5月20日
今日は、朝から冷たい雨が降り続き、昨日も寒い曇り空の1日で、そんな10度以下の気温では、まだまだ薪(まき)ストーヴの暖かさが頼りになる。
ただ、その前の2日間は、久しぶりに青空が広がり、気温も20度近くまで上がって、こちらに戻ってきてからの、1カ月も続いた薪ストーヴとの日々も、ようやく終わったと思えるほどの、まさに春本番になった感じがしていた。
そして、それまでが寒かっただけに、その2日間の道内は、明るい春のニュースにあふれていた。帯広ではエゾヤマザクラが満開になり、旭川でもようやく平年より2週間遅れでの開花ということだった。
道南の松前などを除いてはソメイヨシノが育たない北海道では、代わりに赤みの強いエゾヤマザクラが各地の標本木になっている。
ソメイヨシノのように、木全体にあふれんばかりに花が咲く豪華絢爛(けんらん)さはないけれども、一つ一つの花びらが濃く鮮やかであり、北国の春を告げるにふさわしいサクラなのだ。
家の林の中でも、遅れていたオオバナノエンレイソウやオオサクラソウなどの花が咲き始めた。
そして、家の小さな畑にも、ジャガイモのタネイモとキャベツの苗を植え付けた。イチゴ畑では、去年新たに増えた苗も植えなおした。
そうした仕事をすませた後、次の晴れた日の朝、山に登ることにした。
それも、今の自分の体力気力を考えると、もう長い時間クルマを運転して遠くの山を目指す気にはならないし、かといって近くの日高山脈でも高い山に挑む(’09.5.17~21の項参照)ような元気もない。
しかし今の時期ならではの、もう固雪になった尾根歩きを楽しみたいと思って、そこで考えたのが、たおやかに続く日高山脈の北部の山なみである。
この時期にはいつも、南日高の山々にばかり行っていたのだが(’11.5.7の項参照)、標高が低い割には結構時間がかかるし、寄る年波には勝てずに、新たな挑戦なども考えられなくなった今の私には、やはり無理なく安心できる山歩きができればそれでいいのだ。
3度目のエヴェレスト登頂を目指す、80歳の三浦さんの今だ旺盛(おうせい)なる行動力に比べると、自分の無気力さが情けない気もするが、そこはそれ、ゾウにはゾウの時間があり、私のようなちっぽけな存在でしかないネズミには、そのネズミなりの時間があるのだ。毎回、馬鹿の一つ憶えで繰り返すが、つまり誰にでも、”I'm still here"(「おれはまだ生きているぞ」前回参照)と、叫ぶことのできる所があるはずなのだ。
さてその日高山脈は、南北の日本アルプスと並ぶ長さがある日本有数の大山脈であるが、一番高い日高幌尻(ぽろしり)岳でもやっと2000mを超える高さに過ぎない。
しかし、高緯度にある自然環境の厳しさから、本土の3000m級の山岳地形と変わらない景観が広がっているのだ。
たとえば、日本で山岳氷河の名残であるカール地形(氷河圏谷)が見られるのは、南、北、中央の日本アルプスとこの日高山脈だけなのである。
余分な話だが、もし日高山脈があと1000m高かったなら、最近話題になった剣・立山の氷河以上に、確かな氷河が今でも谷を削り続けているかもしれないし、何より、この十勝平野から高度3000mの高さで立ち並ぶ山々を見られることになるのだ。
ちなみに、日本で高度3000mの標高差を実際に眺めることができるのは、富士山を見上げるその周囲の地域は言うまでもないことだが、残るのは、わずか1か所、あの富山平野からの剣・立山連峰だけである。(安曇野からの北アルプスの眺めは美しいが、標高差は2000mを超えるくらいにしかならない。)
冬の晴れた日に、かの地に立って、その剣・立山を見ること・・・死ぬまでには果たしたい私の望みの一つではある。
話がわき道にそれてしまったが、日高山脈に話を戻そう。
その壮年期地形の急峻な谷を刻み付けた山々は、中央部の日高幌尻岳(2053m)やカムイエクウチカウシ山(1980m)を中心にして、南は、楽古岳(1472m)か少し先の広尾岳(1230m)から庶野(しょや)の海岸に落ちるまで、北は芽室岳(1754m)辺りまでか、あるいはさらに伸ばして日勝峠傍のペケレベツ岳(1532m)まで辺りがいいところだろう。
その日勝峠以北の山々は山容が穏やかになり、高度を減じながらなだらかに連なり、熊見山(1328m)から1289mJ・P(ジャンクション・ピーク)、オダッシュ山(1098m)そして狩勝峠に下り、再び上がって佐幌(さほろ)岳(1059m)から最後の高みになる椎空知山(しいそらちやま、943m)にまで続いている。
そして、これらの日勝峠から狩勝峠周辺の山々には、今までにも何度か登っている。
ペケレベツ岳、日勝ピーク(1445m)、沙流岳(1422m)、熊見山、狩振岳(1323m)、オダッシュ山、佐幌岳などであり、それらのいくつかには夏道登山道もついているが、私が登ったのはほとんどが雪のある時期である。
そして、いずれも頂上往復の行程であり、これらの山々をつないで縦走したことはない。
そこで今回目指したのは、熊見山から1289mJ・Pを経て、双珠別岳(そうじゅべつだけ、1389m)までの縦走である。
実は熊見山までは、7年前に、クロスカントリーが得意な友人とスキーをかついで登ったことがあるのだが、下りは転んでばかりで雪まみれになってしまった。
これなら歩いて下った方が早いし、危険なこともない。私は山スキーに向いていないと思って、以後はもっぱらツボ足(靴やアイゼンのまま)で登るようになり、雪の状態が悪くツボ足では無理な時には、前回のひょうたん山の時のように、ワカンかスノーシューをつけて登ることにしているのだ。
今回の山は、前回ほどの急斜面ではないからと、スノーシューを持ってきたのだが、予想以上に雪の状態が良くて、とうとうプラスティック・ブーツだけで快適に歩き通すことができたのだ。
清水町から、国道を日勝峠に向かって上っていく。青空の下にずらりと並ぶ白い山々は、いつもの連休の頃と同じくらいの雪の量があった。
この春の寒さと、その後も続いた雪の日を思えば、いつもの年の2週間くらい前の雪の深さがあるというのも納得できる。
峠のトンネルを出て、次の三国沢シェルター(防雪囲い)を抜けたすぐの所に数台分の駐車スペースがあり、そこにクルマを停めてから出発したのだが、朝ゆっくり家を出たこともあって、もう8時近くにもなっていた。
シェルターわきから上がり、ゆるやかに広がる雪の尾根に取りつく。トドマツにダケカンバがまばらにまじる斜面には、少し前の日のものらしいスキーの跡がついていた。
熊見山から南に下りてきたこのなだらかな広い尾根は、初心者の山スキーの練習にはうってつけなのだが、私はそんな練習しているヒマがあったらそのまま雪の山に登って行った方がいいと思うくらいだから、いっこうに山スキーはうまくならないのだ。
スキーをしたい時には、近くのゲレンデですべればいいのだから。
思えば前回、珍しく友人の一人と一緒に山に登った時にも、本当は熊見山までではなく、ずっと先の双珠別岳まで行きたかったのだが、彼は山スキーをするために来たのだし、私も山スキーの練習をしようと思っていたのだから、熊見山まで登ってすぐに下りて来てしまったのだ。
もっともその時、私は”ダルマさんが転んだ”状態の繰り返しで、何の進歩もなかったのだが。
この雪のルートは、高い標高点(950m)からすぐ山に取りつけるのがいいのだが、何しろ国道の長い防雪シェルターを見下ろしながら登っていくために、風向きによっては排気ガスが臭ってくるし、車の走る音も聞こえてくる。
こうした高所までクルマで上がれる道があるのは便利だが、一方で大自然の中で、そうした弊害(へいがい)の部分も感じながら登って行かなければならないのだ。
とはいっても、頭上に広がる青空、曲がりくねった枝を広げるダケカンバ、アカハラの鳴く声、そして足元の適度に締まった雪の斜面、その中を歩いて行く心地よさ。
誰もいない山の中をひとり、雪面に下ろす自分の靴音を聞きながら、ただひたすらに登って行く。
すると、まばらなダケカンバの木もなくなり、東側が上部まですっきりと続く広い尾根に出る。振り返ると、ぐるりと大蛇のように曲がって続く防雪シェルターがはるか下に見え、その上に日勝峠以南の日高山脈の山々も見えている。(写真上、芽室岳、ペケレベツ岳、ペンケヌーシ岳、沙流岳など。)
ゆるやかになった雪面を上がって行くと、前方に新たに北側の展望が広がってきた。
然別(しかりべつ)の山々から、ウペペサンケ山、ニペソツ山、丸山、石狩岳連峰などの東大雪の山々が続き、そして、最後に見えてきたのは、大雪山トムラウシ山からさらに十勝岳連峰の白雪の山なみである。
この快晴の日の山々を見るために、私は登ってきたのだ。見慣れた山たちの姿だが、何度見ても見あきることはない。
特に、鋭い三角形の姿で天を突くニペソツ山(2013m)の姿が、ひときわ素晴らしい。(写真、右は丸山)
ニペソツは、確かにあの天狗のコルから見る姿が一番いいけれども、少し離れてその南北に位置する所から見る姿もやはり素晴らしい。
それは、石狩岳シュナイダー・コース登山道の途中から、あるいは丸山に向かう幌加六の沢の尾根に上がった辺りから見るのがいいし、こうして遠く離れた所から見ても見事である。
やがて、雪の上にハイマツが少し出ている熊見山の頂上(1328m)に着いた。下からは1時間半ほどかかっているが、今の私としてはまずまずの時間だった。
ただこの頂上では、今まではあまり感じなかった風が強く吹いていて、汗ばんだ長袖シャツの上にすぐに厚手のフリースを着込んだが、それでも結局、以降もこれだけで十分だった。(この日、地元の新得の気温は20度を超えていた。)
少し休んだだけで頂上を後にして、先を急ぐことにした。北側に回り込んで、ただの雪の斜面か、あるいは広い雪堤になっているのが分からないような尾根を、ゆるやかに下って行く。
雪の状態は悪くはない。時にズボっとはまることもあるが、おおむね表面が少しゆるんでいるだけの固雪で、これなら何もつけずにプラスティック・ブーツだけで歩いて行ける。
まばらなにあったダケカンバがなくなり、後は広大な雪堤が1289mJ・Pへと連なり、さらにその先にたおやかにそびえる双珠別岳が見えていた。(写真)
私は雪面にザッザッと音を立てながら、雪堤の斜面を下って行った。右側には雪庇(せっぴ)が張り出し少し崩れている所もあったが、それを気にしなくてもいいほどの、2~30mもある広大な雪堤だった。
もうスキーの跡もついていなくて、ただ風が作った紋様だけが波のように続いていた。ヒグマの足跡はもちろんのこと、エゾシカやキツネの足跡さえもついていなかった。
いつもはヒグマを気にして、鈴を鳴らしたりするのだが、その心配はなかった。夜の間にこの雪の尾根を越えることはあるかもしれないが、今の時期、エサもないような昼間の山の上にヒグマが出てくるはずもないからだ。
用心はするべきだが、必要以上に恐れることもない。(もっとも、同じ時期に、南部のオムシャヌプリで、尾根を越えた真新しいヒグマの足跡を見たことがあるのだが、足跡の小さなまだ若いヒグマのようだった。もっとも、そこから谷に下りるまでは鈴を鳴らし続けたのだが。)
ともかく、今ここではヒグマの心配もなく、周りには人影もなく、私ひとりが青空の下、左右の雪の山々を見ながら歩いているだけだ。コル(鞍部)付近にかけて風もなく、全くいい気分だった。
大自然の中に包まれてひとりでいる時ほど、心安らかに幸せな気分になれることはない。
私は、山開きの日に大勢の人々と一緒に山に登りたいとは思わない。
私は、トレイル・ランのように、他の皆と競いながら山道を走りたいとは思わない。
私は、スキーのクロス・カントリーの大会に参加したいとは思わない。
私は、マラソン大会に出たいとは思わない。
私は、皇居の周りを皆と一緒に走りたいとは思わない。
私は、きっとスカイツリーには行かないだろう。
私は、ディズニーランドに行くこともないだろう。
私は、今、ミャオがそばにいてくれたらと思う・・・。
こうしてただひとり、母なる大自然の中にあって、一歩一歩と自分の足で歩いていることの心地よさ。
どんな取るに足りない小さな虫でも、花でも、鳥たちでも、木々でも、まずは自分たちの命のために生きているのだ。
ありがたいことだ。そよ吹く風、青空、薄く流れゆく雲、白い雪に覆われた山々、遠くで鳴く鳥の声・・・私が感じることのできる、これらのものにただただ感謝するばかりだ。
1289mJ・Pから左に分かれて、その先にある小さなコブを二つ越えて、最後の双珠別岳への登りにかかる。
ただ白一色の、豊かに広がる斜面を登って行く。さすがに息が切れて、時々立ち止まりながら、ようやくのことで頂上に着いた。私の脚では予想通りというべきか、シェルター傍の登山口から3時間半近くかかっていた。
頂上らしい所はハイマツに覆われていて、そこを強引にかき分けて一番の高みに上がると、そこからは、今まで見えなかった北西面が一気に開けていた。
狩振岳が大きく見え、その後ろにはスキー・コースが目立つトマム山(1239m)があり、さらに遠く離れて、夕張岳(1668m)から芦別岳(1727m)などに至る夕張山地の白い連なりも見えていた。
そしてここからは、あのJ・Pから北上する日高山脈主脈となる山なみが、オダッシュ山、佐幌岳と続き、そしてその先の椎空知(しいそらち)山で終焉(しゅうえん)を迎える様子が、よくわかるのだ。
つまり、この日勝峠以北の日高山脈では、この最も高いこの双珠別岳こそが、それぞれの位置関係を確かめるための重要な位置にあるのだ。
ところでこの双珠別岳(1389m)は、もう一つ西側に離れて同じ名前の山(1347m)がある。
ここからも見えるその姿は、ピラミダルな形で独立峰のおもむきもあり、営林署関係では、この双珠別川流域にある西側の山を、先に双珠別岳と呼んでいたらしい。
ただし、日本の山名では、川の名前とその源流にある山の名前が同じであるように名づけられることが多いから、その後、双珠別川の源流にある、より高いこの山の方に、後になって山岳関係者が双珠別岳と名づけたのだろう。
(熊見山にしても、地図上では日勝峠そばの1175mコブにその名前がつけられているが、最近では、近くにあるより高い1328m三角点のある無名峰が熊見山と呼ばれるようになったのだ。)
日本の山の名前については、あの『日本百名山』の中で、深田久弥氏がいろいろと調べてはそのいきさつも書かれているから、信頼できる参考資料にもなるのだが、日本の場合には、ただでさえ表記音や漢字の音訓による違い、そしてこの源流表記などもあり、それが北海道の場合には、そのほとんどをアイヌの人たちが名づけたアイヌ語表記の山名、地名、川の名前などからきていることが多いから、さらに山名を解明するのは難しくなる。
ちなみに、この双珠別(そうしゅべつ)の意味は、”滝のある川”だということである。(占冠村資料より)
もっともこうした山名にこだわるのは人間たちだけだろう。ヒグマもシカもキツネも鳥たちも、山は位置と高さと形がわかりさえすれば十分なのだ。
その言い分からすれば、私は無機質に思えるかもしれない標高点だけの呼び名も悪くはないと思っているのだ。
特に多いのはこの日高山脈の山々だ・・・1726m峰、1967m峰、1780m峰、1917峰、1823m峰、1839m峰など、そうして名前をあげていくだけでも、山の姿が思い浮かぶ素晴らしい山たちである。
要は、名前ではないのだ。そこに在ることの、意義、特徴こそが、その山の価値を高めるのだ。
そういうことからすれば、どちらが双珠別だと騒ぎ立てる必要もないだろう。
この山は素晴らしい展望の山であり、日高山脈の北部支稜上の1389m峰と呼ばれるだけでも十分なのだ。
さて、同じコースを自分の足跡を頼りに戻ることにしたが、途中のJ・Pからはその標高点のある1289m点まで行ってみた。
そこから見る熊見山への雪庇に雪堤が続く眺めもなかなかに良かった。その後ろには、まだ青空の下に、芽室岳方面の山々が折り重なるように見えていた。(写真下)
その熊見山の登り返しでは、さすがに疲れて、数歩ごとに立ち止るありさまだったが、頂上に着いた後はもう下るだけでいいのだ。
大股でずんずんと下って行き、わずか30分足らずで下まで降りて来てしまった。もっとも、スキーなら数分もかからないところだろうが、こうして自分の脚だけで景色を見ながら余裕で下れるのだから、何も転び続けながらスキーで降りて来るよりはましだと思ってしまうのだ。
これで、私はまた山スキーからは遠ざかってしまうことになるのだろう。
全行程、6時間半余りかかったことになるが、今の私にはちょうどいい雪山歩きだった。
それにしても、青空の下、広大な雪原をただひとり、周囲の山々を眺めながら歩いて行った、あの至福のひととき・・・。
この喜びのために、なんとか体力を維持して、あの三浦さんの80歳までもとはいかないまでも、少しでも長く山を歩きたいという、ごうつくばりな思いが溢れてくる・・・自分自身に向かって”おれは、まだ生きているぞ”と叫びたいのだ。
後日談・・・この山行でのふくらはぎの筋肉痛が、三日間も続いた。歩くのもやっとの状態で、これでは今年計画している遠征の山旅も心配になってくる・・・わがままなこのぐうたらオヤジにムチを当てて、トレーニングをしなければと思うのだが。
そのトレーニングをするなら、なるべく早く、今でしょ・・・いやムリ。明日からでしょ、それもムリ。いつかやればいいでしょう・・・かくして何一つ教訓を学ぶこともない、メタボオヤジの自堕落(じだらく)な毎日が、これからもだらだらと続いて行くのであります。すんません。
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