ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ダケカンバと老子の言葉

2013-06-03 21:56:22 | Weblog
 

 6月3日

 数日前のことである。雨が降った後の翌日の天気予報は、全道的に晴れのマークがついていた。これでは、もう山に行くしかないでしょう。
 手近なところで日高山脈の山に登るとしても、キツイ登りはイヤだが、今の時期には低い山ではもう雪が大分溶けていて、残雪の山歩きの楽しみが十分には味わえないだろうから、それなりの山に行かなければと。

 そこで久しぶりに、日高山脈中部の十勝幌尻岳(とかちぽろしりだけ、1846m)か、それとも南部の楽古岳(らっこだけ、1472m)に登ろうかとも考えたが、この融雪期の雨で、沢は水があふれているに違いない。
 勝幌(通称かちぽろ)の方は、登山口の少し先にある沢に架けられている二か所の丸木橋が、あまりにも心もとないものだから、もし流されていれば少し上の所から、靴を脱いで渡らなければならないし、楽古の方も、いつもは靴でも渡れる渡渉(としょう)点が、おそらくは長靴でもダメでここでも靴を脱いで渡らなければならないかもしれない。

 それぞれの山で、そんな経験が一二度あるから、ついおっくうに思ってしまうのだ。沢登りの場合は、最初から水の中に入るのが楽しみの一つでもあるからいいのだが、今はまだ雪が残っていて冷たいし水量も多く、そんな時期ではない。
 それならばと、北部の芽室岳(1754m)に行くことにした。あそこの丸木橋は、直径30cm近くもあるような大きな丸太が三本並べられたしっかりしたものだから、心配はないはずだ。

 上空には、衛星写真で見たように、南北にのびる前線の雲がまだ十勝地方全体にかかっていた。しかし、その西側には青空が広がり、日高山脈の山々も、雲の影になりながらもくっきりと見えていた。
 清水町の広大な丸山牧場を抜けて、しばらく砂利道の林道を走ると、小さな山小屋のある登山口に着く。もう7時前にもなっていたが、広い駐車場は空いたままでがらんとしていた。
 登山口の目の前に、そのしっかりした丸木橋が架かっていた。沢は川幅いっぱいに水があふれていて、うねり高まってしぶきを上げ、激しい音を立てて流れていた。もしこの橋がなければ、とても渡渉することは不可能であり、諦めて戻るしかないほどの流れだった。

 ありがたく感謝しながら橋を渡ると、道のそばに小さな赤い花が群れ咲いている。オオサクラソウの群落である。今の時期には、この日高山脈の山々の沢沿いの道では、どこでもこのオオサクラソウを見ることができる。
 中でもあの楽古岳では、登り始めの山腹の道の両側に列をなすように咲いていて、今回は、それを見るためにも楽古岳に行きたいと思ったのだが、それが少し残念ではある。
 まあしかし、山に登ってその頂上からの眺めをいえば、楽古岳からは目の前にでんと十勝岳が見えるだけで、北に続く山々の幾つかが隠されてしまう。むしろその十勝岳からの眺めの方が、南に楽古、北に日高主稜線の連なりが見えて、私としては好きなのだが。

 小さな台地に上がり、アカエゾマツの林を抜けると明るいササの斜面に出る。
 見上げる空は今や、青一色になっていて、右手の木々の間からは、白い稜線が続くウエンザル岳(1576m)が見えていた。実はこの山にはまだ登っていなくて、道がないから、冬から残雪期の今の時期か、それとも夏の沢登りでしか登れないのだが、今一つその気にならずに、いつも後回しになってしまっている・・・。

 さて問題は、そのササの斜面の道だ。それまで長い間、雪に覆われていたので、押しつぶされて道の上に覆いかぶさる形になり、さらにササの葉が枯れているうえに雪解け後のごみがついているから、かき分けるごとにそのホコリがすごくて、うかつにも首から下げていたカメラがほこりまみれになってしまった。
 ただでさえホコリに弱いデジタル・カメラだから、これはヤバイと、タオルでホコリを払っては見たが、それで見た目は何ともないのだが、後になって画像にホコリが点々と写りこむようになるのではないのか、予期しないというべきか、単なる自分の不注意というべきか・・・。
 教訓・・・思っても見ないことが起きるのは、その人が思っても見なかったから悪いのである。決して何かのせいではなく、まして運命などではないのだ。

 大きなジグザグを切って登って行った後、少し勾配はゆるくなったが、まだササかぶりの道は続いている。私はずっと左側に目を向けて探していたが、やっとその白い連なりが見えてきた。待望の雪堤(せきてい)である。
 冬の北西の卓越風によって、尾根の東側に吹き寄せられて、堤状に積もった雪の道であり、前回の双珠別岳(そうじゅべつだけ、1389m)の時(5月20日の項)と同じように、この残雪時期の山歩きの楽しみである。
 この芽室岳には、今まで4回登っていて、紅葉の時期に一度の他は、いつもこの時期の前後である。
 もっと早い時期だと、登山口の橋を渡ってすぐに雪道が始まるのだが、その時はその時でまだ雪が安定していなくて、所々踏み抜いたりはまったりするし、厳冬期は雪が柔らかいからワカンのラッセルが大変で、山スキーに頼るしかないだろうし、夏は暑くていやだし、どんな時でも一長一短があるのだ。

 ともかく雪の上に出て、あのササかぶりの道からは解放されたのだ。そこで一休みをした後、その雪堤の上をたどって行く。
 昨日の雨のためか、それまでにつけられていたはずの足跡さえも見分けにくい。雪はもう凍ってもいないし、クサッてぐちゃぐちゃでもないし、歩きやすい固さだった。
 靴は夏山用レザー靴で、その上から雪山用のスパッツをつけているだけで、アイゼンもワカンも持ってこなかった。
 しかし、しばらく歩くとその雪堤は途切れて、右手の夏道に戻ったが、その道の所々に薄くなった雪が残り、かえって歩きにくかった。そして再び雪堤が現れ、今度は広く厚くしっかりとした形で、上までずっと続いていた。

 青空とはるか上にまで続く白い雪堤。静かだった。下の沢の方から一羽のルリビタキの声が聞こえていた。
 もう、夏が近いのだ。私は長そでのシャツを脱いで、Tシャツ一枚になっていた。(この日、帯広の最高気温は28度にまでなったのだ。)

 ヒグマよけの鈴は、下の登山口の辺りで鳴らしただけだった。
 ヒグマが、夜間に尾根を越えるために通ることはあっても、こんなに晴れた日の明るい時間に、深い雪に覆われて食べ物もない尾根に現れるとは思えないから、その心配がないだけでも今は心穏やかに歩いて行くことができるのだ。
 (とはいえ、この登る時には見逃していた、かすかに残っていたヒグマの足跡を、下りの時に見つけた。それは西側の谷から尾根を越えて東側の谷へと横切っていたのだ。)

 振り返ると、歩いてきた雪堤が続きハイマツとダケカンバがその間を区切り、青空には前線の名残の白い雲がたなびいていた。(写真上)
 何という、穏やかなひとときだろう。
 前回の双珠別岳の時と同じように・・・おおらかな白い広がりに包まれて、ひとり、静かにいることの幸せ・・・。

  「おお、神様、

  私があなたの所へ参ります日は、

  晴れて、白い山々が良く見える日にしてください。

  昼間でも星の出ている天国へ参りますには、

  この世にいる時に私がしたように、

  私の気の向いた山道から行くようにしたいものです。

  私は手にストックを持って、雪の道から参りましょう。

  私のかけがえのない友だったミャオに会えるように、

  ひたすらに登り続けるでしょうから、

  私をいつの日か、その手にすくいあげて、

  ミャオの星と並べておいてください、

  毎日、あなた様に祈りをささげますれば・・・。」

 (フランシス・ジャム「驢馬と連れ立って天国へ行くための祈り」からの変奏詩)

 やがて、行く手の左側がすっきりと開けて、たおやかに山稜を伸ばす芽室岳の山頂が見えてきた。(写真)

 

 さらに右手に続く夏道のある尾根は、ダケカンバが低くなりハイマツが目立ってきて、その後ろには芽室岳西峰(パンケヌーシ岳、1746m)の雄々しい姿も見えてきた。(写真)

 

 私はその写真を撮るために、雪堤からハイマツの尾根に戻り、一休みした後そのまま夏道をたどり、1690m分岐点コブへの最後の急な斜面を登り続けた。
 ところが何としたことか、急に息が乱れ始めて、脚にも疲れがたまって思うように前に進まなくなったのだ。
 数歩、歩いては立ち止まりの状態で、これ以上体に負担をかけては本当に危ないことになる。心筋梗塞(しんきんこうそく)、脳梗塞(のうこうそく)という文字がちらちらと見え、誰もいないこんな山の上で倒れたら・・・ああ神様、私はまだ天国に(地獄かもしれないが)召されたくはないのですと祈り、一方ではこれこそ先ほどのジャム的な願いにかなうことではないのかと、思いはちぢに乱れて、それでも不思議な義務感からか、よたよたの脚は本能的に動き続けるのだった。
 おそらく、この斜面だけでも倍の時間がかかったのだろうが、フラフラとしながら登り続けていると、ようやく終わりに近づいて夏道は、左に続く雪堤の急な斜面に消えていた。

 場面は変わったのだ。その急斜面をキックステップでつま先をけりこんで登ると、後は頂上とのコル(鞍部)に向かって斜面を横切るトラバースになり、ようやく先が見えたのだ。
 コルからは左右が開けたなだらかなハイマツの尾根をたどり、ようやくのことで周囲の大展望が広がる山頂にたどり着いた。
 なんと登山口からは4時間半、コースタイムよりは1時間も余分にかかったことになるのだ。

 これを、年のせいだと思うべきか。つまり、天国へのお迎えが近づいてきているとみるべきか。
 これからは、いつも遺書をふところに忍ばせて、他の人に迷惑をかけぬように遭難費用だけは残しておいて、山に登るべきなのかもしれない。
 ああ、それにしてもいつ突然死ぬかもしれないという、何という切迫感あふれた単独行者のスリルだろうか・・・あへー。
 しかし、こんなことで死ぬの生きるのなどとわめいている私は、あの老人の星、三浦雄一郎さんのエヴェレストと比べて、何と恐ろしく次元の低い山登りをしていることだろう。
 まあ、アリにはアリの、ゾウにはゾウの時間があるわけだから・・・。

 やめよう、そんなことを考えるよりは、今はただこの山々の展望の中に、ひとりいることに感謝すべきなのだ。
 上空には変わらずに青空が広がっていた。山々の上には、その姿を隠すほどではないが、点々と雲が出ていた。
 風も余りなく、上に厚手の長袖シャツを着ているだけで十分だった。

 東側に広がる十勝平野の大平原に身を乗り出すように、十勝幌尻岳(1846m)があり、それは札内岳(1896m)、エサオマントッタベツ岳(1902m)へと続き、その上にわずかに頭をのぞかせているのはカムイエクウチカウシ山(1980m)であり、エサオマンの手前に印象的な北面を見せているのは伏見岳(1792m)だ。エサオマンから続く尾根には私の好きな1760峰があり、伏見岳からの稜線はピパイロ岳(1917m)へとせり上がり、日高第3位の1967峰のドームが高い。そして、ピパイロの後ろに少し頭を見せているのは日高幌尻岳(2053m)である。(写真下)

 

 この日高幌(ひだかぽろ)は西峰の方からだと、すっきりと見えるのだが、その分エサオマンなどが少し隠れてしまう。この芽室岳と西峰のそれぞれの展望は、互いに一長一短があるのだ。
 さて、その西峰の後ろにはペンケヌーシ岳(1750m)のこれまた東西二つの峰があり、さらに西峰から続く北部の日高山脈は、ウエンザル岳からペケレベツ岳、先日の双珠別岳からさらにはサホロ岳へと続いているのが見えるが、あの2週間前と比べてすっかり雪が少なくなったのがわかる。
 その後ろに少しかすんで白い山なみが見える。十勝岳連峰から、大雪山、石狩、ニペソツ、ウペペサンケと続く東大雪の山々である。

 登りに時間がかかりすぎたので、下りが心配になる。いつもは頂上に1時間近くいるのに、30分ほどで切り上げて、下りて行くことにした。
 ハイマツのゆるやかな尾根を下り、分岐の所から、登りに苦しんだ急な夏道を下らずに、そのまま雪堤通しに下って行くことにした。
 しかし、先では、45度に近い急勾配になってしまうのだ。アイゼンなしの、キックステップだから、慎重に足場を確かめて、しかし所々、固く凍ったままの斜面があり、二三度、かかとが踏み込めずに滑りそうになってひやりとした。それもストックだけでピッケルも持ってきてはいないからなおさらのことだ。そこで、横に二三歩トラバースして、足場をもぐりこませてから下りて行く。

 やがて急勾配の斜面も終わり、後はずんずんと下りて行けるようになった。
 右手の雪の斜面の下には、何本ものダケカンバがそれぞれの形でしっかりと立ち並んでいる。

 吹きすさぶ風に耐え、冬の雪崩(なだれ)に耐え、さらにはこれからの雪堤崩壊の雪崩に耐えて、そのたびごとに枝幹を曲げながらも生きていく、たくましいダケカンバ。
 それらの季節を過ぎれば、この暖かい日差しの下、降り積もった雪は今度はダケカンバたちの命の水となり、やがては若葉を茂らせて、鈴なりの花をつけて、花粉を飛ばしては、互いに求め合いながら、次の世代への用意も怠りなく、ひたすらに生きていくのだ。
 ”柳に風と受け流し”というたとえがあるけれども、こうした高山環境の中で生きのびていくダケカンバたちのことを、”ダケカンバに雪と受け流し”と言い換えたいくらいなのだ。

 自分の弱さを知ったうえで、それ以上のものには逆らわず柔らかく受け流し、何としてでも生き抜いていくこと。
 自分に必要なものだけあれば、それだけで十分であり、その生き方は足るを知ることにあるのだ。
 そのダケカンバの姿こそが、実は今までにも何度もこのブログでも取り上げてきた、中国の老子の教える生き方に似てはいないか。
 道(タオ)の理(ことわり)に従い、水の流れのごとくに生きること・・・。

 先日、これも今まで何度も取り上げたことのある番組なのだが、NHK・Eテレ(教育)の”100分de名著”で、先月取り上げられていたのは、その『老子』だった。
 2000年以上も前に木簡(もっかん)に書き残されていたという、中国春秋戦国時代のこの本については、あの『徒然草』と同じように読み直すたびに新たな発見があり、こうしてテレビで放送されれば、やはり見てみたくなるのだ。

 この名著シリーズは、その番組を案内するキャスターとタレントの組み合わせが、しばらく前から変わってしまい、それは番組をより親しみやすくするために考えられたものだろうが、ただでさえうるさくしゃべりすぎるタレントと、バラエティー番組向けの演技が気になるキャスターの組み合わせで、せっかくの名著の格調の高ささえも崩れてしまう。
 この「老子」でも、もっと担当の先生の話を聞きたかったのにと、消化しきれなかったもどかしさが残るのだ。
 まさしく、万人向けに作られた番組は、決してそれぞれの人に合うようには作られてはいないのだ。
 こうしたバラエティー向きキャスターとタレントにしたおかげで、新たに見るようになったという人がどれだけいるのだろうか、逆に私のようにいやな思いを残した人もいて、様々なプラスマイナスもあるのだろうが。

 決して声が届くこともないだろう、あくまでも私の希望だが、出来るなら、前の「日曜美術館」の森田美由紀キャスターに、タレントは「日めくり万葉集」の壇ふみか「週刊ブックレビュー」の中江有里あたりにして、じっくりと番組を進めてもらいたいものだ。

 話がそれてしまったが、その後も、私の大好きなダケカンバと雪堤と青空の組み合わせの中を、快調に下り続けて夏道に戻り、あの登りの時に苦労したたササの斜面に出たが、ササは下りでは順目になり、それほど気にならずに下りて行くことができた。
 登山口には、私のクルマ一台だけが待っていた。
 下りの時間は、登りの半分もかからなかった。休みも含めて合計7時間余り、今の私にはさほどの疲れも感じることなく、適度な山行になったのだ。

 などと言ってるが、登りの途中で死にそうだとねを上げていたのは、どこのどいつだいと言いたくもなる。
 全く、人生は”のど元過ぎれば熱さを忘れ”の繰り返しで、いつもその場限りの反省だけなのかもしれない。

 クルマに乗って来た道を戻り、近くの国民宿舎の風呂(260円)に入って、さっぱりして、雲の下に並んでいる山々を見ながら、家に向かった。
 ああ、いい一日だった。そんなふうに言える日々が、あと何日あるのだろうか。

 しかし、それほどまでに印象的ではなかったにせよ、何事もなかった普通の一日だったにせよ、実はその人の生きていた中での、素晴らしき日々の一日だったのかもしれないのだ。後になって思えば・・・。