7月8日
7月とは思えない肌寒い日が続いている。(注:7月6日現在)
終日低い雲が空を覆い、朝の最低気温は10度を切り、最高気温でも15度くらいにしかならない。
昨日など、思わず小さなポータブル・ストーヴをつけたくらいだ。
もっともそれは、ついでにお湯を沸かすためでもあったのだが。
とは言っても、寒さに強く暑さに弱い私には、そのくらいがちょうどいい。
そして、夏の間続く草刈り作業の時でも、うるさいカやアブが、低温のためにあまり出てこなくなるだけでもありがたい。
ただ一番やっかいな、サシバエだけは始末に負えない。忙しく草刈りガマを振り続ける私のすきを狙って、腕の裏側に張り付いて血を吸うからだ。
そうして、私なんぞの年寄りの血が吸われるのは構わないが、それで自然界の生物の一匹が生き延び、種族を残していけるようになるのなら、けっこうなことなのだが、問題なのは、そのあとのかゆみであり、数日後までも腕をかきむしることになるからだ。
しかし、考えてみると、この自分の体をかきむしる行為は、実はかゆくなった部位をかきむしることによって得られる、ある種の快感を期待していて、その原因が病的症状によって引き起こされる場合を除いて、しごく妥当な人間の生きていることの生態反応だということだ。
もちろんかゆくなるのは、人間だけではないが。
ミャオが元気で私のそばにいたころ、突然上半身を起こして、後ろ足で自分の首筋辺りをかき始める。
一度やめて、まだかゆいのかまたかき始める。私が手を伸ばして、5本の指でその首筋をかいてやる。
ミャオは、目を細めてされるがままになり、そのうち私の手を首筋に当てたままにして、ごろんと横になり、私を見ては、ニャーオと鳴く。
ある大阪の芸人タレントが、背中を柱などにこすりつけて言う一発ギャグ・・・かいーの。
それを見て私たちは笑うけれども、背中がかゆいときに、手元に孫の手も、定規(じょうぎ)もハエ叩きの長い柄もない時には、おそらくそうするであろう、まさに自分の姿でもあるのだ。
ここで、なぜにそうした当たり前のことをわざわざ書いたかというと、山登りもまた同じように、こうした自分の生態反応を楽しんでいるのではないのかと思ったからである。
それが、自ら作り出した原因 、つまり山登りという苦行(くぎょう)を自らに与えて、区切りとしての時々の休息による解放感や、頂上に着いた時の喜びを期待しては、その長きにわたる苦痛に耐えたあげくに満足感にひたるという、手の込んだサディズムというスタイルをとっているのではないのかと・・・。
つまり誰でも、実は女王様のムチを期待しているのではないのか・・・最近、はたと見えなくなった、あの女芸人タレントの網タイツ女王様キャラの出し物をもう一度見たいものだ。
(ちなみに誤解を招かないように、ここで言っておくけれども、私にそんなSMの気は全くないのだが、ギャグとして見るのは好きなのだ。タイツ姿になった”こまわりくん”の”八丈島のキョン”みたいなものだ。)
さてこのようにして、苦しみと喜びが見事なバランスで相半ばする山登りに限らず、人は、いつも対価として与えられるものを期待しているからこそ、日々の苦しい労働に励み、厳しい鍛錬(たんれん)のための運動にも耐えることができるのだろう。
それは、人が生きていくそのものの形なのかもしれない・・・苦と楽、陰と陽すべてが相半ばして、うまく収まるようになっている・・・。
そこで、あの老子の言葉を思い出した。
「有と無はたがいに生まれ、難しさと易(やさ)しさはたがいに補(おぎな)いあい、長と短は明らかにしあい、高いものと下(ひく)いものはたがいに限定しあい、音と声はたがいに調和を保ち、前と後ろはたがいに順序をもつ・・・」
(『世界の名著』4 老子 小川環樹訳 中央公論社)
そして、私は何かを補うために調和を保つために、山に登る。
前回からの続きである。
6月の下旬、大雪山は高原温泉口から緑岳へと登った私は、日ごろからの運動不足がたたって、その上に年齢のせいでもあろうが、やっとの思いで白雲岳避難小屋にたどり着き、そこで一夜を過ごした。
山小屋で眠れないのは、日ごろから全く静かな所でひとり、惰眠(だみん)をむさぼっている私への報いでもあるのだが、それでも数時間余りも眠れずにただ寝返りを繰り返しているのはつらい・・・しかしそんな私も、ひと時の間、ほんの一二時間の間、あの怪獣たちのうなり声も聞こえなくなり、いつしか眠っていたのだろうか、誰かが起きてガサゴソさせる音で目が覚めた。
時計を見ると、3時前だった。
日の出前後の光景を期待するのは、太陽が昇ってくる御来光(ごらいこう)の時だけでなく、その前後の漆黒(しっこく)の闇から、いつしか鮮やかな色彩に彩られ、さらには朝の陰影ある風景へと変化していく過程を、つぶさに見られることにあり、それが山に泊まる時の大きな楽しみの一つでもあるからなのだ。
この小屋には今まで十数回も泊まっていても、その度ごとに違った日の出の光景を見てきていて、それでもあきることはなく、今回も私は、またあらたな早暁(そうぎょう)の光に染められた、山の姿を見たいと、夜明け前に起きたのだ。
外はすでに大分白み始めていて、目の前に白雲岳の山影が大きく黒々と立ちはだかり、反対側の緑岳にかけての稜線もはっきりと見えていた。快晴の朝だ。
ずっと先の方で、先行者のヘッドランプの明かりが動いていた。
雪渓をたどる時は、ほの白い雪の白さでまだ足元が確かめられるからいいが、ハイマツの中につけられた道では、さすがに明かりがないと足元が見えないほどで、まだ辺りは夜明け前の暗がりの中にあった。
最後にゆるやかに道をたどって、白雲岳分岐の十字路に着く。
北側が大きく開けて、北鎮(ほくちん)、凌雲(りょううん)、烏帽子(えぼし)、黒岳などの山々が、暁の赤い色に縁どられシルエットになって見えていた。
そこからは左手に曲がり、ゆるやかな傾斜地をたどって白雲岳へと向かう。
もう、山頂での御来光には間に合わないのは分かっていたが、今までに何度も見てきているし、むしろ今回は、東側になだらかに盛り上がる、小泉岳から昇ってくる朝日を見たいと思っていたのだ。
白雲岳火口原に入る手前の所で、御来光の時を待った。
そしてその通りに、小泉岳のゆるやかな山頂(2158m)にあるケルンのそばから、少しよどんだ空気を赤く染めながら、その上の雲に投影させ照り輝かせながら、朝日が昇ってきた。(写真上)
山の端が南にゆるやかに下るあたりから、武利(むりい)岳と武華(むか)山のがのぞき、そこから石狩山地に至るまでの大雪湖から続く広い盆地は、雲海に覆われて白い湖のようだった。
日の出の後、私は、足早になって平坦地の火口原を歩き、稜線下の雪渓を回り込んで白雲岳の頂上(2230m)に着いた。
そこには、誰もが大雪山随一と思うだろう、その大展望が広がっていた。
それも何とか間に合って、赤く染まった旭岳(2290m)の姿を見ることができたのだ。(写真)
できる事なら、もっと全体が赤く染まる姿を、手前の間宮岳斜面の残雪紋様までが赤く染まるのを見たいのだが、それは今見るように、日の出の位置からして無理であり、ほとんどが白雲岳自身の影に覆われてしまうのだ。
だから夏至(げし)とは逆の冬至(とうじ)、つまり厳冬期に登るしかないのだが、そのころはもちろん縞(しま)紋様はなくなり、山全体が真っ白になっているし。
山頂には、私より先に着いていた同じ小屋泊まりの二人連れがいたが、あいさつを交わして天気を喜び合っただけで、お互いに周囲に広がる光景に向かい、カメラを構えてシャッターを押すことに夢中になっていた。
それにしても、何という見事な景観だろう。
目の前に、数キロの距離を置いてそびえたつ旭岳が、左手に後旭岳(うしろあさひ、2216m)の丸い頂を抱えて、右手には熊ヶ岳のギザギザの頂を従え、さらには間宮岳から北海岳に至る、お鉢噴火口の残雪縞紋様のすそ野を前景にして、フレームの中におさまる姿は、やはり天下一品と呼ぶにふさわしかった。
思うに、名山と呼ばれる山は、それに値する品格風格を備えた姿をしていて、そのベストの姿を求めて、様々な方向から見てみたくなるものである。
この旭岳の場合、下から見るには旭川郊外のいずれから見ても爆裂火口を開けた姿が印象的であり、もっと近づいたロープウエイ姿見駅方面や当麻乗越(とうまのっこし)、天人峡滝見台などから見れば、さらにスケール感が増して見事である。
同じ大雪山系の山では、この白雲岳から見るのが一番だとしても、他のそれぞれの山の頂からも、最も高いこの旭岳の姿を見ることができるし、それぞれに見どころがある。
ただし、これは雪のついた冬季限定になるが、隣の後旭岳から見た姿・・・シュカブラの雪原の彼方に、あくまでも白くすっきりとそびえ立っていた旭岳の姿が忘れられない・・・。
さらに、この白雲岳からの展望は、南に遠くトムラウシ山(2141m)が薄いピンク色に輝き、さらに離れて十勝岳連峰が続き、富良野盆地を挟んで芦別岳、夕張岳も見えている。
トムラウシの左手には、残念ながら今日は少し雲があって日高山脈は見えていないが、昨日と同じように、ニペソツ山から石狩岳そして武利岳などの東大雪の山々が並び、その間の雲海の上に阿寒の山々も見えている。
はるか遠くの利尻や知床、日高山脈南端までもが見えるほどの空気が澄んだ天気ではないにせよ、上空に雲一つない快晴の日の展望に、何の文句があるだろうか。
やがて二人は、あいさつして先に下りて行った。
もう1時間近くたっていたが、微風快晴の頂上から私は、そう簡単に立ち去る気にはならなかった。さらに同じ小屋泊まりの、若い男がひとり登ってきて、お互いに笑顔であいさつして、しばらく山の話をして、昔の山に思いを馳(は)せた。
そして私は、1時間半もいた頂上を後にして、それでもあちこちで写真を撮りながら下りて行き、分岐点に戻った。
そして今度はそこから左側に、北海平方面へと下りて行った。
その先にある、雄滝の沢源頭部左岸にできる、巨大な雪庇(せっぴ)を見たかったからである。
しかし、昨日見たあの高根ヶ原の雪庇と同じように、今年はどうも雪が少なかったようで、例年の迫力ある姿にはなっていなかった。それでも青空と、鮮やかな雪渓の連なりの光景は、いつものように今の時期のさわやかな山の姿を感じさせてくれた。
何よりその手前の草原の光景・・・右手には烏帽子岳方面を背景に点々とキバナシャクナゲが咲いていて、左手の白雲岳斜面側には、エゾコザクラの群落があり、その上のキバナシャクナゲとともに、緑の草、白い残雪、それらが青空に映えて、すぐには立ち去り難い思いだった。(写真)
まだ朝早く、行きかう人すらない、静かな山道だった。
再び分岐に戻り、今度は小屋へと下りて行く。
斜面を覆う残雪の向こうに、トムラウシと十勝連峰が見えている。
今までに何度となく撮っている光景だが、またあきることなくカメラを構えた。(写真)
そして、小屋に着いて、ガランとした部屋でひとり簡単な朝食を作り食べた後、荷物をまとめて外に出た。
この青空のもと、まだ若い私だったら、あの若いオランダ人の二人のように、トムラウシまで行っていただろうに。
行きにたどったコースを戻ることにして、小屋から少し下り雪渓を横切って、次にお花畑の斜面を登り返して、緑岳分岐に着いた。
そこにザックを置いて、身軽なサブザック姿で、小泉岳へと登り返して行く。
ここからの尾根道に咲いている花々を見ては、広大な展望を眺め、そしてもしかして、あの高山蝶に出会えるかもしれないという期待もあって。
そして歩き始めたが、チングルマよりは大きいチョウノスケソウの白い花や、るり色のホソバウルップソウなども、確かに咲いてはいたが、まだ咲き始めで数が少なく、今までずっと見てきた白い小さな花の集まりであるイワウメと、黄色い花のミヤマキンバイ、さらに少しばかりのエゾオヤマノエンドウの紫色が目立つくらいだった。
しかし1週間もすれば、この花の分布もすっかり変わってしまうことだろう。チョウノスケソウやホソバウルップソウが盛りを迎え、さらに一際目を引く赤いエゾツツジが咲き始め、コマクサ、イワブクロ、キバナシオガマ、タカネスミレ、クモマユキノシタなどがいっせいに花開き・・・そして8月半ばのクモイリンドウに至るまで、私たち登山者の目を楽しませてくれるのだ。
とその時 、一匹の蝶が私の目の前を横切って行き、近くの砂利の上に止まった。ウスバキチョウだ。(写真下の上)
先ほども、飛び回る姿を見かけてはいたのだが、私のカメラは標準ズームレンズをつけたままで、望遠レンズなど持っていないから、こうした蝶や生き物を撮る時には、偶然出会うことを期待するしかないのだ。
蝶マニアでもなく野生動物マニアでもない私には、ただダテに長い登山歴があるから、その中で様々な蝶や動物たちに出会ってきたことがあるというだけのことだ。
もっとも、山中であの巨大なヒグマに、30メートルほどの距離で出会った時には、とてもカメラを構える余裕もなかったし、その後も何度かヒグマに遭遇したことはあるが、いずれの場合もまずは自分の身を守ることだと、写真どころの話ではなかったのだ。
私の、第一の目的は、ただ山の姿を見ることにあり、あえて言えば、花も蝶も鳥も動物たちも、目の前にいれば、その時のにわか仕立てのファンになるだけの、底の浅い知識しか持っていないというのが本当のところだ。
そうして、にわか蝶ファンになった私は、そのウスバキチョウの姿を写真に収めて、さらにもっといい位置でと体を動かしたとたん、蝶は飛び去ってしまった。
それでも、花が少なかった代わりに、こうしてウスバキチョウに出会えたことで、私は満足し、歌でも歌いたい気分だった。
「ラブラドール走って、波打ちぎわへ・・・」、だめだ、ここは海ではないし、似合わない。
「丘を越え行こうよ、口笛吹きつーつ、空は澄み青空・・・」 、古っ、と言われそう。
ともかく足取りも軽く登って行き、振り返ると、なだらかな砂礫地の尾根が続く向こうに、緑岳の頂があり、その遥か彼方にトムラウシ山が見えていた。
昨日ほどの雲はなかったが、それでも山々の上には小さな雲が二つ三つと出てきていた。
もうここから、すぐ先の頂上までは、あまり花もないからと引き返すことにした。
花を見るだけならば、同じ道を引き返しても悪くはない。見逃していた花を見つけることがあるからだ。
ふとすぐ先で、何かが動いたようで見ると・・・何と、あのダイセツタカネヒカゲが、二匹つながってじっとしていた。(写真下の下)
私は、すぐにカメラのシャッターを押して写真に撮ってから、安心してその二匹をじっと観察した。
大きさの違いによる雄雌の差は分からなったが、後ろばねの紋様の差はあきらかだった。
それ以上に、例えば北アルプスで見かける、タカネヒカゲとの差と言われれば、もうお手上げになる、その時だけの蝶ファンなのだ。
しかし私は、彼らの神聖な種の保存の行為を前に、これ以上の長居は無用だと思った。
静かににその場を離れて、さらに下って行き、ザックを置いていた分岐に戻った。
そして、周氷河地形でもある条線砂礫(じょうせんされき)に沿って、縞紋様に咲いているイワウメなどの花を見ながら、緑岳(2020m)へと登り返した。
昨日ほどには雲は広がっていなくて、ほとんどは青空の下だった。昨日の曇り空の下の写真の取り直しだとばかりに、さらに何枚もの写真を撮った。
こうして枚数を気にしなくて、シャッターを押せること・・・フィルム写真の時代を知っている私たちには、このデジタル・カメラがどれほどありがたいことか。さらにその後も、手間とお金をかけて現像、プリントをしてもらう必要もなく、パソコンやテレビに取り込んで、より大きな画面で楽しむことができるのだから。
自然の中にいることが好きな私は、どちらかと言えば、科学の進歩を、すべて肯定的にはとらえていないのだが、デジタル・カメラと、CDあるいはデジタル・プレイヤーの出現は、私にとってまさにエポック・メイキング(革新的)なものであり、パソコンとともに、今の私にはなくてはならぬものになってしまったのだ。
それに比べれば、家電製品やクルマなどの乗り物にしても、それほどの劇的な変化を遂げたとまではいえないようにも思えるのだ。
大多数の人が命の次に大事なものと答える、スマホを私は持っていないし、やむを得ず所有しているケータイも、常時電源オフの移動公衆電話の意味しかない。
科学の進歩のどこまでついて行けばいいのか、地球環境の破壊や、日々の利便性と合わせて難しい問題ではあるのだが。
話がそれてしまった。山の話に戻ろう。
緑岳山頂を後にして、岩塊帯の斜面を降りて行く。
しかし、あまり風がなくて暑い上に(この日、旭川は29度)、もう太ももが十分に上がらなくて、途中で二度も休んだが、それでもこの斜面を登ってくる人たちもいる。
あえぎながら汗を光らせて。本当に、ご苦労様と声をかけたくなるほどだった。
ハイマツ帯を抜け、ようやく広々と続く雪田に出て、ザックを下に座り込む。
涼しい風が吹き、目の前に東大雪の山々が並んでいる。少し雲はあるが、青空の色が心地よい。疲れというよりは、ここを離れたくないという思いだった。
長いさわやかな雪田歩きが終わり、少し蒸し暑くなった森林帯に入り、のろのろと急坂を下って行き、やっとのことで登山口に着いた。
12時過ぎだったが、今日は3時起きで歩き出したから、9時間以上も行動していることになる、もっとも白雲頂上に1時間半もいたからでもあるが。
クルマに乗って砂利道の林道から大雪国道に出て、両側に広がる原生林の中を走って行く。いつ通っても、北海道らしい素晴らしい道だ。 ただ問題は、昨夜の睡眠不足によって襲ってくる睡魔(すいま)だ。一瞬、うとうととしてハンドルから手がずり落ちそうになった。
今までこうして大雪の山に登った後は、民宿に泊まってぐっすりと寝た後、翌日にのんびりと家に帰っていたのに。
年寄りになったからこそ、お金も時間もかけて、余裕をもって山に行くべきなのだ。
数年前にはこの道で、大きなエゾシカにぶつかったこともあり、本当に何が起きるかわからない、ひやりとした一瞬だった。
もって、肝(きも)に銘(めい)ずべし!
青空、残雪、花、蝶、大雪国道・・・また一つ、残り少ない日々の、きらめく思い出が・・・。
(追記):昨日、自分のミスで半分ほどの記事が消去されてしまい、気を取り直して書き直したものが、今度はネットがつながらなくて消去され、怒髪(どはつ)天を衝(つ)く怒りで、パソコンを前に悪づいたのだが、一晩寝て、その怒りもすべては自分のせいだと悟って、ようやく今日書き終えた次第だが、内容はその度ごとに幾らか変わってしまったが、思えばこのブログ記事は、まさしく、自分による、自分のための、自分に向けての修練の場でもあるのだから・・・まだまだ修行が足らん。喝(かつ)!
さらに、冒頭に書いたような寒い日が続いていていたのは、三日前までのことで、今は台風の押し上げで、一気に10度以上も気温が上がり暑くなって、今日の十勝地方はあちこちで30度を超えていた。日記風な記述は、こうしてタイミングを逃すと、少し間の抜けたものになってしまうのだ。反省!