ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

記憶、その遠ざかりゆくもの

2014-01-06 18:39:45 | Weblog
 

 1月6日

 なんという、暖かい正月だったことだろう。
 前回書いたように、年末まではあれほど寒かったのに、一転、天気の良い暖かい日が数日も続いたのだ。
 おかげで昼間は、石油ストーヴを消していることができた。
 気温は春先の3月頃と変わらない、10度を超えるくらいにまで上がり、日差しがいっぱいだったので、洗濯や布団干しが何度もできたのだ。

 かといって、混雑する街中に出かけるのはイヤだから、いつものようにずっと家にいた。
 そして少し体を動かしたくなると、家の周りを散歩した。
 いつもは20分ぐらいなのだが、時には山道を30分余りも登っては、往復1時間くらいの、すっかり体が汗ばんでしまうほどのいい運動になった。
 
 まだ枯葉がついたままの、コナラやカシワの林の向こうには、穏やかな山が続いていて、その上には青空にいく筋かの雲が浮かんでいた。(写真上)
 しかし立ち止まって、その写真のような光景を見ていると、実は雲は意外に早く、西から東のほうへと動いているのだった。
 一瞬、目をやるごとに、それぞれのワン・カットとして眺められる風景が、実は1秒たりともとどまることなく、動き変わっているものなのだ。
 さらに、微動だにしない大地の上に立ってそれらの景色を見ている私が、実はその大地ごと地球ごとに自転しながら、動き続けているというわけなのだが・・・。

 そうしてまた新たな年を迎えては、あの松尾芭蕉(ばしょう)の、余りにも有名な『おくのほそ道』の序文の言葉が思い起こされる。

 「月日は百代の過客(かかく)にして、行かふ年も又旅人也。」

 このところ、時間や記憶について、何かと気になっている私だが、自分の思い出をたどることによって、あの時にそこにいたはずの自分に会えるような気がしているのだ。
 それは、単なる”昔は良かった”ふうな、若い時への青春賛歌ではなくて、確かにそのころの行動力には今にして驚くところもあるのだが、むしろそれらのこと以上に、当時の自分勝手でわがままで恥知らずで生意気だったかもしれない、若き日の自分を、今になって冷静な眼差しで見直すためでもあるのだ。
 あのころは、ただ自分の思い込みだけに酔っていたのだ。何という青臭い若者だったことだろうか、あの時の私は・・・。

 というのもこの正月の間、私はずっと家にいて、幾つかのテレビ番組を見たり、買ってきていたクラッシック音楽CDを聴いてみたり、毎年の1月号だけを買っている雑誌を読んだり、デジタル写真の整理をしたりして、つまりいつもと変わらない毎日を過ごしただけのことなのだが。
 (1月号だけを買うのは、どうしても欲しい付録がついているからだ。『アサヒカメラ』(岩合光昭の”猫にまた旅”カレンダー)、『山と渓谷』(山の便利帳)、『レコード芸術』(レコード・イヤーブック)。

 さて、そのパソコンでの写真の整理の時に、前にも書いたように、私には膨大(ぼうだい)な量の、単なる自分だけの記録用のフィルム写真があり、最近ではその中でも、とりあえず中判カメラや35ミリ・カメラで撮ったポジ(スライド)・フィルムだけでも、デジタル化しておこうと、時々思いたってはそれらのフィルム・スキャンに取り組んでいるのだ。
 そして、北海道の山々のフィルムに取り掛かっていたのだが、この冬に残りを終わらせてしまおうと思っていたのに、うっかり忘れて北海道の家に置いてきてしまったのだ。あちゃー。
 
 そこで気がついたのは、この九州の家に保管していた、若いころに行った海外旅行のフィルムである。
 前回少し書いた、あのヨーロッパ旅行だけでなく、その10年ほど前に行ったオーストラリア旅行での、写真フィルムがごっそり(数十本約1500コマにも及ぶポジ・スライドと約20本の白黒ネガ)とあって、それらは出版用にスライド用にと撮っていたので、ほとんどはプリントせずにいたものだった。
 
 いつかは、書き留めておいた日記記録とともに、自分のためにきちんとまとめておかねばと思っていたものなのだが、昔からのぐうたらな性格と、最近のより深みにはまった山行写真のために、すっかり後回しになっていたものである。
 しかしよく考えてみれば、あのオーストラリアこそは、その後の私のさまざまな冒険的な、後先考えない無茶な行動の原点になったものであり、そろそろ自分の人生の幕引きを考えなければならない年に近づいてきた今、多分に自らに気恥ずかしくもあるが、生意気盛りの若い私がたどった道のりを、少しずつ思い出しながらたどってみるべきだと、まずはこのフィルム・スキャンに取り掛かることにしたのだ。

 この1週間ほど、半ば面白くなって長い時間をかけて作業整理してきたおかげで、ポジフィルムの5分の1ほどをスキャンし終えた。
 これならこの冬の間に、何とか全部終わって写真だけはまとめあげることができるかもしれない。

 そして、気づいたことが一つある。
 スキャンして、パソコン画面に表れてくる画像は、意外に新鮮で初めて見るような感じさえするのだが、それはつまり写真の一枚一枚の場面を、よくは憶えていないということなのだ。
 さらにじっと詳しく見ていると、かすかながらその時の思い出がよみがえってくるものもあれば、まったくなぜこんな写真を撮ったのだろうと思うものまである。
 
 つまりその写真が、雑誌に載ったり、あるいは何枚かを自分用に引き伸ばしてプリントしたものなどは、その前後のことなども含めてはっきりと憶えているのだが、多くの写真には、私の記憶が残っていないのだ。
 それは、前にも経験がある。
 高校生の頃に登った山の写真を見た時も、同じように多くの場面を覚えていなかったのだ。
(だからいくらその山の登頂経験があるといっても、数十年もたっていれば、記憶が薄れていてあまり意味がない。つまり登りなおすべきなのだろうが。)
 
 しかし、その写真から幾つかの記憶が引き出せたとすれば、それはまさにその写真を見たためであって、見ていなければ、さらに私の記憶は薄まってしまい、いつしかは完全に私の頭の中から消え去ってしまうものなのだろう。

 ネット上のウィキペディアで調べてみると、”記憶の過程”は”記銘、保持、想起(再生、再認、再構成)、忘却”という形をとっていき、最後の”忘却”は、”減衰(げんすい)”や”干渉”によるとされている。
 なるほどそれで、私のオーストラリア旅行での記憶の度合いがわかるというものだ。
 しかし、前にも書いたことがあるのだが、わからないこともある。

 セピア色に変色した一枚の白黒写真がある。
 まだ若い母に抱かれた、子供のころ私の写真だ。
 おむつをしているところから見ても、1歳になるかならぬかのころだろう。
 こちらを見つめるつぶらな瞳がかわいい、自分で言うのもなんだが。
 (今の自分、年寄りのこの鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)のていたらくぶりからは想像もできないほど、つまり子供の時は、みんなかわいいのだ。)

 さて、その子供の私が、手におもちゃを持っている。
 そして、この時のまだ若い母の顔や、自分の着ていた服などはもとより、この写真を撮った所など、当然のことながら何一つ記憶にないのに、あの手にしているゾウのおもちゃのことだけは、いまだにはっきりと憶えているのだ。
 
 それは、木でできたゾウのおもちゃだった。
 足の所が歯車になっていて、前に後ろに動かすことができた。
 そして、ゾウの鼻や耳のところを含めて、体全体は淡い水色に塗られていて、ところどころに桃色のぼかし模様(サクラだったかもしれない)が入っていた。
 そして、そのおもちゃを小学校に上がるくらいまで持っていたことも憶えているのだ。

 「かあさん、ぼくのあのゾウのおもちゃ、どうしたんでしょうね。ええ、あの一緒に写っていた写真の中でぼくが手に握っていたあのゾウのおもちゃですよ。・・・Mama, do you rememmber・・・。」


 さて、話をオーストラリアの旅に戻そう。
 飛行機の乗り換えのために一日を過ごした、香港から始まる私の旅の思い出は、予期せぬ出来事でシドニーにしばらくとどまることになったのだが、ようやく準備万端整えて、いざ北へ(南半球だから暖かい方へ)と向かう日が、本当の私の冒険の旅の始まりとなったのだ。
 ゴールドコーストを経てブリスベーン、さらに北上してタウンズビルへ。
 その途中、海に面した小さな町で、たまたま研修で海に来ていた地元の高校生の一団に取り囲まれた。(写真)

 

 私は全く久しぶりにこの写真を見て、少しだけその時のことを思い出した。
 そう言えば、そういうことがあったと。

 当時、日本でバイクに乗っていた私たちにとっては、トライアンフやノートンやBMWなどはあこがれの外車だったのに、オーストラリアでは、むしろホンダをはじめとしてヤマハ、カワサキなどの日本車が断然の人気であり、中でもホンダのCBナナハン(750㏄)は、私たちが外車にあこがれる以上に、彼らにとっては垂涎の的(すいぜんのまと)であったのだ。
 私が乗っていたのは、オフロードも考えてマフラーの位置を上げたCL350というタイプのバイクだったから、まだオーストラリアでもほとんど見かけたこともないタイプであり、まして日本人がということもあって、バイクに乗りたい盛りの高校生たちに囲まれ質問攻めにあったというわけだ。
 
 憶えているのはそのくらいのことで、町の名前も(日記を見れば書いてあるだろうが)、場所も、ましてや写真を見ても、彼らの顔の一人として憶えていなくて、写真を見て、ああこういう連中だったのかと思ったくらいなのだ。
 そして写真を見ていて、つくづく思ったのだ。

 今では彼らも、いい年のオヤジになっていることだろう。
 そのまま地元に残って、牧場をやっていたりあるいは漁師になったり、またはクルマ屋を経営していたり、果物屋のオヤジになっていたり、もしくは町を離れて、ブリスベーンやシドニーにいたり、さらにはイギリスやアメリカに渡ったり、中にはもう病気や事故で亡くなっていたり・・・さまざまな人生の形があったことだろう。
 そしてもう誰もが、高校生の時にバイクに乗った日本人に会ったことなど憶えてはいないだろう。
 
 もし、この写真を持ってあの町を訪れてみれば、誰かがこの写真の中の一人を知っていて、それからその友達たちの輪は広がっていき、それぞれに誰が今どうしているのか教えてくれるだろう・・・しかし、思うのはそこまでだ。
 自分の思い出のために、遠い昔の一瞬の出会いをそれほどまでに、探り当てる必要があるだろうか。
 思い出はその人だけの思い出のままに、自分のうちだけで、小さく輝いていればいいだけのことだ。
 
 数日前の、新聞の読者投稿欄に、70過ぎの老人が、高校生時代の初恋の同級生に会いたいという思いを綴(つづ)っていた。 
 懐かしく思う気持ちはわからないではないが、会うことでどうなるというのか。
 二人が会っていなかった互いに知らなかった数十年という年月、それらの現実をその場で消し去ることができるというのか。
 多くの場合は、片方だけの思い込みというのが多いのだろうが、例えもし互いがずっと思い合っていたとしても、その二人はいいのかもしれないが、現実に長い間一緒だった互いの連れ合いの立場はどうなるというのだ。
 
 記憶というものは、ことほど左様に人々を戸惑わせることになるのかもしれない。
 もちろん記憶は、多くの場合有意義に使われて、人々の関係を円滑にするものであるし、さらに芸術的に昇華(しょうか)される場合も多いのだが。
 
 ギリシア神話にあるミューズ(ムーサ)の一人に、ムネーモシュネー(ムネモシュネ)と呼ばれる”記憶の女神”がいる。
 彼女はゼウスとの間に、九柱(はしら)のミューズ(女神)を産んだ。
 この娘たちは、歌をつかさどり、また記憶を助けた。

 つまりカリオペーは叙事詩を、クレイオーは歴史を、エウテルペーは抒情詩を、メルポメネーは悲劇を、テルプシコラーは合唱と踊りを、エラトーは恋愛詩を、ポリヒュムニアーは賛歌を、ウラニアーは天文を、そしてタレイアーは喜劇を、それぞれにつかさどっていた。
 (『ギリシア・ローマ神話』トマス・ブルフィンチ 大久保博訳 角川文庫より)

 (余談だが、この中のカリオペやエラートやウラニアなどは、ヨーロッパのレコード・レーベル名に使われている。)
 

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