ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

秋から冬への風

2014-11-03 21:15:35 | Weblog



11月3日

 朝早く、空は晴れていたが、山なみの並びに沿って、見事に冬型気圧配置の時の雲が並んでいた。
 その雲が、朝焼けに薄赤く映えていた。
 やがて、風の音が、天空いっぱいにとどろくように吹き渡り、さらに林の中を走り抜けていった。
 カラマツの針のような葉が、雨のように降りかかり、わずかに残っていた木立のモミジ葉は、見る間になくなってしまった。
 きっぱりと、何の未練もなく、こうして秋が終わってしまうのだ。

 風に乗って、山側から広がってきた雲が、いつの間にか空を覆いつくし、やがて雨がパラパラと屋根を叩いていた。
 そして、夕方にかけて、風は次第に収まってきて、気温も下がってきた。
 夜には、この秋初めての雪が、いやこの冬初めての雪が降るのかもしれない・・・。

 こうして、また一年が過ぎていく。
  しかし、今の私の頭の中には、まだ秋の盛りのあの鮮やかな色合いがよみがえってくる・・・。

 数日前の光景・・・。
 カラマツ林の中の道を歩いて行く。(写真上)
 前回にもあげた、北原白秋の詩集『水墨集』の中の「落葉松」からの一節(『日本文学全集』集英社版より)・・・。
 
 「 からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり.
  霧雨のかかる道なり。
  山風のかよう道なり。
  ・・・・。」

 ふと気づいて頭上を振り仰げば、カラマツの木立が指差す上に、黄金(こがね)色の秋の葉が、青空を背景に輝いていた。

 

 前回の登山からもう一月近くにもなるのに、私は山にも行かずに、時々買い物で街に出かける以外は、ずっと家にいた。
 そこで、家の周りの今が盛りの秋の色を楽しみ、また去りゆく秋の静けさを、ひとりしみじみと味わっていた。
 家にいても、日々の細かい仕事はいくらでもあるし、まして冬に備えての薪(まき)作りは、いくら作っておいても多すぎることはない。

 一週間から十日おきくらいに町に買い物に行くのは、ある種の気晴らしにもなる。
 日ごろから、鳥たちやシカ、キツネ、ウサギ、リスなどと、周りの農家で飼われている牛たちに、イヌやネコなどしか見ていない私にとって、町に住む人間たちを見るだけでも、それは興味深く面白い見ものになるからである。
 街に行けば、さまざまな顔をした、さまざまな体つきの、さまざまな年齢層の人間たちが、群れ集まって暮らしていて、彼らが休むことなく動き回るさまを見ることができる。
 私も、言葉を話せるから、見知った人を含めて、何人かの人と話をする。
 それはおおむね、物のやり取りの際に交わされる話だけだから、余り気をつかわなくてもいい。

 そして、コインランドリーで洗濯をして、100円ショップで安物買いを楽しみ、大型スーパーでしこたま食料品を買い込み、銭湯に行って1週間ぶりくらいで風呂に入り(家で五右衛門風呂を沸かして入るのは手間がかかりめんどうなのだ)、ともかくいい気分になって家に戻るが、その途中で、友達の家に寄って食事をごちそうになったり、他愛のない話をしていくこともある。ともかく家に戻って、その買いだめをしてきた安い食料品などを、冷蔵庫にいっぱいに詰め込む。

 これで、もうしばらくは食べるのにも困らないし、まるでぜいたくな金持ちになったような気分だ。まあなんと単純に、幸せな気分になれることだろう。
 母が元気なころ、そのころも一週間に一度は近くの大きな町へ買い物に行っていたのだが、家に戻ってきて、買ってきた食料品を冷蔵庫に詰め込みながら、母がよく言っていたものだ。
 「まるで分限者(ぶげんしゃ)になったみたいだね。」
 私は、その時の母の思いよりは、むしろまた古臭い年寄り言葉を使ってとぐらいにしか感じていなかったのだが、今にして思えば、それぞれになるほどと思い当たるのだ。

 分限者とは、昔の小説などの中にしか見られない金持ちを意味する言葉なのだが、今では日常的には使われないし、もうほとんど死語に近い言葉であり、考えてみればこの時の状況では、母が使ったこの言葉こそが全く正しい意味合いだったと言えるだろう。

 つまり、今では”一派ひとからげ”に”お金持ち”と言ってしまうところを、”にわか成金”の意味を込めて、つまり食料品をまとめ買いするくらいのお金はあるということで(それは十分に食べることさえできない時代の感覚なのだろうが)、今日のささやかな買い物の”ぜいたく”を、母はまさに的確に意味する言葉を使って表現していたのだ。
 確かに、冷蔵庫に食料品を詰め込むくらいでは、金持ちになったみたいだとは言わないだろうし、現実的に言えば、今の時代の本当のお金持ちの冷蔵庫には、簡単な飲み物と食べ物が少しあるくらいなのだろう。つまり彼らは、毎日の食事はいつも豪華なレストランでとっているのだろうから。

 さらに、今にして思うのは、昔のほとんどの人たちがそうであったように、母は旧制の尋常(じんじょう)小学校しか出ていないのに、漢字やことわざの類の知識についてはよく知っていて、とても私の及ぶところではなかった。
 上の学校にまで行かせてもらった私が言うのは、恥ずかしい限りだが、大人になってからも、母の話した言葉から初めて知った単語などが、幾つもあったくらいだ。

 たとえば、まだ私が若かった頃だが、そのころ私は気も短く、ある時のこと思わず母を怒鳴ってしまったことがあったのだが、その時母は、下を向いてつぶやくように言っていたのだ。
 「稚気(ちけ)まわして・・・」 

 その時には、意味も分からない年寄りくさい言葉をつかってとぐらいにしか思っていなかったのだが、後年ある時、古い明治時代の小説を読んでいて、あの時母が言っていた言葉が出てきて、初めてその意味が分かったのだ。

 稚気の稚(ち)は、”お稚児(ちご)さん”などで使われる、稚(おさな)い子どもの意味であり、その子供のようなわがままな気分ふるまいをさして”稚気をまわす”と言い、母は、そんな小さなことで怒鳴る私に対して、”いい年をして子供みたいに怒って”と、わが子をとがめるつもりで言ったのだろう。
 自分が年を取ってくれば分かることだが、それにしても年寄りの母を相手に怒っていた、当時の自分が何と恥ずかしく情けないことか。
 若い時には人生の盛りの活力にあふれていて、何事も自分一人の力でやり遂げているような気がするものだが、年を取るたびに少しずつ気づいていくのだ、そこにはいつも誰かの助けがあり、さらに運を手助けに不運を教訓にして、また少しずつ学び取り、やっと足元の自分の歩いて行く道がおぼろげに見えてくるのだということを。

 今日のテレビ・ニュースで、秋の褒章(ほうしょう)を受けた女優の樹木希林さん(71歳)がインタヴューを受けて答えていた。(彼女は最近、全身ガンにかかっていると公表したばかりだが。)
 「幾つもの大病を体験して、初めてものごとを俯瞰(ふかん)的に見られるようになってきて・・・。」

 さらに、安楽死が認められているアメリカはオレゴン州で、すでに脳内の末期がんに侵されて余命宣告を受け、”残りの短い人生を悔いなく楽しく過ごしたいたい”とインタヴューに答えていた29歳の女性が、自分で宣告した日に、医者から処方された薬を飲んで自らの命を絶ったというニュースが流れていた。

 いずれもあまりにも重たい話であり、個人的な事柄とはいえ、何とも論評する言葉もないのだが・・・。
 そこで、私はまた、このブログでも何度も取り上げてきた、あのハイデッガーの『存在と時間』の中の言葉を思い出すのだ。
 死を意識して初めて現れてくる時間こそが、現存在の時間、本当の時間であるということ・・・。

 上の写真にあるように、カラマツの林を歩き回った日の夕方、中空にはいっぱいに雲が広がっていて、山なみとの間の晴れた空の彼方に夕日が沈んでいき、雲は赤く染まり、何かに燃えているかのようだった。(写真下)

 そこで、宮澤賢治の童話集の中で、私の最も好きなものの一つである「よだかの星」の、最後の一節を思い出した。

 「よだかは、どこまでもどこまでも、まっすぐに空にのぼって行きました。
 ・・・・。
 これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに・・・。
 ・・・・。
 それからしばらくたって、よだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 いまでもまだ燃えつづけています。」

 (”近代日本文学全集 宮澤賢治1”  ダイソー文学シリーズより)

 やがてあかね色の空と雲は、少しずつ色あせて、夜のとばりの濃紺色の中に消えていき、空には青白く輝く星がひとつ・・・。