ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

秋の終わりと夕焼け空の月

2013-11-11 18:45:53 | Weblog
 

 11月11日 

 「ささやかな地異(ちい)は そのかたみに

  灰を降らした この村に ひとしきり
 
  灰はかなしい追憶のように 音立てて

  樹木の梢(こずえ)に 家々の屋根に 降りしきった

  ・・・」

 (立原道造 「はじめてのものに」より 『現代日本の文学』 学習研究社版)

 数日前、晴れた日の朝、今が盛りのカラマツ林は朝の光に照り輝き、背後には雪に覆われ始めた日高山脈の山並みが続いていた。
 それも、中部から北部にかけての主稜線の山々は、もう上のほうが真っ白になっていたのに、標高が低くなった南日高の山には、やっと雪が来たばかりの感じだった。
 それだけに、前景の黄葉のカラマツ林とともに、最後の秋の風景を見せてくれているかのようだった。
 (写真上は楽古岳と十勝岳)

 その日の午後、少し風が出て来て、とうとうカラマツの葉がまるで雪のように散り始めた。

 ・・・カラマツの葉は、今年の思い出を振り返るように、音を立てて、庭の枯葉の上に、家の屋根の上に、降りしきった。
 秋が、終わりゆくのだ。

 私の今年の思い出は、と言ってもいつものように山に登ったことだけなのだが、3月初めの大山と4月から5月にかけての日高山脈、そして7月初めの木曽御嶽山、そして8月初旬の北アルプス裏銀座の山々、9月の紅葉の大雪山と、いずれも青空の下で十分に楽しむことができたのだが、少し残念なのはそれ以降今に至るまで、なんと1か月半から2か月になろうとするほどの、登山の空白期間ができたことである。
 
 10年ほど前までは、1か月に5度ほどのペースで山に行っていた時期もあったというのに、少しずつペースが落ちてきて、去年今年と、とうとう一月に一度のペースさえ守れなくなってきたのだ。
 なぜかと言えば、年を取って、すっかりものぐさになってきたからである。
 体力的には当然若いころのようにはいかないけれど、山に登れないほどに体力が衰えたわけではない。
 ただ計画を立て、特に遠征登山の場合は、飛行機、電車、バスへの乗り継ぎと、その前後に泊まる宿への問い合わせなどいろいろ調べていたのだが、その手間がかかることがおっくうになってきたのだ。
 さらに地元の北海道の山でさえ、登山口まで何時間もかけて車に乗っていくのがイヤになってきたのだ。

 家にいて、朝6時に起きて、夜10時に寝るまで、ぐうたらにのんびりと過ごし、テレビで映画やオペラ、ドキュメンタリーなどの録画番組を見て、本を読み、音楽を聴いて、時々は外に出て、家の周りを歩いたり少し庭仕事や大工仕事をしたりして、たまに五右衛門風呂を沸かして入る、そんな何もないしかし自由な一日を送ることのほうが、いいのではと思えるようになってきたからだ。
 今では、忙しく他人とかかわることもなく、決められた時間に追いたてられることもない、朝日と夕日の間に自分にできることだけをやればいいのだから。

 町に行かなければ、お金も使わない。三食自炊で、食事は食べるものさえあればいいから、グルメなどとは全く無縁で、おいしい店の一軒さえ知らない。
 温かい炊き立ての”ゆめぴりか”(北海道米)さえあれば、卵かけカツブシ乗せだけだっておいしいのだ。

 自慢じゃないけれど、東京ディズニーランドやスカイツリーに大阪USJなどなど一度も行ったことはないし、たとえ招待券をもらったとしても行くことはないだろう。
 ”カラオケ”に行ったことはないし、”回転ずし”を食べたこともない。
 ”前世紀の遺物””時代遅れのクソジジイ”だとさげすまれたところで、こんな田舎の一軒家に住んでいれば、それは遠い世界での罵詈雑言(ばりぞうごん)でしかなく、馬耳東風(ばじとうふう)に聞き流していればいいだけのことだ。

 ただしそれは、間違いのないように言っておかなければならないが、何も今の時代に、社会に逆らってあえて自然の中で暮らしているなどといった、正しい主張を持った生き方などではないのだ。
 ただ子供のころから好きだった自然の中で、様々な不便と寂しさは覚悟の上で、のんびりとぐうたらに暮らしていたいというだけの話なのだ。

 だから、好きな山登りがいやになったというわけではない。繰り返すけれども、出不精(でぶしょう)になったというだけのことだ。
 出かけなくてずっと家にいれば、時々つまみ食いをするから、出不精はいつしかデブ症になってしまう。
 取りつかれたように山に登っていた若いころと比べると、体重は5㎏は増えている。これではだめだと、時々家の周りの山道を歩いてはいるのだが。

 さて本来の山好きな私が、山に登らなくなってがまんできるのかと言えば、やはり間近に山を見たいし近くに感じたい思いに変わりはない。
 そこで実は最近、それに代わるものとして、私がすっかりはまっているものがあるのだ。
 それは、何のことはない、前にも書いたことがあるが、”フィルム・スキャン”である。
 昔の35ミリや中判645などのポジ・フィルムやネガ・フィルムを、スキャナー機にかけて、デジタル化してパソコン液晶画面等で見られるようにすることであり、そのままデジタル画像として保管することである。
 つまり昔のように写真屋に行って、フィルムから写真にプリントしてもらう必要がなくなったのだ。最初にスキャナー機材を購入すればいいだけで、そのままパソコンに取り込んでおけば好きな時に見ればいいし、お金もかからない。

 その上に、今はそのフィルム・スキャン作業に慣れてきて、満足できる元の風景に近い色合いが出せるようになってきた、いやある意味では、写真屋でのプリント技術以上にうまく仕上がることもあるのだ。
 それにはもともとデジタル・カメラについていた付属の写真編集ソフトのほかに、最近新たに市販のソフトを購入して、全部で5本のソフトを写真に合わせて駆使できるようになったからでもある。
 つまり、昔は2Lサイズや四つ切りサイズくらいまでお金をかけてプリントしていたものが、今では自宅でパソコン画面いっぱいに21インチ、A3ノビより大きな画面で、金もかけずにきれいに見ることができるようになったのだ。
 何という幸せ。欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の思いなのだ。

 昔の山の思い出、光景が、液晶画面に鮮やかに映し出されるのだ。
 そうして、私は来る日も来る日も、山にも行かず、行こうとしたのだが決断できずに家にいて、そのフィルム・スキャン作業に精を出したのだ。

 しかし、いいことばかりではない。単純な作業の上に時間がかかりすぎるのだ。
 うまくいって1日で、数本のフィルムのスキャンと加工保存作業ができるが、他の仕事もしながらだから、1日3本ほど仕上げればいいほうだ。
 私は、中学校の時に山に登り始めて、そのすぐ後から小さなカメラを買ってもらい、以来ずっと山の写真を撮り続けてきた。
 もちろん、単なる記録写真だから、貴重な風景や、芸術写真の類などは一枚もなく、他人から見ればどうでもいいような写真ばかりなのだが、何しろその枚数だけはある、というより多すぎるほどだ。

 私の今までの生涯山行は、正確には数えてはいないが、少なくとも500回は超えていると思われる。
 ただし、その数多い山行はどれとして記録的に自慢できるものは何一つない、ただの山歩きの記録ばかりなのだ。
 ともかくその一回の山行で、フィルム1本以上は使っていたから、最近ではデジタル・カメラだから一日で昔のフィルム3本くらいは使っていることになるのだが、ともかくフィルム時代だけでも1000本近いフィルムがあり、とても自分が生きているうちに、全部のフィルムのデジタル化などできないとわかってはいるのだが、ついついやめられずに、パソコンとスキャナーの前に座り続けている毎日なのだ。

 そんな自分だけで楽しむ、みみっちい仕事にかかわっているくらいなら、誰かのためになる援助なり、ボランティア活動なりに励んだらいいじゃないかと言われるだろうが、もう明日をも知れぬ年寄りにそんな元気はないのでありまして、自分のふんどしを洗うので精いっぱいでして、ハイごめんなさい。
 
 フィルムをセットして、スキャンして出てきた画像を、さらに写真ソフトでその時の色合いに近づけるように加工していく。
 そして、液晶画面でそれを見る楽しさ・・・あの時の空の色、あの時の草木の色合い、あの時の深みのある山肌・・・そこに私の山があったのだ。うーたまらん。
 彼女のうるんだ瞳の色、上気して桜色になった肌、私の耳のそばでささやいた言葉・・・そこに彼女はいたのだ。
 おっとこれは違う、余分な、しかし似たような思い出だが。

 しかしはたして、私の人生の残り少ない時間を、こんな自分のためだけの、機械的な作業のために使っていいのだろうか。
 ただでさえ、引きこもり症候群の私が山にも行かずに、こうしたことにのめりこんでばかりいれば、まるで自分の部屋に閉じこもってゲームばかりしている若者と変わりないのではないのか。
 とその時、頭の中に、例のAKBの「フォーチュン・クッキー」が聞こえてきた。
 
 「人生捨てたもんじゃないよね あっと驚く奇跡が起きる 運勢今日よりも良くしよう それには笑顔を見せること」

 三日ほど前に、いつも行っている友達の家にまだ小学校前の孫娘の姉妹が来ていた。
 今ではその二人と仲良しのにゃにゃんこ仲間である私は、友達夫婦のあきれたまなざしを前に、一緒にその「フォーチュン・クッキー」を歌い踊ったのだ。
 こうして私は、笑顔を見せてきたのである。
 思い出すのは、私にはそれほどの修行の心もないけれど、あの良寛和尚が子供と一緒にてまりをつく姿である。


 「・・・里にい行けば 里子どもいまは春べと うち群れて み寺の門(かど)に 手まりつく・・・
 そが中にうちまじりぬ その中に 一二三四五六七(ひふみよいむな) 汝(な)は歌い 汝はつき つきて歌いて 霞(かすみ)たつ 永き春日(はるひ)を 暮らしつるかも・・・」


 さらに、はるか群集より離れてひとり修行する毎日を、良寛は次のようにも言っている。
 
 「世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる」


 良寛については、このブログでも何度も取り上げてきたが(’10.11.14の項など)、今の贅沢三昧(ぜいたくざんまい)な私には到底まねのできない、”赤貧(せきひん)洗うがごとし”暮らしの中で、どうして最後までその修養の心を保ち続けられたのか。
 ただしその良寛本人にも、その人生の最後の時に、幸せのほほえみの一瞬が訪れたのだが・・・それは当時、正月の鏡餅(かがみもち)の割れ目で吉凶を占ったように、フォーチュン・クッキーでの占いに通じるところがあったのかとも思うのだが・・・あっと驚く奇跡が起きるこころ・・・。

 「・・・日暮寥寥(りょうりょう)人帰りし後 一輪の名月素秋(そしゅう)を凌(しの)ぐ」

 (日が暮れて子どもたちの帰ってしまった後には、一輪の名月が、秋空に高く輝いている。)

 
 日ごとに寒さが増してくる。今日も朝の気温はー3度で日中でも5度までしか上がらなかった。
 東の空の雲が夕日に染まり、葉が落ちたカラマツの防風林の上には、半月が出ていた。(写真下)

 (参照文献:『良寛歌集』より 『良寛』松本市壽編 角川文庫)