ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

こよなく晴れた青空を

2014-07-28 19:59:58 | Weblog

 7月28日

 「こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ・・・」

 (『長崎の鐘』 昭和26年 藤山一郎歌 サトウハチロー作詞 古関裕而作曲)

日、ようやく、北陸から東北にかけての梅雨明けの発表があった。 

 この時期に合わせて、私はいつもの夏山遠征に出かけるつもりだった。 
 先週、東海、関東甲信越の梅雨明け発表があったのだけれども、目的の北アルプス地域では、北陸地方の梅雨明けを待ってからでないと、長い縦走の間を通しての安定した天気は望めない。 
 そして、先週の天気は、確かに晴れた日もあったのだが、雨になった日もあって、やはり行かなくてもよかったのだと、自分に言い聞かせていたのだ。

 ところが週変わりの今日、それまで日本全国の多くの所で、35度を超える猛暑にあえいでいたのに、北からの高気圧が来て乾いた涼しい空気に入れ替わり、さわやかな夏の暑さになっていたのだ。
 私の家は山の中にあり、平地よりは幾らかは涼しいのだが、それまでの蒸し暑い30度を超える日々から一転、朝は20度以下に下がり、すがすがしい青空が広がっていたのだ。

 やっと北の山々を含めての梅雨明けになり、今日から計画していた山に登るつもりだったのに、私は家にいて、”こよなく晴れた青空を、何とも哀しい思いで”見上げていたのだ。
 前回少し書いていたように、痛めた腰の具合がよくないのだ、というよりは悪くなってしまったのだ。
 
 私が、腰を初めて痛めたのは、まだ若いころ北海道で丸太作りの家を建てている時だった。
 100㎏もあるようなカラマツ丸太をひとりで抱えて、持ち上げていたものだから、ついには無理がたたって、工事半ばでひどい”ぎっくり腰”になってしまい、何とかクルマに乗って、当時借りていた家賃3500円の、古い公営住宅の部屋にまでは戻ったのだが、そのまま動けずに寝込んでしまった。

 その時は、病院にも行かず安静にしてじっと寝ていたので、一週間で何とか治ったのだが、その後も二度三度と繰り返し、そのたびごとに二日三日と休んでは何とか回復して工事を続けられるようにはなっていた。

 それからも、今に至るまで度々腰が痛くなることはあったが、何日も動けなくなるほどではなく、幾らか安心していたのだが、たとえば少し腰が痛い時でも山に行ってしまえば、その痛みが軽くなるか、なくなってしまうことさえあったのだ。
 前回の、大雪山登山の時も少し腰は痛かったのだが、帰ってくる時はその痛みを忘れていたぐらいだったのに。
 今回、この九州に戻る前からまた痛くなり、それは今までの痛みとは違って、神経をするりと逆なでするような痛みで、歩く時などに起り、少し気になってはいたのだが、先日のウメジャム作りでの、前かがみ長時間立ち続けで決定的に悪くなったのだ。

 その後は、少しおとなしくしていたのだが、山に行くべき時期が近づいてくるとじっとしていられずに、三日前、痛みを押して、ともかく歩いてみることにしたのだ。
 時々トレーニングもかねてよく歩いている坂道を
家から往復し、休みなく一時間歩きとおしたのだ。
 歩き始めの痛みは、いつしか忘れてしまい、ただその日は暑くて30度を超えていたから 、むしろ噴き出す汗や熱中症のほうが気になったぐらいだったのだが、ともかく一番の高みの所まで30分ほどで歩き、これなら山登りも無理じゃないと思っていたのに、下りになって、急な一歩一歩が腰に響き、さらにはから足を踏んだ時には、もう飛び上がりたいほどの痛さだった。
 結局、確かにいい運動にはなったが、腰にはまた無理な負担を与えたことになったのかもしれない。
 
 しかし、何とか腰を治していつもの夏山に行きたい。
 今度は、ネットで公開されている幾つかの”腰痛体操”をやってみた。結果は、惨たんたるありさまだった。
 しばらくして、腰全体が痛くなり立っていられないほどで、そのままベッドに倒れこんでしまったのだ。
 寝込んだ後いつしか眠ってしまい
2時間ほどもたっていて、ようやくその激痛は収まったものの、”ジャムづくり”以降続く、痛みは今も変わらない。 

 ネットで調べてみる。
 症状からして、脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)か、あるいは黄色靭帯骨化症(おうしょくじんたいこっかしょう)なのだろうが、前者は、それで友達の一人が長い距離は歩けなくなっていたのだが、病院での治療を受けて、最近は山登りにも出かけているまでに回復しているし、後者はあの楽天の星野監督が、これもまた治療を受けて元気にベンチに復帰しているのだ。 
 病院に行けばいいのだが、生来の病院嫌いに加えて、長期の治療を考えると、今ここで病院通いするわけにはいかないし、それならば北海道に戻って病院に行くとしても、もう冬にはまた九州に戻らなければいけないし・・・。
 全く好き勝手に、九州・北海道と行き来して、わがままし放題の生活をしているようだが、こうしてどこかの歯車の一つが狂うと、全体がおかしくなり、すべて今までどおりにはいかなくなってくる。
 何事も、その事にのぞんで初めて気づくものなのだ・・・情けないことに。

 ともかく、今年はもう予定していた北アルプスや東北の山々をあきらめるしかない。
 さらに悪く考えれば、もうこれから山には登れなくなるほどの重症なのかもしれないし、腰だけでなく背後に大きな病が隠れているかもしれないし・・・。
 えーい、その時はその時のことだ。ありがたいことに私には、今まで登ってきた山々の素晴らしい思い出が幾つもあるし、これで私の山登りが終わることになったとしても、お迎えの時が近づいていたとしても、それはすべて、大自然なる神様のおぼしめすままであり、その時までは・・・。
 今こそ、振り返ろう・・・あの青空の下にあった山々の姿を・・・夏山の思い出を。

 北アルプス (2013.8.16~26の項) 

 南アルプス (2012.7.31~8.16の項)

 屋久島  (2011.6.17~25の項)

 飯豊山  (2010.7.28~8.14の項) などなど・・・。

 考えててみれば、こうした遠征の夏山の思い出が今年は何もないということになるのだろうが。

 冒頭にあげた、『長崎の鐘』は、もちろんこの歌が流行(はや)っていたころはまだ子供で、憶えているはずもなく、NHKの”思い出のメロディー”か何かで、まだ元気なころの藤山一郎が歌うのを聞いて、さらにそれが原爆で妻を失った永井博士の実話に基づく歌だと知って、さらに心打たれた思いになったのだが、特に二番の、「召されて妻は天国へ・・・」にかかるあたりから、私は涙を抑えきれなくなる。
 同じように歌で泣かされるのは、あの有名な逗子開成中学の生徒12名の、ボート転覆(てんぷく)による海難死事件に基づいて書かれた歌『七里ヶ浜哀歌』、別名『ま白き富士の嶺(根)』(明治43年)であり、これまた”思い出のメロディー”か何かで聞いたのだが、二番の、「・・・力もつきはて 呼ぶ名は父母・・・」、だめだ、また涙があふれてくる。 

 はい、実は鬼のような顔をした男ほど、外見に似合わず、その裏でひとり泣いているものでございます。
 
 今、庭に、クチナシの花が咲いている。(写真)
 外に出た時ははもちろんのこと、家の中にいても窓辺から、そのささやかな甘い香りが漂ってくる。
 もともとは、ムクゲを植えていたのだが、母が花の散り際がべたついていやだと言って、クチナシに植え替えたものである。
 ただ屋根の軒下近くにあり、今年の冬の大雪で幾つも枝先が折れて心配していたのだが、今年も十分に花数があり、もうしばらくはここでその花の香りを楽しむことができるだろう。
 腰を痛めて、山に行けなくなったおかげで家にいて良かったこともあるのだ。

 それはもう一つ、上に書いた坂道ウォーキングに出かけた時に、枝いっぱいにたわわに実がなっているヤマモモの木を見つけたのだが、じつはもう大分前のことになるが、その木の実を採ってジャムにしたことがあり、後で出直して袋いっぱいの実を採ってきたのだが、悲しいかなこの腰の状態で、まだそのヤマモモの実のジャムづくりができていないのだ。
 
 一つの喜びを失っても、その気になれば、またどこかにもう一つの別の喜びを見つけることもできるし、一つの悲しみの後には、その悲しみを過ぎたという安らぎがあるものなのだ、また次の悲しみが来るまでの間だとしても・・・。

 腰が痛く、パソコンの前の椅子に座るのは、このくらい書いただけでもう限度である。
 何とか長時間、飛行機の座席に座り続けられるようにならないと・・・山どころか、北海道にさえ帰れないのだが・・・。