1月20日
今から、もう10年近くも前のことになる。
一緒に暮らしていた母が亡くなって、私は九州の家を離れて、北海道の家で2シーズン冬を越した。
その時に、何度か厳冬期の日高山脈の山に登った。
上の写真は、その時の山行の一つであり、1月の中旬、野塚岳(1353m)への冬季ルートである北尾根途中からの眺めである。
左側から楽古岳(1472m)、中央に十勝岳(1457m)、その右にオムシャヌプリ東峰(1363m)と続いている。
この時登ろうと思ったのは、もう何度も登っている野塚岳ではなく、その北尾根の分岐点(1147m)から、さらに北に伸びていく尾根の先にある、1225m標高点のピークだった。
しかし、上の写真を撮ったその分岐点に着いたのは、もう12時半を過ぎていた。
朝にはなかった雲が、主稜線上の山々の上に出てきていたし、何よりこの北に続く尾根の先にある1225mのピークまでは、まだ長い下りと登り返しがあり、それも凍った雪の上にサラサラの深い雪が積もった、トレースもない尾根をたどることになるのだ。
その長いラッセルを考えて、私はあきらめることにした。(この1225mピークにはその後登ることになる。’11.5.7の項)
ともかく朝家を出るのが遅かったのだ。
朝の気温は-12度位で、その時期としてはそれほど冷え込んでもいなかったのだが、さすがに野塚トンネルわきの駐車場付近(600m)は、全面磨かれたアイスバーンになっていた。
すぐに始まる北尾根の登りでは、急斜面のためにあまりスノーシューは役に立たずに、途中からアイゼンに付け替えて登って行ったのだが、雪がやわらかく下は凍っていて、足場が定まらず登りにくい。
年始年末には何人か登った人もいたのだろうが、今はその足跡もほとんど消えていて、ひとりでラッセルをしながら登って行くしかないのだ。
ただ天気は良くて、もちろん誰もいないし、遠く風の音だけが聞こえていた。
途中で、何度も雪の上に座り込んで休んだが、枝を伸ばした木々の間から、青空を背景にした山々の姿がよく見えていた。
何よりも、その静かな雪の尾根にひとりでいることが心地よく、何か大きなものに包まれているような気がして、思わずうとうととしたくなるほどだった。
そんな調子だから、普通なら2時間ほどしかからない1147m分岐点までに、3時間もかかってしまったのだ。
しかし、目的のピークまでは行けなくても、この展望の良い分岐点まででも、私は十分に満足していた。
ひとり山々を眺めながら、ゆっくりと休んだ後、下りていくことにした。
いつの間にか、山脈の山々の上には雲が大きく広がってきていて、トヨニ岳(1493m、本峰1529m)が最後の光を受けていた。(写真下)
この時の山行は、目的の山にたどり着けなかった失敗登山かもしれないが、私の心の中では、他の頂上まで登った時と同じように、美しい山々を眺めることのできた思い出として残っているのだ。
あの幸せなひとときとして・・・。
ところで、年末からこの新年にかけて、テレビでは様々な特別番組が放送されていて、その幾つかを録画して、まだ全部は見終わってていないのだが、当然のことだが、それぞれに良し悪しがあった。
オペラでは、恒例のミラノ・スカラ座のもので、バレンボイム指揮のワーグナーの二本、あの亡くなったパトリス・シェローが演出した舞台でワルトラウト・マイヤーが歌っている『トリスタンとイゾルデ』に『神々の黄昏(たそがれ)』という重量級の二本の楽劇があった。
しかし、この年寄りには胃がもたれそうでまだ見ていないのだが、正直に言えば、それはオペラの時にいつも書いているように、現代劇ふうに演出された舞台を見ることに、なかなか食指がわかないからでもある。
となると、残りの二本のヴェルディのオペラはどうしても見なければならない。
それはいずれも、さすがに手慣れたダニエレ・ガッティ指揮による、『ナブッコ』と『椿姫』であり、前者はいまだに元気なあのレオ・ヌッチが歌い、演出はあの名指揮者クラウディオ・アバドの息子であるダニエレ・アバドというだけでも興味がわく。
そして、確かにヴェルディのオペラの楽しさは十分に伝えてくれたのだが、やはりレオ・ヌッチの声の衰えは隠すべくもないのだ。
もう一つの『椿姫』のほうも、過去に幾多の名演があり、それをあのダムラウが歌い、それもまだ2週間位しかたっていないスカラ座公演のものをと、楽しみにしていたのだが、彼女の明るい容姿や歌声には、悲劇のヒロイン、ヴィオレッタを歌うには、やはり少し違和感を感じてしまうのだが。
それぞれ、それなりに面白くはあったのだが、どうしても年寄りになると、いろいろと知っている分、辛口になってしまうのだろうか。
次は、日本の歌芝居、歌舞伎の放送から、まずは暮れの京都南座顔見世大歌舞伎、襲名披露(しゅうめいひろう)の演目から、『元禄忠臣蔵』「御浜御殿綱豊卿(おはまごてんつなとよきょう)の場」から。
私の好きな役者の一人である中村梅玉(ばいぎょく、’10.3.27の項参照)の綱豊卿は、さすがに見事な落ち着きと品があり、いつものことながら安心して見られるのだが、それに引きかえ、相手役助右衛門の市川中車の所作口跡(しょさこうせき)がいささか、場違いに感じられてしまうのだ。
他の出演者たち、我富や孝太郎、時蔵と比べても、異彩を放つ現代的な演技ではあったのだが。
あの高視聴率ドラマ『半沢直樹』での熱演ぶりをあげるまでもなく、俳優香川照之としての演技力の確かさは誰も疑うところがないほどだが、歌舞伎役者としては、こんな形で舞台に上がれるのかと疑問に感じないわけにはいかないのだ。
幼いころから、踊りやセリフ回しの修行を積んで、飽くことなく自分の役者としての型を求め修練し続けて、生涯、歌舞伎役者であり続けるような人々の間で、いかに現代劇での舞台での名俳優とはいえ、幼いころからの歌舞伎の素養があるわけでもない男が、父親(猿翁、えんおう)の威光のもと、伝統ある名跡(みょうせき)をいとも簡単に継いでしまうとは・・・。
先代の、あの市川中車の確かな芸風を思い出してしまうのだ・・・。
今の歌舞伎界の大名跡が、親から子に継がれていくのは、もっともなことであり、何の異論もないのだが、今度の襲名披露の場合は基本的な歌舞伎役者としての問題であり、日本の歌舞伎を愛するものとしては、あえて苦言を呈したくもなるのだ。
もし彼が、これからも歌舞伎界でやっていく気なら、その数十年の遅れを取り返すべく、他の俳優仕事のすべてをやめて、歌舞伎修行に励んでほしいと思うし、しかし、得難い味のある俳優香川照之も捨てがたい。
それならば、再び俳優に戻って、日本の演劇界でのさらに存在感のある俳優を目指してほしいとも思うのだが・・・。
話は飛ぶが、わが北海道日本ハム・ファイターズの大谷翔平の場合、投手、打者としての二刀流は、私の思いからすれば、早くどちらか一本に絞って、そのポジションだけで励んでくれたらと思う。
”二兎を追うものは一兎を得ず”のたとえ通り、年寄りになった今だから、私自身も心に思い当たるふしがあるのだが・・・。
さてそれ以外の歌舞伎では、同じ襲名披露の『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』から。市川猿之助演じるあの狐忠信(きつねただのぶ)で有名な「川連法眼舘(かわづれほうがんやかた)の場」も、さすがに亀治郎の時から芸達者な若手の一人と言われていた通りに、見事に先代猿之助のあたり役をこなしていたが、欲を言えば、もう少し親狐を慕う子狐の悲しみを出してほしかったと思う。
(これまた余談だが、役者は誰だったか忘れたが、この場面で私が思わず涙したこともあったぐらいだから。)
他に同じ南座から、『児雷也(じらいや)』。
私が子供のころには、まだ江戸時代の香りを残した時代劇マンガ本がかろうじて残っていて、子供心にも、大きなガマの上に乗って印を結ぶ(石川五右衛門のような)児雷也の姿を、いまだに覚えている。
だから歌舞伎でも、こうした筋書などはたいして重要ではない、ただ見せるための絵姿としての芝居があってもいいのだと思う。
中村梅玉、尾上松緑(しょうろく)、片岡愛之助さらに市川笑也(えみや)と並んだ、見えを切った立ち姿の素晴らしさ・・・それはまさに、鮮やかな浮世絵の世界、錦絵の世界だったのだ。(写真)
こうした立ち姿に、その昔、江戸時代の小屋掛けの中の座席のあちこちからからも、声がかかったことだろう。
そしてその中にいる、髪の毛の少なくなったまげを結い、むさくるしい顔をした隠居じじいの私も、きっと声をかけていることだろう・・・。
「いよっー、高砂屋・・・いよっー、音羽屋。」
さらには正月二日の日に、歌舞伎座他からの初芝居中継があって、それぞれの演目をちらりと見ることができたが、あの作家、井上ひさし原作による『東慶寺(とうけいじ)花だより』が、歌舞伎の脚本として書き上げられて、市川染五郎らによるその初披露の舞台が中継されていて、なかなかに興味深かった。
もちろんそこには、踊りや見えといった歌舞伎の所作はないのだが、舞台も役者のセリフ回しも、確かに歌舞伎のものであり、かつてもう一つの歌舞伎劇団である前進座がシリーズにして好評だった、山本周五郎の時代劇人情話の現代風舞台劇とはまた違った、歌舞伎らしい舞台だったのだ。
他にも、あちこちの劇場からさわりのシーンが見られたが、玉三郎は相変わらずきれいだし、海老蔵はいつもエネルギーにあふれているし、団十郎や勘三郎を失っても、これからも変わらずに歌舞伎界が続いていくことを願わずにはいられない、年の初めだった。
さてテレビで放送された舞台の話で、オペラ、歌舞伎とすっかり長くなってしまったが、本題に入ろう。
上で書いように、雪山で自分だけのひと時の幸せを感じたのだが、実は取り上げたいのはその”幸福”についてである。
というのも、この年始年末の番組の中で、もっとも私が引き込まれた番組が二本あったのだが、その一本が、前にもふれたことがあるNHK・Eテレで放送されている『100分de(で)名著』シリーズの、今回は別に特別編として作られた、『100分de(で)もっと幸福論』である。
それまでに、すでにあのアランの『幸福論』が4回にわたって放送されていたのだが、それとは別に、特別番組ということで各界の先生たち四人が集まって、それぞれの分野からの一冊をあげて”幸福”について語るという構成になっていた。
そこでまず作家の先生は、井原西鶴の『好色一代男』と『好色一代女』をあげ、経済学者の先生はアダムス・スミスの『国富論』をあげ、さらに哲学ではヘーゲルの『精神現象学』を、心理学ではフロイトの『精神分析入門』をあげて説明していたが、司会者の結論としての”幸福とは”という問いに答えて、それぞれに”断念したあとの悟り””ひとの痛みをわかること””ほんとうを確かめあうこと””愛する人の幸福を願うこと”という言葉を書いて見せていた。
さらに最後に、四人の先生たちは、一人一人が書いた言葉は違うけれども、意味するところは同じだと結論づけていたのだが・・・。
番組の構成はともかく、この番組を通じて前から気になっているのは、大声をあげて話すタレントと、これまたいかにもNHKバラエティー風に、盛り上げようとするアナウンサーの二人が、少しうるさく感じらるのが残念だった。
できるならあの上品で落ち着いた森田美由紀アナウンサーか、せめてあのNHKの歴史ものの対談司会をやっていた、元民放の渡辺真理アナウンサーぐらいにしてもらいたかったのだが。
私たちが聞きたいのは、タレントの声を張りあげての話よりは、先生たちのそれぞれの話だけなのだから。
何でもわかりやすく、バラエティー化しようとする意図が、実は番組の品質を下げてしまうことにもなるのだ。
それは、同じNHK・BS『グレートネイチャー奇跡の絶景』でも、出演者たちタレントの顔をしきりに出したり、彼らがその場にいるかのような画面上の小細工をしてみたり、私たちが見たいのは、タレントたちの驚き喜ぶ顔ではなく、画面から伝わる圧倒的な自然の姿だけなのに。
この番組も録画しておいたのに最初のほうを見ただけで、すぐに消去してしまったほどだ。
またも話がそれたけれども、ともかくこの番組では、先生たちがそれぞれの分野で説明する”幸福”についてのとらえ方が、例えて言えば、様々な側面から光を当てられた”幸福”の姿が見えてきて、実に面白かった。
もっとも、100分という時間では、時間が短すぎて十分な対談にはならなかったし、さらに根本的なことを言わせてもらえれば、”幸福論”というテーマ自体があまりにも大きすぎるし、そんなテーマのまとめとして、最後に画一論的に結論づけされたのが少し残念ではあったのだが、・・・。
私たちの世代は、多分に戦後ニヒリズムの影響を受けて育ってきたから、若い時にはとても”幸福”などという言葉を、口に出したり、討論の俎上(そじょう)にあげることさえためらわれたのだが、こうして年を取ってきた今、様々な経験を経てきて、自分の人生を形作ってきた一因として、どこか懐かしい思いで、”幸福”というテーマを振り返り考えてみたくなったのだ。
ただ言えることは、今幸せな人は、まず”幸福論”などを考えることもないだろうし、今不幸のどん底にいる人は”幸福論”なんて考える気にもならないだろう。
つまり、”幸福”について考えるのは、今ほんの少しだけ幸せな人たちと、今ちょっぴり不幸せだと思っている人たちだけである。
まして、彼らの幸せは、上の先生たちがあげたような、対人関係だけの思いにあるというわけでもないのだろうし。
つまりそれは、ひとりでいることに幸せを感じる場合もあるし、たとえば猫をかわいがるときに幸せを感じることもあるし、また猫も幸せを感じているのかもしれないし、さらには、自然界に生きる動植物たちの最大の幸せは、自分たちに害悪を及ぼす人類がこの地球上からいなくなることかもしれないし。
”幸福”とは、ひとりだけの思いなのか、それとも対人関係としての思いなのか、あるいは対集団に対してなのか、さらには集団対集団に対する思いなのか。
それは、それぞれの立場において考えなければならないのだろうが、私にはその問題に対応できるだけの知識も能力もない。
かろうじて分かるのは、自分が居心地良く思う空間にいる時に感じる、ほのかな幸せだけである。
と言って、私が他人に、対集団に薄情というのではない。同情すること、それは人間である限り誰もが持っている感情であり、思いであるからだ。
「こうして同情とは、私たち人類全体にばかりでなく、すべての生けるものたちへ、あるいは少なくともすべての苦しんでいるものへと開く特殊な徳なのだ。」
(『ささやかながら徳について』アンドレ・コント=スポンヴィル著 中村昇他訳 紀伊國屋書店)
つまり、そう考えてくると、人々を前に見えを切った博愛や慈善の行為だけが尊ばれるのではなく、まずは自らが幸せであることが何よりも必要ではないかと、先にあげた『幸福論』の著者、アランは言っているのだ。
「私が考えているこの幸福となる方法のうちに、悪い天気をうまく使う方法についての有益な忠告を加えておこう。・・・雨が降っている。・・・あなたが不平を言ったからと言ってどうともなるものではない。・・・ところが雨降りの時こそ、晴れ晴れとした顔が見たいものだ。それゆえ、悪い天気の時には、いい顔をするものだ。
・・・幸福になろうと欲しないならば、幸福になることは不可能だということである。それゆえ、自分の幸福を欲し、それを作らなければならない。
悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。・・・最後に念のため、あらゆる物悲しい考えを欺瞞(ぎまん)的なものとみなさなければならない。私たちは何もしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸を作ることになるから、ぜひともそうしなければならない。」
(『幸福論』アラン著 白井健三郎訳 集英社文庫)
以上、誰のためにでもない、自分のための励ましの言葉でもあるのだが。
この”幸福論”については、今までにも何度も書いてきたのだが(’12.5.13、’11.11.27の項参照)、まだまだ書くべきことはいろいろとあるし、この一カ月余りに見たその他の番組についてももう少し書きたかったのだが、一日でここに書く量としては、もう私の限界を超えているから、このあたりで終わりにしたい。
もっともこうして、物事の表層だけを考えて、すべてをすませた気分になるから、私の話はいつでもまとまりのない結論の出ない、まるで私の人生そのもののような答えになるのかもしれない。
「クッククーク、クッククーク。わたしの青い鳥・・・。」