ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雪山逍遥(しょうよう)

2015-01-05 22:02:54 | Weblog

 

 1月5日

 二日前に山に登ってきた。
 前回の登山がそうであったように、またしても山に行く間が長く空いてしまった。昔のように、一か月に二三回などというペースは、もうできるはずもないのだが。
 それでも、久しぶりに山に登ることのできる喜び、それも大好きな雪の中を歩いて行ける楽しさ・・・これこそ、生きているということなのだ思ってしまう。
 
 暮れから正月にかけて、この九州でも雪が降り、都合10㎝程の雪が積もった。
 そして、その後、冬型の気圧配置がゆるみ、西から高気圧が張り出してきて、見事な冬の晴れ間になったのだ。
 どんなに雪の日が多い所でも、こうしてまれに穏やかな晴れの日になることがある。
 だから冬の山に登る人たちは、すべからくこうした絶好の天気の日を選べばいいのだが、もちろんほとんどの人は働いているのだから、そう自分勝手に仕事を休んで山に行くことはできないし、休みの日に登るとしても、それがうまく好天の日にめぐりあえるとは限らないし、無理をすれば遭難という事態をも引き起こしかねない。

 だから、こうして天気の良い日にだけ出かけて雪山を楽しめるのは、私のような引退じじいだけの特権なのかも知れない。まあ老い先短い年寄りなのだから、許して下され。
 と自己弁護したうえで、さて雪の山に向かうことにした。
 できることなら、九重の山に行きたかったが、まだ正月休みだということを考えると人が多いだろうし、牧ノ戸峠他の駐車場もいっぱいだろうし、とても行く気にはならなかった。
 そこで、家から歩いて行くことのできるいつもの山に登ることにした。

 気温-8度、雪も上に行くにつれて多くなり15㎝程はある。道のクルマのわだちの跡が、テカテカと光って凍り付いている。
 登山口に着くまでの間に、度々息が切れてしまった。年寄りになったものだ。若いころは息を整えながら一気に上がって来れたのに、もうここまでに小一時間ほどもかかっている。 
 しかし車道が終わり、登山道が始まるところから、素晴らしい景色が待っていた。 
 道の両側は、あまり高くはない広葉樹の林で、それはコナラやリョウブ、ヒメシャラなどの葉を落とした木々なのだが、その幹から枝に雪がついていて、まさにおとぎ話に出てくるような、”冬の不思議の国”に入っていく道のようにだった。(写真上)

 久しぶりの山に、それもこの雪景色に、私は何度も立ち止ってはカメラを構えた。
 山はいいなあ。まして雪の山は、もっといいなあ。
 私は、ただ獣たちの足跡が入り乱れてついているだけの、林道跡の白い道をゆるやかに登って行った。
 
 それほどまでに山が好きなのに、どうして一か月半もの時間を空けたのか、もっと何度も山に行けばいいのに。
 それは、いつもここに書いているように、年齢からくる気力と体力の衰えにあり、さらには何事にもすぐに面倒だと思い、それが、ぐうたらさに浸りきった日々の生活態度にあることは疑いのないところだ。
 若いころには、一つのことを思いつめてそれを実行することだけに集中できたのだが、年を取ってくると、それを行動に移すに際して、付随するさまざまなことを考えてしまい、あれこれ理屈をつけては、自分の中で出かけるのを思いとどまらせようとするのだ。
 もちろんそれぞれには、たとえばそれが若き日の無謀さにつながることになり、あるいは逆に年寄りの慎重さが、事前の事故予防にもなるのかもしれないのだが。
 つまりは、年相応の時点での、良さ悪さというものがあるということなのだろうが。

 思えば、私の長い山行歴の中で、会社での仕事が忙しく、山に全く行かなかった2年間とその前後の数年間は別にして、山が好きになった若いころと同じように、またしっかりと山に行くようになってからでも、もう30年以上にもなるのだが、その中でも去年一年は、極めて登山の成果に乏しい年になってしまった。
 回数的には、かろうじて一か月に一回のペースになってはいるが、全国にはまだ登りたい山が数多くあるというのに、ついに一つも新しい頂を踏むことはなかったし、例年の南北アルプス遠征もなかったし、ただあの2月の蔵王だけが素晴らしくて、私の登山歴の中でも特筆すべき山行の一つにはなったのだが。(’14.3.3,10の項参照)
 もちろんその原因は、何と言っても、夏に九州に戻った時に腰を痛めて1か月余りを無駄に過ごしたことにあり、その後も再発を恐れて、思い切った遠征の山旅にも出られなかったのだ。
 それだけに今年は、何とか遠征登山を実行できるようにと心に期してはいるのだが、最大の問題は、腰の再発や体力というよりは、ぐうたらさからの脱却と決断力にあるのだろうが。

 さて、道は暗い杉林の中に入って行く。そのぶん下は雪が少なくて歩きやすくはあるのだが、しかし間伐などで切られた木がそのまま放置してあって道をふさぎ、先の方では分からなくなっていた。
 この山には一応周回コースが作られてはいるが、登る人が少ないうえにほとんど手入れされてはいないから、こうした雪の時などは道の見分けがつかなくなることがある。
 ただ何度も登っている山だし、その地形も頭に入っているし、この天気で周りの方角も間違いはないと、本来は浅い沢状の所を渡って左側に回り込むのだが、そのまま一気に山腹斜面を登って行くことにした。

 下から続いている広葉樹の林は、それほど密ではなく、葉が落ちているうえに周りの雪で明るくて、道がなくても心配なく登って行けた。
 それでも勾配はあるから、時々は立ち止まり息をつくことになるが、その時に振り仰いだ上には、木々の枝先が白く輝いて見えていた。霧氷だ。
 それはさらに登って行くにつれて、青空を透かして見えるはっきりとしたレース模様になって、頭上を覆っていた。
 何と言う、予期せぬ景観だったことだろう。
 雪山が好きで、それでもこの冬ずっと登れずにいた私が、さらに道を間違えてそのまま樹林帯の斜面を登ってきたことで、偶然にも出会ったこの見事な眺め・・・。(写真下)

  

 辺りには、風の音や鳥の声すらなく、静けさの中、私の頭の中では小さな耳鳴りだけが聞こえていた。
 幸せな思いがあふれてきた。 
 それは、このままここで死んでも構わないとかいう、センチメンタルな気持ちではなく、むしろ元気にこうして山に登ることができて、さらにはこうした景色を見ることもできてという、感謝の思いからくる幸福感だった。
 それだからこそ、長く休んでいたいとは思わなかった。急斜面をあえぎながら登り、すぐに立ち止まっては上を仰ぎ見て写真を撮るという繰り返しだった。
 
 やがて樹林帯が終わり、枯れたカヤの斜面に出て展望も開けてきた。
 そこは予期した西尾根の先端部分ではなく、その手前の稜線へと上がる小尾根の斜面だった。
 立ち枯れたカヤの上に積もった腰までの雪を払いのけながら、ようやくのことで頂上からつながり降りてくる稜線に出た。
 もちろん、そこには誰の足跡もついていなかった。ただ獣たちの足跡だけが、幾つもの方向に乱れ続いているだけだった。
 シカ、イノシシ、キツネ、ウサギ、テン・・・。

 南の方には薄雲が広がっていたが、大部分はさわやかな青空で、風もほとんどなかった。人影も見えなかった。
 遠く、九重の山や由布岳などが見えていた。
 私は、楽しい気分になって、白く続く尾根道をたどって行った。
 道は、吹き溜まりでは50㎝位はあったが、大体は15㎝程で、歩きにくいというほどでもなかった。
 時々足を止めては、写真を撮って行った。ミヤマキリシマなどの灌木には、
エビノシッポがびっしりとついていて、これもまた冬山での、見ものの一つだった。(写真下)

 

 もちろん、それは九重などとは比べるべくもなく、ましてや去年のあの蔵王の樹氷群とは比較するまでもない、いたって小さな雪氷芸術でしかないのだが、こうして1000mそこそこの山でも、雪が降った後に行けば、十分に雪山を楽しむことができるということなのだ。
 九州の山は(屋久島を除いて)、一番高い九重連山でもたかだか1800m足らずの山々でしかないが、火山だけに樹林植生限界が低く、ちょっとした高山雰囲気を持っていて、冬型気圧配置の寒波が押し寄せてきて雪を降らした後には、一時的にこうした冬山景観を見せてくれるのだ。
 もちろん北海道や日本アルプスの山々などのように、本当の厳しい冬山の姿ではないけれども、その分比較的手軽に雪山の姿を味わうことができるし、まさしく、私のような、体力が落ちてきたじじい向きの雪山なのだ。
 もちろんそれはいつも言うように、晴天日登山という条件のもとにおいてだが。
 
 ことほどさように、冬山、雪山一つとっても、ラッセルや岩稜氷壁を伴う北アルプスの山々などから、こうした南の九州の低山の雪山歩きに至るまで、冬の山登りにはいろいろなパターンがあるということなのだ。
 一つの言葉には、一つの物事には、いつもそれが普通に意味する面だけではなく、他にも様々な意味を持った側面を併せ持っているということ。
 そこで思い出したのは、三日ほど前にあったNHKの再放送の番組だ。

 『女たちのシベリア抑留』。夏に放送されたのだが、腰を痛めて寝ていた時で、つい見損なってしまっていたのだが、今回録画してしっかり見ることができた。
 先の第二次大戦で日本が敗戦して、その時にロシア軍が侵入してきて、満州国に残っていた軍関係の人々(軍人、軍属、民間人)約60万人が捕虜としてとらえられ、極寒のロシア・シベリアなどに送られて、粗末な宿舎でぼろ布ような衣類にひどい食物しかない中で、強制労働を強いられて、そこで飢えや寒さなどで6万人もの人たちが亡くなったという(国際法違反のそしりをまぬかれない)、いわゆる”日本人のシベリア抑留” であるが、その中に若い従軍看護婦たちなどもいて、同じように捕虜としてシベリアに送られていたということは、あまり知られていなかった。

 そこで苦節数年を生き延びて、ふたたび日本に戻ってきた彼女たちは、ようやく人並みの暮らしに戻ることができたのだが、あのシベリアでのつらい思い出だけは余り語ろうとはしなかったのだ。
 しかし戦後70年、今や90歳前後になる彼女たちは、今回その重い口を開いて、シベリアでの過酷な思い出の幾つかを話してくれたのだ。
 それでも、時々言いよどんでは、天を仰いでいた・・・哀しい遠い昔を見ているかのように・・・。
 ここでは、彼女たちがこの番組の中で語った、残酷でつらい出来事の一つ一つを書いていこうとは思わない。
 彼女たちが話している様子を見ることに勝るものはないからだ。何よりも、またいつかは再放送されるだろうこのドキュメンタリーの番組を見てもらうにこしたことはない。
 私の母は、満州にいたことがあり、敗戦の少し前に日本に戻って来ていて、あのまま満州にいたなら、彼女たちと同じ運命をたどっていたかもしれないし、その後私が生まれることもなかったわけだからと・・・とても他人ごとではない思いで、今は亡き母からあまり聞くこともなかった、満州での出来事の一端にでも触れたような気がしたのだ。

 私は前にも書いたように、運命という人生の定めなるものがあるとは、あまり信じたくはないし、特に若いころはその運命などは逆に自分から生み出すもの、変えていくものだと信じていたから、こうして実際に極限の状況下で、抗(あらが)うことのできない運命の前に立たされれば、誰でもただ、運不運に振り分けられるだけなのかとも思ってしまうのだ。 

 ともかく今ここでは、私にはそんな大きな問題を取り扱うだけの知力も余裕もないから、これ以上深入りすることはできないのだが、ただそんなシベリアに抑留された彼女たちのことを、今この雪山を歩きながらふと考えてみたのだ。
 私は常日頃から、冬が好きだ、雪山の景観が好きだと、事あるごとに吹聴(ふいちょう)しているが、まさにそんなことを勝手にほざくのも、この平和な国に生まれ育ち、何ごともなくここまで生きてこられたおかげであり、まさに幸運の連鎖によって今があるだけのことなのだと。
 私が憧れる冬景色など、彼女たちにとっては忌(いま)まわしい過去の思い出でしかなく、-40度にもなる烈風吹きすさぶブリザード舞い上がる光景は、まさしく”死の舞踏(ぶとう)”を思い起こさせるものでしかなかっただろう。
 
 人の考えなど、愚かなものだとも思う。いつも、自分の頭の中で考えているだけのものだし、それが確かなものかどうか、揺れ動く心の持ち主である本人にしても、分からぬことばかりなのに。
 それは、いつも自分の家族のことや、群れの仲間のことを考えているだけの、あのアフリカのヌーたちにしても、自分の群れの一頭がライオンに襲われて食べられているのを見れば、自分は助かったのだと思い、今はまだ自分は生きているのだと知るのだろう。
 つまり人は、いつも様々な立場にある人のことなどすべてを頭に入れて、考えることなどできないということだ。
 私のように雪景色が好きだと言っても、同じ気持ちになる人よりは、むしろ反対の思いを抱く人たちのほうが圧倒的に多いだろうし。
 単純に冬は寒いからいやだとか、雪は商売に困るから降ってほしくないとか、災害を引き起こすから困るとか、さらには彼女たちのように、忌まわしい過去の思い出につながるから見たくもないという人たちさえいるのだから。

 などと考え反省しつつも、やはり今ただひとり、こうして誰もいない雪の山を歩いて行くのは、私にとっては楽しいものなのだ。
 青空と白い雪の造形だけなのに、そこにいるだけで幸せな気持ちになれる。
 もしかして、私は、”アホと雪の王様”なのだろうか。”ありのままのーアホでいてぇー”。

 さらに途中からわきの尾根に入り込んで、その斜面にある霧氷の木々に向かって、何度もカメラのシャッターを押した。
 再び稜線に戻り、頂上にたどり着いたのは、もう12時に近かった。
家から4時間近くもかかっている。
 若いころなら、このくらいの雪の時でも2時間ほどで、さらには最近でも3時間くらいでは登っていたのだが、道に迷い別ルートで登ったにせよ、途中で写真を撮るためにあちこちで寄り道をしたにせよ、倍近い時間がかかってしまったのだ。
 まあ別に時間に縛られているわけでもなく、天気もまだ薄曇りになっただけで見通しもいいし、なにぶん雪山を楽しむべくやってきたのだから、これでいいのではあるが。

 帰りは周回ルートになる別の尾根を通って下ってきたのだが、道が手入れされていなくて、さらに両側のササに雪が覆いかぶさっていて、払いのけながらの滑りやすい雪の道だった。
 それでも下りはさすがに早く、2時間足らずで降りてきた。合計6時間ほどの程よい雪山歩きだった。
 
 この年末から正月にかけて何本かのテレビ番組を見て、さらには長年待ち続けていた映画のDVDが年末になってようやく発売されて、この年になってまたあらためてしっかりと見なおすことができた。
 そのことを含めて考えたのだが、このブログはあくまでも私的に、自分のためだけに書いているものであり、書くことによって更なる自己啓発をなどという大それた思いはなく、またそれほどの才能もないのだが、ただこれからは今まで私が登ってきた幾つもの山々や、あるいはこれまで読んできた何冊もの本、さらには多くの映画や音楽や絵画などについて、おりにふれて、今でも強く心に残っているものだけを選んでここに書いていきたいと思う
 
 それは、あとどれほど残されているかわからない私の人生の時間を、私の好きだったもので埋め尽くしたいというわがままな思いからだ・・・ただ善きものたちだけに囲まれた、天国につながる私だけの王国へ・・・。
 たとえば、日高山脈の『カムイエクウチカウシ山』、マルローの『王道』、ベルイマンの『第七の封印』、バッハの『平均律』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』・・・何一つ脈絡はないけれども・・・。 
 


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