ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ブッダのことばとあきらめること

2013-05-13 17:52:55 | Weblog
 

 5月13日

 この十勝の家に帰ってきてから、もう一カ月近くになるというのに、毎日、薪(まき)ストーヴを燃やしている。
 昨日は、朝早いころ、雨が雪に変わって、見る間に白く積もった。
 今日も重たい曇り空のままで、朝の気温の3度からあまり上がらず、日中も5度までがやっとだった。
 内地では各地で30度を超える真夏日になり、暑いと言っているくらいなのに。

 もっとも昨日の雪は、春の淡雪だからすぐに溶けてしまったが、それにしてもこの寒さはいつまで続くのだろうか。
 家の小さな畑の植え付け作業をするのにも、ためらわれるくらいだ。
 普通の家庭菜園をやっている家では、この寒さくらいは予定の中に折り込みずみで、ちゃんとした野菜用のハウスがあるから心配ないのだろうが、何事にも大ざっぱで、おてんとうさま任せの露天栽培しか知らない私には、ともかく天気次第になってしまうのだ。

 もう一つの、天気次第である山については、これまた何とも寒々しい経過をたどっているのだが。
 前回の雪山ハイキングからもう3週間にもなるというのに、天気がさっぱり良くならないのだ。もっとも二日ほど、青空の下に白雪の山なみが見えた日があったのだが、いずれも朝のうちだけで、その後、稜線は雲に隠れてしまった。
 しかし、そうして山がきれいに見える日に家にいて、山登りに行かなかったことほどつらい気持ちになることはない。朝早く出かけていれば今頃、あの白い稜線に向かって雪の中を登り続けている頃だと思ったりして。

 そして、今私は情けないことに、家の中でぐうたらな姿で横になってテレビを見ているだけだ。
 これではいかんと、むっくりと起き上がり、身支度を整えて外に出る。
 ヒバリやクロツグミそして、少しさわがしいオオジシギの風切り音を聞きながら、畑や林の横を通る砂利道を歩いて、牧草地が広がる裏山の丘に上って行く。
 広大に広がる空の下に、まだ白雪に覆われた日高山脈の山々が、連綿としてつながっている。(写真は左手のヤオロマップからコイカクシュサツナイ、1823峰、カムイエク、1917峰、春別岳へと続いている。)

 この山々の眺めがあるからこそ、私はこの北の大地を目指してやって来たのだ。
 もう何十年にもわたって見続けている光景だが、今も決して見あきることはない。
 だからもし、こうした天気のいい日に山に行きそこなったとしても、悔やむことはないのだ。間近に眼前に迫る迫力はなくとも、遠くに見えるこの光景もまた、私の好きな山々の眺めなのだから。
 ましてこれから年を取っていった先には、山歩きも出くなくなるような日が来るだろうから、そうなった時でも少し歩いて行くだけで山を見ることはできるし、それさえできなくなったとしても、家の中から木々の間に山々を見ることもできるのだから・・・。
 それはこの地で、”願わくば、雪の上にて冬死なむ、その如月(きさらぎ)の三日月のころ”(西行の歌にちなんで)とまで思うほどだから・・・。

 私は、その青草が伸び始めた牧草地の彼方に見える、白雪の山々の姿に感嘆の声を上げながらも、思ったのだ。
 ものは、考えようなのだと。
 物事をすべて悪くとり、悲観的に考えてばかりいても、先は見えない。ただそうした悪いことの責(せき)を、他人のせいにしたり、運命だと決めつけてしまえば簡単だろうが、それでふさいだ気分が休まるわけでもない。
 そうではなく、悪い出来事はそれとして認めたうえで、あきらめてしまうことだ。そして、早く次なる代わりのものを見つけたほうがいい。
 それは、私みたいなオヤジ年寄りの世代の人たちにだけに言えることであって、何もこれからの人生があって、何度でも挑戦し続けることができる若者たちに当てはまることではない。
 若いうちに、夢に向かっての挫折と再挑戦を繰り返すことこそが、彼らの人生の将来を生き抜くための、心と体を作ることになるのだから。

 しかし私たち、オヤジ年寄り世代にはそうした余裕ある時間は残されていないのだ。
 いつ来るともしれない死というものに、いたずらにおびえることはないが、ただ考えの中に入れておく必要はある。
 いつか突然、生の時間が打ち切られるようになることを覚悟して、そのことを意識しながらも、自分にとって残された時間をいとおしみながら過ごしていくこと・・・。
 ”この世も名残(なご)り夜も名残り”(近松門左衛門『曽根崎心中』より)・・・”死は暗く、人生もまた暗い”(マーラー『大地の歌』より)と、いざその時になって嘆かぬように、自分の人生をまっとうすること・・・。

 そのためには、幾つかの良くない出来事などは、小さなことと見下すことだ。どう見ても、人生の終わりの方が近い自分には、そんな些細(ささい)なことにかかわり合っている暇はないのだ。
 ただ毎日を感謝しながら、天から受けた命の日々をありがたくいただくことだ。たとえそれが、ぐうたらに過ごしただけの一日だとしても、何よりも心静かに過ごせたことだけでもありがたいことではないか。

 そのための、条件の一つとしては、余分な願いや欲望を抱かぬことだ。あきらめること、これほど有効な決断はないだろう。
 それはつまり、若い時の、未練がましく後に引くような、泣く泣くいやいやあきらめることではない。すっぱりと、もうなかったものとして、明るい気持ちであきらめることだ。
 すると、残り少ない人生ながらも、新しい地平が見えてくるはずだ。”よく生きよ”(ハイデガー『時間と存在』より)との声が聞こえてくる。
 しかし、たとえ新たな地平に、新た何かを見つけられないとしても構わない。
 それぞれの人生の中で、必ずや”よく生きた”時があったはずだ。その思い出の中に帰って行けばいいだけの話だ。

 若いころ、私はオヤジさんや年寄りたちの話に、その昔は良かったという多分に誇張された話をいささかうんざりしながら聞いていたのだが、今になって思えば、それは彼らが、若者たちに聞かせるよりは、自分に言い聞かせていた”よく生きた”時代に戻るための話だったのだ。
 あの時のおやじさんたちは、残り少ない自分たちの時間を精いっぱい生きていたのだ。
 ああ、何といういとおしさにあふれた、生きるという日々だろうか。

 余分なものはあきらめる、という気持ちさえ持てばいいのだ。
 つまり、”欲なければ一切(いっさい)足り、求むるありて万事(ばんじ)窮(きゅう)す”(良寛漢詩集より)ということにつきる。
 欲しがらないこと、ねたまないこと、そしてやさしいあきらめの気持ちを受け入れること・・・それで得ることのできる、心の平穏に勝(まさ)るものが他にあるだろうか・・・。

 穏やかな気持ちになってあきらめることは、むつかしい言葉で言えば、諦観(ていかん)ということになるのだろうか。それは、辞書をひもとけば、「悟りあきらめて、超然(ちょうぜん)とした態度をとること」と書いてある。
 もちろん今の私は相変わらずに、様々な煩悩(ぼんのう)にとらわれていて、それらのすべてを消し去ることはできないし、とても悟りの境地などとはほど遠いところにあるのだが、その言わんとするところの意味が少しは分かってきたような気もするのだ。

 この諦観は仏教用語では、”たいかん”と呼ばれて、「全体を見通し、事の本質を極めること」の意味として使われているのだが、そもそも諦という言葉には、私たちが普通に使う、”諦(あきら)める”という意味の他に、”諦(あきら)かにする”と意味があるのだ。
 つまり、前にも取り上げたことのある(’11.10.1の項参照)あの 『ブッダ 真理のことば』(佐々木閑著 NHK出版)の中で言われている”四諦(しだい)”がそれである。

 ブッダが、恵まれた王子の地位を捨て、現世を捨ててひとり修行の道に入ったのは、すべての人々は老病死がついて回る苦しみだらけの世の中に生きていて、そんな世の中で、悪しき輪廻(りんね)を断ち切り、苦しみから離れて心の平穏を得て救われるためにはどうしたら良いかと考えたからである。
 そしてブッダは、この世に生きていくうえでの四つの真理、つまり苦諦(くたい)、集諦(じったい)、減諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つを順に説くことによって、その苦しみからの解脱の方法を示したのだ。

 つまり、平たく言えば、「生きていることは苦であり、その原因は煩悩(ぼんのう)にあり、その煩悩を消し、悟りを得るべきである」ということになり、そのためには八正道(はっしょうどう)を守って修行しなければならないとしたのだ。
 その八正道とは、”正しいものの見方をして、正しい考え方を持ち、正しい言葉で語る・・・”などと、とても迷いの多い私ごときに勤まるはずもない行いの数々なのだが、注目すべきは、この世の苦しみを、外の世界や他人によるもののせいではなく、あくまでも自分の心のうちの問題だとした点にあるのだ。

 そして、そのブッダの教えは、殆んどの日本人がそうであるように、ただの冠婚葬祭(かんこんそうさい)時の仏教徒でしかない私の心の中にも、気がつくといつしか深く根を下ろしていたのだ。
 悪いのは、この世の中でもまして他人のせいでもない、すべては自分が悪いのだと・・・そこから見えてくる、ある種の諦観とひとときの心の安らぎ・・・そこには、集団心理へと移行する不安もひそんでいるのだろうが、自分だけが救われようとするのではなく、何より、他人に迷惑をかけないという、日本人の村落共同体の深層心理さえもかいま見える気がするのだが・・・。

 もっとも、戦後以降の西洋文明の輝かしい自由主義の空気をいっぱいに吸って生きてきた若者たちにとっては、そんな旧態然たるじいさんばあさんたちの世代の思いなど、知ったことではないのだ。
 今の時代に生きる彼らには、まさしく彼らだけの十分な言い分があり、これから先の世の中は彼ら自身が決めて行けばいいのだから。

 ただ私は、そんな新しい世代の生き方と同じにようにして、生きて行こうとは思はない。これからも、穏やかなあきらめの気持ちを持って、”よく生きた”時代をしのびながら、残された時をいとおしみつつ生きて行けばいいのだと思っている。
 そのためにも、たとえば今の私が日常的に続けている、小さな一つの仕事がある。前にも書いたことだが、古い写真フィルムを一本一本、デジタル・スキャンして、モニター画面に映していくことであり、単純な機械的作業にすぎないのだが、何十年ぶりに見る写真の、たとえ色褪せてはいても、何と心にも鮮やかによみがえって来ることか。
 あの時の私がいて、あの時の山々があり、あの時の彼女が微笑んでいる・・・。

 これほどまでに、懐古(かいこ)趣味的な後ろ向きの日々を送っていた所で、誰に迷惑をかけるわけではなく、まして私自身が生きることに後ろ向きなわけではなく、否(いな)、それ以上に、今まで生きてきたことに、今も一日一日と生きていることに感謝せずにはいられないのだ。
 これからこそが、ようやく私の輝かしい世界が続いて行くのだから・・・。

 ”老兵は死なず。ただ消え去るのみ。”(元日本占領軍司令官マッカーサーの言葉)だとしても・・・”おれはまだ生きて、ここにいるぞ”(映画『パピヨン』ラスト・シーンの言葉)という思いなのだ。