ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

木曽駒ヶ岳とジュリー

2013-12-30 22:36:38 | Weblog
 

 12月30日

 相変わらず、毎日雪が降る寒い日が続いている。
 とはいえ、積雪量が少ないから、薄く積もる先から溶けていってしまい、日陰に残るだけなのだが、その雪ももう2週間以上もたつのにまだ残っている。
 
 家の中が寒いから、窓や戸にはすきま風を防ぐべくウレタン・テープを貼り、さらにいつものように冬の間は、床下の排気口はふさいでいる。
 そして、少し後ろめたい思いをしながらも(化石燃料を使っているという)、朝から夜寝るまでの間、石油ストーヴはつけたままにしている。
 昔は部屋が温まると、すぐに消していたのだが、年寄りになった今、頭も体も血の巡りが悪くなってきて、家の中で寒いことにはガマンできなくなってきたのだ。
 かといって、小雪が吹きつける寒い中、散歩して回るのは気分がいいし、十分に着込んでいることもあるのだろうがそれほど寒いとも思わないのだ。

 本当は散歩よりは雪の山を歩きたいのだが、年末年始の山の人出の多さを考えると、ついおっくうになって家にいたほうがいいと思ってしまう。
 そこでどうしても、山恋しさのあまり、今までに登った山々の写真を見たり、テレビで山の番組を見たりすることになる。

 そして今は、ありがたいというべきか、山ガールの宣伝効果と名山ツアー人気のためか、久々の”登山ブーム”になっていて、それはテレビ番組からいえば、定期的なものは昔はNHKの「日本百名山」だけだったものが、その後に続く「日本の名峰」を経て、今ではNHKだけでも「にっぽん百名山」と不定期的な海外登山の「グレート・サミッツ」シリーズや「トレッキング」シリーズなどがあり、また民放でもBSフジの「絶景百名山」やBS-TBSの「日本の名峰・絶景探訪」などがあり、さらにそれぞれの時節に合わせた特別企画番組などを含めれば、一昔前と比べて、テレビでの山番組が大幅に増えていると言えるだろう。

 そんな中、一昨日、BSテレビ朝日の「日本の名峰・絶景探訪」で冬の中央アルプス・木曽駒ヶ岳を取り上げていた。
 地吹雪が吹き荒れる中、乗越浄土(のっこしじょうど)を経て駒ヶ岳に向かう予定が、余りの風の強さに登頂を断念して、中途半端な結果になってしまったが、それは日程が限られた俳優・タレントを使うからであって、スタッフだけで十分に時間をとって撮影登山をすれば、ちゃんとした絵が取れるのにと思ってしまう。
 山の番組を見ている山好きな視聴者たちは、何もタレントたちが登る様子を見たいわけではなく、登っていく途中の景色や頂上からの眺めを見たいだけなのにと思うのだが。

 ただし今回の「木曽駒編」では、そんなことはともかく、何しろ晴天の山でのブリザード(地吹雪)吹き荒れる光景が素晴らしかった。
 風紋ができた雪面に、さらに風に吹きつけられた小雪の波がうねって通り過ぎていく・・・まさに美しい冬山の景観をひと時楽しませてもらったのだ。
 それは、今までに私がひとりで歩いた、冬山の雪の景観の幾つかを思い出させた・・・。

 そして、上の写真は、このテレビ番組が撮影された12月下旬よりはちょうど一か月程前に、同じようにロープウエイで千畳敷(せんじょうじき)カールまで上がり、そこから木曽駒ヶ岳(2956m)に登った時のものであり、乗越浄土から前岳方面の和合山(2911m)を見たものである。
 この時の雪はまだ30㎝位だったが、吹き溜まりでは腰までもあり、翌日三ノ沢岳(2847m)へ行くつもりだったのだが、一人でのラッセルはきつくて、途中であきらめて引き返したのだが、それにしても三日間天気も良くて、雪の日本アルプスの景観を堪能(たんのう)することができたのだった。

 私は雪山には、高気圧が真上に来た晴れた日にしか行かないので、その上に単独だから、いつまでたっても技術的には進歩しなくて、初級者のままであるが、そんな私でも比較的楽に雪山の小屋泊り山行を楽しめるのが、この千畳敷ロープウエイからの木曽駒と、西穂ロープウエイからの西穂独標、そして途中までになるが八方尾根ゴンドラリフトからの唐松岳方面や五竜テレキャビンの遠見尾根などである。
 
 雪山はいいよなあ、雪山はー。あーだから変なおじさんってかー。
 そして、展望のいいところにある小屋泊まりができれば、天気のいい時には山々の朝焼けや夕映えの光景を見ることができる。
 山の姿は春夏秋冬、それぞれに良さがあるけれども、やはりベストなのは、冬のモルゲンロート(朝の赤)やアーベントロート(夕べの赤)に染まる山の姿だろう。
 この初冬の木曽駒ヶ岳に登った時、千畳敷から見た夕映えに染まった南アルプス全山の姿は素晴らしかった。(写真 北岳と間ノ岳)

 

 思い出の一つ一つは、それぞれの場面ごとに、動画としての動く姿ではなく、まるでコマ送りの写真のように、次第に形となって浮かび上がってくる。
 私の頭の中の深いところにあって、それが何かのきっかけで一場面の姿として、前後に幾つかの場面を伴って、眼前に立ち現われてくるのだ。

 私は、その木曽駒ヶ岳の番組を見て、自分がたどったその時々の幾つかの景観を思い出したのだ。
 もしそういうきっかけがなかったとしたら、これからもそういう機会がないとしたら、私の思い出は、私の頭の中だけにとどまり、私の死とともに消え去ってしまうものなのだ。
 思い出とは、元来そうした個人の記憶にだけとどめられていて、一つ一つが固有な形として蓄えられているものであり、たとえそれが、事件やスポーツの試合などの共同目撃者だとしても、そこには個人の受け止め方の違いによる、真逆ともいえる大きな差異があることもあるのだ。

 私は、木曽駒ヶ岳の番組を見て、昔の自分の山行の時を思い出したが、それはあくまでもそうした個人的な体験があったからのことであり、他に同じ時期の木曽駒に登った人でも、その記憶の場面はさまざまなのだろう。

 そして前回少しふれた映画について、これもまた私個人の体験があったから引き出されてきた、あくまでも自分だけの思い出でしかないのだが。
 そしてその時に、相手の彼女がどう思っていたかなど、私には詳しく知りえないことであり、重ねて言えば私の一方的な思い込みでしかないのかもしれないのだ。
 そうした前置きを並べておいて、しかしあの時、私と彼女の間の距離はかなり近くなっていたのは確かだった、それが”恋人までの距離”ではなかったとしても。

 まずは話をその映画から始めよう。
 2週間前ほどに、NHK・BSで、1995年のアメリカ映画、監督リチャード・リンクレイター(1960~)による『恋人までの距離』(原題 "Before Sunrise"、)が放映された。
 私は知らない映画でも、ヨーロッパ映画ならまず録画することにしているが、アメリカ映画、特にハリウッド映画風なものはいつもパスすることにしている。
 しかし今回の映画は、アメリカ映画ながら、なんと主演は、あのキェシロフスキー(1941~96)の名三部作の二つ『トリコロール 白の愛』『赤の愛』(’94)に主演していたジュリー・デルピー(1969~)だったので、とりあえず録画してみたのだ。
 
 そしてその映画を、見たのだが、私にとってはまさに予期せぬ秀作との出会いだった。
 それはアメリカ映画とは思えない、ヨーロッパ映画の感触さえも思わせるような、たとえて言うならば私の敬愛する映画監督のひとり、エリック・ロメール(1920~2010)の、アメリカ版にも思えるほどだったのだ。
 それも、舞台がアメリカだったらそうはならなかっただろうが、出会いのパリに向かう列車の中でのシーンを除けば、ほとんどオーストリアはウィーンの街であり、それも時間を追って、翌日の日が昇るまでのほとんど一日足らずの時間の中での、互いにひかれあうフランス娘とアメリカの若者との話を、まるでドキュメンタリーで追いかけるカメラのように二人を撮っていくのだ。

 ありきたりの話題から、深い話になったり、時に機知を働かせ、ウイットに富んだ話へと移っていく、二人の会話の面白さ・・・それは、まさにロメール映画の面白さであり、さらにそれをドキュメンタリータッチで時間の経過とともに追っていくスタイルは、あの有名な『24時間の情事』(’59)でアラン・レネ(1922~)が試みたように、やがては夢となる今の、その現実の証明でもあったのだ。
 だから、お互いに強くひかれながらも、時間が来て、それぞれの現実に戻っていく二人の思いが、まるで『ロミオとジュリエット』のように痛切であり、さらに魔法から覚めた『シンデレラ』のように、その後がむなしくもあったのだ。

 そしてこの放送の一週間後、続編となる2004年の『ビフォア・サンセット(このタイトルで前回の”ビフォア・サンライズ”の意味も生きてくるのだが)』が放映されて、もちろんそれも録画してすぐに見たのだが、しかし、前作がヒットしてパート2を作るというのは二番煎(せん)じのよくある話であり、主演の二人、ジュリー・デルピーとイーサン・ホークも実際の9年後の設定の通りに、明らかに年を経てもう若くはないし、あまり期待していなかったのだが・・・作家になった彼がアメリカからパリにやってきてそこで9年ぶりに彼女に会い、またしても彼の飛行機の時間が迫っている中、日没までの半日ほどの時間しかなく、そこで前回別れた時以降の二人の続きの話があり、半ば運命論的な話へと続いていく面白さに、いつしか引き込まれてしまったのだ。
 
 脚本は、前作同様に監督のリンクレイター(写真を見るとハンサムで自らが演じてもいいほどだ)自身の手になるものなのだが、クレジット・ロールで主演の二人の名前が記されていたから、適時三人で話し合いながら完成されたものだろう。
 そしてジュリーはこの映画作りに触発されたのか、その三年後の2007年に、自ら監督となり脚本・編集・音楽をも合わせ受け持って『パリ 恋人たちの2日間』を撮ることになったのだ。

 この映画は春先に、同じNHK・BSで放映されていて、録画してはいたのだが幸いにもまだ見ていなかったので、リンクレイターの2作に続く作品として、まして新しい世代のフランス映画の一本として、期待を込めて見させてもらったのだ。
 (私には若いころにすっかり親しくなったフランス人家族の一家がいて、フランス映画を見るたびに、よくあの一家のことを、パパにママンに私の友達にその妹などを思い出すのだ。)

 ユダヤ系アメリカ人(名前からしてアダム・ゴールドバーグ)の彼とのイタリア旅行から戻った彼女(ジュリー・デルピー)は、パリに住む両親や妹、そして友達などに彼を紹介していくのだが、そこで起きる国民性の違い、民族性の違いを面白く、時には下ネタを込めて描き分けていくが、愛するという感情こそはどんな人間にも共通するものだということを結論づけたかったのだろう。
 彼女の映画は、確かに会話体を重要視して人間感情の機微を描いていくという点で、たしかにあのエリック・ロメールの流れを汲むものであるが、さらに思い出したのは、あのルイ・マル(1932~95)の『地下鉄のザジ』(’60)やジャック・タチ(1907~82)の『ぼくの伯父さん』(’58)シリーズのような、ウイットとユーモアに富んだフランス映画の伝統である”おかしみ”を併せ持っているという点である。

ただこの彼女の映画には、彼らのアヴァンギャルド風な映像やモダーンな感覚ではなく、むしろいかに今の時間をそのままに描くかに、つまり作り上げられたドラマとしてではなく、現実の話として描くかに意を尽くしていることに、私は好感を覚えたのだ。
 (余談だが、先日の『笑っていいとも』の小池栄子がゲストの時に、日本のドラマのわざとらしさのシーンをタモリが盛んに揶揄(やゆ)していたのだが、まさにそのとおりであり、そうした確かな批評眼を持ったタモリの番組の一つが消えるというのは、さびしいことではある。)

 長々と映画の話をしてきたのだが、そしてこの3本の映画についてはまだまだ書きたいことがいろいろとあるのだが、もうすっかり長くなってしまった。最初に書いたように、私がこの映画を見て触発された旅先での思い出について、これは前にも書いたことなのだが、手短に書いてみたい。
 
 私は、若いころのヨーロッパ一周バックパッキング旅行をして、その旅の途中、ノルウェーの小さな村の宿で、アイルランド娘と知り合った。
 北欧を旅行して回るという彼女と、それから二日間行動を共にした。
 さらに二人で、スウェーデン、フィンランドへと回るつもりだったのだが、三日目に彼女は体をこわして、病院で検査してもらい(彼女を待っている間、私はあの『武器よさらば』のヘンリーの気持ちを思った)、その結果は、自国に戻って精密検査を受けたほうがいいということだった。

 彼女はその日のうちに、今学生として住んでいるイギリスに戻ることになった。
 空港での別れの時、私は彼女を強く抱きしめた。
 彼女は涙を流していた。私はそのほほに唇を押し当てた。
 その時、ロンドンから始まった私のヨーロッパ一周の旅は、まだ2週間もたっていなかった。
 その後ロシアから東欧、さらに南欧などを回って、3カ月近くたって再びロンドンに戻ってきた。
 イングランド中部の町に住む彼女に手紙を出したが、1週間たっても返事は来なかった。
 その後、上に書いたフランス人の友達のパパとママンと妹がいるリヨン郊外の家を訪ねて、楽しい三日間を過ごした。
 そしてパリから、南回りでの一泊二日かかる飛行機で、東京に戻ってきた。
 しばらくして、彼女からの手紙が来た。
 彼女は、療養のために母国のアイルランドに戻っていたとのことだった。
 彼女は”Shame"という言葉を使って、自分の気配りの足りなさを嘆いていた。
 彼女とはその後も手紙のやり取りをしていて、彼女はしきりに日本に来たがっていたのだが・・・数年後、彼女から地元の自転車屋を営む男と婚約したという手紙が届いた。
 私はお祝いの手紙を送って、そのクリスマス・カードが最後になった。

 その他にも、旅の途中で親しくなった女の子が3人いた。
 その中でも、上にあげた映画と同じように、列車の中で知り合ったアメリカ人のまだ若い女の人がいた。
 それはカンヌからヴェネチアに向かう列車で、彼女はトリノで降りるからあなたも一緒に行かないかと、私にトリノの素晴らしさを説明しては強く誘ってくれたのだが、私は自分の計画通りに旅を進めたかった。
 彼女はショートカットのブラウン系の髪の色で、私の好きな歌手のアン・マレーに似た落ち着いた顔立ちだった。
 そして彼女の仕事は看護婦であり、アメリカに結婚している夫を残して、ひとり旅に出てきたのだと言った。
 
 私は、いつも何かが起きる前に、先のことを考えては、早々とあきらめてしまうのだ。
 そして、それでよかったのだと思うことにしているのだが・・・。
 
 さてこれらのヨーロッパ旅行での幾つかの出来事が、上に書いた映画『恋人までの距離』を見て思い出されたのだ。
 そして、その女優ジュリー・デルピー(写真下『ビフォア・サンセット』より)に、あのアイルランド娘の面影がどことなく重なったのだ。
 私の手元に彼女の写真がある。ジュリーほどに髪の色は明るくなく、暗いブロンドであり、顔の輪郭が似ていて、目鼻立ちはもっと落ち着いた感じだった。
 ただ、少し遠視用の眼鏡をかけていたが、外すと美人に見えた。

 もう今では、彼女も私と同じように、初老の年齢へと差し掛かったころだろう。
 私の彼女への思い出の物語に、パート2はないのだ。
 むしろ完結した小さな話として、私の胸の中に残っているだけで十分なのだ。
 そして、それも私がいなくなれば、何事もない霧の中に消えていくだけのことで・・・。

 しかし、こうしてここまで書いてきて、私は自分の思い出をたどっていくことができて、少し幸せな気分になることができた。
 今何もなくても、幾つかの思い出の引き出しを持っているということだけで・・・その出し入れができるのは私自身だけだし・・・。
 酒を飲まない私にも、ひと時、酔えるものがあること・・・ありがたいことだ。

 
 「生が一つの夢にすぎないのならば、何のための骨折りや苦労か、
  私はもう飲めなくなるまで、一日中酒を飲もう。
  そして喉と心がいっぱいになって、もう飲めなくなったときに、
  わが家の戸口によろめいて行って、ぐっすりと眠るのだ。」

 (マーラー交響曲「大地の歌」原詩 李太白による 第五楽章より:「名曲解説全集」音楽之友社)