ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

新緑の林と”最期のことば”

2014-05-12 20:35:29 | Weblog



 5月12日

 昨日は快晴の天気の一日だった。
 山に行くには、絶好の日和(ひより)だったのに、こうして晴れた日になるのは分かっていたのに、私は山に行かなかった。
 一つには、それが日曜日で、多少なりともそこに行くまでの途中でクルマが多く、登山者も多いだろうと思ったからだ。

 もちろん若いころならば、そんなことはものともせず、登りたい山はいくらでもあったから、天気のチャンスは逃さずに出かけていたのだが、今や、ぐうたらでものぐさな年寄りになってしまったから、ちょっとやそっとのことでは動きたがらなくなったのだ。
 先日の新聞記事にもあったように、年を取っていけばますますわがままな性格になり、いつかは痴呆症にかかり、徘徊(はいかい)老人として、自らもどこの誰ともわからぬまま人生を終えることになるのかもしれない。
 まあそれも仕方あるまい。自分で好き勝手に、生きてきたのだもの。

 私は、とてもあの宮澤賢治のような理想主義的実践主義者ではないから、日々、あの『雨ニモマケズ』の詩のような生き方はできない。
 私が望むのは、ただ「雨の日には出かけず、風の日も家にいて、雪にも夏の暑さにもすぐ弱音をはいてしまうような毎日を送り、誰のためにもならず、また誰もあてにせずに、ただのでくのぼうと呼ばれ」て、誰にも迷惑をかけずにこの林の中で、他の生き物たちと同じように、寿命が来たらそのまま死んで行くことなのだが。 

 前にもあげたことのある、『最期のことば』(ジョナソン・グリーン 刈田元司、植松靖夫訳 社会思想社)の中から、イギリスの肖像画家ジョシュア・レイノルズ(1723~92)の言葉。 

「私は幸いにも長い間健康にも恵まれ、常に成功を手中に収めてきた。だから不平など言わぬ方がよかろう。この世では何事にも終わりがあることを私は知っている。今、私の終わりが来たのだ。」

さらにもう一人、19世紀のイギリス首相、パーマストン卿(1784~1865)。
 
「先生(医者に)、死ぬこと・・・それが私のする最後のことですよ。」

 私が今までやってきたことは、あくまでも自分のためだけのものであったけれど、ともかくおおむね納得できるほどにやり終えたし、周りの人にかけた迷惑もそれなりにあったのだろうが、とにもかくにも生涯通じての一個人としての、優柔不断なエゴイストとしての態度は貫けたわけだし、 もうこれ以上何を望むことがあろうか。
 こう考えてくると、残りの人生の日々は、すべてが予期しないありがたいプレゼント、生きていることへの喜びの日々に思えてくるのだ。


 雲一つない青空が広がり、彼方に雪の日高山脈が連なり、木々が新緑の季節を迎えて照り輝き、草花は色とりどりに咲き乱れ、鳥は鳴き、蝶は舞う。
 何と、ありがたいことだろう。もしかして、私は、もうこの世を離れて彼岸(ひがん)の地にやって来たのだろうか・・・。
 
 家のエゾヤマザクラとサトザクラの花は終わって、すっかり葉桜になってしまったけれども、今では、あのハナモモに似た背の低いシベリアザクラ(オヒョウモモ)の花が咲き始めている。(写真上)
 見上げれば、今年はスモモの白い花もいっぱいに咲いていて、その香りが家の中にまで入ってくるほどだ。
 庭には数十株のチューリップがあって、今年も赤と黄色の鮮やかな色の一団となって目を引く。
 そして、まだまだ補修中の芝生の一隅には、その芝生に負けまいと混生しながらシバザクラが咲き始めて、そこに蝶々が集まってきている。
 モンシロチョウにツバメシジミ、そしてミヤマカラスアゲハにキアゲハも飛んでいるが、いずれも春型で、大きさは夏型の半分ほどしかない。(写真はキアゲハ、ミヤマカラスアゲハは’08.5.28の項参照。)


  

 今年は、平年よりははるかに気温の高い日が多く、ともかく草花なども1週間以上は早く咲いているし、だから蝶が出てくるのも早くなったのだろう。
 (去年は連休明けに15cmもの雪が降り、庭にはまだ雪が残っているほどだった。’13.5.6の項参照。) 

 そして、林のふちには、白いオオバナノエンレイソウと赤いオオサクラソウが咲いている。
 そのカラマツの林の中に入って行くと、下草のササはまだ枯れたままで、やがて緑の芽や茎がいっせいに出ては、見る間にあたりをササ原に変えてしまうのだが、今は乾いた音を立てるだけだ。
 このカラマツ林は、植林されてからもう数十年たっていて、中には巨木と言っていいほどの大きな木もあるが、もともと家の薪ストーヴのための供給林でもあるから、間伐を兼ねて年に数本を切り出し、そのために木の間が十分に空いていて、そこに他の広葉樹たちが大きく育ってきているのだ。
 この林の終局的な形態としては、針葉樹、広葉樹の混交林になってほしいのだが、その完成された姿など、とても私が生きているうちに見ることはできないだろう。
 
 その木々たちは、ヤマモミジ、ハウチワカエデ、イタヤカエデ、ナナカマド、ミズキ、ハルニレ、ホウノキ、ミズナラたちであり、紅葉の時の鮮やかな色合いは言うまでもなく、新緑の時の薄緑色は、木々の生きる力をまざまざと見せつけていて、私を勇気づけてくれる。(写真)



 さらに夏の静かな木陰、冬の静かな白と黒の世界もまた見事なものだ。
 つまり春夏秋冬にわたって、私は、この小さな林の中を歩いているのだ。

 少し哀しい気持になった時、つらい思いがふくれ上がってきた時、この家の周りの林の中を歩き回り、時には少し離れたところにある見晴らしの良い牧草地や、他の大きな林の方まで足を伸ばすこともある。
 
 人間はいつも欲深く、自分の都合のいいように考える生き物だから、もちろんそれらの思いがすべてかなえられるはずもないし、ぐずぐずと考え悩むことになる。
 しかし、考えてみるがいい。そもそも、この北海道になぜに住みたいと思ったのか。
 その始まりは、簡単な望みだけだったはずだ。

 それは大草原の中の家を夢見たわけではなく、花咲く小川のほとりに立つ家を夢見たわけでもない。
 ただ木々が豊かに繁る林の中にあって、近くから日高山脈の山々が見えさえすればいいと思っていただけのこと・・・。
 そんな望みの場所を見つけて、自分ひとりの力で家を建て、今そこに住んでいるのだから、何の不満を言うことがあろうか。
 そこで、しっかりと生きていくこと、それだけで十分なのだ・・・新緑の木々たちは、かすかに若葉を揺らせながら立ち尽くしている。
 先にあげた偉人たちの言葉のように、”この世には何事にも終わりがある”から、その日が来るまで、ただ黙々と。
 
 木々の間から、日高山脈の山々が見えている。
 こんな天気のいい日に、山に行かなかったことに対する、少し悔しいような思いもあるのだが、しかし、こうして新緑の木々を楽しみ、さわやかな風に吹かれて、庭仕事をする一日もまた悪くないものだ。

 それにしても、今年の日高山脈は、それまでの季節外れの暖かい日が続いたせいだろうか、いつもよりずっと早く雪どけが進んでいて、山頂付近の岩壁や岩稜帯は、今や黒々としたその姿を見せている。2週間以上は早いだろう。
 去年は連休前の雪もあって、今の時期でもまだ稜線は真っ白だったのに。(’13.5.13の項参照) 

 しかし、こうして北海道の山に登ることに、そう積極的ではなくなったのは、年寄りのぐうたらさはもとよりあるのだが、北海道のめぼしい山にはもうほとんど登っていて、どうしても行きたいという山が余りないからでもある。
 今の残雪の時期、雪を伝っていける山々が気になるし、確かに日高山脈の幾つかのコースが思い浮かぶが、体力的にもうきついだろうし、さらにアルペン的なヴァリエーション・ルートで有名な、芦別岳本谷経由北尾根回遊のコースも、久しぶりに行ってみたい気もするが、この雪の少なさでは、もう沢水が流れているのかもしれない。

 そういえば、一度、日高の札内岳(1896m)の雪の詰まった沢を詰めて登っている時に、もろくなったブリッジに乗っかり、クレバス・シュルンドの中に落ち込んだことがある。
 だから単独行が危険だと言われるのはよく分かるし、もう何十年も、沢登りや冬山を含めていつも一人で山に登ってきて、幸運にもよく生きのびてきたものだと思う。

 だからと、おじけづいたわけではないのだが、これからはなるべく楽勝登山をしたいし、ぐうたらのんびり登山にしたいのだが・・・。
 山から足が遠のけば、その分、家にいることが多くなるから、まだまだうんざりするほどにたまっている仕事を、一つずつ片づけていけるようにはなるのだが・・・。 
 まだまだ死ぬわけにはいかないし、ひとりでもごうつくばりジジイと呼ばれても、生きていくぞ、ミャオ、母さん。 

 山に関係する話を一つ。
 先日、BS日テレで、ドイツ映画『ヒマラヤ 運命の山』(2010年)が放映され、それを録画して、久しぶりの山岳映画だと期待して見たのだが、私の好きなヨーロッパ映画なのに、正直に言えば映画的には余り納得できないものだった。
 確かに、ヒマラヤの風景やそのスケール感あふれる映像には、素晴らしいものがあるのだが、監督、脚本、出演者たちのすべてが、旧態然としたスタイルであり、その映画の主人公たる本人のあのラインホルト・メスナーが監修した割には(もっとも彼は登山中の事実の有無に関して助言しただけなのだろうが)、どう見ても芝居がかった映画くささが残っていた。
 
 というのも私たちは、今やハイビジョンや4Kテレビのための、高解像度カメラで映された映像で、ヒマラヤなどの世界の山々を見てきており、そんな山々に挑む登山家たちの臨場感あふれる姿も、またよく見知っているからでもある。
 それらは、NHK・BSの『グレート・サミッツ』シリーズや『8000m峰全山登頂 竹内洋岳』、『三浦雄一郎 エベレスト』などなど何本も放映されているのだ。 

 ただし、このパキスタン・ヒマラヤの難峰、ナンガ・パルバット(8125m)については、山好きな人たちなら誰でもが知っていて、 あの困難なルートを求め続けたイギリスの有名な登山家、ママリーが消息を絶った山であり、第二次大戦前から20数人もの犠牲者を出しながら、この山に挑み続けたドイツ隊にとっての、”運命の山”であり、しかし1953年、あのヘルマン・ブールの超人的な力によって、単独無酸素の初登頂がなし遂げられ、その後1970年には、世界登山史に燦然(さんぜん)とその名を輝かす、ラインホルト・メスナー(1944~)とその弟ギュンターによって、最難関の4700mにも及ぶルパール壁を経由しての登頂が成し遂げられたのだが、その帰路に、ギュンターが遭難死してしまい、しかしラインホルトは両足指7本切断の凍傷を負いながらも、奇跡的に生還した。
 この映画は、そのドイツ隊のメスナー兄弟による登頂と遭難に至る姿を描いているのである。
 映画のラスト・シーン、ドイツに戻ってのナンガ・パルバット登頂講演会でのラインホルトの言葉。
 
「皆は、ナンガ・パルバットをドイツにとっての運命の山と呼ぶのかもしれないが、
 しかし 、ナンガ・パルバットはただの山にすぎない。
 人間が感情を抱くだけだ。」

 その後、彼は弟ギュンターの遺体を見つけるまではと、10回ほどのその谷の捜索に出かけた。
 1978年、彼は単独無酸素によって、再びナンガ・パルバットの頂に立った。
 1986年、彼は登山史上初の8000m峰全14座に無酸素登頂した。
  現在彼は、生まれ故郷のイタリア・南チロル(ドイツ語圏)の古い城跡に住んでいる。(先日テレビ番組でも放送されていた。)

 (以上、ウィキペディア他、 『ラインホルト・メスナー自伝』TBSブリタニカ)