ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

訓­・・・昔の人の教え

2015-01-19 21:45:25 | Weblog

 1月19日
 
 前にも書いたように、元日と二日に雪が降り、10㎝程積もって、これ幸いに近くの山に登ったけれども、その雪もすぐに溶けてしまい、そのままもう2週間余りも、真冬にしては暖かいい日が続き、さらに今週も雨が降ることはあっても、雪が積もることはないとの予報である。
 ということは、あの年末寒波の雪の時に、やはり諸事情があったにせよ、九重の山に行くべきだったのか・・・。
 
 つまりは、今年に入ってからは、明らかに雪の日が少なく、やや暖冬気味だとも言える毎日なのだ。 
 人それぞれの冬に対する思いはあるのだろうが、どのみち家の中にいても、厚着をして暖房器具も使うことにかわりはないのだから(家の造りが悪くて)、それならば銀世界になるほどの雪が降ってくれれば、そのほうが冬が好きな私の肌合いにはぴったりくるのだが。
 
 というわけで、相変わらず毎日ぐうたらに暮らしているのだが、ということはゴロ寝してAKBの録画でも見ているのだろうと・・・ご推察の通りなのだが、前回書いたように、この正月にかけてAKBの特別番組などがなかったので、毎週末のNHK・BSの”AKB48SHOW”を見るのだけが楽しみだったのだが、先週はそれに加えて、例の日テレ系放送の”ミュージック・ステーション”の特番があって、しっかりと録画して後で見たのだが、今回はその選抜メンバーに大きな異変があって、HKTやMNBからの選抜メンバーたちが入っていなかったのだ。
 まあそれはそれで、本来のAKB主体のメンバーたちだからそれでもいいし、新鮮味もあったのだが、3曲も歌われたのだから、やはりAKBグループの粋を集めた全選抜メンバーで華やかに歌ってほしかったという思いもあった。 
 ネットで調べてみると、HKTは香港公演があり、MNBは仕事の都合とかで、それは仕方のないことだとしても、そのことに関連してのツイッターなどの書き込みのひどいこと・・・自分の好きな”オシメン”(推薦メンバー)の子はべたぼめして、一方年上の子たちや、他の不在選抜メンバーたちについては、悪口雑言(あっこうぞうごん)の限りを尽くしての書き込み・・・全くただの子供たちの、ののしり合いをいい大人たちがしているようなもので、もうあきれるよりはそれを通り越して憐みを覚えたくらいだった。

 彼らは、そういう所にしか、日ごろの不満やうさの捨て場がない哀れな人たちではないのかと・・・
、それよりも、まずそうして人の悪口を言っている自分自身が、後で思い返してイヤにはならないのだろうか。
 誰でも、怒りに駆られて激高(げきこう)すれば、心拍数が上がり血圧が上がり、その怒りの言葉を吐いた時には、確かにその場限りですっきりはするだろうが、ネット上での目に見えない多くの相手が反論してくれば、怒りはいや増して、そのストレスは自分の体の中にいつまでも残るだろうに。

 (私事ながら、このブログ記事はいつもかなりの人に読んでいただいているようだが、コメントなどの反応は一切なく、それがどれほどありがたいことか、もう少しこのまま好きに泳がせて下され、老い先短い年寄りのこととて。)

 ともかくそういうふうにして、AKBグループのある特定の子だけに肩入れして、他の子を認めないどころか忌み嫌うほどにまでなれば、その自分のひいきの子が嫌いな子と一緒に出ているだけで、もうその番組を見ているのもイヤになるだろうし、恐らくは、AKBのすべての番組を心安らかに楽しく見ることさえできなくなるだろうし、心からかわいそうな人たちだと思ってしまう。
 もっともその中には、アンチ何々で有名な、名のある評論家論客の先生もいるというのだから・・・もう何をか言わんやである。
 つまりそんな彼らは、AKB全体として見る歌や踊りが好きというのではなく、自分の中での一番のアイドルであるその子や、その他にも自分の眼鏡にかなう子たちだけの何人かが好きなだけのファンであり、さらにできることなら嫌いな子たちは、このAKBからは排除したいとさえ思っているのだ。
 (私は、そのおおもとにあるもの、つまり彼らの選民意識に気づいてはいるのだが、こんなのののしり合いに加担したくはないから、口はつぐんでおくことにした。)

 しかし、彼らのこうして自分の好きな子を嫌いな子と一緒にしたくはないという思いはまた、自分と考え方の合わない者や嫌いな者は受け入れないという思いとして、大きくふくれ上がっていきはしないかと心配もするのだが。
 人間だから、誰にでも好き嫌いがあって当たり前だが、それにはいつも物事をわきまえた限度があるものだし、
そのイライラしてふくれ上がったストレスの大きな塊が、あちこちでまた大きなもめ事を起こすことになりはしないかと・・・思えばそれが、今の世界中を覆う”不寛容”という度し難き(どしがたき)風潮にさえなっているような気もするのだが。

 ただ言えるのは、とりあえずは大きく手を広げて、もっと楽な気持ちで対応し、互いにすべてを受け入れるだけの度量を示してみればいいのに、ということなのだが。
 あーチョウチョウが飛んでいる・・・おつむてんてん・・・になればいいのに。自ら好んでアホになることで得られる、安らぎもあるということ・・・。
 しかし、”生き馬の目を抜くような”あわただしい現代社会、若者は歯止めのきかない激情に駆られて動き回り、年寄りは年寄りの頑固さでそれぞれに自分の主張を変えようとはしないのだから、そうしたわれ先に的な考え方の齟齬(そご)がいつも繰り返されているのであり、それが人類の歴史始まって以来続いてきた争いの現実そのものなのかもしれない。

 私は、前にも書いたように、アイドル個人としてのAKBの誰かを好きになったわけではない。
 まずは彼女たちの歌う歌に、秋元康が書いた歌詞と、それによく合う明るい日本ポップス・メロディーの曲調が好きになったのだ。(『UZA』という私好みの例外はあるが。)
 それは、最初に好きになった曲が『上からマリコ』であり、その歌詞や曲調にひかれてからではあったが、もっとも包み隠さずに言えば、それは歌だけではなく、恥ずかしながらこのじじいめが、あの”マリコさま”に淡い恋心を抱いたからでもある。
 ただし、その”マリコさま”篠田麻里子も、私がAKBを好きになってファンになってから、わずか1年もたたないうちに卒業して、AKBからいなくなってしまったのだ。
 しかし、私は個人としての篠田麻里子というアイドルだけに夢中だったわけではなく、彼女がいなくなってもAKBは変わらずにあるのだから、つまりAKBそのものが好きなのだから、それで私のAKB熱は冷めるどころか、今では彼女たちの歌番組にバラエティー番組までも録画して、あげくの果てには、中古のDVDつきのCDを買うハメにまでなったということだ。(’14.11.24の項参照)
 もっとも、いつも新譜CDを買ったりコンサートにまで出かけたいとまでは思わないが。 

 ともかく、私はテレビで見る、AKBだけでなく、SKE,MNB,HKTのグループ・メンバーすべての子たちをそれぞれに可愛いと思っているし、彼女たちの歌だけでなく、踊りも可愛いし、多少歌のヘタな子や、踊りを間違える子、さらにはアイドルらしからぬスキャンダルを起こしたりしても、あれほどファンの前で涙を流し謝っていれば、許してあげてもいいじゃないかと思ってしまうのだ。(思えば私の若いころ、私は別れた彼女たちの親御さんたちの前で、一度たりとも謝ったことはなかったのだが・・・。)
 私は、ただ若い元気な娘たちが、明るい笑顔で歌い踊っている姿を見るだけで、もうそれだけで心楽しくなってしまうのだ。
 それは例えば、目の前にいる、集まってきた白い仔羊たちをよく見れば、それぞれに個性がある羊たちではあるが、それを単なる小さな外見の差だけで、選別し除外することなどできないということだ・・・みんな可愛い羊なのだ。

 暮れに放送されていた、お笑いバラエティー番組で、あるグラビア・アイドルの”お天気おねえさん”をやっている子が出演していて、(見た目の可愛さの割には20代後半ということだが)、趣味は裁判の傍聴(ぼうちょう)ですと答えてみんなを驚かせ、さらに外食はしないで自分で作って食べているから、みんながレストランで食べるような料理は食べたことがないし、”宅配ピザ”なども知らないと言って、周りにいた10人余りのお笑い女芸人たちから、驚きの声をあげられていた。
 後で、ネットで調べてみると、彼女の愛読書は『万葉集』とのことだ。素晴らしい。
 もっとも、テレビ・タレントが番組で自分を目立たせるために言うことだから、すべてそのままだとは信じられないが、話し半分に聞いても、今時こんな女の子がいるなんてと思ったくらいだ。
 それにしても、こうした場合は笑い話ですむのだろうが、様々な世界で同じような生活をしている仲間の中に、そうした変わり者がいれば、倦厭(けんえん)されるだけではなく、いつかは排除されていくことにもなるのだろう。
 
 そこで、前回も書いた、NHK・BS『100分de日本人論』での、精神科医でもある斉藤環があげた河合隼雄著の『中空構造の日本人の深層』について、ここでもまたあげてみたい。
 それは、ごく大まかに言えば、日本の古代神話の中に、名前はあっても、その役割や正体のわからない神々がいて、それらを併せての日本の神々であったことから、そうした伝統的な考え方が、”中空構造”として日本人の心の中にあるのではないのかということなのだが、それは相反するものと対立する構造ではなく、ともにそのまま在(あ)ろうとする、すべてを含みうる余地のある、それだけに矛盾をはらんだままの、日本人が形づくってきた精神の”中空構造”であるというのだ。

 それなのに、実に些細なことだが、たかがAKBファン同士の低次元なののしり合いが、ネット上とはいえなぜにこうも横行しているのか。
 私は、それをあえて強引に言えば、それはすべては望むと望まざるにかかわらず、二度にわたる日本人の精神変革の荒波の影響を受けたせいでは、とまで思っているのだが。
 その一つは、幕府”お上”が崩壊してすべては地方出身者による明治政府のもとに刷新されたことであり、二つめは”皇国”日本の敗戦ですべては否定され、十字軍意識盛んなるアメリカの占領下施策による一大変革を受けたことである。

 江戸の時代まで続いてきた、日本人論の確かなものの多くは、この二つの荒波の中に飲み込まれていってしまったのではないだろうか。
 それだからと結論を急げば、多分に牽強付会(けんきょうふかい)的な考え方にはなるのだが、特に戦後の”アメリカ文化”の流入による影響は大きく、たとえば端的な例を言えば、かの地での考え方”イエスとノーをはっきり言う”ことが、今や日本人同士の間でもでも少しずつ根づいて来ているようにも思えるのだ。
 だから最近、昔なら小さな言い争いですんでたことが、今や当事者だけではなく、地区や地域を巻き込んでの大きな問題にさえなってきているのだ。
 もっとも、イエス・ノーをはっきり言うことは、国際的にも通じる人間を育てるうえでも重要な考え方であるのかもしれないが、一方では、今までの日本人の特質の一つであった、周りの人たちすべてのことを考えに入れて、結論をすぐには出さずにあいまいな形で残すことによって、相手を深く傷つけもしないし、もう一方も大喜びはさせない、”中庸(ちゅうよう)の美徳”、つまり”O-MO-I-YA-RI”、思いやりの気持ちを心の奥に持ち続けてきたのではなかったのかと。

 狭い国土にひしきめきあう人々、それが”向こう三軒両隣8りょうどなり)”に暮らす人々の、したたかな知恵、倫理観でもあったのだ。
 しかし時代は変わった。AKBファン同士が勝手にののしり合う時代になってしまったのだ。(キャンディーズのファンたちが三人の誰が嫌いだとわめき合っただろうか。宝塚ファンもまたしかり。)
 だから私は、
これからは彼らの悪口の言い合いに巻き込まれないように、自分の心までもが荒れすさんでいくことのないように、そうしたののしり合いの書き込みが掲載されたツイッター画面などを見るのはやめようと思うし、ただ今までどおりに、ひとりだけで楽しい気分で、AKBの娘たちを眺めていけばいいだけのことなのだ。 

 そこでこうした年寄りからの一言だが、前にも何度かあげたことのある(’11.10.22の項参照)、あの貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓・和俗童子訓』(岩波文庫・写真上)からの言葉を一編、それも有名『養生訓(ようじょうくん)』からではなく、子供向けの教育指導書として書かれた『和俗童子訓(
わぞくどうじくん)』からにしたのは、これらネット上での子供じみた言い争いをしている彼らを、それは昔、母が私に言った”稚気(ちけ)まわして”いる状態にある彼らを、年寄りとして諌(いさ)めるにはふさわしいと思ったからなのだ・・・”上からマリコ”ならぬ、”上からじじい”目線ではあるが。 

「人のほめ・そしりには、道理に 違えること多し。ことごとく信ずべからず。
 おろかなる人は、聞くにまかせて信ず。人の言うこと、わが思うこと、必ず理(ことわり)違(たが)うこと多し。
 ことに少年の人は、知恵暗し。人の言えることをことごとく信じ、わが見ることをことごとく正しとして、みだりに人をほめ・そしるべからず。」 

 今でこそ年寄りになって、この本で言っていることはよく分かるのだが、はたして私も若いころには、彼らと同じように感情に流れやすく、ある時は人をほめちぎり心酔して、またある時には憎々しげに悪口を言っていたのではないのか。
 だからこの言葉は、若き日の自分への、余りにも遅すぎた教訓の言葉でもあるのだが。

 ここまで書いてきたことは、そうした年寄りの小言(こごと)じみた説教でしかないのだが、ただこの年寄りの言葉を聞き入れてはくれなくても、そのうち年を取っていけば、おいおいに年寄りの話も耳に入るようになり、やがてはこうした先人たちが心血を注いで書きあげてきた、われら日本人の心の遺産でもある書物の数々を、手に取り読んでくれるようになるのではと思うのだが。
 もっともそれは、もう無理な話だろう。今は、大学生でさえ、一冊の本も読まない時代だもの。
 恐らくは、私たちの少し後の世代までで、本の時代、印刷されたものの時代は終わるのかもしれない。
 これからは、すべてが音声で聞き、映像で見る時代になり、若者は一行の短いメール一本で、自分の感情を自由に伝えることができるようになり、また受け取る時にもその相手の短いメールだけで十分に理解できるようになるのだろう。こうして若者たちは相互伝達の技術にたけるようになり、書物の時代とは違う新たなコミュニケーション文化の世界を切り開いていくことになるのだろう。

 そこで思い出したのだが、またもやAKBがらみの話なのだが、半年ほど前、”まゆゆ”こと渡辺麻友がAKB総選挙で1位になり、彼女がセンターになって与えられた新曲が「心のプラカード」だったのだが、その新曲初披露の時に、司会者から初めてこの曲を聞かされた時の印象はと聞かれて、”昭和のディスコ調のゆったりとしたテンポで”と答えていて、その時テレビで見ていた私は、”何言ってんだろうこの子は” と思ったのだが。
 後になって、分かっていないのは私の方だと気がついた。私はもちろん昭和生まれであり、まだ昭和の時代が続いている感覚でいたのだが、時は平成の時代それも平成26年にもなっていて、その時20歳だった”まゆゆ”は当然のこと昭和の時代のことは知らないし、ただテレビを見たりCDを聞いたりして知っているだけの時代だったのだ。

 昔よく、エライ年寄りたちが、”明治大正昭和の三時代を生きてこられた何々さん”と紹介されていて、若い私は、まあよくそんなに長く生きてきたものだと感心していたのだが、普通に考えてみれば、私だってそうなる可能性があるのだ。
 今やその自分も、三つの時代をまたいで生きてきた”レジェンド(伝説の人)”ならぬ、頭は”がらんど”の人、クソじじいになりつつあるということだ。
 お後がよろしいようで・・・チャンチャン。

  


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