ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

青空、秋の山歩き(1)

2014-10-14 17:27:53 | Weblog



10月14日

 朝は霜が降りるほどの冷え込みだが、日中は15度から20度近くにまで上がって、まだまだ暖かい日々が続いている。
 ただし、天気予報で晴れのマークがついている日でも、風や寒気の影響で山には雲がかかるというような時があるから、時間ごとの天気分布予報なども調べてからでないと、山に行くことはできない。
 最近の私の山登りは、年を取っていくにしたがい、ますますわがままに、ますます用心深くなっているように思える。
 それはそれで悪いことではないのだが、余りに慎重に考えすぎて、山に行く機会をむざむざと逃しているような時もあるのだ。
 何事も、”過ぎたるは、及ばざるがごとし”というたとえの通り。

 そんなある日、数日前のことだが、私は久しぶりに山に行ってきた。
 前回の、大雪山黒岳への登山からは(9月16日の項参照)、4週間近くも間が空いたことになる。
 若いころは、といってもたかだか10年くらい前までのことだが、9月10月の2カ月だけで、毎年10回ほども、一番多いときには12回もの山行を重ねていたのにと思うと、もう隔世(かくせい)の感がするほどである。
 私も、年を取ったものだ。

 そこで、風呂にも入らず伸びたあごひげをなでながら、意味もなく”うーむ、マンダム”。
 そんな昔流行(はや)った、今は亡きチャールズ・ブロンスンのコマーシャルのまねをするくらいだから、古いと言われるんだ。
 それではと、比較的新しい(と言っても4年前の曲だが)、あのAKBの歌からの一節(秋元康作詞)。

 ”風は止んだ。見たことのない光が差すよ。今が時だ。君は生まれ変わったBeginner(ビギナー)・・・"
 
 私は、山に行くことにした。それも最近の病み上がりの年寄りの我が身を考えて、初心者向きの短い時間で登れる山に。
 私が住んでいる十勝地方は、きわめて大まかに言えば直角三角形の形をしていて、直角の一方の辺、つまり西側には日高山脈が連なり、もう一つの北側になる直角の辺には、東大雪と呼ばれる山域があり、三つ目の辺は、南東の斜めに続く太平洋に接した海岸線になる。
 この地形から見ただけでも、冬場は二つの山域が北西風の雪雲を止めて晴れた日が多くなり、逆に夏場は、南から流れ込む雲や霧の影響を受けて、曇り空の日が多くなるというのがわかるだろう。

 西側に延々と連なる日高山脈については、私の十勝移住のきっかけとなり憧れた山々であり、また別な機会にそれぞれの山々について詳しく書いてみたいと思うが、さらに十勝平野の北側にはもう一つの山域、東大雪の山々があり、それは文字通り表大雪と呼ばれる北海道最高峰の旭岳(2290m)を中心とした大雪火山群とは離れた東側にあって、幾つかの小火山群や褶曲山脈などを含めた総称なのだが、それらの山々の一番外側、つまり十勝平野と一番最初に接する所にあるのが、今回私が行った然別(しかりべつ)火山群である。
 それは、カルデラ湖とも言われている然別湖を中心して、何度もの噴火時期を経て形成された多くの溶岩円頂丘の集まりであり、遠く離れて見ると、それぞれの山の区別がつきかねるほどである。(参照『十勝の自然を歩く』北海道大学図書刊行会)

 この山域の山に登るには、有名観光地でもある然別湖側から五つほどの登山道があり、白雲山(1187m)、天望山(1174m)、東ヌプカウシヌプリ(1252m)、西ヌプカウシヌプリ(1254m)、南ベトゥトル山(1348m)などに登ることができる。
 一方南東面に広がる士幌高原側からも、登山道がひらかれていて、岩石山(1070m)を経て白雲山にも登ることができる。

 そして、私は、然別湖側からは何度かそれぞれの山に登ってはいるのだが、思えばこの士幌高原側からは初めてのことになるのだ。
 というのも、私が北海道の山に憑(つ)かれたように登っていたころ、この然別の山々のような標高の低い簡単に登れる山などは眼中になくて、他の標高の高い難度の高い山々ばかりを目指して登っていたからでもある。

 かつて、あの”山と渓谷”誌には、”百低山”シリーズなるものが掲載されていて、当時の若い私は、そんな低い山のどこがいいのかと目もくれなかったのだが、今になってみれば、なるほど年を取ってきて、静かな低山歩きを楽しむことこそ、老年登山の醍醐味(だいごみ)ではないのかと、ようやく理解できるようになったのだ。
 つまり山登りとは、自分の足で登ることができる限り、いつまでもそれぞれの難易度に応じた山を選んでの、山歩きができるということなのだ・・・当たり前のことだが、ありがたいことだ。
 右足を上げて左足を上げれば、登れる、あたりまえ登山。(”あたりまえ体操”のパロディ)

 さて国道から分かれて、士幌(しほろ)の街を抜け西に道道(北海道管轄の道路、つまり各県の県道と同じ)を走って行くと、やがて士幌高原と呼ばれる牧場地帯の中をゆるやかに上る道になり、然別の山々が目の前に現われてくる。
 大きくすそ野を広げた東ヌプカウシヌプリと、それに続いて岩石山(写真上)から天望山と、いわゆる溶岩円頂丘と呼ばれる山々がポコポコと盛り上がって連なっている。
 ちなみに、アイヌ語の山名であるヌプカウシヌプリとは、知里真志保著「地名アイヌ語辞典」によれば、ヌプカ(原野)-ウシ(群生する所)-ヌプリ(山)ということになり、見事に十勝平野の果てに群立する山々の姿を言い表している。

 山々の上の方のダケカンバなどの黄葉やカエデの紅葉などはとっくに終わっていて、今は中腹のミズナラやカシワ、ダケカンバなどが黄色から橙色に色づいているだけだった。
 前回にも書いたように、今年の北海道の山の紅葉は早かったのだが、調べてみると東北地方の山々は言うに及ばず、あの北アルプスの涸沢の紅葉も、9月下旬が盛りだったとのことだ。

 だから、この然別の山の紅葉も、盛りはとっくに過ぎていると思っていたし、あてにはしていなかった。ただ、無性に山歩きがしたくなったから、天気のいい日を選んで出かけてきただけのことだ。
 いつも秋の山に行く時に考えることだが、紅葉が真っ盛りの時の天気が悪い日と、紅葉にはまだ早いかあるいは終わっているけれど天気の良い日のどちらかをと言われれば、私は何の迷いもなく天気のいい日だけを選ぶだろう。ヒマな年寄りのありがたいところだが。

 士幌高原”ヌプカの里”の整備された園地やロッジ群を右手に見て、そのまま走って行くと、大きなゲートで終点になり、その手前の所にクルマを停めて歩き出す。
 時間はもう8時半近くにもなるのに、他にクルマもなく、これから一人だけの山歩きができるかと思うだけでも、なんだか気楽な幸せな気分になれる。
 ましてこの然別湖周辺の山々では、あまりヒグマ出没の話は聞かないし、こうして一人の時でも鈴をつけて歩かなくてもすむだけでもありがたい。
 (人の多い北アルプスの山々でも、時々鈴をつけて歩いている人を見かけるが、ましてケイタイで話しながら、あるいはラジオをつけながら歩いている人もいて、せっかく静かな大自然の山の中にいるのに、もったいないと思ってしまうのだが。)
 その代りと言っては何だが、私は北海道の山では、時々手に持ったストックをわざと石などに当てて音を出すようにはしているのだが。もっともそれぐらいのことでも、人がいることをヒグマに知らせる手段の一つにはなると思うからだ。(’08.11.14の項参照) 

 ゆるやかに広がる牧草地には、まだ放牧されたままの牛が何頭か群れている。そのそばに沿って、登山道が続いていた。
 シラカバの疎林の中の道を、ひとり歩いて行くのは気持ちがいい。
 こうした静かな自然の中にいるのが好きな私は、それが高邁(こうまい)な精神と相まって、哲学的な思索にふけるとかになればいいのだろうが、あいにくそんな思いなんぞ持ち合わせてはいないし、むしろ逆にきわめてミーハー的な歌謡曲的な思いがあふれてくるのだ。 

 「白樺林の細い道 名前を刻んだ木をさがす 心でどんなに叫んでも 今ではとどかぬ遠い人 ・・・」

 (『白樺日記』 阿久悠作詞 遠藤実作曲 森昌子歌)
 
 山口百恵、桜田淳子とともに、いわゆる”中三トリオ”のアイドルとして一世を風靡(ふうび)した森昌子が、後年『哀しみ本線日本海』や『越冬つばめ』などの演歌路線へと行く前の、セーラー服姿で歌う『せんせい』などと同じ”女学生もの”シリーズの一曲である。
 こうした昔の曲が思わず口をついて出るということは、年寄りの私が今、AKBを好きになっているのもうなづけることで、若いころからの”アイドル好き”な性向があったからかもしれない。
 とは言っても、ポスターを貼ったり、レコードやCDを買ったりするほどのファンなのではなく、ただテレビを見ていい子だなと思っていただけのことなのだが。
 当時、私はむしろ、アメリカのポップスの方が好きだったし、やがてロック、ジャズに入って行き、そしてついにはクラッシック音楽の世界にのめり込んでしまうことになって、日本の歌謡曲や演歌の世界からは離れてしまう一方になっていくのだ。

 それなのに今、昔子供のころに聞いた流行歌、歌謡曲の一節が、ふと口をついて出るとは、やはり”氏より育ち”とか”三つ子の魂百までも”という、たとえ通りだからなのだろうか。
 そういえば、先日NHK・BSで、『昭和歌謡黄金時代~春日八郎と三橋美智也』の再放送をやっていて、録画しておいて見たのだが、出てくる歌出てくる歌のすべてが、子供のころどこかで聞いたことのある曲ばかりで、1時間半もの番組を一気に見てしまったのだ。

 それはまさに、昭和30年代の歌謡曲の世界の人気を二分した、二人の名歌手の歌声を堪能(たんのう)することができたひと時だった。
 今の時代の、個性的であろうとして技巧を尽くしたマニエリスム的な、いわゆる”厚塗りの演歌”ではなく(その歌い方がいい場合もあるが)、昔からの居ずまいを正した日本の歌謡曲として、あるいは民謡の伝統を受け継ぐ者としての、それぞれの二人の歌い方に、今さらながらに感心させられたのだ。
 さらに素晴らしいのは、その日本的な曲調を書いた作曲者はもとより、なるほどと納得させられることが多い、その歌詞を書いた作詞者たちにある。

 今の若い歌手たちの多くは、自分で作詞作曲をしたりするいわゆる”シンガー・ソングライター”であり、つまり専門的に文学的な詩を書いているわけではなく、ただその時の自分の感情を言葉にしただけのもので、つまり刹那(せつな)的な言葉の羅列(られつ)にすぎず(それが曲の内容にふさわしい場合もあるが)、ともかく昔、歌の歌詞を書いていたのは専業の作詞家たちであり、彼らの中には名のある詩人もいたし、ほとんどの人が詩作の素養を持った人たちばかりだったのだ。
 だから、それぞれの言葉の語感に、歌のリズムが合い、さらには一つの歌が見事な一つの話として、ショート・ストーリーとしてまとまっていたのだ。
 (私が、AKBの歌にひかれる理由の一つには、作詞家である秋元康の、そうした昔の作詞家の流れにつながるような、詩的な言葉の使い方にあるからだ。このことは、いずれまたAKBについて書くときに改めて説明したいと思う。)

 ところで二人の歌に戻れば、春日八郎の『お富さん』は、作詞家に歌舞伎の知識があってこその歌だし、『別れの一本杉』や『山のつり橋』などの、故郷の情感あふれる歌には誰もが泣かされるだろうし、一方の三橋美智也にも、たとえば『古城』には、昔の栄枯盛衰(えいこせいすい)の世界を思わせる情景が描かれていて、そこには作詞家の漢文の素養さえも感じられるし、『おんな船頭歌』や『リンゴ村から』 には、当時の誰にもあった故郷への哀しく懐かしい思いに溢れている。

 ともかくにも”歌は世につれ、世は歌につれ” 、人々は自分の今と昔を思い出すのだろう。
 
 然別の秋の山について書いているところで、大きく話がそれてしまった。
 これもまたなげかわしくも、何事にも長くは集中できない、移り気な私の性格のなせる所なのだ。反省。

 山の話を続けよう。そして、山腹の道を少し登ると、右から来た車道跡らしい道と一緒になる。
 これがあの有名な士幌高原道路跡で、然別湖岸に出る観光道路として計画されたのだが、ナキウサギが生息し高山植物も多い所を通り、自然破壊につながるから反対され、中止の憂き目にあって、今はその途中までの跡が残っているのだ。
 今の時代ならば、こうした計画そのものが作られことはないだろうが、あの大雪山銀泉台道路とともに、さらには内地の尾瀬ヶ原ダム計画や霧ヶ峰観光道路計画などとともに、自然保護団体等の反対によって後世に伝えるべき自然が残されることになったのは、きわめて有意義なことだったのだ。
 もっともその代わりに、計画通りに実行に移され完成して、今では普通に供用されている観光道路は他に幾つもあるのだが・・・。

 さて、その広い道跡は山腹をたどる水平道のように続いていて、細いシラカバが所々に立ち並び、山腹の上下にはミズナラなどの黄葉が明るく照り映えて、気持ちのいい道だった。
 すぐに、左手の東ヌプカウシヌプリとの広いコル(鞍部)に出て、そこからは右に曲がり、エゾトドマツの樹林帯の急な登りになる。
 何度か目のジグザグを繰り返していくと、次第に明るくなってあたりが開け、大岩が続く岩塊(がんかい)斜面に出て、天望山と岩石山との間のコルに出た。

 右手に見上げる岩塊斜面は、岩石山頂上にまで続いていたが、右端に残る小さな林との間には、はっきりとした土の道の踏み跡があり、それをたどると楽に登って行くことができた。しかし、上の方で再び岩塊帯に出てゆるやかになり、標識の代わりのケルンのある頂上に着いた。
 前回の大雪山黒岳では、3カ月ものブランクで、息が続かず足も疲れてコースタイムをはるかに超える時間で、ようやくたどり着くことができたという有様で、果たして今回はと気になっていたのだが、あまり疲れることもなくコースタイムの1時間半の所を、それよりはずっと早い時間で登ることができたから、まずはひと安心でほっとしたのだ、これからも山登りを続けられると。

 さて、この山は初めてだったのだが、北海道の名だたる山のほとんどに登っている私には、もう初めての山が増えることは余りないだろうと思っていて、だからひさしぶりに新たな山名の追加になるのが、ささやかな喜びにもなったのだけれど。
 それにしても、ガイドブックなどにある岩石山とはいかにも直接的で味気のない山名だが、もっとも下のコルの標識には無名峰と書いてあったから、名前がつけられているだけでもまだましな方かもしれない。
 
 天気は、北の方に少し雲が流れていたものの、相変わらずの快晴の空が広がっていた。ただ気温が高いのか、大気はすっかりかすんでいて、長々と連なり見えるはずの日高山脈どころか、地平線まで見えるはずの十勝平野の広がりさえも、十分には見通せなかった。
 しかし西の方に続く、東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリ(写真下)、さらに白雲山から天望山にかけての然別の山々を見ることができた。
 誰もいなくて静かな頂上だったが、まだ先があるからと、10分余り休んだだけで下って行くことにした。

 余分なことを書いてしまい長くなったので、続きは次回に。