ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

クロユリとミヤマカラスアゲハと残雪の山々

2013-06-11 17:47:54 | Weblog

 

 6月11日

 さわやかに晴れ渡った日々が続いている。朝の気温は10度位だが、日中は上がっても25度まではいかないほどで、吹く風が涼しい。
 こんな日には、家の中にいてパソコンの前なんかには座っていられない。
 それは、天気のいい日には誰でもが外に出たくなるように、まして緑に囲まれたわが家ではなおのことだ。

 というよりは、この暖かさで一気に爆発的な春がやって来たからだ。それは夏というよりは、まさしく冬の名残の寒さが去った後の、疑いもなく春の躍動繁殖の時だったのだ。生物界のすべてが見る見るうちにあちこちに姿を現し、ふくれ上がっていったのだ。

 庭に咲く赤と黄色のチューリップの花に始まり、シバザクラの白と桃色の花の集まり、赤いエゾヤマツツジに橙色(だいだいいろ)のレンゲツツジ、さらにスモモやリンゴの白い花に、ライラックの紫の花、そして林のふちには、白いチゴユリの群落、さらには甘い香りと可憐な姿のスズランと、林の中にはベニバナイチヤクソウの群落も赤い花をつけはじめている・・・。
 そんな中で、ナナカマドの木の幹のそばに、数輪の黒い花が咲いているのを見つけた。
 なんと、それはクロユリだった。(写真上)

 北海道では、それほど珍しい花でもなく、原野などでよく見られるのだが、家の林の近辺で見たのは、これが初めてだった。
 実は数年前から、そこに何かユリ科かラン科のような葉をつけた植物があったのは知っていたし、草刈の時などにもそこは残しておいたのだが、それは何と嬉しいことにクロユリだったのだ。

 私は、この花をむしろ山で見ていることの方が多い、北アルプスの後立山連峰や南アルプスの北岳や兎岳(うさぎだけ)、そして4年前の白山(はくさん)でも見たのだが、あの時の花は、むしろこげ茶に近い色に見えたし、それと比べると、こちらの方が黒に近い黒紫といった感じだった。
 まだこの周りには、他にも何株もあるから、年ごとに増えていきそうである。
 しかし不思議なのは、どうしてクロユリの種がそこに運ばれたかである。もちろん私が移植した覚えはない。とすると、鳥が運んだのか、周りにいる動物たちが残したフンの中にあったのか、あるいは春の山菜取りの時に、アイヌネギやウドなどについていたものなのか・・・。

 ところで、このクロユリと言えば、その昔、NHKの”懐かしのメロディー”で、何度か聞いたことがある歌なのだが、アイヌ音楽風な太鼓の響きに始まり、確か「クロユリは恋の花、愛する人に捧げれば、二人はいつかは結ばれる・・・」とかいった歌詞だったように憶えている。
 (後で調べてみると、これは織井茂子の歌う『黒百合の歌』(昭和28年)であり、何と映画『君の名は』第2部の主題歌だったとのことである。)
 そうした話はともかく、実のところこの花の匂いは、そばに寄って嗅いでみると、何ともイヤな汗臭い感じの臭いがするのだ。
 それは、あのロマンティックな歌詞の意味するところからは、かけ離れた臭いであることは間違いない。歌の世界は別なのだ。

 ただし当時は、このアイヌ文化的な日本辺境エキゾティシズムが流行っていた時代だったのだ。
 あの有名な、伊藤久男の歌う『イヨマンテの夜』(昭和24年、これもまた『黒百合の歌』と同じ菊田一夫作詞・古関裕而作曲によるもの)や『オロチョンの火祭り』(昭和27年)などが、まさしくその代表的なものだし、文学作品で言えば、アイヌの文化と自然を背景にした一大ロマンである武田泰淳の『森と湖のまつり』(昭和33年)が思い起こされる。
 今はとても読み返す元気はないが、あの石坂洋次郎の『若い人』(昭和12年)とともに、当時は人気の恋愛小説だったのだ。

 ああ、あのころ、まだ学生だった私は、あの『若い人』の主人公、江波恵子のような、どこか陰のある利発な美しい娘に恋をしていたのだ。
 叶うはずもない美女と野獣の恋・・・てへー、そんななれの果てが、流れ流れて、いや好き好んで、もともとはアイヌの大地である北海道に移り住んでは長年暮らしていて、そこでクロユリの花に出会うという、まさに支離滅裂なしかしどこかつながりのある話で、そのお粗末な一席は、このあたりで幕引きとさせていただきまーす・・・・チョン、チョン、チョンと。

 またしても話がそれてしまったが、さて、北海道ではこのクロユリのように、本州などでは高山植物として珍しがられている花が、平地に普通に咲いているのだ。
 もうずいぶん前のことだが、近くにある日当たりのよい雑木林が伐採されて、トドマツの植林地になってしまった。
 そこはスズランなどの群生地でもあり、あのハクサンチドリまでもが咲いていた所だったのだが、それらの花もやがては、うっそうと茂るトドマツの樹林帯の下で消えゆくことになるのだろう。
 そこで私は、そのハクサンチドリの二株を採って、家の林のふちに移植することにした。(もちろん私には高山植物などを採ってきて育てるなどという趣味は全くないのだが、この場合は、緊急避難としての移植だった。)
 しかしそれは、二三年は根づいていたものの、花が咲かなくなり、いつしかその姿がなくなってしまった。
 やはり、野山の花は咲くも散るもそのままに、”やはり野におけ、レンゲ草”ということなのだろう。

 さて、庭仕事はいろいろとある。芝生の草取り、移植補修、そして芝刈り。道の周りのセイヨウタンポポやセイタカアワダチソウなどを抜いていき、さらに草刈ガマで刈っていく。
 その汗まみれの私を目指して、喜びの声をあげて寄ってくるものがいる。蚊とハエだ。しつこい蚊もうるさいが、何よりいやなのはサシバエだ。
 親からもらったもち肌のにの腕に、5ミリほどの丸い赤い刺し跡が残り、しばらくすると猛烈にかゆくなり、はれ上がり、昔のツベルクリン注射後のように何日もその跡が残り、痛がゆいのだ。
 彼らにとっても、繁殖のための絶好の時であり、私としても多少の献血への協力は仕方ないとしても、かゆくて痛いのは願い下げである。

 一方では、この数日、家の林全体から、エゾハルゼミのすさまじいまでの鳴き声が聞こえている。
 ”セミしぐれ”などといった情緒のかけらもない、地響きをあげるかと思うほどの、セミたちの声だが、不思議なことに、庭仕事に夢中になっている時には、その声に慣れて忘れてしまい、一休みした時に空を見上げて、そのうるさいまでのセミの大群の声に気がつくのだ。

 緑豊かな北海道の大地には、すべて合わせると何匹のエゾハルセミがいるのだろうか。
 セミの抜けがらが、一本の木に数個以上はついているから、この土地の面積が約1ヘクタール(約3000坪)あり、そこに木が数百本位あるから、少なくとも2千5百匹・・・ということは、北海道の面積の約70%が森林に占められていて、そのおおよそ550万ヘクタールのうち、高山帯の木々を除いた残り半分ほどの、森林地域で鳴いているエゾハルゼミの数だけでも、ものすごい数字になる・・・。

 やめよう、それは夢の中に際限なく出てくるヒツジの数を数えるようなものだ。
 ともかく北海道には、たくさんのエゾハルゼミがいるのだ。彼らはそれぞれに、長い幼虫の期間を土の中で過ごした後、セミとなって地上に現れて、1週間余り鳴いては交尾して子孫を残し死んでゆく。太古の時代から繰り返されてきた生と死のサイクルを、己の短い生涯の中で果たしているだけのこと。
 それぞれの優劣の差などは、全体にとっては大したことではない。
 水族館の大きな水槽の中で見る、あのイワシの群れの巨大な流れのようなものだ。個ではなく、全体としてあり、なおかつそれぞれ個として必死に生きているのだ。

 視線を庭に戻すと、シバザクラの小さな花の一つ一つを渡り歩いて、小刻みに羽を動かしているチョウがいた。
 これまた毎年、同じように現れる、ミヤマカラスアゲハだ。(写真)

 


 いわゆる春型のオスということになるのだろうが、カラスの濡れ羽色のような地色に、青緑色の後ろ羽とふちに並ぶ緋色の斑点模様・・・思わずしばらく見続けてしまう、これもまた季節の贈り物の一つなのだ。

 そうして庭仕事などをしていたのだが、こうも天気の日が続くと、いつしかこれでいいのか、山に行かなくていいのかという思いが湧き上がってくる。
 前回の登山から、もうすっかり体力は回復しているのだが、何しろ最近、輪をかけてぐうたらになってきたこのタヌキオヤジのケツを叩いて、朝早く出かけさせるなんてことは、もう至難の業(わざ)になってきているのだ。
 しかし、この初夏らしいさわやかな空の下で、終日残雪の山々が見えていると、さすがのぐずぐずオヤジも、じっとしてはいられなくなるのだ。

 午前中だけでも、あちこちから山々を見て回るべく、クルマで出かけたのだ。
 クルマの窓ガラスを開けて、新緑の香りと牛の堆肥(たいひ)の臭いを併せた初夏を感じながら、走って行く。窓の外には、一面の菜の花畑の彼方に、残雪の日高山脈が見えている。(写真下)
 さらに山に近づくと、雪解け水を集めて菁白色に流れる川を前景にして、十勝幌尻岳やカムイエクそしてペテガリ岳などの残雪の山々が大きく見えてくる。
 展望台へと遊歩道を登ると、ぐるりと開けた四方に十勝平野の広がりと反対側に立ち並ぶ日高山脈の山々・・・これでいいのだ。
 山に登らなくても、この緑に囲まれた丘の上から山々を見ているだけでも、それはまたいつか歩けなくなった時のための、事前演習でもあるのだから。

 こうして無理なく、年寄りらしい日々を送ることと、一方では、自分に最大限の負荷をかけて、エヴェレストにまで登ろうとする人との差は・・・。
 昨日のNHK『クローズアップ現代』では、あの三浦雄一郎さんの、とても80歳とは思えない体力と気力の秘密に迫っていた。
 両足に5㎏の重りをつけ、背中に20㎏のリュックを背負い、毎日歩き続けること、ただエヴェレストに登るという一念だけで。
 彼の体を診察して、感嘆の声を上げた医師のまとめの言葉。
 人生に確かな目的を持つこと、気力を込めてその目標に向かうこと・・・。

 さらに三日ほど前の、テレ朝の『人生の楽園』での話だが、60歳を過ぎて夫に先立たれた妻は、毎日を泣き明かし続けていたのだが、ある時ふと気づいてこのままではだめになると思い、夫のものをすべて袋に入れて処分し、心機一転、自分の趣味でもあるキルトを展示したカフェを開いたのだった。

 私はというと、情けないことにいまだ母の死と、ミャオの死を十分に受け入れることができずに、二人の思い出の中に埋もれて、うだうだと、くすぶり続けているのだ。
 今さら若い時のように、何かを期待して待っているわけではないのだけれども、ともかく自分で一歩を踏み出さなければ・・・それは環境を変えることなのか、考え方を変えることなのか、それとも穏やかに暮らすことだけで十分だと思う今のままでいいのか・・・。

 

 


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