1月27日
この冬は、東北、北陸、山陰の日本海側では、平年よりも雪が多くて大変だというのに、私のいる九州の山間部では、雪が少ないのだ。
いつもなら、何度かは10~20㎝の雪が積もって、もう二三回は雪かきしているところなのだが。
もちろん、今までに何日も雪の日はあったのだが、いつもうっすら積もっただけですぐに消えてしまい、ただ一度だけ、それもほんの数cmの雪をホウキで掃いたことがあるだけだ。
雪が少ないのは、それだけ暖かいということだし、雪かきしなくていいし、クルマで走るにもラクだし、普通の人ならそう思うだろうが、どっこい、このへそまがりオヤジには、そううれしいことばかりでもないのだ。
雪かきをしなくていいから、ただでさえ食っちゃ寝のぐうたらオヤジが、ひたすらにだらしなく太っていくだけになるのだ。
あの北海道で冬を過ごした時には、50㎝~1mも積もった雪のために、ただ一人、雪スコップ一丁で数時間かかって、50mほどもある表の道までを、汗だくになって雪はね(雪かき)していたのに。
それなのに今、寒い寒いと石油ストーヴの前から離れずに、テレビのお笑い番組を見ては一人、ニヒニヒと薄笑いを浮かべている、ヨレヨレジジイの情けなさ。
あの”いにしえ”の清少納言(せいしょうなごん)が見たならば、こう言ったことだろう。
「おそろしげなるもの。歳ふりたる男のひとりずまい。あかじみたる衣。ひげのばしたる顔。髪すくなき男の洗いてほすほど。」
(参照:『枕草子』第一四七段より 日本古典文学大系 岩波書店)
これではいけない。雪が積もらなければ、体はなまるし、雪景色も見られないし、そうだ山へ行こう。
そこで、雪の九重(くじゅう)へ行ってきた、それも二日続けて。
今年は山の雪も少なく、まして雪の後の晴れの日が少なかったので、雪山に行きそびれていたし、しかも行った時には前々回に書いた由布岳(1月13日の項)の時のように、厳しい条件下になってしまっていたのだ。
しかし、九州の雪山を楽しむためには、天気が快晴の日になるまで待ってはいられない。
それはすぐに雪が溶けてしまうからで、その前に、雪が降ったすぐ後のまだきれいな雪景色が見られる時に、山に行くしかないのだ。
数日前のこと、数センチの雪が積もった日の朝に、私はいくつかの九重のライブカメラを見ながら、しばらくは天気の回復を待っていたのだが、そうした焦る思いもあって、じりじりとしてついに我慢できずに、晴れた日にしか登らないという私自身の取り決めを破って、雲が多い空のもと家を出たのだ。
道路はほとんどが圧雪状態で一部アイスバーンだったが、もう日が高くなっていて、日向では溶けだしている所もあった。
いつもの牧ノ戸峠(1330m)の駐車場には、曇り空で時々日が当たるくらいの天気なのに、さらにはこれほどの雪があるのに、すでに20数台ほどの車が停まっていた。みんな雪山が好きなのだ。
この峠付近ではまだマイナス5度位まで冷え込んでいて、おかげで積もっている雪は粉状のサラサラ雪で、歩きやすく踏み固められていた。
何より、この沓掛山(1503m)に至る遊歩道の両側の、余り背の高くないノリウツギなどに、びっしりとついた白い樹氷の並木が見事だった。
ただ惜しむらくは、曇り空のこの天気だ。もし快晴の空が広がっていれば、見上げる青空と織りなす白い樹氷の枝が、どれほどきれいなことか、おそらく私は何度も立ち止りカメラを構えたことだろう。
それでも今、こうして白い樹氷並木を見られただけでもありがたいことなのだ。もう11時に近い時間だというのに。
遅く家を出たのも、もう一つ私には考えがあって、つまり天気図からいっても、冬型がゆるんで西から高気圧が張り出してきているから、天気が良くなるだろうことは確かだし、それならば、去年もそうであったように(’13.1.19,2.20の項参照)、しばらく山にいて、夕日の時間まで待とうと思っていたからでもある。
日の入りは今は5時過ぎだから、まだ6時間ほどもあるのだが。
とはいっても、今この曇り空の下でも、左右の雪景色を見ながら、いつもの縦走コースを歩いて行くのは楽しい気分だった。
そして途中の、鍋谷(なべだに)を見下ろすコルのあたりでは、その樹氷の木々の集まりが、その昔母と見た、あの吉野の山の山桜を思わせるほどに見事だった。(写真上)
しかし曇り空の勢いは増してきて、西の方からは低い重たい感じの雲が近づいてきていた。
これでは、そう簡単に天気が良くなるとも思えない。とりあえず、一番近い所にある扇ヶ鼻(1698m)に登ることにした。
ありがたいことに、先行者のトレースがついていて、斜面の雪はひざぐらいまであって、そのうえスパッツもつけてこなかったからなおのことだ。
さらに、稜線にかけて西風が強くなり、寒さが一気に押し寄せてきた。
しかし登る途中では、シュカブラなどの雪が作る造形模様が見事だった。これを見たいがために、雪山に行くのだ。
一瞬青空がのぞき、日の光が走った。私はあわてて、カメラのシャッターを押した。(写真)
後で家に帰って、その時の写真を大きな画面で見てみると、カメラの絞りとピントの範囲が十分ではなかった。
思えば、私の山の写真はこうしたものが多いのだ。
つまり、その地点にとどまって、三脚にカメラを据えてシャッターチャンスを待ち、目の前の光景を意図したとおりの作品に仕上げるという心構えなどなくて、いつも歩いている時にふと目にした光景に心ひかれて、その場に立ち止り、手持ちのままシャッターを押しているという場合が殆どなのだ。
だから、数十年も撮っている山の写真だが、大きく引き伸ばしてよく見れば、多くの場合ブレてピントが甘くなっているのだ。
まるで私の人生がそうであったように、今までいつもブレた写真を撮ってきたのだ。
さらに始末に負えないのは、そうしたブレている写真を承知の上で、なおも改めることなく、十年一日のごとくに、ピントの甘い下手な写真を撮り続けていることだ。
それには、私に初めから写真芸術家としての素質も意識もないことに加えて、ある場所にとどまって一作品を作り上げるよりは、まだまだ先に幾つもあるだろう、見事な山の光景を、貪欲(どんよく)に見て回りたいという思いがあるからだ。ただこんな所にずっといて、山での貴重な時間を失いたくないというだけのことで。
つまり私は、根っからの貧乏人体質なのだ。せっかく来たのに一つだけでは物足りないと思い、まだ他にもあるからとあわてふためく、ケチな根性がしみついているのかも知れない。
前回、いくつかのテレビ番組を少し批判した時に、余りにもいろいろな話題を入れすぎて、一番訴えたい大事なことまでもがわきにやられてしまい、番組の品質を落とすことにもなりかねない、などと言ったりしたのだが、恥ずかしいかな、それはそっくり私の人生そのものにも言えることなのだ、写真を撮る時だけではなくて。
いつもその時の感情のままに刹那(せつな)的に動いて、当然のごとくに何の成果も得られずに、それでも飽きることなく同じことを繰り返す・・・あの浪花節(なにわぶし)「森の石松」の一節とおなじように、”バカは死ななきゃ治らない~”とくらぁ。
ところで、前回書ききれなかった、年末からこの1月にかけて見たテレビ番組について、ついでにここで触れておきたい。
一つは、BS朝日の『滝川クリステルのフィレンツェ紀行』であり、そのサブタイトル”ダ・ヴィンチの謎”にひかれて、絵画ファンとしては見ておきたいと思ったのだが、他にもあの”おもてなし”の彼女の美しい容姿をも楽しみたいという、下心も少しはあったのだが。
結果、上に書いたように、この番組には余りにもいろいろなことが詰め込まれていて、つまりフィレンツェの町案内なのか、土産物案内なのか、食べ物料理案内なのか、ダ・ヴィンチの生涯と絵画についてなのか、すべてが中途半端で、最後のダ・ヴィンチの新発見の絵さえなんとも怪しげな話で、むしろこんな番組を見なければよかったのに、と思ったほどだった。
それに引き替え、おなじBS朝日の『世界の名画』シリーズでの特別編「幻惑のフェルメール・ミステリー」、これは良かった。2時間もの間、退屈することはなかった。
もともと、この番組の美術監修者の脚本とナレーター要潤(かなめじゅん)の語り口がいいこともあって、何度も録画しているほどなのだが、今回は私の好きなフェルメールということもあって、しかし今までそのフェルメールの番組は散々見てきたのに、何度総括して見てもいいものであり、ともかく安心して見ることができた番組だった。
実は、こうしたドキュメンタリー番組では、ナレーターの役割は重要であり、NHK・BSの『遥かなるアルゼンチン・タンゴ』では、これは再放送だったのだが(10年も前、私はまだハイビジョンを見るテレビを持っていなかったからなのだが)、ナレーターをつとめた杉本るみの、都会的な感じの、落ち着いた大人の女の声が小気味よかった。
と同時に、アルゼンチン・タンゴのペアの踊りの見事さ・・・ブエノスアイレスの街の、夜の路地の石畳の上で、タンゴのリズムの乗って踊る若い二人・・・。(何の説明もつけずに、カメラだけが二人を追う。)
ああ、もし私に映画監督の才能があったならば、ここで一つの短編映画を作れただろうに・・・。
このタンゴについては、前にポルトガルのファドについて書いた時にも少しふれたように(’13.12.23の項参照)、他にシャンソン、カンツォーネ、フラメンコなどとともに私の好きな世界の民衆歌謡であり、若いころに東京で雑誌編集者として働いていた時には、ヨーロッパのコンチネンタル・タンゴとともに、このアルゼンチン・タンゴの名曲も数多く聞いていて、久しぶりに出会えたようななつかしさだった。
さて、話がすっかり飛んでしまったが、元の山の話に戻ろう。
吹きすさぶ地吹雪の中、扇ヶ鼻本峰へは行かずに手前の前峰の方へ向かい、そこから九重主峰群を眺めたのだが、曇り空の下では精彩がないし、そのうえついに雲が低く垂れこめてきて、周りの山々の頂きも見えなくなってしまった。
それでも、西の空に青空が少しでもあればと思ったのだが、重たい暗い雲が広がっているだけで、これではもうあきらめて戻るしかなかった。
手足ともに寒さでじんじんとしていたが、風も弱い縦走路に戻って行く途中からは、もうポカポカと温かくなってきた。
あの由布岳の時の指先は、やはり異常な感覚だったのだ。(1月13日の項)
これでは夕映えの山の姿も期待できない。わずか4時間の山歩きで、駐車場に戻り、すっかり雪の溶けた道路をクルマで走って家に戻った。
ところがである。夕方のニュース天気予報を見ると、なんと明日は全九州的に、お日様マークだらけなのだ。
そして、翌日の朝になると、確かに快晴の空が広がっていた。
これでは、山に行くしかないでしょ。(こんなことができるのも、ヒマな年寄りで、そして九重に近い所に住んでいるからなのだが。お仕事なさっているみなさんごめんなさい。)
それでも山が好き。・・・あふりか象が好き!八丈島のきょん!(昔の漫画『がきデカ』こまわり君の意味のない感嘆詞。)
牧ノ戸峠の駐車場には、8時過ぎなのにもう40台余りのクルマが停まっていた。みんな待ちかねていたのだ。(帰る時には満杯の100台くらいはあっただろうか。)
ただし、昨日あれほどきれいだった樹氷の白い枝は、もうほとんどが落ちて枯れ枝色のままになっていた。
それでも何と言っても、快晴の空だ。白い山の姿が、青空に映えている。
『あまちゃん』の、きょんきょん!・・・(これも意味のない、私の感嘆詞。)
昨日の扇ヶ鼻にも未練はあったが、なんといっても雪の九重で私の一番好きなコース、南尾根経由の星生山(ほっしょうざん、1762m)、そして岩稜がある東尾根通しで星生崎へと至る、プチ・アルパインルートである。
(とはいっても、かなりの降雪と岩がすべて凍りつくほどの寒波に襲われた時でないと、とてもアルパインルートとは言えない短い縦走路なのだが、毎年一度は通るコースだ。’12.2.20の項参照)
そこで、久住山(1787m)や中岳(1791m)へのメイン縦走路から離れて、左に星生南尾根へと取りついて行く。
昨日の足跡とさらには今日も一人の足跡がついているから、幾らかは楽だが、やはりできれば足跡のない雪が積もったままの上を歩いて行きたい。
灌木帯(かんぼくたい)を抜けると、周囲の山々への展望が開けてくる。
そして吹きさらしの南西斜面になる。ここから頂上まで、シュカブラや風紋など雪の造形を楽しめる所だ。
風は少しあるが、それほど寒いわけではない。
頭上の一面の青空、周りの白雪の山々・・・他に何を言うことがあろう。
途中で何度もカメラを構えながら立ち止まり、星生山の頂上に着いた。
いつもは今の時期、余り人には出会わないのだが、今日は数人の人たちが頂上にいた。
南の方には、今登ってきた南尾根の先に扇ヶ鼻が長く続き、その右手遠くには雲仙も見えている。左手に見える久住本峰にかけての間には、阿蘇山(1592m)、祖母山(1756m)、遠く九州脊梁(せきりょう)山地の国見岳(1739m)なども見えている。さらに西へ、久住山から稲星(1774m)、中岳、天狗(1780m)と群れ集まり、離れてミヤマキリシマなどの灌木帯に覆われた大船(1786m)、平治(1643m)とつながり、北側には硫黄山の噴煙の向こうに三俣山(1745m)、その後ろ遠くには、特徴的な双耳峰の由布岳(1583m)も見えている。
そこで、尾根が続く先の久住山の写真を撮った。何度撮ってもあきることのない眺めだ。(写真)
一休みした後、アイゼンをつけてその岩稜帯をたどって行くが、それほど凍りついてはいなかった。
途中なだらかな尾根になり、心おきなく広大な眺めを楽しむことができる。(写真下、肥前ヶ城越しに煙たなびく阿蘇山)
そして星生崎からは、途中から縦走路へと降りる道があるのだが、今はトレースもなく、急斜面のひざ上までもある雪をラッセルして行くのがイヤだったから、仕方なくトレースがつけられた久住別れまで下りて、そこから登り返して星生崎下に上がり、あとは西千里浜から久住山の姿を振り返り見ながら、ひたすら歩いて、牧ノ戸峠の駐車場に戻った。
今日は5時間余りの雪山トレッキングで、二日間合わせて、合わせ技一本という冬山歩きだった。
できればこんな天気のいい日には、夕日のころまで居たかったのだが、夕方前には些細な用事が一つあって、家に戻らなければならなかったのだ。
一日目は、雪が降ったすぐ後の山の姿をと焦ってしまい、十分に楽しめなかったのだが、二日目はその分を取り返そうとまたも出かけて行って、青空と雪山の姿を心おきなく見ることができたのだ。
前回書いた”幸福論”について、あのアランが言っていた言葉を思い出していた。
「幸福になろうと欲しないならば、幸福になることは不可能だということである。それゆえ、自分の幸福を欲し、それをつくらなければならない。」
(『幸福論』アラン、白井健三郎訳 集英社文庫)
私は、雪の山を歩いたその日はもちろんのこと、次の日も、その次の日も、何かをやり遂げたような小さな満足感に満たされていて、何か心うれしく、その時の思い出がまだ私の頭の中に鮮やかに残っていて、その小さな幸せの中にいたのだ・・・。