ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

またしても雪景色

2013-05-06 21:32:52 | Weblog
  
 
 5月6日

 暦(こよみ)の上では、もう立夏(りっか)になり、内地のあちこちでは25度以上の夏日になって、中には30度になった所もあるというのに。
 ここ北海道の十勝地方では、今日は一日中、雪が降っていた。朝の気温は-1度、日中も2度までしか上がらなかった。

 湿った雪だから、積もった先から少しずつ溶けていくが、それでも積雪10cmにもなるのだ。
 今時に雪が降ることは、別に珍しいことでもないが、それにしても、私が戻ってきて3週間ほどの間、ずっと寒い日が続き、最高気温は10度前後までにしか上がらず、そのうえに、5㎝以上の雪が積もったのはこれで4度目になる。

 物音が途絶えて、空の彼方から、ただ雪だけが静かに舞い降りてくる・・・部屋では、ストーヴの薪(まき)のはじける音がしている。
 やがて、時折どすんどすんという音が聞こえてくる。屋根からすべり落ちる雪の音だ。
 まるで、私の好きな冬の雪の季節のただ中にいるようで。
 私はゆり椅子に座って、そうして雪が降るのをずっと見ている。(写真上)

 「天使の群れで空はいっぱい
  一人は士官の服を着て
  一人はコックの服を着て
  他の皆は歌いだす
  ・・・
  ああ、雪がふる、雪がふる
  それにつけても思い出す
  かわいい娘はなぜ去った」

 (『アポリネール詩集』堀口大学訳 新潮文庫より)

 この日の朝、北海道は3つの天気の区域に分かれていた。札幌は雨、この十勝は雪、そして道北の稚内(わっかない)は快晴で、青い海の上にまだ全部が真っ白の利尻岳が見えていた。北海道は広いのだ。

 それにしても、この連休中の北海道の天気は良くなかった。札幌では毎日、雪や雨の降水量を記録して、気温も10度を超える日がなかったとのことである。
 それに比べれば、まだこの十勝地方の天気はさほど悪くはなかったのだ。確かに、日高山脈全山が見えるほどの天気ではなかったけれども、時々晴れては、少し暖かく感じられる時もあったからだ。
 しかし、ビートやジャガイモの植え付けが始まったばかりの、周りの農家の畑が心配だ。寒さはともかく、作業日程に大きな影響が出てしまうだろう。

 そんな天気が落ち着かない中、晴れ間を見つけては、近くの裏山を歩き回ってきた。
 湿地では、ミズバショウの花が咲いていたが、ただ何度かの寒さにあったためか、葉先が茶色くなってしまう被害を受けていた。
 他には、エゾエンゴサクの薄紫色の花が咲き、水辺にはエゾノリュウキンカ(ヤチブキ)の黄金色の花が咲いていた。
 もちろんそんな花々を見る楽しみもあったのだが、もう一つの大事な目的はいつものアイヌネギ(ギョウジャニンニク)を採りに行くためでもあった。
 時々ヒグマの足跡が残っているような、いつもの谷に分け入って行くと、今年もいつもの所に、特徴ある緑の葉が出ていてくれた。(写真)

 

 小一時間かかって、レジ袋いっぱいのアイヌネギを採ることができた。半分は、毎年楽しみに待っていてくれる友達にわけてやるためでもある。
 毎年のこうした山菜採りで、いつも悩まされるのが、衣服や頭に取りついてくるダニである。しかし、何と今年はまだ一匹も見つけていない。
 それは、こうした20何年ぶりという春先の寒さで、ダニが出てくるのが遅れているからだろう。
 つまりは、毎日寒いことは、何も悪いことばかりではないのだ。
 そして、気になっていたあの九州中国地方での、伝染性のダニにかまれての死に至る病気は、ありがたいことにここ北海道のダニとは別の種類であり、今のところその心配はないということだ。

 さて、北海道の山菜取りが好きな人たちは誰でも、自分だけの秘密の場所を持っていて、その領域で節度ある採り方をしていて、決して根こそぎ持っていくようなことはしない。
 アイヌネギは、一株から二つ三つ出るので、そのうち一つだけを地上部分から切り取って、決して地下の球根の部分は取らないで、次の年のために残しておくのだ。
 もちろん、内地での春の山菜として有名なノビルと同じように、球根の部分がおいしいのは言うまでもないことなのだが。

 ともかくそうして採ってきたアイヌネギだが、下処理にも手間がかかる。
 まず傷みやすい茎の外側の袴(はかま)の部分を取っていくが、ギョウジャニンニクと呼ばれるだけあって、指先からしばらく匂いが取れなくなるほどに臭くなる。
 それを水できれいに洗って、すぐに食べるものと冷凍保存するものに分けて、ポリ袋に入れていく。それらの作業だけで小1時間はかかってしまうが、それもおいしい山菜をいただくための大切な工程なのだ。

 そしてそれを、うどんやラーメンに入れると色合いもよく食べてもおいしいが、さっと熱湯を通しておひたしにして、カツブシにしょうゆをかけて、熱いご飯に乗せていただくのが一番だ。
 金はなくとも、一緒に食べる相手がいなくても、ただこうして自分で歩き回って採ってきて、季節ごとの味覚を味わえることのありがたさ、さらに5月6月へと山菜の季節は続いていくのだ・・・あー、今年も生きていてよかった。

 連休の間は、どこにも出かけずに、家にいた。
 本州の山々は、絶好の春山日和(びより)らしかったが、北海道の山の天気は、ずっと良くなかった。
 私が2週間前に、あの日高山脈の低山ひょうたん山に登った時(前回参照)のように、日高山脈が全山見えるような天気のいい日は一度もなかったのだ。

 それで家にいたのだが、退屈することはなかった。
 上に書いたように、山菜取りなどで近くの裏山を歩き回り、自宅林内での山仕事があり、畑仕事があり、ゴエモン風呂に入るための(2時間半もかかる)仕事があり、後は得意なぐうたらオヤジのごろ寝の他は、本を読みテレビを見ていた。

 そして、録画しておいた日本の時代劇映画を二本見た。
 いずれもあの、藤沢周平原作によるものであり、秀作と呼ぶにふさわしかった。
 一つは、山田洋次監督による時代劇三部作の最初の一本である『たそがれ清兵衛』(2002年)である。

 長患(ながわずら)いの妻に先立たれて、返しきれないほどの治療費だけが残り、幼い娘二人を抱えて、身なりも構わないほどの清貧暮らしに甘んじていた、下級武士の清兵衛は、お城でのお勤めの後の同僚からの誘いも断って、子供たちと内職の仕事が待つ我が家へと急ぎ、その同僚たちからは、”たそがれどきまでの清兵衛”と裏口を叩かれていた。
 しかし実はこの清兵衛、小太刀の達人であり、それが幼なじみの武士仲間の妹でもある、出戻りの娘への思いもからんで、彼女の元夫との果し合いする羽目になり、その時の鮮やかな手際が城内に知れてしまい、ついには、藩の意向に背(そむ)いたお役付きの腕の立つ藩士の討伐を命じられることになる。
 その相手が立てこもる、閉門(へいもん)中の屋敷内で対決することになるが、彼は傷を受けながらも相手を倒し、今は思いを通じ合う彼女が幼い娘二人とともに待つ家へと帰って行くのだ。

 あの時代小説の名手である、藤沢周平の”情”の部分をしっかりと描きながらも、息詰まる対決の場面のリアルさもまた出色の素晴らしさだった。
 それは、日本人であることの誇り、つまり昔の日本の侍たちの中にも、こうした誇りを秘めて、目立たずに正しくひっそりと生きていた人たちがいたのだということを、その姿を描きだすことによって、今の世の中へのある種の警句としたかったのではないのか。
 つまりそれは、山田洋次監督が”寅さん”という実は真面目な道化(どうけ)の姿を借りて、彼が発してきた現代社会批判への言葉の続きでもあったのだ。
 真田広之、宮沢りえ他の出演者たち、キャメラ、小道具などについては、あの『武士の一分』(2006年、’12.12.29の項参照)と同じように、よく考えられていて十分に納得できるものだった。

 ただ惜しむらくは、最後に明治の御代になって、清兵衛の娘があの頃のことを振り返るという設定で、その場面が付け加えられていたが、あれは明らかに余分なものであった。
 映画と小説は違うものであり、何も原作通りに作ることが映画芸術の本質ではないのだ。

 観客たちは、映画が終わった後も長く続く深い余韻(よいん)に浸り、静かにひとり考えることこそが、思索する映画の一つの愉しみでもあるのに。

 私の好きなヨーロッパ映画の名作などは、別に一般受けすることをねらったわけではなく、監督の芸術作品創造への強い創作意欲によって作られていることが多く、それに比べて日本映画の場合は、大衆向けに作られてきた長年の伝統が、いまだに残っているのではないかと思えるほどに、すべての人に分かってもらえるようにと、ともかく余分なセリフや説明が多すぎるし、同じ説明を繰り返しすぎるのだ。
 さらに付け加えて言えば、エンドタイトルに流れる井上陽水の歌も、せっかくの映画の時代の中に引き込まれていた気分を、現代の今に戻してしまい、これまた余分なものであると言わざるを得ないのだ。(井上陽水は、私の好きな歌手の一人でもあるのに。)
 観客たちは、それほど繰り返し説明されなければわからないほどに、馬鹿ではないのだ。万人向けのものは、逆に誰のため向けでもないということだ。

 日本の大監督の作品を、たかが私ごとき素人が批評してよいものかとも思うが、これもわずか百人ほどの人が読みとばしているだけの、知られることもない私的なブログであるから、それは何の影響もない”大海の一滴”として許されることだろう。
 そのお目こぼしを期待して、さらなるもう一本についても書いておきたい。それは、平山秀幸監督による『必死剣 鳥刺し』(2010年)である。

 舞台は上にあげた作品群と同じように、原作者藤沢周平の故郷でもある山形県庄内地方にある架空の小藩での話である。
 剣の名手でもあるお役目付きの藩士三左衛門は、藩政の乱れが殿の側室による無理難題の要求によるものであると知り、思い余って殿中でその側室を亡き者とすべく刃傷(にんじょう)に及ぶ。しかし事件の後、下された御沙汰(ごさた)は、以外にも蟄居閉門(ちっきょへいもん)一年という軽いものであった。
 いうまでもなく、そこにはその時の殿の怒りを抑えた、家老の深慮遠謀(しんりょえんぼう)の思惑が入っていたのだ。彼らの利益と相いれない藩主別家(べっけ)の存在を疎(うと)ましく思っていた家老は、いつか役に立つ時が来ると三左衛門を助けておいて、いざ別家の謀反(むほん)の気を察した時に、腕の立つ別家相手に三左衛門を対決させたのだ。
 そして、三左衛門がその別家を討ち果たした時、家老は豹変(ひょうへん)して、顔色も変えずに、殿中で刃傷沙汰(にんじょうざた)を起こした三左衛門を討ち取るべく、周りの伴侍(ともざむらい)たちに命じるのだ。
 そこから、陰惨(いんさん)を極めた三左衛門の死闘が繰り広げられるが、多勢に無勢(たぜいにぶぜい)で彼は満身創痍(まんしんそうい)になりながら死に果てた・・・と思った瞬間、近づいてきた家老に向かって、最後の”必死剣 鳥刺し”の一撃を・・・。

 それまでの、セリフの少ない静謐(せいひつ)な画面、主人公を演じる豊川悦司の抑えた演技や相手役の池脇千鶴の所作ふるまい、それに脇役たちの芸達者さ、そして最後の壮絶な城内での切り合いの場面に至るまでが、緊迫感にあふれていて見事だった。
 つまり、謀(はかりごと)に巻き込まれていった一人の実直な藩士の悲劇は、十分に描かれていたと思うのだが、もう一つの情の部分が、いささか中途半端にも思えた。
 亡くなった妻の代わりに、手伝いとして来ていた義理の姪(めい)である出戻りの娘との、ひそかな恋慕の情は、もどかしくそれだけに心に響くのだが、いざお互いの気持ちが通じ合い結ばれる場面は、余りにも今の時代と変わらぬ交情シーンになっていて、明らかに異質だった。それまでの落ち着いた風情のある映像の流れからすれば、もっと淡く象徴的な映像でもよかったのではないか。
 さらに細かい所をあげれば、蟄居閉門明けの三左衛門の体があまりにも小太りで、やつれた所が見られないこと、最期の壮絶な立ち回りのシーンや”必死剣 鳥刺し”の技に無理があること、さらにこれもまたエンド・タイトルで、今の時代の歌が歌われていたことなど・・・。

 しかし一時の娯楽的時代劇と比べれば、この二本の作品は、極めてリアルに描かれていて、それだけに映画というよりは人間の生き方そのものに引き込まれる思いがするのだが、上にも書いたように、まだまだ気になるところが散見される。
 あと一歩突き抜けたところでの、日本的な時代劇の、上質な芸術作品を見たいのだが・・・。

 私が、今まで見てきた日本の時代劇映画の中で、納得することのできたものは三つ。
 黒沢明の『羅生門』(1950年)と『七人の侍』(1954年)、そして溝口健二の『雨月物語』(1953年)である。

 しかし、あえて言えばその三本さえも、わずかだけれども、気になるところがあるのだが・・・いや、これほどまでに世界的評価の高い作品に、どこがどうだとかは、私ごとき取るに足りないただのぐうたらオヤジがこれ以上言う資格はないのだ・・・はい、わかっております。

 雪の降る前の日に、カラマツの葉が降り積もった庭の一隅で、弱々しく飛んできた一匹の小さなチョウ(写真下)・・・恐らくは羽化して間もないエゾスジグロシロチョウだろうが、この雪の中、あの若いチョウは、どこかで生きのびてくれていればいいのだが・・・。