ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

紅葉の始まりから終わり、多幸感

2014-10-27 20:23:48 | Weblog



10月27日

 快晴の天気の日が、四日も続いた。
 ということは、山に行くにはいい時だったかもしれないが、やはり今週も土日と重なって(普通に働いている人たちには、このところ週末ごとの良い天気は、絶好のお出かけ日和になったことだろうが)、ただ気難しい年寄りの私だけは、ともかく出かける気さえしなかったのだ。
 もっとも、理由はそれだけではない。
 晴れていても、山は稜線に雲がかかっていることが多く、あるいはもやに包まれてはっきりとは見えなかったからでもあり、さらには最近、とみにひどくなってきたぐうたらグセ、つまり老人性引きこもり病にかかっているからでもあるのだが。

 つまり、子供のころから田舎や山が好きだった私は、ついには東京での生活を捨てて、自分で家を建ててまでして田舎に住み着いてしまい、もうその時点から、都会生活になじめずに田舎の自然の中に引きこもったということで、いわゆる若年性引きこもり病を帯びていたわけであり、それは思えば私の、宿業(しゅくごう)の病なのかもしれないのだが。
 さらにもう一つ、わけがある。

 家の庭から林にかけての紅葉が、余りにもきれいだったから、家にいたかったのである。
 それも、年ごとに紅葉の木々の枝葉が大きく茂り、色鮮やかになっているのだ。
 さらにありがたいことには、今年は紅葉の期間中、強い風が吹いたり大雨になったり、あるいは雪が降ったりすることもなく、長い期間、穏やかな天気のもとで、それぞれの木々の色づきを十分に楽しむことができたのだ。
 去年は、10月半ばに20cmもの湿った雪が降り積もり、これから紅葉を迎える木々の枝先や幹が幾つも折れてしまった。
 普通なら、紅葉の葉が散ってしまってからの雪になるのに、葉がいっぱいについたままの所に重たい湿った雪が積もり、枝や細い幹は耐えられなかったのだ。
 しかし今年は、そうした前年の災害にもめげずに、木々たちは元気に枝葉を伸ばし、今までで一番の紅葉を私に見せてくれたのだ。
 そうして、より美しく、より長く、より穏やかに、私の好きなものと一緒にいられたことの喜び・・・山に行けなかったことぐらい、ちいせえ、ちいせえ。

 今年の、家の林の紅葉は、もっとも早いものはもう夏の盛りのころから、シラカバやサクラなどの一部が色づき、さらには散り始めていたけれども、はっきりと紅葉が始まったと思ったのは、9月の終わりころのヤマウルシの幼木の葉が赤黒く色づき始めてからである。
 そして10月の初旬のある日、それは前回書いたあの然別(しかりべつ)の山に登ってきた、二三日後のことだったのだが、家の裏の林の手前にある、ハウチワカエデの緑の葉に、そこだけ色鮮やかな赤いサシが入っているのを見つけたのだ。(写真上)
 それは、物言わぬ木々たちの、”色鮮やかな秋の伝言”だった。 

 それからは、日ごとに赤いサシの入った葉が増えていき、他の木々も黄色く、赤く色づき始めた。
 家の林には、赤や黄色になる、ヤマモミジとハウチワカエデ、さらに明るい黄色になるイタヤカエデやミズナラなどが主体なのだが、一本だけでもきれいなのに、数本や十数本になって重なり合うと、もう見事という他はない。
 私が、特に気に入っているのが、その中に散在するシラカバの白い幹との対比であり(写真)、さらに背景が青空であれば、フランスの国旗、そうあの三色旗と同じ色合わせになるのだ。
 

 


 ところで今私は、こうして小さいながらも自分の林を持っているけれど、普通の人が田舎で土地を買うには、それはたとえ現状が耕作放棄地であっても、農地として登録してあれば農業者でない限りは買えないから、結局は山林か原野(あるいは宅地など)を購入することになる。 
 私がこの土地を買った時には、20数年経過していたカラマツの植林地だった。
 それでもそのカラマツの木々の間には、すでに落葉広葉樹であるミズナラやシラカバ、モミジ、カエデ、ナナカマド、ミズキ、ホウノキなどの幼樹が伸びてきていた。
 できるならば最初から、広葉樹だけの原野ふうの所の方が景観的には良かったのだが、他にも道の状況や、電気電話線、井戸堀り、冬の状態などいろいろなことを勘案しなければならないから、そう簡単にはこちらの希望通りにはいかないものなのだ。

 しかし今では、あちこちに移植した広葉樹や針葉樹も含めて、全体的に見て大分混交林としての体をなしてきたし、こうして秋の紅葉を楽しめるまでになってきたことを含めて、余分な木だと思っていたカラマツは、防風林になってくれただけでなく、今までちゃんとストーヴの薪(まき)としてここまで役に立ってきてくれたわけだから(油分が多くあまり薪に適しているとは言えないが)、ともかく結果的にはすべてがうまくいったことになり、物事はすべからく長い目で見ることが必要であり、全く何が幸いするかわかないものなのだ。

 この家の林の、二週間ほどの紅葉(黄葉)の時期の間、天気がいい日が多くて、私は毎日、木もれ日あふれる林の中を歩き回っては、明るい黄色の色づきを楽しみ、そして家のそばの日当たりの良い所に並んでいる、日ごとに変わる、モミジ類の色鮮やかな紅葉を、繰り返し写真に撮ってきた。
 今までにこれほど多くの紅葉の写真を撮ったことはなかった。ただ私に、写真を上手く撮る技術がないだけに、それらの写真だけでは、とても今年の家の紅葉の見事さが十分に撮れているとは思えないが、ただこれらの写真を見ていると、毎日毎日の私の、どうしてもカメラを構えたくなる興奮ぶりが伝わってくるのだ。ああ今年の紅葉は良かったなと。(写真)





 今日はまだ晴れてはいるが、雲が多く、風が強くなってきて、木々の紅葉を散らし始めた。明らかに木々の枝先の紅葉が少なくなり、葉先が縮んできたものも多く、やはり紅葉の盛りは、昨日までだったのだ。
 それに代わって、最後の秋の彩(いろどり)を締めくくるべく、十勝平野全体に見られる、カラマツ防風林の黄葉がもう始まっていて、風が吹くと、その落葉が雨粒やあられのようにぱらぱらと降りかかってくるのだ。

「近いうちにまた雪がふるだろう。
 わたしはまた去年のことを思い出す。
 わたしは暖炉の前であの寂しさを思い出す。
 あの時、誰かがわたしに”どうしたの?”とたずねたなら、
 わたしは答えただろう。
 ”ほっといてくれ、何でもないことだ”と。
 ・・・・・・。

 (『月下の一群』より フランシス・ジャム「雪のふるころ」 堀口大学訳 新潮文庫) 

「からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き、
 からまつはさびしかりけり、
 たびゆくはさびしかりけり。
 ・・・・・・。
 世の中よ、あわれなりけり。
 常なけどうれしかりけり。
 山川に山がわの音、
 からまつにからまつのかぜ。」

 (北原白秋『水墨集』より 「落葉松」 集英社版日本文学全集)
 
 ところで、先日、放送されたNHKの『クローズアップ現代』”百寿者知られざる世界”からだが、日本の百歳越えの 長寿者いわゆる”百寿者(ひゃくじゅしゃ)たちの数は、この50年で300倍にも増えているというが(戦争で若くして死んだ人たちが多かったから、今と比較しての額面通りの倍率にはならないだろうが)、そんな百寿者を含む70歳代から100歳代のお年寄りたちへの聞き取り調査で、ほとんどの人たちが、今の自分の暮しを肯定的に受け止め、自分の人生に満足している人たちが多いことが分かったというのだ。
 さらに百寿者の多くが、ありとあらゆることに幸せを感じている、いわゆる”多幸感(たこうかん)”を持っているということ。

 そのうちの一つの例として、ある105歳の男性への質問応答の模様が映し出されていた。
 彼はそれまで、毎日の散歩を楽しみにしていたのだが、3か月前に腰やひざの痛みが出て一人では歩けなくなり、今では一日の多くの時間をベッドで過ごすことになったそうだが、以下は研究者の問いに応じて答えたものだ。

 「もし戻れるとしたら何歳ぐらいに戻りたいですか。」・・・・・・「やはり現在のままで。」
 「今の自分の生活に満足していますか。」・・・・・・「はい、大満足です。」
 「若い時と比べて、今の状態はいいですか。」・・・・・「はい、今が大変幸せです。周りの方や物、一切のもののおかげを受けています。このように生かせてもらって不思議な気がします。感謝感激です。」 
 
 もちろん、そこには周りの介護してくれている人たちなどへの気遣いもあって、彼の年代ならではの遠慮やへりくだりもあるのだろうが、それにしても、この自分の今の境遇をすべて肯定的に受け止める、いわゆる”老年的超越”の思いには、考えさせられるものがある。
 つまり研究者たちによれば、70代くらいまでは、老いの不安や死の不安があり、老いつつある自分を認めたくないという思いがあるが、そこから歳を重ねるごとに、否定的感情や不安は薄れていき、穏やかで幸せな気持ちになるというのだ。
 つまり、80~90歳代を境に、それまでの価値観が転換して、老齢者たちの多くは”豊かな精神世界”へと、例の”老年的超越”の境地に入って行くらしく、これまでの”老いの弊害”の認識を変えなけねばならないようになってきているとのことだ。
 もっとも、長寿命でも、ベッドで寝たきりになる人も多く、元気で暮らすことのできる健康寿命との差も問題にはなっているが。 

 以上のこの番組を見て、私は、まだそこまでの歳になるには大分間があるし(その歳まで生きられるかどうかもわからないし)、いまだに世の中の煩悩(ぼんのう)のすべてを断ち切れずにいて、それでも同世代の人たちと比べれば、おそらくは多幸感を持っている方だとは思うが、ともかくいろいろな意味で考えさせられたのだ。
 それは、前に取り上げたあの”臨死体験”の問題(9月22日の項参照)、と合わせて考えれば、そこには何か、遠くおぼろげながらも見えてくるような気がするのだ。
 生きるという本能のままに、それでも穏やかに生きていくこと。
 そして、誰にでも、自分で作り上げることのできる天国があるということ・・・。

 
 昨日は、ここでも20度を超える季節外れの暖かさになり、薪割りをしていると汗が噴き出すほどだったが、北見地方の美幌町(びほろちょう)では、何と夏日の25度にまでなったとのことだ。
 今日もまだ朝から7度近くもあり、暖かさが残っていたが、四日も続いた快晴の空は終わり、晴れ間は少なくなり、山側から雲が空全体に広がってきた。
 そして、風が強くなり、今まで一面を覆っていた紅葉の木々は揺れ、絶え間なく葉が散り落ちている。
 明日は気温も下がり、確かに冬がまた一歩近づいて来るのだろう。

 私は、秋の名残りを、自分で撮った写真の中で懐かしむ。(写真下)
 パソコンの壁紙にして、自分の目を楽しませるのだ。ああ、あんなに鮮やかな紅葉の日々があったのだと・・・。