ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

早春の北の山

2014-05-05 22:42:02 | Weblog

 

 5月5日

 もう10日余りの前のことを、それも余り良い思い出の山の話ではないのに、ここに書くのは少し気が引けるのだが、このブログはあくまでも自分の今を記録していくためのものだから、イヤなことも復唱して書いておくべきだと思っている。
 しかし、山が悪かったわけではない。山はいつも、ただそこにあるだけのものだから、まして快晴の空の下、素晴らしい残雪に覆われた見事な姿を見せてくれたのだから、山には何の文句もないのだ。
 むしろこの日のことは、 そんな山々の良き春山の思い出として書きつづるべきだったのかもしれないのに、すべては私の情けない心根の問題だったのだ。

 ところで、私が北海道に戻ってきてもう2週間ほどになるのだが、ともかく晴れた日がずっと続いて、一向に雨が降らないのだ。
 数日前に、お湿りにもならないほどの小雨がぱらぱらと降っただけで、調べてみると、私が来る前から、もう一月近くもまともな雨が降っていないのだ。
 粒子の細かい火山灰土に覆われたこの十勝平野の畑では、今ではもう水不足を心配する声が出始めている。
 家の畑や庭でも、 まだ何もしていない。それは今の水不足ととともに、いよいよにならなければやらない私のぐうたらな性分と、まだまだあるかもしれない霜や雪が怖いからでもある。

 その上に、前回書いたように、井戸ポンプが故障して、自分で何とかしようとしたり、新しいポンプを買ったりとか、その据え付けなどに手間がかかり、水が出るまでに1週間もかかってしまったこともある。 
 しかし、そうした生活するのにぜひとも必要な水の問題があったのに、それらのことがまだ何も解決していなかった時に、私は井戸をそのままにしておいて、一日山登りに行ってきたのだ。
 絶好の天気に恵まれた山日和(やまびより)の日に、目の前の大切な仕事と山登りのどちらかを選ばなければならないとしたら 、それは私にとっての究極の選択でもなくて、単純に山に行こうと思うだけのことなのだが。

 連休前の4月の終わりに、快晴の天気が三日も続いて、私は山に行かなければと思った。
 それでも、気温が高くなると、その熱気と残雪の蒸発などで山がかすんでしまうから、なるべく山がよく見える日に行くことにした。
 そうできるのが、私のぜいたくな山登りの方針なのだ。

 決まった休日にしか山に行けない人たち、働いている人たちには申し訳ないのだが、これも老い先短い年寄りに免じて、まして他に大した楽しみさえない哀れなひとりの老人のことだと思って、どうか許してくだされ。
 どのみちこの世は”順送り” 。いいことも悪いことも、いつかはめぐりめぐってあなたたちのもとにも来るものなのだから・・・はいそういうことですから。

 というわけで、朝日が昇って十分に山々の姿を確認できるようになってから、山に行くことに決めて、家を出た。
 もう今では、長い車の運転には耐えられなくなっていて、近場の山に登ることにした。
 十勝平野の果てに立ち並ぶ雪の日高山脈。そこには、日本アルプスの山々に引けを取らない、第一級の険しい稜線もあるのだが、一方では比較的手軽に雪山を楽しめる山々もある。
 北日高の中でも特に、芽室岳以北の山々は、高度も低くなり、山容も穏やかになる。

 そんな高度1000mを超えるくらいの山々の中で、ひとり1500mを超える高さとその姿から、さらには日勝峠越えの国道からすぐに取り付ける便利さから人気なのが、ペケレベツ岳(1532m)である。  

 もう一人でテントをかついで主稜線の山々に登る(’09.5.17~21の項参照)そんな元気は、今の私にはないから、去年と同じような残雪歩きの山として、北日高の山を選んだのだ。
 この日高山脈を越える国道は3本あって、そのうちの南側の一本、野塚トンネルを抜けての通称天馬街道からの山々には、今までほぼ毎年のように登ってきているし(’11.5.7の項参照)、去年からは自分の体力に合わせてと、この日勝峠越えの国道からの春山登りに変えて、まずは双珠別岳(そうじゅべつだけ、1389m)に行ってきたということになる(’13.5.20の項参照)。
 そして、もう一つ北にある狩勝国道からとともに、この日勝国道は道のそばにクルマを停めて、すぐに山に取りつくことができるという利点があるから、そこからは夏期には道がないけれども、こうして雪があるときにはヤブが隠された雪山歩きができるから、今までにもあちこちの道路沿いを起点として、幾つかの残雪期の山々に登ってきたのだ。

 このペケレベツ岳もそうして残雪期に登った山の一つであるが、前回登ったのは、何ともう20年も前のことになる。
 それはまだ日高山脈の山々に登り始めて間もないころであり、その後も次々に新たな別の山を目指して登り続けていたから、これらのなだらかな山容の北部の山々には、それほど足しげく通うことはなかった。
 しかし、年を取ってくると、こうした穏やかな山こそが、今の自分には年相応に合っているように思えてきたのだ。

 清水町まで来ると、ぐんと日高山脈北部の山々が近づいてくる。
 その中で、相並び立つ芽室岳(1754m)と西芽室岳(1746m)の二峰を除けば、やはり急峻な東面を見せて並び立つペケレベツ岳の姿だけが目立って魅力的である。

 近年、この日勝国道と狩勝国道の間に高速道路ができたから、札幌方面に向かう車の多くが利用するようになり、今では高い高速料金を嫌う長距離トラックだけが走っていて、高速ができる前と比べれば、クルマが少なくすっかり走りやすい道になった。
 日勝峠手前の十勝側800m付近、除雪ステーションの建物のそばにペケレベツ登山口があり、広い駐車スペースがある。
 5時くらいの日の出の時間からもう2時間もたっているのに、他にクルマはなく、今日も一日、ひとりきりで雪山を楽しめると思うといい気分だった。
 さて、北海道の山では厳冬期を除いてヒグマに注意しなければならないのだが、今の時期の稜線歩きでは、それほどヒグマの心配をすることはないからと、鈴はザックの中に入れたままだった。
 しかしその時、思いもかけずに、別の大きな不安が襲ってきた。

 いつものプラスティック・ブーツをはき、靴ひもを締め終わってから、何と私は、スパッツを忘れてきたことに気がついたのだ。
 汚れ防止用の夏山のスパッツとは違って、しっかりと作られて雪山用のスパッツは、さらに防寒も含めて作られている厳冬期用ゲーターとともに、冬山にはなくてはならぬものなのだ。
 つまり深い雪にはまって、足を雪から抜き出す時に、登山靴のベロの周りから雪が入ってきてしまうのを防ぐためのものであり、、こうしたまだ雪深い春山ではぜひとも必要なものなのだ。


 そして、その他にもはまり込みを防ぐためにワカン(日本製スノーシュー)を持ってきていたのに、どのみちずっと固雪の尾根、雪堤(せきてい)歩きだろうから、もぐりこみも余りないだろうし、ワカンも邪魔になるだけしスパッツなしでもなんとか行けるだろうと、私はその時勝手に自己判断して歩き始めてしまったのだ。

 さて、登り出すとすぐに夏道は雪に消え、尾根上の厚い雪堤が続いていた。
 そこには、昨日のものも含めた古い足跡が残っていて、その中にはスキーの跡もあった。
 登山靴がもぐることもない固雪で、青空の彼方雪尾根の向こうに白い山頂がのぞいていた。
 さらに下の林のほうから、何とあのルリビタキのさえずりが聞こえていた。
 前回の登山で、九州は鶴見岳(4月14日の項)の山腹で、ルリビタキの声を聞いて渡りにしても早いなと思っていたのに、まさかあのルリビタキが2週間ほどで北海道までやって来たわけではないだろうし、できるならその鳴いているルリビタキに、声をかけて聞いてみたい気がした。

 ゆるやかに続くダケカンバの雪道を歩いて行くのは、楽しかった。
 所々で前方が開けて、そのたびごとに雪の山頂が近づいてきた。(写真上)
 ただ尾根の北側では、強い風が音を立てて吹きつけては、木々を揺らしていた。
 しかしその時の私の不安は、その風が先の稜線や山頂付近でも強かったらどうしようかということだけで、スパッツをつけていないことへの不安は余りなかった。 
 ところが、たまに雪の柔らかいところがあって、二度三度と足がはまり込んで、引き抜くたびに靴の隙間に雪が入り込んできて、そのたびごとに、靴下との間の雪をつまみ出さなければならなかった。

 なるべく雪にはまり込まないようにと、差し足忍び足のスタイルで 歩いて行ったのだが、上の方で尾根上に大岩が出ていて、そのそばにハイマツがあり、雪の状態が悪く何度もはまり込んでしまった。

 もう体温で溶かされた雪が靴の中にしみ込んでいて、靴下がはっきりと分かるほどに冷たく濡れていた。
 何とかはまり込まない所をと、尾根の北側に行ってみると、雪が少なく所々に夏道が現れていた。
 しかし、助かったと思ったのもつかの間、その先でまたハイマツにさえぎられて雪堤に戻ると、再びはまり込み、もうどうにでもなれという思いになった。
 
 そして少し長い急な斜面を登りきると、周囲の展望がすっきり開けて1343mのコブに着いた。
 目の前に、手前のコブの斜面の後ろにペケレベツ岳の山頂が見えていた。そして沙流岳、双珠別岳をはじめとする北日高の山々があり、その後ろ遠くには、大雪・十勝連峰が春霞の中にかろうじて見えるくらいだった。
 疲れはそれほどなかったのだが、何しろ何度もはまり込んですっかり時間がかかり、何と夏のコースタイム2時間足らずのところを、3時間以上もかかっていたのだ。
 ただありがたいことに、風はすっかりおさまっていたし、問題はただ、もうベチャベチャになった靴の中だった。
 
 靴を脱いで水気を絞ろうかと思っていたところに、鈴の音がして、下から明るい挨拶の声が聞こえて、中年の女の人二人が登ってきた。途中で何度か後ろを振り向いたこともあったのだが、気づかなかったのだ。
 そして二人も近くに座り込み、大きな声でいろいろとおしゃべりをはじめ、さらに他にも連れがいるらしく、下に向かって大きな声で呼びかけていた。
 私まだ休み足りなかったし、靴も何とかしたかったが、そんなにぎやかな場所からは一刻も早く離れたかった。
 
 私はすぐにその1343mコブから下っていき、鞍部(あんぶ)にまで下りてきて、今度は最後の頂上への大斜面を登り始めた。
 ただありがたいことに、雪面は靴をけり込まなければならないほどに固く、安心して登って行くことができた。
 何より周りの景観が素晴らしくなり、何枚も写真を撮って行った。
 そんな風紋の残る斜面の彼方に見える山々の中でも、山頂部だけが一際白く覆われた、沙流岳(さるだけ、1422m。この山も残雪期に登っている)の姿が印象的だった。(写真)

 

 少し凍った最後の急な斜面でも、ピッケルが必要なほどではなく、ストックだけで十分なのだが、やはりどうしても息が続かない。
 二度三度と、立ち止まってしまう。すぐ下の所を彼女たちが登ってきていた。 
 やがて、頂上稜線の南側に張り出した雪庇(せっぴ)が見えてきた。
 やっと頂上手前のコブ斜面を登り切ると、最後の頂上へのゆるやかな斜面が残っているだけだった。(写真)

 
 

 足跡の残るルートから外れて、その雪庇側に寄って写真を撮っている私のそばを、後ろから来た彼女たちが追い越して行った。
 しかしその辺りから、先を行く彼女たちも時々雪にはまっていたが、そのまま頂上まで雪の状態が悪いはずのハイマツ帯の斜面を登っていた。
 私はどうしようかと迷った。誰もいなかったら、おそらくは雪庇に近づいて少し危険だが、はまらないようにより雪堤に近い形の稜線沿いに登って行ったのだろうが、しかし先行者の足跡があれば、その跡をたどりたくなるのが人情だ。
 私は所々で踏み抜いている彼女たちの足跡をたどり、上では北側に回り込んでようやく頂上に着いた。
 すぐ後ろには、ショート・スキーをつけた彼女たちの仲間らしい男の人が登って来ていた。
 ハイマツに囲まれた頂上は狭く、彼ら三人の声でにぎやかになり、さらにもう一人いるらしい下から上がってくる仲間に向かって大声で呼びかけていた。
 
 私は彼女たちから離れたハイマツの茂みの中で腰を下ろした。
 やはり確かに山々は少しはかすんでいたが、北日高北部の盟主芽室岳を初めとする峰々がずらりと並んで見えていた。
 芽室岳と西芽室岳が高く、手前にウエンザル岳(1576m) と右に1695m峰(写真、この二つの山には道がないので、雪の時期にと思っているのだがまだ登っていない)、そしてその尾根の先にペンケヌーシ岳(1750m)東西峰が大きく見え、その後ろには離れて、チロロ岳(1880m)のこれまた東西峰が見えている。

 

 このペンケヌーシ岳とチロロ岳には、ずいぶん前になるが、いずれも残雪期の快晴の時に、エゾノリュウキンカの黄色い花が咲き乱れる沢を詰めて登って行き、ただ一人だけの頂上に着いて、どれほど快哉(かいさい)の叫びをあげたたことか。
 もう二度とは行かないだろう、素晴らしい思い出に残る山々たちだった。 

 そんな私の思いは、同じ頂上にいる彼女たちの明るい笑い声にかき消されてしまった。
 靴を脱いで、いくらかでもと水気をふき取り、靴下も替えて、軽い昼食をすませたところで、もう一人の彼女らの仲間がスキーをつけて頂上に着き、さらににぎやかになったのを潮時に、下りて行くことにした。
 頂上にいたのはわずか10分余りだった。
 できることなら30分、1時間と静かな山頂で、山々に囲まれてひとり過ごしたかったのに。

 ただありがたいことに、下りのほうが雪を踏み抜くことは少なかった。まして登りの固い急斜面は、キックステップで気持ちよくずんずんと下って行くことができた。
 コルからは、1343mコブへの登り返しになるが、下ってきた時とは逆の雪庇のついた稜線が見事な形で見えていた。
 振り返ると、何と彼女たちも下ってきていてすぐ下の所まで来ていた。私は一休みをするのをあきらめて、そのまま尾根を下って行った。

 ところが、行きにも苦労したように、さらに午後になって雪もゆるんできていて、彼女たちよりはおそらく二倍近くも体重の重たい私は、まあ面白いように雪を踏み抜くようになり、とうとう足を曲げたまま下半身ごと雪の中に落ち込んでしまった。
 その曲がった足を上げるべく手で雪をかき分け、やっと片足を上げ、さらに一番下の所まで落ち込んで曲がって動かない足を出そうと、さらに少しずつ雪をかき出しているところに、彼女たち二人が やってきて声をかけて追い抜いて行った。

 私は、返事をしなかった。
 そしてやっとのことで、そのはまり込んだ場所から抜け出して、再び雪堤を下って行ったが、もう靴の中はグチュグチュと音がするほどの水浸しになっていた。
 この4月としては季節外れの暖かい日に(帯広で24度)、日帰りの春山登山だからいいようなものの、厳冬期の山ならば間違いなく凍傷になっているところだ。
 雪堤の途中で、彼女たちが休んでいたが、私は心も体も不愉快な気分で、何も言わずに頭を下げただけで彼女たちをよけて通り過ぎて行った。
 下の方は行きもそうだったのだが、意外に雪は安定していて余りはまり込むこともなく、そのまま、大股になってずんずんと下って行けた。

 それは、気持のよいゆるやかな雪堤の下りだったのに、心からの楽しい気分ではなかった。
 彼女たちとその仲間を含めて、一度挨拶しただけで、ろくに返事も返さなかったことが私の心に重く漂っていた。
 原因は明らかだった。
 それはこの年になっても情けないことに、すべて私の心の狭さから来たものだった。
 
 まず自分の不注意でスパッツを忘れて、この登山中ずっと足先が、体が不愉快な気分だったこと。
 それに加えて、去年の双珠別岳と同じように静かな雪山を楽しめると思っていたのに、あまりにも大きな声を上げる人たちに出会って、すっかり不機嫌になり、黙り込む私になってしまったこと。
 
 思えば、ちゃんと出発前に持っていくべきものを確認しておくべきだったし、さらには面倒くさがらずに、持ってきたワカンをつけて歩いて行くべきだったこと、あの3か月前の由布岳での失敗(1月3日の項)をまた繰り返してしまったのだ。
 情けないことに、もう私には、認知症が出始めているのだろうか。

 さらに考えてみれば、彼女たちは何も悪くない。
 山は仲間と語らい、楽しむべきものだと考えている人たちにとって、本来山登りとは、そうした仲間同士の交友団結の場なのだから。
 むしろ私のように、できるならば誰にも会わずに、ひとりで山を歩きたいという人など、ほとんどいないというべきか、それは異端としての山登りであり、遭難対策上からも危険とされる登山者ということになるのだろうが。

 しかし古来、日本には、宗教上の修行のために、自己鍛錬の場として、ただひとり、山奥に入って行く修験者(しゅげんじゃ)たちがいたのだ。
 あの富士山の開祖と言われる役の小角(えんのおづね)をはじめ、新田次郎の名著『剣岳・点の記』に見られるような、強い思いに駆られた修験者たちによって、おそらくは日本の山々のほとんどは、そうした修験者たちによって登られたのだろう。
 一方では、そこまでの強い修験者としての思いはなくとも、自らの身を省みて漂泊の旅に出た人たちも多かったのだ。
 それが芸術的にまで昇華したものの例は幾つもある。たとえばすぐに思い出すのが、和歌の真髄をきわめようとした西行や、俳句の深淵の世界をのぞいた芭蕉である。
 
 そしてもう一人、何ともふがいない自分の人生を嘆き、放浪行乞(ほうろうぎょうこつ)の世界にわが身を追い込んで、山道を歩き人里をさまいながら、あの数多くの不定形現代俳句の名句を残した、種田山頭火(たねださんとうか、1882~1940)がいる。その彼の余りにも有名な一句。
 
「どうしようもないわたしが歩いている」

 まだまだこの年になっても修行の足りない私も、こうして山を歩いているのだが・・・。


 山から下りて、クルマでそのまま芽室まで走り、そこで風呂に入って、汗を流し冷えた足を温めた。
 ここは、今どき他にはない安い値段で風呂に入れてくれるし、混んでいることもない。
 日高山脈の山々に登った後には、ここの風呂に入るのが私の楽しみなっていて、いつもは時間が早く誰もいない一番風呂のようなものなのだが、この日は珍しく相客がいた。

 今年85歳になるというおじいさんだったが、歩く姿はしゃんとしていた。
 話を聞くと、東京の生まれで、太平洋戦争でB29による爆撃がひどくなり、十勝にいる親戚を頼って疎開してきてそのまま住み着いてしまったのことだった。
 人それぞれに、さまざまの人生があり、様々の運命があるものなのだ。
 しばらくいろいろと話をした後、私は、いつも山登りの後にこの風呂に入りに来るから、またいつか会えるでしょう、元気でいてくださいと声をかけて別れてきた。
 
 この時のおじいさんと話したことで、先ほどの山歩きで出会った人々に対する、私のすさんだ気持ちが、なだめられておさまっていくようだった。
 何事にも、悪いことがあれば、いいことがあるものなのだ。
 いつも穴埋めができるように、ちゃんと帳尻が合うようになっていて・・・。 
 
 連休には、どこにも出かけるつもりはない。人で混み合う街中になんぞ行きたくはない。
 それよりは、春のいろどりで混み合ってきた、家の周りの自然の中にいたほうがいい。
 近くの沢に行って、いつものギョウジャニンニク( アイヌネギ)をたくさん採ってきた。
 これからが、私にはうれしい山菜の季節なのだ。