ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

神の沈黙

2015-02-02 23:10:28 | Weblog



 2月2日

 ようやく、積もるほどの雪が降った。
 積雪10㎝。しかしそれは、春先に降るような湿った重たい雪だった。
 
 私は、様々な理由をつけて山には行かなかった。
 一つには、こうしてただあまり風もなく降り積もった雪は、九州の山では、それなりに山の地形に合わせて、”白たえの衣”をまとったようできれいではあるが、もう一つ峻烈(しゅんれつ)な冬山の姿を見せてくれるわけではない。
 望むらくは、強い冬型の気圧配置になり、吹きつけてきた雪で山々が覆われた次の日、風もいくらか収まり一面に青空が広がる日に山に行きたい。そこでは至る所で、風雪が高い山で作り上げた雪氷芸術を見ることができるからだ。(’14.1.27,2.17の項参照)
 そうした、シュカブラやエビノシッポの立ち並ぶ冬の山々を、私は何度も見てきたからだ。
 だから私の頭の中は、そうした最上の状態での、山々の雪景色の記憶にあふれていて、ちょっとやそっとの雪山ぐらいでは気持ちが動かないほどに、ふてぶてしくなっているのだ。
 (今、猛烈な吹雪に閉ざされている、北海道の羅臼をはじめとする根室釧路地方の人々には申し訳ないが。)

 そうして理由をこじつけたりするのは、最近とみにぐうたらになり、外に出かけるのがおっくうになってしまった、年寄りの哀しい言い訳のせいなのかもしれない。
 さらに、もう一つの理由もある。それは、またしても休日に重なったからだ。
 そんなふうに、雪が降った後に晴れて雪山日和(びより)なるのが、このところいつも休日と重なっているのだ。まじめに働いている勤労者諸君にとっては、願ってもない僥倖(ぎょうこう)にめぐりあえるわけで、結構なことだとは思うのだが。
 九州では、雪が降ったすぐ後に山に行けば、本州の冬山と同じような感じの雪山歩きができるから、みんなも虎視眈々(こしたんたん)とそんな条件の日をねらっていて、ましてそれが土日と重なれば、一番人気の九重の山々は人々の歓声であふれ、駐車場からはみ出した車が、路肩に長々と並ぶありさまだ。
 普通の山好きな人たちから見れば、誰もいない一人歩きを好む私などは、多分に変態的登山愛好家になるだろうが、そんな私が、人々で賑わう時に、のこのこと出かけていくはずもないのだ。 
 
 たとえ話としては、少し違うかもしれないが、”食べログ”などのネットで人気の、行列ができるラーメン店の前で並ぶくらいなら、そのそばにある薄汚いガラガラの中華料理店で、どんぶりに指を突っ込んで出された、普通の味のラーメンを食べたほうがましと思う人間なのだ、私は。
 もっともそれは、用事があって出かけて外で食事をする時の話であって、できることなら家にいて、5個入り400円位のインスタントラーメン”うまかっちゃん”を自分で作って、”じゃこ天”一枚とネギをたっぷり入れて、昼のニュースでも見ながら食べたほうがいい。
 それは、倹約家でお金にうるさかった母親のもとで育てられ、子供のころから貧乏生活の体験をしてきた私は、老いぼれの年寄りになっても、根っからの貧乏根性が染みついていて、たとえお金があってもぜいたくな買い物や食事などはできないし、しかし今にして思えば、そうしたぎりぎりの清貧の環境にあったことが、こうして金はなくても豊かな気持ちで暮らしていけるという、今ある日常の生活感覚のもとになったのだとも思うのだが。
 ぜいたくな暮らしに慣れていれば、少し収入が下がっただけでも不満に思うことだろうし、最初から食うや食わずの体験をしてきていれば、まずはおなかいっぱい食べられるだけで、もうそれだけで満足できるのだ。

 だからテレビに映し出される、お金持ちの豪華な部屋や持ち物や食事にすら、心を動かされることはない。
 生まれ変わっても、金持ちなんぞには金輪際(こんりんざい)なりたいとは思わない。
 それは、やせガマンでもカッコつけでもない。足りないところでの工夫の楽しみと、次にほんの少しだけでも良いものを手に入れた時の喜びを知っているからだ。
 長い間の登山経験からいえば、山登りではいつも腹を満たせるだけの簡単な食事しか用意できないし、まして長期のテント泊山行になれば、自分でザックをかついで持って行ける食料は限られるから、そうしたガツガツの食事をしていれば、それこそ下に降りた時に町で食べる一杯のラーメンでさえどれほどおいしいことか、たとえそれがどんぶりに指を突っ込まれて差し出されたものでもだ。

 だから私は、あの昔の経団連会長だった土光さんが当時も、メザシ(小イワシの干物)だけの一汁一菜(いちじゅういっさい)の夕食だったとか、さらには前にも書いたことがあるが、若いころのヨーロッパ旅行で出会ったアイルランドの娘が、外食を一切せずに、手持ちのパンとジャムですませていたことなどが、どれほど私の貧乏根性の思いを勇気づけてくれたことだろう。
 自ら貧しくあることの、心の持ち方・・・。
 もちろん若者にとっては、将来へと続く夢は高く持って、野心をふくらませて事に当たるべきだが、一方で、現実はいつも低く抑えることに慣れておいた方がいいとも思うのだ。
 といって、私は何も、貧乏であることをすすめているわけではないが。

 最近問題になっているように、高収入の家庭に育った子供が、高学歴で大会社に就職して高収入という循環を生み、低収入の家庭に育った子供が、低学歴で非正社員就職して低収入の循環を繰り返すだけだという指摘がなされていて、そうした誰でもがうすうす感じていたことを、世界的な規模の経済統計の実例を挙げてこれからの提言をした、フランス人経済学者トマ・ピケティ氏が書いた、『21世紀の資本』が世界的なベストセラーになっているとのことである。
 そこで彼の言う、すべての階級に富を分配すべく累進課税(るいしんかぜい)の仕組みを作るべきだという話は、確かにそれだけで、十字軍的な輝かしい理想に満ち溢れてはいるのだが、しょせん社会を作って生活していく人間にとって、あのサル社会の序列ではないのだけれども、一つの集団としての規律を作るために、階級化されるのは当然の成り行きであるし、さらに言えば資本について、お金そのものの第一義でもあるのが、広く薄く集めれば巨大な資本になるけれど、薄く広く分配すれば、はした金、小銭しかならないという現実があるということだ。
 ただし、それらはもちろん、貧富の差の限度問題ではあるのだが。(今日のNHKクローズアップ現代でも、来日中のピケッティ氏との対談という形で紹介されていた。)

 ただそうしたことすべてを含んで、清濁(せいだく)併せ飲んでの現実の今があり、その問題点を見事についた、きわめて人間的博愛に満ちた考え方だというべきなのだろうか。
 ここで思い出すのは、かつて取り上げたことのある、あのアマゾン原住民の研究から考えを組み立てていって、野生の思考が現代文明の思考に劣るものではないとしたあのレヴィ=ストロースの、構造主義に至る思想である。
 彼もまた、フランス人であり、さらには最近のイスラム過激派による新聞社襲撃の惨劇の後、パリだけでも100万に近い人々が、そしてフランス全土では370万という人々がデモ行進をしたということを思い合わせて・・・フランス人たちの善かれ悪しかれ、”自由・平等・博愛”なるものへの意識について考えてしまうのだが・・・。

 ここまで長々と余分なことを書いてきてしまったが、要するに山登りに行かなかっただけのことで、あれこれ理屈をこねまわして本題がすっかり横道にそれてしまった。
 さて、山の話に戻ろう。
 混雑する山に行けないのなら、夕方に山に行けばいい、もう登山者も帰ってしまって少なくなったころだろうし、久しぶりに夕焼けに染まる山を見に行こうということで、カメラを持ってクルマに乗った。
 同じように離れていてそれなりに時間はかかるが、九重にするか由布岳にするかで迷ったが、クルマを停めて余り歩かないで大きく山の姿を見られる所はと考えて、由布院の町に向かうことにした。
 町を抜けてすぐに、旧やまなみハイウエイと呼ばれる山岳道路を走り、途中何か所かの撮影ポイントがあるが、その中でも一番多く来ている所でクルマを停めて、夕日が沈むのを待った。
 山に行く時と同じように、ハード・シェルのジャケットなどを着込んできたが、風もなく、穏やかな日の入りの光景を見ることができた。しかし、日が沈む西の方には照り返す雲もなく、残念ながらあまり赤くは染まらなかった。

 それでも、山腹に一本だけ生えているカシワの木を前景に、草原状の飯盛ヶ城(いもりがじょう、1067m)があり、その上に高く二つの耳をそろえてそびえ立つ由布岳(1583m)の姿は、やはり天下一品の趣(おもむき)があった。(写真)
 いつも言うことだが、私の名山の基準は、当然ながら見た目の外観にその大部分の価値があると思うから、そうした意味からも、日本の山の中でもこれほど見事な双耳峰、猫の耳(ああ、ミャオを思い出す)をそろえた山は他にはないから、自分だけの百名山としてだけでなく、九州の山としてもまず一番目にあげたいくらいの山なのだ。
 ベストの登山時期は、この真冬の雪が降り積もった時であり、一部アイゼンが必要であり初心者には危険な所もあるが、雪氷に覆われた旧火口をめぐるお鉢一周のコースをたどれば、東西両峰にも併せて登ることができる。(’09.2.3の項参照)
 さて今は、その頂上に向かうこともなく、目の前に一本のカシワの木をはさんで、ひとり高くそびえ立つ由布岳の姿を見ているだけだが、やがて日は沈んでしまい山肌は、その薄赤い肌色の輝きを失い、色あせて死に行く人の肌のように変わってしまった。毎日繰り返される、自然界の理(ことわり)・・・。

 今回書きたかった主題は、その死にまつわる話である。
 実は長い間待ち望んでいた、あのイングマール・ベルイマン監督の名作『第七の封印』(1957年)のDVDが、ようやく再発売されることになり、その当日に合わせてネットで注文して手に入れたのだが、久しぶりに見て感じたのは、その余りにも重たいテーマを、しかし明るい情景をはさんで一つの作品に仕上げた監督としての力量を再確認したことであり、これはどうしてもここで取り上げたいと思っていたのだが、二日前、気になっていたテレビのドキュメンタリー番組を見て、深く考えさせられることになり、それがまたベルイマンの映画のテーマと重なるところもあって、先にこのドキュメンタリー番組について書いておくべきだと思ったのだ。
 
 それは1月31日に放送されたNHKアーカイブス『戦後70年・人間の闇』シリーズからの、「アウシュビッツと音楽家たち・死の国の旋律」である。
 最初に放送されたのは2004年、当然まだわが家にはハイビジョン・テレビなどなくて見られなかったのだが、その後も何度か再放送されていて、今回ようやくめぐり会い見ることができたのだ。
 その番組の1時間15分の間、さらに本編後この番組について自分の経験もまじえて話してくれたあの報道記録写真家の大石芳野さんの言葉もまた重いものだった。

 前回取り上げた二つのドキュメンタリー番組、特にあの詩人堀口大學についての番組は、作り上げたラブ・ロマンスに片寄っていて論外だとしても、私が食い入るように見続けたあの三島由紀夫を取り上げたドキュメンタリーよりも、これはさらに深く、遥かな高みから私に様々なことを考えさせてくれたのだ。
 ドキュメンタリー番組好きの私が、さまざまに見てきたものの中でも、おそらくは5本の指に入れたいくらいのものだった。
 それは当然、今の年齢の時点におけるというただし書きをつけてだけれども。というのも、若いころに見ていれば、そう深く感じることはなかっただろうと思うからだ。年を取れば見えてくるものも、多くなるのだろうから・・・。

 ポーランド南部の古都、クラクフ。(昔はクラカフと呼んでいたように憶えているが、若き日のヨーロッパ旅行の時には、ワルシャワに二泊しただけで、クラクフには行かなかった。)
 その町の集合住宅の一部屋に、身寄りもなくひとりで住むゾフィアさん(80歳)。
 彼女は、今まであまり人にも話すことのなかったあのアウシュビッツでのことを、日本から来たインタヴューアーの質問に答えて、白髪の頭を傾け、腕には収容所でつけられたイレズミが痛々しく今も残されていて、初めは視線を下に落としながら話してくれたのだ。 

 彼女は19歳の時、ユダヤ人ということで母親とともに捕えられて、同じポーランド南部にあるアウシュビッツ収容所に送られたが、間もなく母親は病気で亡くなり、彼女は運よくヴァイオリンが弾けたことで囚人オーケストラ(音楽隊)の一員に選ばれて、あの劣悪な環境で詰め込まれていた他の収容者たちとは違って、特別な待遇を受けることができたのだ。
 しかし毎日、貨車に乗ってさらに新たな収容者たちが運ばれてきて、その収容所に引き込まれた線路の傍に立って、彼女たちは明るく楽しい曲を演奏するように命じられたのだ。
 貨車に乗ってきた人々たちの間からは、笑顔さえも見られたという、この後ガス室送りになるとも知らずに。
 彼女は涙を流しながら、その明るい曲を演奏し続けたのだ。心の中で、”神様あなたはなぜに沈黙しているのですか”と問いかけながら。

 彼女はそうした毎日の辛い思いに耐えきれず、看守長のヘスラーに申し出たのだ、”どこかに配置換えをしてください”と。しかし、看守長の答えは、”このままオーケストラの団員として演奏し続けるか、懲罰(ちょうばつ)労働に行くかどちらかだ”という答えだった。
 彼女に生きるための選択余地はなかったのだ、ガス室送りの仲間たちへの負い目を感じながらも。

 しかし1944年、ナチスは崩壊してドイツは戦いに敗れ、このアウシュビッツの囚人たちもようやく解放されることになったのだが、それまでに三つの収容所に分けて送り込まれた人は120万人ほどにもなり、生きて解放された人々はすべてあわせてもわずか5万人ほどだったと記録されている。
 解放されたゾフィアは、母の故郷でもあった町へ行き、そこで事務職に就いたのだが、たまたま軍服姿の人を見たことで、当時の悪夢がよみがえり彼女は卒倒してしまったのだ。
 当然のように仕事を辞めるしかなく,他の人たちからも孤立していくことになり、さらに自責の念が長い間彼女を苦しめて、森や林の中を何時間も歩いたことがあったという。
 こうして長い間苦しむくらいなら、むしろ銃殺されて一瞬のうち死んだ方がましだとさえ思ったのだ。
 さらに、自分の好きな音楽に戻ろうとしてラジオから流れ来る音楽に耳を傾けていたが、その時に収容所時代に自分が演奏していた曲が流れてきて、彼女は倒れこんでしまった。
 その後、男の人と一緒に暮らしたこともあったが、彼女の苦しみを理解できずに、彼は去って行った。

 そして解放されてから13年たった1958年、35歳になった彼女は意を決して、亡くなった人々に謝罪する思いでアウシュビッツを訪ねてみることにした。
 そこでは、よみがえるつらい思い出に足がすくむほどだったが、一方でまた自分と同じようにここを訪れている人たちがいて、その歩き回りひざまづき横になったりしている人たちを見て、なぜか妙な安らぎを覚えて、少し力が湧いてくるのを感じたという。
 収容所には、人間の心の深い闇を抱えた人と、人間の尊厳を持って生きていこうとした人たちがいた。
 忘れられないのは、あの頃、その収容所内にいた助産婦のことで、彼女は、看守から生まれた子供はすぐに水につけて始末するようにと命令されていたにもかかわらず、遅かれ早かれ死ぬ運命にあるその赤ちゃんを、せめて一度だけでもお湯を使わせてあげようと、重たいお湯のバケツを下げて行き来していたその姿を、今でも思い出すという。彼女の名前は、確か”マリア”だった。

 その後、ゾフィアはラジオで好きな音楽を聞けるようになり、周りの人たちとも少しずつなじんでいって、今では一週間に一度、同じ収容所の音楽隊にいた仲間の一人が訪ねて来てくれているのだが、その時に今受けているインタヴューの流れで、その友達の彼女があなたの収容所での思いではと聞かれて、思わず彼女は下を向いてしまい、固い顔でもうこれ以上話すことはできませんと答えていた。
 ゾフィアの左の薬指には結婚指輪がなかったけれども、彼女よりはずっと年上なのに若く見えるその友達の指には、古い結婚指輪がはめられていた。

 ゾフィアは、最後にインタヴューに答えて言った。
 私の人生や、この世界にどれだけの意味があるのか、人間が生まれてくることにどんな価値があるのかと思い悩んだけれども、今言えることは、私はここまで生きてきたおかげで、人生そのものやこの世界を深く見る力が与えられたように思うし、また人生には何かの意味があるはずだと思いたい・・・と。

 さらにこの番組を見終っての、写真家大石芳野さんの話から・・・このホロコースト(民族虐殺)は、このナチスによるものだけでなく、さらにカンボジアにおけるポルポト派による大虐殺や、あのコソボでの事件からの旧ユーゴスラビア内での民族浄化の戦争、アフリカはルアンダ、スーダンでの虐殺戦争と続いている。 
 今の時代は、民族的ナショナリズムの暴発を、理性と教養でかろうじて押さえているが、いつまた起きないとも限らない。
 しかし一方で、そうした事件を引き起こした側からいえば、まして末端にいる兵士たちのように命令を受けて実行する立場に立たされていたら、命令に従わないと自分が殺されることになるから、その恐怖から逃れるためには、仲間でさえも殺すことになるだろうし。あなたはどうしますそんな立場に立たされたら・・・と。

 神の沈黙。
 生きるために生きること。 

 これらの解決しがたいテーマはまた、あのイングマール・ベルイマンの映画の世界へとつながっていくのだ。

 ここまで書いてきて余りにも辛いテーマばかりで、さすがの私もイヤになってきた。私にはとても荷が重すぎる問題ばかりだからだ。
 もっともそれほどまでに、このドキュメンタリー番組を見た時の衝撃が大きかったということだろう。
 今までにこのアウシュビッツでのホロコーストについては、あの生々しいドキュメンタリー映画『夜と霧』(1955年)や、他のドキュメンタリー番組などでたびたび見ていたのだが、この番組ではそうした残酷な事実の映像よりは、彼女の良心にさいなまれる心の軌跡をたどっていて、今回私が強く感じたのは、そう考えたくはないけれども、確かに在るであろう人それぞれの運命と、その運命に抗(あらが)おうとする人それぞれの対応にあったのだ。

 あーいやだいやだ。年寄りにはあまりにも深い問題ばかりで、すっかり夜遅くまでかかり、疲れてしまった。
 もうこんな話は終わりにして、来週は好きなAKBの話を書くことにしよう。

 待望の新曲が、”ゆきりん”と”にゃんにゃん”の二人のおねえさんがセンターだということだし・・・楽しみだ。 

    


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