ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

エレミヤの哀歌と七つの涙

2014-02-03 21:42:56 | Weblog
  

 2月3日

 一月の下旬から二月初めにかけてが、一年のうちでもっとも寒い時期だというのに、昨日、宮崎では25度!の夏日を記録したという。
 わが家の周辺でも、この数日は15度を超える毎日で、昨日はとうとう20度を超えてしまった。
 つまり、二か月先の桜の花が咲くころの暖かさなのだ。
 これで、いいのだろうか。

 地球温暖化という声に慣れきった人々は、いつしかオオカミが来ることにも、ピーターの声にも驚かなくなるのだろう。
 だからと言って、明日をも知れないこの年寄りに、あーゴホゴホ、何ができるというのだ。
 せいぜい自分の生活範囲の中で、今までどおりに、質素におとなしく暮らしていく他はないのだが。
 
 そうした多少の寒暖の差こそあれ、私の頭の中に大まかに描いている、年間行動カレンダーに大きな違いはない。
 今は、雪が降ったら山に行き、天気の悪い日は、家にいてどうでもいいような分野の学業に励み、写真を整理し、録画番組を見てはニヒニヒと笑っていればいいだけのことだ。
 大切なことは、いわゆる田舎引きこもり型の、アルツハイマー危険因子を多分に含んだ毎日だとしても、このぐうたらな日常を変えずに、くよくよ考えずに脳天気に生きていくことだ。
 
 ”ありがたや、ありがたや・・・腹が減ったらおまんま食べて、寿命(じゅみょう)尽きればあの世行き・・・ありがたや、ありがたや”とかいった、昔の歌があったはずだ。
 確か子供のころ憶えた歌で、ネットで調べてみると、「有難や節」(作詞 浜口庫之助 作曲 森一也 歌 守屋浩)とある。

 まさしくこの世を生きるのは、考え方次第であり、”ケ・セラ・セラ””なるようになるさ””明日は明日の風が吹く””何とかなるさ”なのかもしれない。

 私は、自分の頭の中のカレンダーを見て思った。そういえば、去年購入したクラッシックCDについて、ベストCDを選んで書く時期になったと。(’13. 1.28の項参照)
 それは、全く誰かのために行うものではなく、あくまでも自分の趣味の一つとして、手元にあるそれらのCDを見回しては、いろいろと昔のことも思い出し、獲物をなめまわすように調べなおすだけの、個人的検証の場でしかないのだが。

 ところが最近では、そのCD購入枚数も激減しており、とてもベスト10はおろか、その数にも達しておらず、今年はわずか7点であり(10枚入り箱物が一点あり、計16枚ということになるが)、ベストと名乗るのにもおこがましくて、そこで気になった2点だけを取り上げてみることにした。
 
 最初の一枚は、クープランの「ルソン・ド・テネブル(テネブレ)」である。
 名カウンター・テナー(ファルセット・ヴォイス)のルネ・ヤーコブスとコンチェルト・ヴォカーレの演奏による、1982年録音のもので、今回ハルモニア・ムンディ・レーベルから廉価盤として再発売されたのである。(写真上、CDプラスティック・ケースを使わない紙製のケースが好ましい。)

 フランスのバロック時代の大作曲家、フランソワ・クープラン(1668~1733)の名曲の一つでもあるこの「ルソン・ド・テネブル」は、キリストの受難の日である聖金曜日の前後を含む三日間教会で行われるおつとめであり、”暗闇の(読誦どくしょう)ミサ”ともいわれているが、それは真夜中の0時を過ぎて行われる朝課だからであって、実際の日付は木、金、土曜日(復活祭)になるのだが、いつしかその前日の午後に行われるミサになってしまい、そのことは英文の解説書にヤーコブス自身が詳しく書いている。

 この曲には、他にも幾つかの名演奏盤があって、中でも、カウンター・テナー、ジェラール・レーヌとアンサンブル・セミナリオ・ムジカーレによる演奏(1991年録音、ハルモニック・レコーズ・レーベル)は、前後にグレゴリオ聖歌をはさんで歌われていて、教会での礼拝時にふさわしいような厳(おごそ)かな気持ちにさせられる。
 さらに言えば、このCDの解説書の裏表紙は、あの”ローソクの光の画家”ラ・トゥール(1593~1626)の描いた「マグダラのマリア」の絵(写真)であり、ドクロをひざに乗せて、ローソクの炎を見つめて悔い改める姿が印象的であるが、あのローソクの光は、また一方では、キリスト受難の日に至るまでの”暗闇のミサ”で、一本一本ローソクを消していった礼拝の様子を暗示したものなのだろうか。

 

 この曲は、この名盤さえあれば他にはいらないと思っていたのだが、たまたま店頭で見かけた昔の名盤、ルネ・ヤーコブス演奏のものが廉価版になっているのを知って(990円)、即座に買ってしまったのだ。
 それは確かに、ヤーコブス全盛期のころの声で(それでも多少気になるところはあるが)、何と言っても他のコンチェルト・ヴォカーレのメンバーがすごいのだ。
 ウィリアム・クリスティー(オルガン、クラヴサン)、ヴィーランド・クィケン(バス・ヴィオール)、ヤープ・テル・リンデン(バス・ヴィオール)、コンラート・ユングヘーネル(テオルボ)といった古楽器の名手ぞろいである。
 それは、あの敬虔(けいけん)な思いにさせられるレーヌ盤とは違った、演奏会で聴く音楽の楽しみを与えてくれるものだった。

 この「ルソン・ド・テネブル」という曲は、もともと旧約聖書の「エレミヤ書」に続く「哀歌(あいか)」の中からとられているのだが、それは、紀元前6世紀、預言者エレミヤが破壊され滅び行くエルサレムを見て、やがてはバビロン捕囚へとつながる苦難の時代を嘆く、その長編詩の一部に曲をつけたものであり、フランス以外では「エレミヤの哀歌」と呼ばれていて、他にもドゥラランド、ラッソス、ゼレンカ、ヴィクトリア、タリスなどが作曲したものがある。

 なかでも私が持っているドゥラランド(1657~1730)のものは、マラン・マレーやクープランなどが作ったトンボー(追悼曲)を前後にはさんで、哀歌のところをソプラノ(イザベル・デロシェール)が歌うという演奏形態をとっていて、なかなかに興味深いCDである(naive・レーベル)。
 
 しかし何と言っても思い出すのは、レコードの時代にアルヒーフ・レーベルから出た、ブルーノ・ターナーとプロ・カンティオーネ・アンティカによるトーマス・タリス(1505~85)の「エレミヤの哀歌」である。
 当時、まだ今ほどにはルネッサンス・バロック音楽にひかれてはいなかったのだけれども、何と言ってもその輸入盤のジャケット写真に目を奪われてしまったのである。
 そこには、あのオランダの名匠レンブラント(1606~69)が描いた「エルサレムの破壊を嘆くエレミヤ」(レンブラント24歳の時!)の絵があったからだ。(写真)

 
 
 それは、私がその時に持っていた画集よりは、はるかに鮮やかな色彩で、ビニール・コーティングされていて、当時のことを思えば、むしろそのジャケットを部屋に飾りたいと思って買ったような気さえするのだ。
 後年この絵には、例の若いころのヨーロッパ旅行の時に、アムステルダム国立美術館で、フェルメールの数点とともに憧れの対面を果たすことができたのだ。

 こうして私は今まで、数多くのレコード・ジャケットの絵画の写真から、様々な音楽と絵画と歴史のつながりを教えてもらっていたのだ。
 次のもう一枚のCDにも、それが言える。
 あのジョルディ・サヴァールとエスぺリオンXXの演奏による、ジョン・ダウランド(1563~1626)の「ラクリメ、あるいは七つの涙」である。(写真)

 

 これも1987年に録音された名盤の再発売CDであり、1,790円という価格は廉価盤としてはやや高めの設定だが、レーベルが豪華な装丁(そうてい)で知られるサヴァール自身のレーベルのAria Voxであり、なおかつ高音質のSACDであることを考えれば、十分に納得できるものである。

 ところでこの「ラクリメ、あるいは七つの涙」は、もともとダウランドのリュート歌曲集(ルーリーとコンソート・オブ・ミュージックによる名盤がある)の中におさめられていた一曲、「流れよ我が涙」が評判になり、すぐにダウランド自身によってヴィオラ・ダ・ガンバ五重奏にリュートを加えた合奏曲として編曲されて、これまた人気になったものであるが、さらにこの曲は今日に至るまで「涙のパヴァーヌ」として様々な楽器に編曲演奏されている。
 ちなみに「七つの涙」とは、”昔の涙、少し前の涙、ため息の涙、悲しみの涙、集められた涙、愛する者の涙、真実の涙”とのことである。

 この曲を初めて聞いたのは、あの有名な皆川先生のFM放送の『バロック音楽のたのしみ』だったと思うが、それで買ったのは、これまたアルヒーフのレコードで、モノラル録音のヴェンツィンガーとバーゼル・スコラ・カントゥルムによるものだったのだが、やはり今にして思えば、奥ゆかしい響きではあったが、やはり合奏の音の広がりが足りなかったようにも思える。

 その後CDの時代になってからは、フレット・ワークやブリュッヘンのブロックフレーテによるものを聴いていて、その後忘れていたのだが、今回このサヴァールによる、録音的にも見事な演奏を聴いて、ようやくこの曲の決定盤を見つけた思いがした。
 さらに、この一部プラスティック・ケースはあるものの、いつも豪華な装丁の表紙の絵は、どこかで見たような気もするが覚えがない。たぶん、ラファエル前派のミレイかロセッティのものだろうと思っていたのだが、クレジット・タイトルを見て初めて分かったのだ・・・。

 絵のタイトルは「ザ・タワーのアン・ブーリン」。
 そうだったのか、あのヘンリー8世に望まれて結婚したのに、”千日のアン”となってすぐに処刑されてしまった、悲劇の女王アン・ブーリン(1507~36)のロンドン塔幽閉(ゆうへい)の姿なのだ。
 胸に迫るその姿・・・(若き日のヨーロッパ旅行で滞在したロンドンで、あの威厳に満ちた制服姿の衛視(えいし)が力を込めて語っていた、血塗られたロンドン塔の話を思い出した。)

 画家は、ラファエル前派ではなかった。エデュアール・シボ(1799~1877)というフランス人画家で、英文のウィキペディアを調べても簡単な説明しか載っていない。
 ただし、彼の作品の画像はかなりの数があって、その新古典派的な作品の傾向をうかがい知ることはできるし、同じ時期に活躍していた、海を隔てたラファエル前派の影響もないとは言えないような気もする。

 そして、この絵は、フランス中央丘陵地帯、ブルゴーニュ地方のオータンにあるロラン美術館蔵となっている。
 もう年寄りの私が、わざわざ出かけて行って見ることはないだろうが、できることなら何かのフランス絵画企画展の中の一枚として、たとえば、”アングルと新古典派”などと銘打たれた展覧会の一作品として来てくれればとも思うのだが・・・。
 
 ともかくこのCDは、優れた演奏として、また私に絵画と歴史の新たな側面を見せてくれた一枚として、私の”2013年度ベスト1”になったのだ。パチパチパチ・・・。

 全くこんなことは、他人から見れば、クラッシックを聞いている人たちから見ても、”しょうもない”話かもしれないが、こうした個人的ブログの有難いことは、誰からの賛同がなくても、自分で感じ入ったことを、針小棒大(しんしょうぼうだい)的に書きまくって、日頃の心のうさを晴らせることである。
 そこで、この鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)は、カンラ、カラカラとうそぶき笑うのだ。
 
 さて話をCDに戻して、上にもあげた10枚組みセットの一点とは、EMI・REFLEXEシリーズの「古都と王宮の音楽」である。
 ここには、主にドイツのドレスデンやライプツィヒなどをはじめとした、ヨーロッパの10の都市の、宮廷楽団華やかなりしころの、バロック時代から古典派の時代にかけての時代に、そこで活躍したさまざまな作曲家たちの曲が紹介されている。
 これらは、1960年代から70年代にかけて録音されたものであり、演奏者にはアーノンクールやパウムガルトナー、リステンパルトなどが名前を連ねていて、いささか古い演奏スタイルであることは否めないが、それでも他ではもう聞くことのできない曲が数多く含まれていることがうれしい。
 そして無駄な金の出し惜しみをする私にふさわしく、この10枚組の箱ものが、3,590円であった点も、その購入動機になったことは言うまでもない。

 こうしてCD購入枚数が減ってきて、その分クラッシック音楽を聴く時間も減ってきたような気がする。
 そして、その代わりに去年多く聞いたのは、もちろんあのAKBの歌である。
 そうして、テレビの歌番組を録画した「フォーチュン・クッキー」と「ソー・ロング」は、いまだにことあるごとに聞いているのだ。
 
 AKBの曲が、業界の都合でレコード大賞に選ばれなかったとしても、カラオケで「女々しくて」やボカロ(ボーカロイド、音声合成技術)の「千本桜」に人気があったとしても、下を子供たちから、上を私たちみたいな年寄りまで入れて選べば、”誰もが知っている曲2013”は、やはり「フォーチュン・クッキー」だったと思うのだが。
 明るい曲調にものれるし、何と言ってもクッキー占いに思いをかけた歌詞がいいのだ。

「人生捨てたもんじゃないよね。あっと驚く奇跡が起きる・・・運勢今日よりも良くしよう。ツキを呼ぶには笑顔を見せること・・・。」
 
 そこで、鏡に映ったにっと笑うオヤジの顔・・・気持ちわりー、ってか。失礼しました。

 
(参考文献:「音楽の手帖 バロック音楽」青土社、「バロック音楽」皆川達夫 講談社新書、「中世・ルネッサンス音楽の魅力」レコード芸術 音楽之友社、ウィキペディア他のウェブ)