ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

剣山とシラカバ林

2013-11-18 20:24:50 | Weblog
 

 11月18日

 数日前、私は実に1か月半ぶりに山に登ってきた。
 そんなにも長い間、山に行かなかったことについては、前回書いたように何のことはない私のぐうたらさから来たものなのだが、それでも心の中ではやるべき仕事が残っているような、このままではいけないという思いがあったことは確かだ。
 
 そこでそんなナマケモノのオヤジでも登れる山はと考えて、北部日高山脈のはずれにある剣山(つるぎやま、1205m)に行くことにしたのだ。
 秘境性が強く残り、登山道も限られた山々にしかついていない日高山脈、その主稜線の主峰群と比べて、この剣山は、主脈から外れて十勝平野側に張り出していることから、アプローチが簡単で、展望が良く、登り3時間といった手軽さから、日高山脈の山の中では言うに及ばず、おそらくは帯広十勝管内でも、最もよく登られている山ではないだろうか。
 ちなみに、この山には毎週ごとに登っている人にも出会ったくらいだから、地元の山として親しまれているのがよくわかる。

 私も6回ほど登っているのだが、いつも春の残雪時期かこの秋の終わりから初冬の時期だけであり、夏や秋の紅葉の時期にはまだ登っていない。
 つまりどうしても、ある種のトレーニングの意味合いで登る山、とりあえず山にという時に最初に思いつく私にとってのお助け山でもあるのだ。

 ということで今回も、前の登山から1か月半も間が空いて体がなまった私には、まさにうってつけの山だったのだ。
 ただし、近くにあって簡単に登れるとはいっても、油断はできない。
 山麓はヒグマが出没する地域として有名であり、私も何と冬に近いこの時期に頂上付近でヒグマにあったことがあるくらいなのだ。(そのことについては’08.11.14の項参照)
 その他にも、岩山だけに、今の時期気になるのは頂上付近の積雪と凍結具合である。

 家を出て、山麓の旭山あたりに来ると、快晴の空の下、雪をいただく日高山脈東側の山々が立ち並んでいるのがよく見える。
 十勝平野の父なる山である、大きな十勝幌尻岳(1846m)、そして東面のカール壁を見せて札内岳(1896m)とエサオマントッタベツ岳(1902m)が美しい。
 年を取っていつか山にも登れなくなった時には、こうして日高山脈の山々を下からじっくりと眺めて、写真に撮っていきたいものだと思う。(日高山脈のすべての峰々は、東西南北の周りを巡る道路上から見えるのだが、なんといってもこの十勝側からのほうが、ずらりと並ぶ山脈の形で雄大に眺めることができるのだ。)
 そして目指す剣山も、秋まき小麦畑の広がる向こうに、まだ黄葉が残るカラマツ林の上、ギザギザの岩稜を連ねて大きく見えていた。(写真上)

 このあたりの平野が始まる丘陵地帯は、実に眺めの良いところであり、いつも楽しみにしているのだが、この日も澄んだ青空の下、北側には、雪に輝くニペソツ山(2013m)とウペペサンケ山(1835m)が並んで見えていた。(写真)

 

 
 そして、もし剣山に雲がかかっていて登るのをあきらめた時に、結局はこの眺めを写真に撮っただけだったとしても、私はまずまずの思いで家に戻ることだろう。
 それはつまり、もしいつか山に登れなくなっても、こうして私の大好きな絵葉書的な光景を見に来るだけでも、山への思いは満たされるということだ。

 思えば私は、風景写真や都市情景、そして日常の何気ないひと時を見事に切り取ったスナップ・ショットや、美しいおねえさんたちを写したヌードやポートレイト、さらに様々な植物や動物、飛行機に船に鉄道などなどあらゆるジャンルにわたって写真を撮る人、カメラ・ファンの人たちと同じように、目の前にあるその姿が好きであり、それをコンテストなどに発表するつもりなどはさらさらなくて、ただ自分で楽しむために、繰り返し眺めることのできる写真として、形に残したいと思っているだけのことだ。
 そうした趣味としての写真ではなく、同じ眼前の光景でも、自分の思いを込めた芸術的な瞬間として切り取った人たちだけが、プロの写真家になれるのだろうが、私には、残念ながら、そんな芸術家的なセンスもないし、もともと自分の楽しみのために撮っているだけだから、そのぶん制約や義務感もないし、ただ目の前にある眺めを見てカメラのシャッターを押しただけのことだ。

 それでも、こうして偶然に出会えた風景こそが、私の生きていく喜びの一つにもなっているのだ。
 山はいいよなあ。いつも黙ってそこにいてくれて、あとは私が、リカちゃん人形の着せ替え遊びのように、周りを季節の彩(いろどり)で飾ってあげればいいだけで・・・。
 
 さて、登山口の剣山神社に着いて、誰もいない駐車場に車を停めて歩き出す。
 すっかり葉が落ちたミズナラの林の尾根道を、ゆるやかにたどって行く。
 朝家を出た時には-5度だったから、標高400mのこの付近はもっと低い気温かもしれない。
 さすがに寒いから、毛糸の帽子を耳のところまでかぶせてしまう。

 四国の剣山にちなんで名づけられた山だから、先ほどの神社や観音様などの石像が並ぶ山道などいかにも信仰の山らしいが、それも終わって、いよいよ山腹斜面の登りにかかる。
 久しぶりだから、先は長いからと自分に言い聞かせて、まだら雪と霜柱の道をゆっくりと登って行く。
 遠くで、ウソの鳴く声が聞こえる。葉の落ちた木々の間から、頂上付近が白くなっている久山岳(1412m)が見える。
 下草のササが切れて、露岩が目につく明るい尾根道になるが、登りはさらに続いている。

 そういえば10日ほど前に、たまたま見たテレビで、ネパールの山奥から小学校に通う姉弟の姿があって、思わずそのまま見続けてしまった。
 片道、何と2時間!二人は山道を下り、さらに激しい流れの川に架けられた渡しのワイヤーロープの木箱に乗って、その上に子供たちの二人がまたがりロープを手繰(たぐ)っては対岸に渡り、通りがかりのトラックなどに乗せてもらいようやく町の小学校に着く、そんな命がけの登校が毎日続くのだ。
 親たちは川を渡るのに子供たちだけでは危険だから、吊り橋をかけてくれるように政府に頼んでいるのだが、その予定はないとのこと。
 
 次の日に見た別のテレビ番組では、それは世界各地に嫁いだ日本人妻たちの話だったのだが、アラビア半島の石油国、アブダビやドバイでは、そうした石油成金たちの子供たちは、高校生で一か月の小遣いが20万円ももらえて、友達の誕生日パーティーに豪華クルーザーを貸し切って、そこで出前の豪華料理を食べては楽しんでいた。
 
 さらに次の日、同じゴールデン・タイムの時間に、ある民放で、『子どもたちに聞かせたい お金儲けの話をしよう』というタイトルで、子供たちを前に、大小の企業のトップたちが、人よりぬきんでて成功するに至った話をしていた。
 最後にたった一言、「お金の奴隷になってはいけない」と付け加えただけで。

 昨日の新聞、日曜版読書欄に”行き過ぎた市場原理主義、談合主義を告発する”『貧困大国アメリカ』シリーズ3冊目の本(岩波新書)の書評記事が載っていた。
 ここでの評者は、最後に「恐ろしや。これはみんなが良しとした民主主義というシステムの、ただ中に巣食う地獄なのだ」という言葉で締めくくっていた。

 私は、だから・・・すべては社会が悪い、政治が悪いと言いたくはない。いつの時代にも、そうした弱者と強者はいたわけだし、昔からそれ以上のもっとひどい格差社会があったわけだから、何も今のすべてが悪いとは思わない。
 それはあきらめろというのではない。
 少し前に書いた(10月14日の項)、あの元楽天監督、野村氏の言葉をここで再び取り上げてみれば、それは野球においてだけではなく、人生でさえも、”98%の運と、1パーセントの汗と1パーセントの才能”で成り立っているのかもしれないし、それはまた、”49パーセントの汗と49パーセントの才能と2パーセントの運”から成り立っているのだと言い換えることもできるのだが・・・。

 ただそうした話は別にして、私は山道を登りながら、今日もあの往復4時間の時間をかけて小学校に通う子供たちのことを思っていた。
 町の学校の、その子供たちの担任の先生は、「二人の成績は良くありません。ここに着くまでに集中力を使い果たしてしまって。そして学校が終わるやいなや二人はまた2時間をかけて家まで戻らなければならないのですから」と話していた。
 
 私は、なまった体のために、山登りの楽しみのために、片道3時間の道を歩いているのだ。それも今日一日だけの。
 1時間半近くかかって、ようやく標高906mの一ノ森のコブに着いた。朝あれほど見えていたニペソツ山などの東大雪はもとより、大雪、十勝岳方面の山々の上にだけ雲が帯のように流れてきて覆っていた。
 上空には変わらず快晴の青空が広がっていた。

 そこから少しシラカバ林のなだらかな尾根を行き、そして二ノ森岩峰北斜面の急な登りになる。
 道の大きな岩の上に染み出した水が凍りつていた。ロープがあって何とかそれを手掛かりに乗り越えるが、下りでは大変だろう。
 いったんゆるやかになり回り込んで再び登って行くと、あのヒグマに出会った道のあたりにさしかかり、やはり気になって持ってきていた鈴を鳴らし続けた。

 二ノ森から再び稜線を右に回り込み、急な沢状の道を登って行くが、あちこちで岩が凍りついていて、周りには鍾乳洞(しょうにゅうどう)の石筍(せきじゅん)のような大きな氷柱が何本もできていた。
 一歩一歩と足場に注意しながら登って行くが、ここも下りは大変なるだろう。一応アイゼンは持ってきてはいたのだが。
 三ノ森岩峰から稜線を行くと、展望が開けて行く手に頂上の岩塔が見えている。
 北斜面の道だが、雪はそれほど多くはなく数センチほどで、それも凍りついていた。
 最後のアルミ梯子(はしご)3本を注意深く登って、四方に見晴らしが開けた頂上岩塔の上に着いた。
 コースタイム通りの3時間かかったが、1か月半も間が空いての登山としては十分だった。
 
 さていつもの大展望は、春に登った北日高の山々(5月20日の項)からずっと稜線付近にだけ帯のように雲が流れてきていた。かろうじてそこから頂きを見せているのは、北部の名峰、芽室岳(1754m)である。(写真)

 
 
 そして核心部の山々、1967m峰も少し雲に洗われていたが、さらにピパイロ岳(1917m)、エサオマントッタベツ岳(1902m)、札内岳(1896m)、十勝幌尻岳(1846m)と見えていて、はるか遠く神威(かむい)岳から楽古(らっこ)岳に至る南日高の山まではっきりと見えていた。
 風もなく、山々を見ながら頂上の岩の上で40分余りを過ごした。大空と山の頂きの間にひとり・・・。

 頂上から降りていく途中で二人、さらに下のほうで一人の中高年の登山者に出会ったが、いずれもこの山に何度も登っている人たちばかりだった。
 問題は、凍りついた下りの道だ。アイゼンをつけるのが面倒で、そのままで降りて行く。
 最大の注意を払いながら、凍りついた岩の上に足を置かないように、そして最後の大きな岩の全部が凍りついていた所では、道から外れて回り込んで木々の枝を頼りに降りた。
 そして、行きにもきれいだと思った一ノ森コブ付近のシラカバの林・・・黄葉はとっくに散ってしまっていたが、下草のササの緑とシラカバの幹の白、そして青空と、私の好きな山の配色の光景がそこにあった。(写真下)

 一休みして山の静けさを味わった後、さらに山腹の道を下って行く。先ほどの凍りついた道で力を張りつめさらにこの下りでと、もうヒザは限界に近かったが、ようやく2時間半かかって、登山口に着いた。
 町に出て買い物をした後、近くの公営温泉にゆっくりとつかって疲れをほぐし温まって、暮れなずむ山々を見ながら家路についた。

 そして、二日後、ひどい筋肉痛が太ももに来た。ふくらはぎの痛みなら長い登りのせいだろうが、おそらく今回は、あの凍った道で注意して太ももに力をかけて降りてきたせいだろう。
 というより、何よりも1か月半ものブランクがそのおおもとの原因であることに間違いはない。それに加えて、年のせいでもあるのだろうが。
 
 あのネパールの山奥の子供たちは、今も毎日往復4時間もの山道を歩いているのだ。
 しかし、あの子供たちには、これからそうした困難を乗り越え、新たな素晴らしい人生を切り開いていくための、前途洋々と広がる長い年月の未来があるのだ・・・。
 (ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『1900年』の中に出てきた小領主のオヤジが、悪ガキをののしって言った気持ちがよくわかる。)

 それに引きかえ、今の私は細々とした生活ながらも大きな困難もなく、ほどほどに満ち足りた思いの中にある。
 思えば、前途洋々と広がっているはずだった時間は、もうほとんど使い果たしてしまったということだ。
 今では、あの万葉集の沙弥萬誓(しゃみのまんぜい)の歌のように(9月9日の項参照)、自分が漕いできた小舟の航跡を眺めているだけで・・・、それも悪くはないのだが。