ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪の回廊

2015-02-09 22:35:50 | Weblog



 2月9日
 
 数日前に、ようやく20㎝程の雪が積もり、この冬初めてのまともな雪かき作業になった。(雪国の人たちには申し訳ないが。)
 表の道まで2時間近くの作業で、すっかり汗をかいて家に戻ると、いつもは寒い部屋なのに暑く感じられるほどだった。
 下着を着換えながら、テレビで天気予報を見ていると、この後はさらに晴れてきて、明日の午前中くらいまではもつだろうとのことだった。 
 その通りに、今まで曇っていた空にも青空が広がってきた。
 
 前回にも書いたように、この冬の九州北部の山の天気は、雪が降った後の晴れた日がほとんど土日に重なっていて、多くの普通の平日勤務の人たちにとっては、今年は雪山を味わうには最高の年だったことだろう。
 今回もその例にもれず、明日は休日でさらに天気も晴れの予報だった。
 しかし、人のいない山に登りたいから、原則的には休日には出かけたくないという、変態的登山愛好家である私には、どうにも満足の出来ない冬山シーズンになりそうである。
 そこで、思いついたのだ。手塚治虫の漫画に出てくる、アセチレン・ランプの頭の上のローソクに、ぽっと灯がともったように。
 それならば、天気も回復してくるという昼過ぎに出かけて、夕日が沈む光景を山の上で見て戻ってくればいいじゃないかと。

 ウェブのライブカメラで見ると、峠の駐車場にはこの雪の中、数台の車が止まっているのが見えるし、背後の山の上には青空も少し見えている。
 よし、行こう。 
 家で昼食をすませた後、車に乗って家を出る。
 昨夜から早朝にかけて、水分(みずわけ)峠を越える国道では、雪のために100台を超える車が動けなくなり、長時間並んでいたというニュースもあり、それ以上の山道ではと心配していたが、さすがに九州だ、道は半分以上で雪が消えていた。
 もちろん、まだ圧雪アイスバーンの部分も多いから、慎重に走って行くが、なにぶんこの雪で車の通行量が少ないのがありがたい。
 牧ノ戸峠の駐車場には、それでもこうして雪山の好きな人たちの車が10数台は停まっていた。
 
 登山口から歩き始めたころには、もうかなり青空が広がってきていて、周りのノリウツギやハンノキの林が一面の白い霧氷に輝いていた。 山は、やっぱりいいなあ。
 またしても前回の登山からは、1か月も間が空いてしまったが、時々立ち止まっては写真を撮りながら行くので、そう体にきついわけでもない。 
 周りの山々も何とか見えてはいるが、湿度が高いのだろうかそれとも大気が濁っているのか、いつもほどくっきりとは見えていないのが少し気になる。

 もう何度も通う、おなじみの牧ノ戸峠(1330m)ー沓掛山(1503m)ー九重本峰群へとたどる道ではあるが、いつも来るたびに異なった姿を見せてくれる、この九重の冬の雪氷景観は見あきることがない。
 まずは、沓掛山稜線の霧氷回廊を抜けて、左手雪の草原のかなたに三俣山(1745m)が見える風景も絵になるし、さらにゆるやかな尾根道が続き、その途中から見た、ナベ谷の霧氷に覆われた木々の姿も印象的だった。(写真上)
 このナベ谷は夏に、ずっと下流の方から沢登りで遡行してきたことはあるが、秋の紅葉時期にはいつも北海道の方だから、まともに九重の紅葉を見たことがなく、いつかはしっかりと紅葉を見たいものだと思っているのだが。
 
 そして、今はもう午後遅く、行き交う人はまれになり、人気のない静かな山になってきたのはいいのだが、相変わらず西から流れてくる雲の多さだけが気がかりだった。
 扇ヶ鼻(1698m)の分岐の手前あたりから、風紋やシュカブラの雪氷芸術が見られるようになってくる。(写真)



 そこで、青空が広がり日が差し込んできた時に、すぐに写真が撮れるようにと身構えていた。
 そうしていつも、三脚も使わず多くは手持ちで、ブレが気になる時は持っているストックを一脚代わりにして、場当たり的に撮っているだけだから、私の写真がうまくならないのは自分でも分かってはいるのだが。
 ともかく若い頃は特に、何としても頂上に早く着きたいし、そこからの景色を早く見たいと思いながらの展望目的登山だったし、写真はあくまでも、その山登りの時の思い出として撮っているにすぎなかったのだ。
 しかし、今では、写真を撮ることの方がより大きな目的になっていて、登る時間にはこだわらなくなり、ただ自分が好む山の景観をカメラに収められればいいと思うようになっているのだ。と言いながらも、時間が気になり次の所に早くというクセは。今になってもまだ続いているが。
 
 今回は、星生山(1762m)に登って、そこからの夕日の眺めを楽しみたいと思っていたのだが、まだ夕日になるまでの時間はあるし、ともかくはいつもの久住山の姿を見たいと、星生分岐からそのまま西千里浜の平たん地の道をたどって行った。
  雪は30㎝程で、多くの人が通った跡がトレースとしてついているから歩きやすいが、一歩外れると歩きにくくなるから、足跡のついていない星生山の登りは苦労することになるだろう。
 そして前方に、流れゆく雲に洗われながら、あの久住本峰(1787m)の姿が見えてきた。
 本当は、ここから見える久住山の姿を背景に、前面に夕日に染まるシュカブラ風紋の雪氷紋様を入れての眺めを見てみたいのだが、残念ながら冬場の夕日は、その前に手前の肥前ヶ城(1685m)の山陰に隠れてしまい、夕日が当たる前に色あせてしまうのだ。
 だから今のうちに、日陰になる前に写真を撮りたかったので、そこでしばらく待つことにした。
 
 相変わらず雲の流れが速く、青空と山は隠れたり現われたりで、全部が太陽の光に照らし出されてというチャンスはなかなか訪れなかった。
 ただ、夕方に近いこの時間、歩いている人はもう誰もいなくて、この広がり見える山の中には私ひとりだけだと思えるのが、いい気分だった。
 そして、風紋もシュカブラの発達も今一つだったが、ともかく青空が広がった一瞬にいつもの久住の鋭鋒の姿を写すことができた。(写真)

 

 しかしそれもほんの一瞬だけで、再び頂きには雲がまとわりつき、周りの星生山や扇ヶ鼻方面も雲に隠れてしまった。
 これではとても、星生からの夕日など無理な話だとあきらめて、とりあえず少し先の星生崎下のコブ(1660m)のポイントまで行ってみることにした。 
 岩塊帯の斜面につけられたトレースをたどり、その縦走路から離れて、足跡のない雪面に足をもぐらせてコブの高みの所まで行ってみた。
 そこからは、天気のいい日なら、眼前に久住本峰の姿と対峙(たいじ)して、その右手遠くには祖母山(1756m)や阿蘇山(1592m)の姿を見て、左手には中岳(1791m)と天狗ヶ城(1780m)、さらにその奥には平治岳(1643m)の姿も見ることのできる、私の好きな場所なのだが、相変わらず雲の行き来が早く、山々には雲がまとわりついたままだった。
 風も吹きつけていて、先ほど雪で少し濡らしたズボンの一部がもうパリパリに凍りついていたし、顔が痛いほどの寒さだった。依然として山々には厚い雲が下りたままだし、6時前の日没にはまだ時間があり、雲が取れてくる可能性もないわけではなかったが、私はあきらめて戻ることにした。
 今日、これだけ雪山の景色を見られただけでも十分じゃないかと、自分に言い聞かせながら。

 帰りの雪道の下りは、早い。
 雪のない時の登山道での、つまづくような石ころもなく下に埋もれ、踏み固められたサラサラの雪の上を、なめらかに歩いて行けるのだ。
 そして、歌を口ずさみながら。今回の雪山ハイキングで、ずっと私の口をついて出ていた歌は、何とあのAKBの公式ライバルと言われている、”乃木坂(のぎざか)46”の「君の名は希望」だったのだ。
 移り気な私のこと、早くもその心はAKBグループから離れて、ついに”乃木坂”に移ってしまったのか。
 この少女趣味の”変態じじい”めが、と言われれば、返す言葉もない。
 ”はい、私が変なじいさんです、だから、変なじいさん。だっふんだー。” 

 まあ言い訳をさせてもらえれば、それは単純に今一番気になっている歌が、山を登る時のリズムとして、とっさに口をついて出ただけの話なのだが、というのも、実は私がずっと見続けているあのNHK・BSの”AKB48SHOW”は、ちょうど私がAKBのファンになったころから始まっていて、夜遅い番組なので(最近は朝に再放送)、録画して見ていたのだが、そのいくつかは録画したままになっていて、最近それを見返して気づいたのだ。
 それは”AKB48SHOW別冊”として放送されていた、”乃木坂46SHOW”であり、当時AKB以外にあまり関心のなかった私は、乃木坂はもとよりSKEもNMBも、さらには当時あまりにも子供じみて見えるHKTでさえ、番組の中身を編集して、AKB以外はカットしていたのだが、そういえばこの1年前の乃木坂の番組を消去せずに残していたのは、その中の歌の一つが気になっていたからだと、今回見直して気がついたのだ。
 そして、その歌こそが、「君の名は希望」だったのだ。
 あの単純なしかし心に響く、ピアノ・ソロのイントロに始まり、繰り返されるやさしいメロディー、そしていつもの秋元康による歌詞に、またしても私は泣かされてしまったのだ。周りに人がいなくてよかった。
 
 それは、学校で”透明人間”と呼ばれるくらいに、存在感がなく仲間はずれにされていた男の子が、やさしく自分を見つめてくれるある女の子の視線に気づいて、初めて人を好きになり、明日に希望を持つようになったという話なのだが、最後の”君の名は希望と今、知った”という一言が素晴らしい。
 ああ私はここまで書いてきただけでもう、まぶたがうるっときてしまった。
 小学校低学年のころ、私は、遠く離れた大きな町でひとり働く母親から離れて、親戚の家に預けられ、大きな町の学校から田舎の学校へと二度の転校をした。
 言葉が違うことで、さらには今の背の高い私とは違い、当時は体も小さく少し太っていたこともあって、イヤなあだ名をつけられていじめられ、学校に行くのがつらかった時もあった。
 何とかわいそうな、7歳のころの私。 

 しかし、今でも思い出すのは、そんな私を気にして、やさしくしてくれた担任の女の先生だった。(あの映画『二十四の瞳』の高峰秀子演じる大石先生の姿と重なる。)
 その時、子供の私は、彼女に母の面影を見ていたのかもしれない。
 彼女がいてくれたことは、クラスの友達からからかわれいじめられていた私の、学校での唯一の逃げ場であり、明日へと続く希望のもとになったのだ。
 だから、私はこの”乃木坂”が歌う「君の名は希望」をまた改めて聞いた時に、あの子供のころの思いがよみがえってきて、不覚にも小さく嗚咽(おえつ)してしまったのだ。
 年寄りになると、いろんな体験をしてきているから、ものがよく見えるようになるのだが、一方で、長く生きてきて余りにも思い出が多すぎて、少しの感情に心揺さぶられることが多くなるものなのだ。年寄りは涙もろくなる、というたとえのとおりに・・・。 

 ネットで調べてみると、この「君の名は希望」には、乃木坂メンバー内でのいろんな組み合わせのバージョンがあって、それらをYouTubeで見たのだが、もちろん私が見た”乃木坂46SHOW”での、ピアノ、ヴァイオリンにリズムセクションをバックにしての、16人選抜メンバーによる歌声が、都会的清純派”乃木坂”のイメージに合ってよかったのだが、音大系の高校に通うというメンバーの一人、生田絵梨花のピアノ伴奏で選抜メンバーが歌っているものもいいし、あるいは生田自身の弾き語りによるものも、ピアノも歌声も決して最高にうまいとは言えないが、曲の内容にこれほどふさわしい声はないと思えるくらいだ。・・・歌は技術だけではなく、歌う人の声質にあり、いかに歌の心にふさわしいかだというのがよくわかる。
 この「君の名は希望」には他にも、生田のピアノにあのAKBのエース”まゆゆ”渡辺麻友が歌うという、夢の組み合わせがあるのだが、いかんせん”まゆゆ”の歌がうますぎるし声に透明感がありすぎて、暗い中に頼りなげに見え隠れする思いが十分には表現できていないような気がするのだ。
 ”まゆゆ”は間違いなく、AKBを代表する”顔”であるし、公演などで歌うソロ曲はみんな素晴らしいし、ソロのアイドル歌手として十分にやって行けるほどの実力も兼ね備えているのだが、やはり彼女が歌うものには合うものと合わないものがあるのだろう。

 そこで思い出したのだが、AKBの名曲として歌い継がれている「でもでもの涙」である。
 この歌は悲しい片思いに涙する少女の姿を切なく描いていて、これもYouTubeで見ると、様々なメンバーたちによる二十組以上もの組み合わせで歌われていて、彼女たちにとっても自分たちが歌いたいと思うほどのいい曲なのだろう。
 最初に歌われたという”ゆきりん”柏木由紀と、私は知らない佐伯美香による、いわゆる”本家もの”に始まって、”ゆきりん”と”まゆゆ”の同期生コンビ、さらに今は見れない”ツインタワー”のお姉さま美女コンビ”マリコさま”篠田麻里子と”にゃんにゃん”小嶋陽菜によるもの、そして最近のHKTの若いけれどお姉さまキャラの二人松岡、森保コンビによるものなどなど、いろいろあるが、言えるのは、本家であるあの”ゆきりん”のやさしくはかなげな感じの歌声がこの曲にぴったり合っていて、数種類ある彼女との組み合わせのものはどれもいいのだが、ここでも”まゆゆ”とのものは、やはり”まゆゆ”の明るい声質が、この曲には今一つあっていない気がする。
 さらにもう一つのポイントは、見た目であり、比較的背の高い美女が並んで悲しい失恋の歌を歌うという状況が、昔の少女漫画風に舞台映えするのは言うまでもない。
 そこで、YouTubeなどで見たあくまでも私の好みでしかないが、”ゆきりん”の声は外せないし、二人並んだ見た目と哀しげな表情から、SKEの松井玲奈と歌ったものに心ひかれるのだが、曲自体が素晴らしいだけに、どの二人の組み合わせでも、十分に聴きごたえがあると言えるだろう。

 以上あくまでも、余り音楽的素養もない私個人の勝手な好みから、「君の名は希望」での組み合わせをあげてみただけのことであり、AKBファンたちの声や、CD売上数からいえば全く当を得ていないことになるかもしれないが、そこは余命少ないじじいの勝手な好みと、御理解いただければ幸いなのだが。
 ともかく、もう1年半も”AKB48SHOW”を楽しみに見ていて、そこで最初のうちは見る気にもなれなかった、他のSKEやNMBにHKT、さらには乃木坂46までも見るようになってしまったのだ。

 それ以前は、クラッシック音楽だけを聴いていて、ブラームスの2番はあの演奏のものがいい、マーラーの9番はこの演奏に限る、ルネッサンス古楽演奏ではどこのアンサンブルが最高だとか、ヴェルディのオペラではプッチーニのオペラでは、どの歌手の声がふさわしいなどと考えていた私が、今ではもうたまにしかクラッシック音楽を聴かなくなり、ほとんど毎日一回はAKBの歌を聞きたくなるという、老人的多発性AKB痴呆症候群という病気にかかってしまい、何とかしなければと思うのだが、まあ誰かに迷惑かけるわけでもなく、ましてAKBのことで他に金を使うわけではなく、一時の気の迷いだと思ってはいるのだが。

 そして次なるAKBの新曲が、何と私の敬愛するフランスの映画監督、エリック・ロメール(1920~2010)のあのヌーヴェルバーグ時代を思わせる名作『緑の光線』(1985年)の題名から採られたという、「グリーン・フラッシュ」という曲名であり、曲中にはラップ調で歌われているところもあるというし、さらに最後かもしれない”ゆきりん”と”にゃんにゃん”の”ツー・トップ”というのも気になるし、早く聞いてみたいものだ。
 はい、このじじいめは、AKBの興味だけで細々と余命をつないでいるのでありまして、なにとぞこのわがままに書き散らしている年寄りに、お目こぼしをたまわりますように。