前々から、(去年’14.8.25や11.10の項などで)、AKBの行く末に対する心配があって、その時にも書いていたように、こうした方面に出ていくことが望ましいとは思っていたのだが、ただ部外者のファンでしかない私たちが、あれやこれや言う前に、すでに当然のことながら、秋元康をはじめとする運営サイドはもう何年も前から別なジャンルへと考えていたのだろう。
 さらに今度の舞台について、いくつかのAKB情報サイトでは、一般匿名(とくめい)者たちが、こうすべきだああすべきだと批判をまじえて多数の書き込みをしているけれど、ほとんどは一顧(いっこ)するだに値しない自分勝手なものばかりであり、それは、本当にAKBグループ全員の将来への責任がかかっている運営サイドと、気楽な口先だけの何の責任感もない外野席との、倫理観の差だと言わざるを得ないものなのだ。
 ここまで巨大化し、さらに増えていくAKBグループを、うまく制御(せいぎょ)しながらも将来へと導いていくことが必要であり、そのためにはここで成功すれば、さらなるメンバーたちの出演先を開拓していくことができるだろうし、そのための方策としての舞台進出だったのだと、そんな強い思いがひしひしと感じとれる、AKB運営サイドの”渾身(こんしん)の一手”だったのだ。
 さらに彼らの行く先に見えているのは、あの宝塚劇場に匹敵するような、巨大な専用劇場の設立なのだろうが・・・。

 さて今回の明治座での成功は、たんに運営サイド側の思い入れだけで実現できたものではない。
 そこにアイドルとしては、今までに類を見ない稀代のタレント、”さっしー”指原莉乃(さしはらりの)の存在があったから可能だったのだ。
 果たして、”さっしー”以外にAKBグループの誰が、今回の舞台公演を座長として取りまとめて演じることができただろうか。(まあ、総監督の”たかみな”の名をあげることもできるだろうが、”さっしー”ほどのエンターテイナーではないし。) 

 この”さっしー”は、有名になる前のスキャンダルで、東京のAKBを追われ、新天地の福岡HKTに移籍させられたのだが、そこで心機一転、総選挙4位の実力とたぐいまれなるプロデュース能力で、まだ若いメンバーばかりで実力もなかったHKTというグループを、他の姉妹グループに匹敵するぐらいの地位にまで押し上げ、さらには自ら総選挙1位の栄冠も勝ち取ったのだ。そんな彼女の力を認めないものは、誰もいないだろう。
 まだまだ彼女の可能性は、AKBの将来へとつながるのだろうが、ただしそう長くはいないと言っている彼女が、いつかは卒業するという不安もあるし・・・。
 (今年卒業する”たかみな”と、この”さっしー”の統率力と才能はだれもが分かっていることであり、AKBグループの裏方支配人などとして何とか残れないものだろうか・・・。) 

 所で、この明治座での舞台の二部の”歌謡ショー”で、”さっしー”が何と私の好きなあの乃木坂46の「君の名は希望」を歌ったとのことで、彼女はツイッターなどで、この曲を歌う時には”コール”掛け声などを入れないで言っていたそうだが、つまりそれは自分もいじめられた経験をもつ彼女の、この歌に対する思い入れからなのだろう。

 (余談だが、少し前にあるラジオ番組で、将来に残したい曲ということでアンケートがとられていて、AKB系の歌としては、”さっしー”がセンターだった「恋するフォーチュンクッキー」が3位になり、さらには乃木坂の「君の名は希望」もランクインしていたのだが、そのコメント欄に、”あんな辛気(しんき)臭い歌のどこがいいのか”という書き込みがされていたが、おそらくそれを書いた彼は、子供時代にいじめを受けたこともなく、友達の多い楽しい学校生活を送ったことだろうから、とてもあの歌の主人公の気持ちなど分からなかったのだろう・・・。世の中は、それほどに様々なのだ。
  他にも、掛け声が不要なというよりじゃまな曲は、「でもでもの涙」でもそうなのだが、AKBの歌が好きなファンであるならば、そのあたりの区別はつきそうなものだが。
   さらにこれも余談だが、その舞台で同じHKTの、というよりAKBの次の世代を代表する一人である宮脇咲良(さくら)と”さっしー”の二人で、おそらく「君の名は希望」を歌っているだろう写真が、情報サイトに載っていた。濃紺の闇夜に星がちりばめられているようなベールを背景に、今のHKTを代表する二人が立っている。
 HKTでの師弟でもありライバルでもある二人、AKBの今と未来を表しているような二人。いい写真だった。ダウンロードして、パソコンの壁紙にした。)

 ところでAKBグループを代表する顔の一人が、こうして”さっしー”指原莉乃であることに異論はないだろうが、もう一人はといえば、去年の総選挙第1位の”まゆゆ”渡辺麻友であることに、これまた異論はないだろう。
 澄み切ったその歌声と同じように、品行方正にアイドルの王道を歩いてきた彼女こそ、常に選抜上位の位置にいて、AKBそのものの顔だと思う人がいても当然のことだが、(あの去年の総選挙曲「ラブラドール・レトリバー」での、センターで歌う彼女の何ときれいだったことか、”ほれてまうやろー”。
 しかし今の彼女の、あえて欠点を言えば、昔のかわいいアイドルのままでは・・・、多様性の才能が求められる今の時代には、それだけでは不十分だと自分でも分かっていたのだろうし、だからこその、運営サイドの後押しによる次なる一手、テレビ・ドラマ進出が考えられていたのだろう。

 もちろん、一方の”さっしー”には、多様性の才能があっても、アイドルとしての可愛さには一歩及ばないと自ら認めたうえで、もっとも彼女はそれをばねにして、自分を出せる部分で、巧みな会話と行動で、さらにAKB一と言われるきれいな脚を意識して、勝負をかけていたのだ。
 つまりメンバーの皆は誰でも、こうしてどこかに自分では分かっている欠点を持ちながらも、一方では自分だけの自信を胸に期待をふくらませて、一歩でも前にと、けなげに努力しているのだ。
  それなのに、心ない匿名の書き込み投稿者たちは、彼女たちが持って生まれた変えられない外見に対してさえ、侮辱(ぶじょく)的な言葉で攻め立てるのだ。卑怯者(ひきょうもの)という言葉は、今の時代では使われないものなのだろうか。
 
 ともかく”さっしー”とともにAKBを率いる”顔”である、”まゆゆ”が、明日からのフジテレビ系夜のドラマで、あの稲森いずみとともにダブル主演として『戦う!書店ガール』に登場するのだ。
 日頃ドラマなど見ない私だが、これはしっかり録画して見ることにしよう。
 ”まゆゆ”が、前田敦子、大島優子と続いたAKBセンターの実力通りに、テレビ・ドラマ主演女優への道を確かなものとして、切り開いていってほしい。
 指原莉乃の舞台成功と、渡辺麻友のテレビドラマ成功の二つは、これからのAKBの未来のためにもぜひとも必要なことなのだ。
 同時間帯の裏番組には悪いけれども、何としてもそれらの視聴率を上回りますように・・・。

 しかし、これだけで終わりではなく、まだまだ乃木坂の歌についてなど、書きたいことは他にもあったのだが、ここまで書いてきて疲れてしまった、次回に回すことにしよう。

 ところで、もう何と、二か月近くも山に行っていないのだ。
   この桜の時期に、ヤマザクラを見にいこうと、もう何年も行っていない山に登ってみようかと思っていたのだが、何ということか、この花時に合わせて、天気の悪い日が続いてしまい、この十日余りの間に晴れたのは土曜日の一日だけで、その日も雲が多く、遠くまでの見通しもきかないほどの空模様だった。
 そこで仕方なく、家から歩く坂道を1時間半ほど歩いてきたのだが、それだけでも下着が濡れてしまうほどに汗をかいてしまった。もっともそれが年寄りにはいい運動になるし、またあちこちに残るヤマザクラや、濃い色のヤエザクラなどを楽しむこともできたのだ。
 そして、谷あいの方から、木々の新緑が少しずつ上がってきていた。
 それは、サクラ以上に、山の春を感じさせる眺めだった。(写真)




  


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