ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

オオウバユリとハマナス

2014-07-14 19:39:45 | Weblog



 7月14日

 台風一過の後、確かに青空が広がったけれど、ついでに夏本番の暑さもやって来た。
 内地の35度を超えるような猛暑日にはならないけれども、もう25度くらいからでも暑いと思う。
 幸いにも丸太づくりの家の中は涼しいので、外での仕事はしたくなくて、そのまま家の中にいることになる。
 かといって、何か特別な仕事をするわけではなく、やるべきことはいろいろとあるのだが、大体はぐうたらに過ごして、毎日のこまごまとした雑用の他は、テレビ、録画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだりしていると、すぐに昼食や夕食の時間になり、簡単なものを作って食べ、ニュースやバラエティなどを少し見ては、9時過ぎには寝てしまい、あっという間に一日が過ぎてしまう。

 そうした毎日の過ごし方は、はたから見れば、何といい加減に好き勝手に、もったいない時間の使い方をしていることかと思うかもしれない。
 しかし、私は今では開き直って、それでいいのだと思っている。
 今さら、”少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず。”といったところで、こちらはもう老いてしまったわけだし、今さら勉学に励んだところでたかがしれているし、もう近くなってきたあの世に行って 、いったい誰を相手に討論しようというのだ。

 今はまだ、様々な分野に興味があって、相変わらず本を買っては読み続けてはいるが、それは目の前にある興味深い出来事を知りたいためであって、パソコンで検索してはあのAKBの細かい情報を知って喜ぶみたいなもので、それ以上に深入りをするつもりはないのだ。
 つまり、自分の知識が及ぶところまでの、”知の世界”を楽しめばいいと思っているだけだ。
 誰かへの義務があるわけでもなく、また誰かに迷惑をかけるわけでもないから、功利を突き抜けたところにある自分だけの世界にいれば、何もわずらわしい出来事は起きないということだ。

 社会の中で生きていくために必要なものを、できる限り払い落としてしまい、現代病と言われるストレスを感じることもなく、わがままし放題に、自分だけの太平天国の中で暮らしていけばいいのではないか、周りの人に迷惑をかけないという最低限度のルールだけは守って。

 もちろん、年齢とともに体も衰え、やがて一人では生きていけないようになる時が来るのだろうが、その時の覚悟については、今少しずつ考えてはいる。
 周りの友達や知り合いたちにも話しているのは、冬の寒い時に、これまでだと悟って、あらかじめ外に出しておいた棺桶(かんおけ)の中に入って、最後の時を迎えることである。
 話を聞いて皆は、笑っていたが・・・。
 確かに、しんしんと雪の降る中、倒れてはいずりまわり、何かをつかもうと手を伸ばし、老いた私の顔がアップになって、そこに終わりの文字が重なるという、映画のシーンをまねたような最後の瞬間を思い描いていることからして、もうすでにあの黒沢明監督の名作「生きる」(1948年)のラストシーンを演じているわけであり、大阪のおっちゃんおばはんが聞いたら、即座に「しょーもないこと言うて、あほちゃうか」とつっこまれることだろう。
 確かに、実行できるかどうか、大いに疑問なことではあるのだが。

 というのも、私はできることなら、年寄りになって介護なんぞを受けたくはないし、もちろん病院で死ぬのもイヤだからだ。
 去年読んだ本の中で、最も面白く興味深く読んだのは、例の近藤誠医師によるベストセラーにもなった『医者に殺されない47の心得』(アスコムBOOKS)であり、題名からしていかにもセンセーショナルな話かと思いきや、その一つ一つの内容は、私たちが日ごろから思っている現代医療の現状に警鐘を鳴らすものであり、なるほどそうかと思いながらあっという間に読み終えてしまった。
 ただし、彼の言う、「ガンは原則として放置したままの方がいい。」などという言葉は、最後の頼みとしてましてこれから手術を受けようとする人たちには、にわかに信じがたいことだし、今さら何を言っているのかと思うだろうし、現に外科手術などの治療を受けて、今も元気に生きている有名無名の人々も数多くいるわけだし。

 だから、すべての年寄りたちにあてはまるわけではないのだが、ただそこから受け取るべきなのは、私たち人間が避けることのできない命の終わりを、その終末をどうして迎えるかを、改めて考えさせる大きな問題提起になっているということなのだ。

 さらに、その前の年に読んでいた、これも同じ医療関係本のベストセラーになった、あの中村仁一医師による『大往生したけりゃ医療と関わるな』(幻冬新書)で、終末期医療のより人間的な方向性があることを知らされていたから(’12.3,31の項参照)、なおのことであったのかもしれないが、この二冊の本から、私は、死の時を語りながら、その裏に強い生への賛歌が流れているのを感じていた・・・。

 その二人が同じように言っていたことは(『中村仁一、近藤誠対談』という形で、ネット上にも公開されている)・・・「進行性のガンはそのまま放置して、次第にものが食べられなくなり、衰弱していき、苦しむことなく穏やかに餓死していくのがいい。昔のいわゆる自然死や老衰死は、こうしたガンによるものだったのだろう」。 

 その昔の日本には、あの平安時代の『大和物語』や近世の柳田國男の『遠野物語』などにも書かれているように、”棄老(きろう)伝説”があって、その一つでもある、今の長野県の姨捨山(おばすてやま、別名冠着山、1252m)周辺で語り伝えられていた話をもとに、深沢七郎が『楢山節考(ならやまぶしこう)』という作品として発表し、大きな話題となったが、それは1958年に木下恵介監督作品として映画化され、さらに1983年に今村昌平監督によって再映画化されカンヌ映画祭受賞していた。

 その貧しいでは、”楢山参り”と言って、食いぶち減らしのために、70歳を過ぎた老人たちは山に捨ててくるという習わしがあって、その掟に従い、長男は老いた母を背負って、姨捨山に登って行く。そして、涙ながらに母を山に残して、下りて行くと雪が降ってくる・・・。
 何とも心打たれる、その家族愛と、老人たちに課せられた残酷な結末のつけ方ではあったのだが。
 (老人だけではなく、生まれたばかりの嬰児(みどりご)でさえ、食いぶち減らしの間引きとして、川に流されていたという悲惨な時代だったのだ・・・あの『おしん』の母が身ごもった体で冷たい川につかるシーンを思い起こさせる。)

 ともかく、そのころの若い私は、そんな小説を読み映画を見ても、ただの昔話で他人ごととしてしか受け止めていなかったのだが、老人の世界が近づいてきつつある今、思えばまさに我が身として考えなければならない問題になってきたということなのだ。

 (物事はいつもそうなのだ、当事者になって初めて気づくものであり、それまではいつも傍観者でしかないのだ。) 

 もちろん今も元気な私は、これからもまだまだ、大好きな自然の風景を季節ごとに眺めて生きていきたいし、”知の世界”への興味が続くかぎりはその新たな世界を知りたいと思うし、一匹の生物として、生の本能のままにしぶとく生き抜きたいと思うが、一方では、その生きることへの意欲と同じように、死ぬことへの準備もしておかなければならないと思っているのだ。

 上にあげた、”雪中の棺桶”は、そんな私が自分に向けて考えた、一つの笑い話にも似た、おぼつかない提案でもあるのだが・・・。
 もちろん、事はそう簡単には運ばないだろうし、急に倒れて、脳卒中(のうそっちゅう)や心筋梗塞(しんきんこうそく)などで病院に運ばれ、長い治療の後、結局は病院で死ぬことになるのかもしれない。
 そうした姿になっても、家族としては何とか生きててほしいと思うのだろうが、私は、そうなってまでは・・・と思うのだ。
 もちろん個人個人によって、様々な事情があり一概には言えないのだろうが、私は、人間には、強い生きる権利があると同時に、強い死ぬ権利があるものだと思っている。
 (こうした私の思いは、若いころに夢中になって読んだあのアンドレ・マルローなどの小説に、その生と死の意識に裏付けられた、行動主義的な考え方に、大きな影響を受けていることは確かだろうが。)

 今回、このブログの話題としてはあまりふさわしくもない、辛気臭(しんきくさ)い死ぬ時についての話をあえて書いたのは、それまでにもずっと考えていたことであり、その時を迎えるにあたって、それが不意の病であれ、長期の病であれ、あるいは有無を言わせぬ事故であれ、そんな時のために自分なりの心構えとして、自分自身に言い聞かせておきたいと思ったからである。
 それを、どうして今回のブログとして書く気になったのか・・・数日前、私は久しぶりに林の中に入ってみた。
 下草のササが伸び始めていて、それを刈っていくためでもあったのだが。
 林に入るまでもなく、その前から辺りに少し甘い香りが漂っていた。
 
 顔を上げると、曇り空の暗い林の中に、まるで白い卒塔婆(そとうば)が立っているかのように、あちこちに点々とオオウバユリの花が咲いていた。 
 ほの暗い林の中に、高く茎を伸ばし、青白い花を十数本もつけて咲いている。
 他のユリ科の花が、大きく開きあでやかに咲くのと比べれば、細長い花房を伸ばした先の方だけが遠慮がちに開いている。
 九州などでも、同じような林のふちに咲いているのを見かけることがあるが、こちらは少し丈が低く、ウバユリと呼ばれている。

 そもそも、どうしてウバユリ(姥百合)と呼ばれているのか、調べて見ると、花が散った後、下草のような大きな葉が枯れてゆき、それを歯の抜けた老婆に見立てたという、例のごとくに今にしてはみれば奇妙な名前のつけ方ではあるのだが。(葉は一部分枯れたりはするが、すべて枯れ果ててしまうわけではない。)

 そのオオウバユリの名前から、各地に残る山や平原の地名としての”姥ヶ原”を思い出し、さらには”姥捨て山”へとつながってという次第である。
 それにしても、暗い林の下に咲く甘い香りするこの花を、オオウバユリとは到底解(げ)せぬ名前だ。
 前に白山に登った時(’09.7.29~8.4の項参照)、その山旅の終わりで出会ったのも、このオオウバユリだった。
 やっと下りてきたという安心感で、子供が母の胸のうちに戻ってきた時のような、若き日の母のほのかな香りのようで・・・むしろ、ハハユリとでも名づけたいほどだった。
 だから私は、その日の薄暗い中ではなく、次の日の晴れた日の光が差し込んでいる中で、若々しいオオウバユリの写真を撮ることにしたのだ。それが上の写真である。

 そして、今、庭の生垣(いけがき)からも、もっと強い甘い香りが漂ってくる。
 ハマナスの花が、今を盛りと、その鮮やかな色を見せつけるかのように咲いているのだ。(写真下)
 バラ科の、ほんの二三日しか持たない花が、今開いたばかりのものから、もう花弁がバラバラになったものまで、その数二十余り、ここぞとばかりの赤い色とそのむせ返るような匂い・・・。

 二日前、テレビの音楽番組で、”まゆゆ”センターの新体制になった、AKB選抜メンバーによる新曲が披露(ひろう)されていた。
 みんなそれぞれに、自分の個性を持った、これからの若々しい花たちであり、見ていてこちらも楽しくなってくる。
 (メドレー曲の最後には、去年の「フォーチュン・クッキー」が、その他のグループ・メンバー全員で歌われていたが、やはりこの曲は、みんなを明るくさせる名曲だと思う。)

 一方、昨日このブログを書いていた合間の休みに、テレビを見たのだが、それは、あの三年前の東北大津波による大火災の惨状を記録した映像と、消火救助作業にあたった消防団の人たちや、生き残った人たちによる話などを交えて作られていたドキュメンタリー番組だった。
 最初から全部見たわけではないけれども、こうした大震災のドキュメンタリーは今までも何度も見てきたのだが、今回も当時を語る人々の言葉に聞き入り、思わず引き込まれて最後まで見てしまったのだ。

 ある消防団員の言葉。

 「火災が収まった翌日、がれきの中、焼け落ちた家々の被害者たちを捜索していた時、ある家の中で、すべてが焼けて白骨化した小さな子供を抱いた母親らしい遺体がありました・・・。」

 前回、あの老子に関連する言葉としてあげた一節、”苦と楽、陰と陽すべてが相半ばして・・・”、いずれも現実の姿なのだ。


 


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