1月13日
数日前、全く久しぶりに山に行ってきた。
前回登ったのが、あの日高山脈の剣山(’13.11.18の項)だったから、何と二か月近くも間が空いたことになる。
もちろんそのことは分かっていたし、何とか山に行かねばという自分への義務感のようなものがあり、さらにはこれほど山から離れていると、山を歩きたいという思いが体の中にうずいていたことも確かだった。
冬型の気圧配置がゆるんできて、西側から高気圧が張り出してくるという日に、ただし晴れの天気予報も各社によって多少違いがあることが少し気になってはいたが、曇り空の朝からずっとネットで、山のライブカメラの様子をうかがっていた。
画面では、九重山・牧ノ戸峠の天気は相変わらず雲が多かったが、由布岳方面は大きく青空が広がってきている。
よしと決めて、由布岳に登ることにした。
九重山(1791m)と由布岳(1583m)は、家から比較的に近いこともあって、九州では私が最もよく登っている山域である。
数えたことはないが、九重はおそらく数十回、由布岳でも20回近くは登っているだろう。
そして、その両者とも冬と6月のミヤマキリシマの花の時期だけであり、特に由布岳のほうは、もっぱら冬の雪や霧氷のある時だけに登っているのだ。(前回は約1年前の’12,12.27の項参照)
その中でも、由布岳の東西両峰をぐるりと回る、雪に彩られたコースがなんといっても素晴らしいのだ。
今回も雪の状態次第だが、そのお鉢一周のコースをたどるつもりでいた。
ところが、私の状況判断の過ちで、というより何度も登っている九州の冬山を、あんなものだからとたかをくくっていて、その結果手ひどい試練を受けることになったのだ。
冬の雪がある時期に、東西両峰のどちらかだけに登るだけなら、若いころには3時間余りで、ゆっくりと登っても4時間ほどで往復できたのに、ましてお鉢一周コースでも5時間ほどで戻って来られるのに、今回は東岳の方にしか登っていないのに、何と6時間もかかってしまったのだ。
今でもまだ、脚の太ももにひどい筋肉痛が残っているし、さらに胸の筋肉までもが痛いのだ。
そういえば、今回の太ももの筋肉痛は、山からの急な下り道を歩いてきた時などによくあったことなのだが、一方で胸が筋肉痛になるのは、たとえば沢登りや岩登りをした後などによくあって、さらに足のすねの方の筋肉にも痛みが残ることが多かったのだが。
それはともかく、今回の山での失敗は、私の登山歴の中でも恥ずべきお粗末な登山だったことは間違いないし、そんな結果を招いたのは、ひとえに私が、低い九州の冬山をなめきっていたからなのだ。
さて、私が由布岳の正面登山口を出発したのは、家を出たのが遅かったのもあって、もう9時半を過ぎていた。
しかし枯れ草色のカヤの草原の向こうには、正面に由布岳も大きく見えて、青空も広がっていた。
ただ、冬型の気圧配置がまだゆるんではいないのか、まだ風が強く、その北東の風に乗って雲が生まれては、頂上付近に少しまとわりついていた。
下の登山口駐車場には、数台のクルマが並んでいたが、もう朝早く出たのだろうか、前後には人の姿も見えなかった。
草原の道から、林の中の枯葉に埋まった道をひとり歩いて行く。
鳥の声ひとつ聞こえず、ただ高い空で吹きすさぶ風の音だけが聞こえていた。
いつの間にか、後ろから男の人がひとり速足で来ていて、私を抜いて行った。ザックには、ピッケルが差してあった。
私は、ピッケルはおろか、アイゼンさえも持ってきてはいなかった。
クルマのトランクには積んであるのだが、クルマでここまで上がって来る途中、いつものように狭霧台で停まって由布岳の写真を撮ったのだが、少し拍子抜けするほどに雪が少なかった。(写真上)
わずかに、マタエ分岐点付近から上の東西両峰だけが白くなっているだけである。
昨日から、この冬一番の寒波が押し寄せて来ているとはいえ、正月があれほど暖かかったし、その前の寒い時に何度か降った雪もすっかり溶けてしまったのだろうと思っていた。
もっと雪が多く、手前のカヤト色の山、飯盛ヶ城(1067m)までが真っ白になっている時にも登ったこともあるが、その時でさえアイゼンなしで、岩稜が続くお鉢一周をしたことがあるくらいだし、頂上付近まで灌木帯があるこの由布岳では、ましてピッケルなどを使うところはないとさえ思っていたのだ。
靴はシンシュレイトを織り込んだ厚い冬用のものであり、しっかりとした深い溝のソールだからグリップ力は十分であり、あとはいつものように、雪山用のリングと石突きを出したストックがあれば、このくらいの雪ならばお鉢一周でも、アイゼンなしでも十分だと思っていた。
うっすらと雪の積もったなだらかにたどる林の道から、合野越(ごうやご)えに着き、そこからは山腹につけられたジグザグの道が始まる。
火山であるこの由布岳の勾配のある山腹に、ゆるやかな道としてつけられた九十九(つづら)折れの道。
後ろから足早な若者二人がやって来て、すぐに私を抜いてゆき、その話声もいつしか離れていった。
相変わらず上空で風の音が聞こえていた。頂上ではかなりの風が吹いていることだろう。
気圧配置としては、西からの高気圧が張り出している天気図だったのだけれども、九州北部には海上風警報が出ているのが気になってはいた。
しかし、もう道の前後には人もいなくて、久しぶりに静かな山道を歩いて行くのが楽しかった。
ただ、相変わらずの風による雲が、この山腹にも少しだけかかってきて、時々雪がちらついていた。
それは、木々に積もっていた雪が、風に吹かれて落ちてきていたのかもしれないが、日が差し込む中に、まるであの氷点下20度以下で見られる北海道のダイヤモンド・ダストのように、きらきらと光りながら舞っていた。
私は立ち止まって、しばらくの間、その移りゆくきらめきを眺めていた。
写真に撮ることはできないけれど、映像という形あるものとしても残せないけれど、必ずやこうした光景の一瞬は、私の心にいつでも思い返すことのできる記憶として残ることだろう。
記憶については、前回にも書いたように、写真・映像などの媒体(ばいたい)によって再び思い出されるものと、意識的にであれ無意識的にであれ、つまり、この光景は絶対忘れないぞと思い込んだり、あるいは衝撃的な光景として自分の心に強くきざみつけられるものなどがあるのだろうが。
その時に、自分が美しいと感じて強く記憶にとどめておけば、その後も何度も繰り返して、自分の頭の中で思い返すことができるものだから、つらい気持ちの中にある時には、いつもそれらのことを思い浮かべて、少しは幸せな気持ちになれるのではないか。
たとえば前々回に書いた、雪山の斜面を走り流れていった小雪の波、その雪面にアイゼンの靴を踏みしめて歩いていた私・・・さらに場面は変わって、岸から離れた沖合の向こうに、小さな波を抱えてさらに広がっていた海、その海の水に包まれてひとり泳いでいた私・・・などのように。
一方では、今ではどこか甘い恐怖の思い出として残っているものもある・・・誰も通らない日高山脈の奥深い谷の雪渓をたどっていた時、不注意にもクレバスに落ち込み、一瞬の後、あおむけになった私が見た、雪の穴の上に見えた青空の色・・・さらに場面は変わって、子供のころ、まだ泳げなかった私が田舎の川でおぼれた時の光景、青く濁った水の色と生暖かい夏の午後の空気・・・などのように。
記憶は、繰り返す・・・。
さて、何度目かのジグザグの後に、ようやく林を抜けて開けた灌木とカヤの明るい斜面に出た。辺りの低い木の枝には、透明に輝く霧氷がついている。
さらに続くジグザグの道は、西に向かって上がる道では、春先のように雪が溶けているものの、反対側の東に向かって上がる道には、寒い冬の季節そのままにいっぱいに雪が残っていた。
そして上から、朝早く登っただろう人たちが下りてきた。
あいさつして一人の人が行き過ぎ、次の二人目の人に声をかけてみた。
気になる風のことを尋ねてみると、頂上では体ごと飛ばされそうだったし、ともかく上は全面アイスバーンで、4本爪のアイゼンでは怖いくらいで、長年登っているがこれほど凍りついているのを見たのは初めてだと言っていた。
私は先ほどから、固く凍った雪道が出てきていたので、注意はしていたのだが、心の中でアイゼンを持ってくるべきだったという思いと、まあ行けるところまで行ってみればいいと、それほど気にはしていなかったのだが、彼の言葉で少し不安になってきた。
やがて、ジグザグの道から最後のマタエの登りとなって、今までの透明の周りの霧氷が、白い雪氷となった樹氷に代わってきていて、道の心配よりは、その眺めに気をとられていた。
その時、さらに上からアイゼンの音を立てて降りてきた中高年の三人が、私がアイゼンをつけていないのを見ると驚いて、上はもうツルツルで無理ですよと忠告してくれた。
私は、何度もアイゼンなしでの経験があるからと答えて、意地を張ってでも頂上まで行こうと思った。
さらに登るにつれて、今やほとんどが凍りついた道になり、両側の灌木の枝や岩をつかむのはもとより、靴を置く場所にさえ苦労するようになってきて、やっとのことで吹きさらしのマタエに着いた。
その鞍部(あんぶ)は、もう完全にアイスバーンになっていて、わずかに出ている小石や岩の陰に足を置いてようやく立てるありさまだった。
もちろん、もうお鉢一周コースなどは論外だし、普通ならば、当然のこととしてここであきらめて山を下りるべきだった。
しかし、今や天気は完全に回復していて、左に西峰、右に東峰とが白い樹氷に覆われて輝いていた。
ここが北アルプスや北海道の高い山だったら、吹きさらしの斜面や稜線ばかりだから、まず登る前に諦めるだろうが、この山にはそんな斜面はないし、少しずつ曲がりくねっている道の両側には灌木や岩があって、足場がないわけではないしと自分に言い聞かせて、登って行くことにした。
しかし、登り始めるとそれは一瞬たりと気のぬけない、大変な登行だった。
吹きつける冷たい風の中、絶対に滑らないために、一歩一歩確かめて、道の両側の氷面のないわずかばかりの草や灌木の根元や、あるいは乾いた岩の上に靴を置き、ストックの先の金属製の石突きを、ピッケル代わりに氷の上に立てて支点を作り、勾配の急な氷結した道を少しずつ登って行くのだ。
クルマの中に置いてあるあの10本爪のアイゼンを持ってきていれば、あるいは氷の道にステップを刻むことのできるピッケルを持ってきていればと、まさに”後悔、先に立たず”。
それでも、登る気になっていたのは、残りはもうあと少しだけだし、普通ならばわずか15分足らずの距離でしかないのだと、いざとなれば下りは緊急避難的に、結氷していない灌木帯のヤブの急斜面を下ることもできる、と思っていたからでもある。
やがて頂上直下の、少し開けた平坦地に着いたが、もちろんそこはまるで小さな池のように全面結氷していて、今までの傾斜している道よりはかえって滑りやすく歩きにくかった。
その頂上から、下の林の道で私を抜いて行った男の人が、アイゼンの音を立てて手にピッケルを持ちながら下りて行った。
しかし、それでも周りの樹氷の光景は見事だった。(写真)
風は強かったが、吹き飛ばされるほどではなかった。
頭上には変わらずに青空が広がっていた。
私はさらに難しくなってくる凍りついた道を、必死の思いで登ってゆき、ようやく頂上にたどり着いた。
マタエからのいつもなら15分の道のりを30分かけて登ってきたことになる。
誰もいなかった。
その三角点のもとに行くまでも、下はすべて凍りついたミラーバーンになっていて、最後は四つん這いになってようやくたどり着いたほどだった。(写真下)
展望は、東側が開けて、隣の鶴見岳(1375m)の山並みと別府湾の広がりが見えていたが、南側の九重も祖母・傾も雲の中だった。
まだ風が強く、こんなところで休むことはできなかった。
すぐに下りることにして、慎重に下って行って先ほどの平たん地が始まる手前の、風の当たらない岩陰に腰を下ろした。
靴ひもを結びなおすために、手袋を脱ぐと、なんと左手の指先が白くなっていて、まったく感覚がない。
前にも見覚えがあるが、小さな凍傷の始まりだ。
急いで持ってきていたボトルのコップに温かい紅茶を注いで、指をつけた。
昔は、凍傷は少しずつ温めるのがよいとされていたが、今では熱くないほどのお湯ですぐに温めるのがよいとされているのだ。
二度ほど繰り返してお湯につけて、さらにもみほぐして、ようやく少しずつ感覚が戻ってきた。
情けない。こんな九州の低い山で、凍傷にかかりそうになるなんて。
原因は分かっている。アイゼンやピッケルと同じことで、九州の冬山をなめていたせいだ。
というのも、私は少し厚手のフリースの手袋だけで、上に冬山用の防水の効いた手袋を二重にはめてはいなかったからだ。
滑る道だからと、下の道を登る時から木の枝をつかみ雪にまみれて、指先がすっかり濡れていた上に、さらに風がずっと吹きつけていて、指先だけが冷やされ続けて、凍傷手前の血行不良になったということなのだろう。
この先も、登る時よりもさらに難しい、氷結した道の下りが待ち構えている。
絶対滑らない覚悟で、足場を見つけて、それでも見つからないときは体ごと氷の道の上に投げ出して、先の足場を探り見つけて降りて行く。
その時下から登ってくる人のアイゼンの音と、ピッケルの足場を刻む音が聞こえてきた。
完全装備なのに、慎重に登って来る人だなと思っていたのだが、私と間が数メートル位になった時、なんと若い彼は今度は下り始めたのだ。
その後も、腰を下ろしてゆっくりと足場を探しながらいく私とは離れてゆき、彼の姿はいつの間にか見えなくなってしまった。
彼は、どうしたかったのだろう。
考えられるのは、先に西峰に登ってマタエに戻り、今度はこの東峰に登ろうとして、しかし余りにも凍りついていたので、諦めて戻ることにしたのか、それもアイゼンをつけて、ピッケルまでも持っているのに。
もう一つは、マタエのあたりで先に降りてきた人に、アイゼンなしで登っている人がいると聞かされて、助けてあげようと思い、ピッケルで足場を作ってくれていたのか、それならば、私に向かってだいじょうぶですか、とでも声をかけてくれればよかったのに。
それとも別の他の理由があったのか、わからない。真相は”藪の中”なのだが。
その後も時間をかけて、慎重に下りていた私だが、一瞬腰を下ろしていた時につるりと1mほど滑ってしまったが、そのまま滑り落ちることもなく止まってくれて一安心だった。(家に戻って風呂に入った時、手首のところに少し大きな擦り傷があったことに気づいた。)
そうして、何とかマタエにたどり着いたのだが、この頂上からの下りだけで、いつもなら10分足らずの所を何と40分もかけて降りてきたことになる。
やれやれこれで何とか、頭を打って死なないですんだことになる。
母さん、ミャオ、天から見守っていてくれてありがとう、と言いたい気分だった。
ここからは、行きに凍りついていた所も少しゆるんできていたりして、幾らかは楽な気持ちになる。
それでも下りだから、まだまだ滑りやすい所はずっと続いていて、気をゆるめることはできない。
本当に一安心して休めたのは、もう雪もない合野越えのベンチに腰を下ろした時だった。
そして林の中の道を下り、枯れ草色の草原に出て、登山口の駐車場に戻ったのは、出発した時からもう6時間もたった午後の3時半にもなっていた。
振り返ってみる由布岳には、また雲がまとわりついていた。
無事に家に帰り着いても、反省することしきりの山行だった。
ともかく、年の割に無茶なことをして、ケガしなかったからよかったものの、冬山をなめた軽率な行動であったことは確かだ。
そしてどうして、そういうことをしたのかと問われれば、私自身にもよくわからないのだ。
誰かに意地を張ったわけでも、見せつけたわけでもないのだ、あんなみじめな姿を。
それならば何だったのか。
あの時、私の目の前に見えていたもの。
何かが、私を頂上へと向かわせようとしたのだ。
それはオーストラリアの旅の時と、ヨーロッパの旅の時と、北海道移住の時と、幾たびか繰り返してきた日高山脈単独行の時と、それだけでなくその後も続く様々な山を目指した時と、すべてに共通するものかもしれない。
私の心の中に無意識に巣くう、破滅と隣り合わせの熱狂・・・。
それだからこそ、時々訪れるその嵐のひとときがあるからこそ、私は、日々の静寂を何よりも望むのかもしれない。
なぜに、そうするのか。
それは、つまり平たく言えば、繰り返し引き出すことのできるより良き記憶を、自分の中に作り上げていくためではないのか。
ハイデッガーの言う”存在と時間”の中で、より良き時間を生きるということを、少しだけ考えてはみたのだが・・・。
(追記:今回の由布岳がなぜあれほどまでに凍りついていたのか、それは前日や当日の気温が低かったためではない。
ちなみに、当日の、由布岳のふもと湯布院の気温を調べてみると、最低が-4.5度で最高は2.3度とある。それに標高による気温の逓減(ていげん)率を考えてみれば、あの日の頂上付近は、夜明け前の一番下がる時で、おおよそ-11度、昼間で-4度くらいになる。
過去にそれ以上に気温の低い時に、由布岳に登った経験があるけれども、あれほどまでに全面的に凍りついてはいなかった。
そこで私なりの推測だが、一つには年末前までに何度かの雪が降っていて、湯布院の町を通った時にそこから見える由布岳の姿が、中腹以上、飯盛ヶ城も含めて白くなっていたから、かなりの雪が積もっていたことになる。
そこに、気温が高かった年始年末に、大勢の登山客が登っていれば、雪は踏み固められて、夜に凍ってしまい、昼間さらに表面が溶けて、それが夜にまた凍ってと繰り返し、まるでスケートリンクを作るみたいな、ミラーバーン(鏡のような氷の表面)状態になってしまったのではないのか。
その人々が通る登山道と比べれば、周りの灌木帯の斜面では、表面はパリッと薄く凍っていたが、その下はサラサラの雪だったのだ。
つまり、あの全面アイスバーンは、様々な要因が絡んだ、ある意味で言えばきわめて珍しい現象でもあったのだ。)