ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

梅雨の晴れ間に

2014-07-21 18:28:34 | Weblog



 7月21日

 一週間ほど前に九州の家に戻ってきた。
 内外の用事など、やるべきことが山積しており、数日間はめまぐるしいほどの忙しさだった。
 そのためか、あるいは
庭仕事に精を出し、全身汗まみれになるほどに働いていたためか、体重が2㎏も減っていた。
 それは、メタボ気味の私には喜ばしいことでもあるのだが、思えばそれまでいかにぐうたらな日々を過ごしていたかということにもなるのだ。

 さらに、年のせいもあって、夜中に一度はトイレに起きていたのに、この九州に帰って来てからは、朝まで起きることもなくぐっすりと寝ているのだ。
 つまり、年寄りの限度を考えても、大汗をかくほどによく働くことが、いかにわが身のためになるかということなのだろう。

 それは洋の東西を問わず昔から言われてきたことだ。

 「よく仕事をする人は、いよいよ不死なるものたちに愛される。」

 (ヘーシオドス 『仕事と日』  松平千秋訳 岩波文庫)

 「人の身は労働すべし。労働すれば穀気(こくき)きえて、血脈流通す。」 

 (貝原益軒著 『養生訓』 岩波文庫)
より、中国後漢時代の医師、華佗(かだ、?~208)の言葉。

 まさに日々、安穏(あんのん)に暮らし、易(やす)きに流れるわが身への、教訓の一言でもあるのだ。

 ところで、一週間前のその梅雨のさなかに、飛行機に乗って帰って来たのだが、ましてそれは午後にかけての便であり、窓からの展望はあまり期待していなかったのだが、そのとおりに、北海道も平野部は晴れていたものの、日高山脈、大雪などの山々は雲に覆われていて、さらに東北地方も同じような状態で、すべての山の頂が雲に隠れていた。
 ただでさえ雲の多い梅雨の時期、さらには夏の雲がわきやすいお昼前後に、窓の外の眺めを期待することのほうが無理なのだ。
 そして、最後のはかない望みは、北海道・東北の山よりは
標高が1000mも高い、中部山岳の山々である。もしかしたら、雲を突き抜けて・・・。

 進行方向左側の窓に顔を押しつけて、その時を待っていた。
 相模(さがみ)の平野部から箱根の山にかかり、しかし相変わらずに雲に隠れている。その雲の広がりは、見事に伊豆半島の形になって続いていて、ただ太平洋の青い海原が見えるばかりだった。
 それでももしかしてと、顔を窓に押しつけて見ていた私の視界に、白い雲の上に黒い影が・・・富士山だ。
 もし周りに誰もいなかったら、私が一人乗りの飛行機のパイロットだったら、おそらくは大声を上げて飛び上がったことだろう。
 そのくらいに、夏の午後に飛行機から山の姿を見るのは難しいことなのだ。まして、まだ梅雨が明けていないのに。
 
 私は沸き立つ雲の間から、ひとり高く悠然とその姿を見せている富士山の姿を何枚も写真に撮った。(写真上)

 高度1万メートルにはなっていない、その北側からの眺めは、中央に剣ヶ峰(3776m)が突き上げていて、幾つもの涸れ沢を縁取るかのように、残雪の色が鮮やかだった。
 やがて、その頂きも周りの雲の中に隠れてしまった。
 しかし、お楽しみはまだまだ終わらない。もしかして、南アルプスも・・・。
 駆け寄った、右側の窓から見えたのは・・・まぎれもない、南アルプス3000mの稜線が続く、白根(しらね)三山の姿だった。(写真)


 私は、今まで何度となくこの夏の時期に、同じルートで飛行機からの景色を見てきているのだが、夏の南アルプスの姿をはっきりと見るのは初めてだった。

 森林やハイマツ帯を越えて、岩礫砂礫がむき出しになった稜線部が続き、写真中央部のまばらに雪がついているのが間ノ岳(3190m)であり、その頂上付近の広い雪田(せつでん)は夏遅くまでも残っている。
 その下のほうに西農鳥岳(3051m)から農鳥岳へと続く白根山脈の稜線が続き、上の方へは、東半分をバットレスに削られたあの北岳(3193m)の高みがあり、左上には仙丈ヶ岳(3033m)がひとり
大きな山体を見せている。
 さらに身を乗り出すように真下をのぞき込むと、何とか塩見岳(3052m)までは確認することができた。
 残りの南半分、荒川、悪沢(わるさわ)、赤石、聖(ひじり)などの3000m級のの山々は、また戻って反対側の窓から見る他はないのだが、まだまだこの窓辺からは離れられなかった。 
 それは伊那谷を隔てて、中央アルプスの山々が現われてきて、おまけに何ということか、その上には北アルプスの山々まで見えてきたからだ。

 繰り返し言うことになるが、これは所により大雨注意報が出されていた梅雨のさなかに、それも午後の運航便であることを考えると、もうこれだけの梅雨の晴れ間は奇跡的としか言いようがなかった。
 私のような、”飛行機からの展望マニア”からすれば、まさに狂喜乱舞したいほどのひと時だったのだ。
 もっとも、そういうマニアがいるかどうか私は今まで飛行機に乗った中で、同じように写真を撮りまくっている人を見たことがないのだが、もっとも最上の展望を見ようとするのなら、空気の澄んだ朝早くの便にすることだろうから、いつも昼前後の便に乗ることになる私が、滅多にお目にかかれないのも当然のことかもしれない。 

 もし、私に長くは残されていない命の期限が分かった時には、それは真冬の快晴の朝を選んで、ということは天気予報を見極めての前日窓側予約で、割引運賃も使えず割高な普通運賃を使うことになるが(死ぬ間際までケチって情けない)、日本の山々の上空を飛ぶ便に乗って 、心ゆくまで、名残りの山々の姿を見てみたいと思う。
 あれが槍、穂高、剣、鹿島槍、富士山そして飯豊、朝日、鳥海、そして慣れ親しんだ日高山脈と
大雪の一つ一つの山々に別れを告げたい。


 それで、座席でこと切れてしまえば本望なのだが・・・さあ、周りは騒然となって、飛行中に下ろすわけにはいかず、空港に着いて救急車、病院と多大な迷惑をかけることになるのだろうが・・・。
 少し下ネタめいた話になるが、昔、男は腹上死(ふくじょうし)するのが一番だとか言われていた時代があったのだが、私にしてみれば、大好きな山の上で死ぬのが一番とは思うが、本人はともかく、山の上から降ろすのに周りの人に大きな迷惑をかけることになるし、それならこの機上死というのは、まだ手間がかからないほうではないのか(あのアガサ・クリスティの推理小説『機上の死』のように仕組まれたものではないとしても)・・・
 いやダメだ、前回の”雪中棺桶(かんおけ)”といい、最近どうもこんなふうに死ぬ時のことばかり考えるようになってしまって。 

 話がすっかりそれてしまった、元に戻ろう。
 機上からの眺めは、南アルプスに続き中央アルプスが同じように縦位置で見えてくるが、木曽駒ヶ岳(2956m)からの主稜線が空木岳(2864m)、南駒ヶ岳(2841m)へと続いている様子がよく分かる。
 さらにその上には、北アルプスがまだ残雪多く、雲の間に見えている。

 しかし、それらの山々がだいたい槍・穂高方面や裏銀座方面、立山方面というのは分かるのだが、明確に山々を見定めることはできなかった。
 (その後、家のパソコンに取り込んで拡大してみると、それぞれの山々の特徴ある姿が確認できたのだが。)
 最後には、去年登ったばかりの(’13.7.16~22の項参照)あの木曽の御嶽山(3067m)が、南面に噴火の後の溶岩火山灰斜面を広げては大きく見えていた。

 夏の午後の飛行機からのこれほどの展望にめぐり会えるとは・・・人間にとって、どこに不幸が待ち構えているのか分からないのと同じように、どこに幸運が転がっているかもまた分からないものなのだ。
 今はただ、この素晴らしきひと時に感謝するばかり。

 戻ってきた九州の家は、蒸し暑い熱気の中にあった。
 まして北海道から来たばかりの私には、そのじっとしていてもにじみ出るような暑さに、夜はとてもクーラーなしでは寝られなかった。
 しかしその暑さの中で、上に書いたように、やるべき仕事は幾つもあって、大汗をかきながら一つ一つすませていった。
 それでも、こんな暑さの中、戻ってくるのを楽しみにしていたものもある。
 家のブンゴウメ、その実のなり具合である。そしてそれに続く一仕事、暑い中で
の恒例行事である、ジャムづくりである。

 今年の実も、ゴルフ・ボールよりも大きいくらいの粒ぞろいの上に、去年に比べて実の付き具合も多く、朝になると毎日数十個ほど落ちていて、さらに昼間にもいくつか落ちていて、完熟落下だからすぐに加工しないと傷んでしまうが、とても時間のかかる仕事で、そんな毎日はできないから、結局多くは、傷み具合が進んでいて捨てることになり、それでも三分の一ぐらいは、ジャムやジュースにすることができた。これで、二年ぐらいは風邪をひかなくてすむだろう。

 まずその黄色く色づいたウメの実を洗い、傷がついたり痛んだところはナイフで切り取って、大なべに入れてやわらかくなるまで煮て、水気を切り、裏ごしにして細かい果肉だけを取るが、その時に皮も豊富な栄養素があるので、大きな種と切り離して取り分け果肉と一緒にして混ぜる。(果肉だけにすれば上品な製品ジャムになる。)
 そこで、量が多いので二度に分けてホーロー鍋に入れ、砂糖を加えて(少ないとカビるし、多いと甘すぎる)少し煮詰め、片方でビン容器を煮沸(しゃふつ)消毒させ、それぞれが熱いうちに詰め込んでフタをして、作成日時を書いたラベルを張りようやく終了というわけだ。

 台所の換気扇を回しているだけだから、ガスの熱気で汗だらだらになってしまうし、2,3時間は立ちっぱなしで手を外せない。
 それを二日間続けて作り、それまでまた少し痛めていた腰がすっかりひどくなってしまった。まったく健康食品を作っているのに、自分の健康を損なってしまうという結果になってしまい、それでもまあよかったというべきか、無理するべきではなかったというべきか。

  ただし、去年の倍はある、大小合わせて13個ものビン詰ジャムを並べて見ていると(半分くらいは人にやるのだが)、内心ふつふつと喜びが湧き上がってくる。金持ちの喜びとは、こうしたものなのかもしれない・・・13個もの金の延べ棒を前に、ニタニタと笑うおやじのように。
 しかし、その後もまだ、数は少なくなったものの、毎朝20個余りのウメの実が落ちてくる。 
 そのままにしていると、腐ってきて小バエがたかるから、すぐに拾い集めなければならない。
 腰は痛いし、もうこれ以上のジャムはいらないし、もったいないし仕方ないから、ウメの実に砂糖を加えてそのまま一週間ほどおいて、少し火にかけたただけの、梅ジュースにするしかないのだが。 
 写真は、その時のウメの実と、作ったウメ・ジャムのビンである。(写真下)

 梅雨明けは遅れているし、腰は痛いし、今年の夏山遠征は無理かもしれない。

 それでも、今年もちゃんと家の周りの手入れをなんとかすませて、いつものジャムづくりもできたし、あの飛行機の上からの眺めも満喫できたし・・・と思って、年寄りなりのあきらめをつけるのも大切なことなのだ。