ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

シャクナゲとヘミングウェイのネコたち

2013-04-14 17:55:48 | Weblog
   
 
 4月14日

 前回、天気が良くて、春爛漫(らんまん)の風景になってきたと書いたのに、その後はまるで1か月前に戻ったような、寒い日が続いた。それも、小雨まじりの、風の強い毎日だった。
 何事も、すんなりと事は運ばないものだ。確かに今は冬から春へと変わってはいるのだろうが、その春の中に、寒い冬の名残があり、一方では、来たるべき夏へと向かう熱気さえも見え隠れしているのだ。

 そうして寒い日が続いた後、昨日あたりから再び晴れて暖かい日が戻ってきた。いっぱいに満ち溢れる日差しが、ある時は熱くさえ感じられるようになってきた。
 庭のヤマザクラの花は散り始めて、新緑の葉が目立つようになってきた。
 そして、今そのサクラに代わって、華やかなシャクナゲの花が咲き始めた。(写真)
 十数年前に、母と近くのシャクナゲ園を訪れた時に、買い求めた小さな苗が、母が亡くなった後も、年ごとに枝葉を伸ばしては、もう3mほどもの高さになり、今やいっぱいの花を咲かせるようになったのだ。

 こうした庭木としてのシャクナゲも、確かにきれいではあるのだが、山に登る私としては、シャクナゲと言えばやはり山に咲く野生種のものを思い浮かべてしまう。

 まずは、北アルプスなどでおなじみのハクサンシャクナゲであるが、それは霧のかかる稜線を歩いている時に、乳白色に包まれた道の傍に、一瞬信じられないようなものを見つけて、思わず見とれてしまうほどの花の美しさだった。
 次に、北海道の山々で見ることの多いキバナシャクナゲである。台地状に続くゆるやかな尾根の斜面に、明るく点々と咲いていて、そのかなたには広大な青空が広がっている、そんな光景を思い浮かべる。
 さらには九州で見た二つのシャクナゲ、九重山群の黒岳の原生林の中に、そこにだけスポット・ライトが当たったかのような、あのツクシシャクナゲの一群。
 そして二年前に訪れた、あの屋久島の山稜をいろどっていたヤクシマシャクナゲ・・・それは巨大な屋久杉と、ただひとりだけで対面することのできた思い出へとつながっていく・・・(’11.6.20の項参照)。
 私がめぐり会ってきた花々は、いつも思い出とともにあり、思い出の中に出てくる花は、いつまでたっても色あせることはない。

 そんなことを思っていては、山に行きたくなってきた。前回の、鮮やかな雪景色の大山(弥山みせん)登山から、もう1か月もたっているのだ。
 そこで数日前、晴れた日を見はからって、近くの低い山を歩いてきた。

 登り下りが繰り返す尾根道は、まだ枯葉が積み重なっていて、わずかにヤマザクラやモミジの新緑が芽吹いたばかりだった。木々の間から、遠くには九重の山々や由布岳が見えていた。誰にも会わない静かな山道には、ただシジュウカラなどの小鳥の声が聞こえるだけだった。
 登りになり、下りになり、あまり展望のきかない尾根道をただひとりで、黙々と歩いて行った。
 その単純な行動に身を任せていることの心地よさ、それは余計なことを何も考えないからだろうか。

 私が、こうして歩いて行くことに、つまり山登りに夢中になるのは、多分に本来の私の性向の一つでもある、ある種の痴呆(ちほう)的な解放感を求めているからなのかもしれない。
 ただでさえ頭の悪い私が、小生意気にも哲学だ文学だ絵画だ音楽だと、考え込んではひとりわめきちらすものだから、私の脳は許容量以上のものを押しつけられては、哀れにも疲弊(ひへい)しきっているのだ。

 そこで、自然の中を歩いていると、体の動きにだけ注意をはらっていればいいだけで、深く考えなくていいから、私の脳はようやくやすらぎのひと時を得ることになるのだ。

 「ホンマは、ここがあんたのふるさとなんやで。アホになりなはれ、アホが一番や。足りない頭で、なんもそないなむずかしいこと考えることおまへん。」

 と、わけのわからない関西弁の言葉が耳元で聞こえる。私は、はっと気がつくのだ。そうだ、私は、本当はアホだったのだ。

 「あ、そーれ。えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよーいと。同じアホなら踊らにゃ、そんそん。」

 誰もいない山の中、いかつい顔をしたオヤジがひとり、何やら手をかざして踊っている様子・・・余りの長いひとりの生活に耐えきれず、とうとう気がふれてしまったか。
 これも前世からの因縁(いんねん)のたたり、これからは改心して何事も御仏(みほとけ)の教えにすがって生きていくべきなのだ。
 ただひたすらに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱(とな)えながら。

 というような思いが、一瞬私の頭の中をよぎったが、まだまだ道は先に続いていた。
 そして下の方に降りてくると、ほの暗いスギやヒノキの林を背景にして、ヤマザクラやモミジ、ミズキなどの新緑が目に鮮やかだった。(写真)

 

 往復、わずか2時間余りのハイキングだったが、ただ歩き続けることで、今までの枯葉が折り重なっているような、暗い心の思いが吹き飛ばされて、あの新緑の色によって、これから先に新たな季節があることを教えられたのだった。

 思えば、去年は、南アルプス、富士山、北アルプスなどの遠征登山があったにせよ、1年間でわずか8回しか山に行っていないのだ。つまり、一カ月に一度も行っていないことになり、数十年にも及ぶ私の登山人生の中では、会社の仕事が忙しくて、さらに北海道に家を建てていた時の、それぞれ2年ほどの空白期間を除けば、極めて少ない回数の一年だったのだ。
 かつては、年間30回近く行った年もあり、週ごとに山に向かったほどなのに、去年は一体何があったのか。

 一つは、年ごとにぐうたらになり、さらには山を選ぶようになり、冥途(めいど)の土産(みやげ)にと、まだ登っていない山やあるいは季節ごとの山に登りたくなったからである。
 そして去年は、私にとって、母の死に次ぐつらい出来事があったからだ。・・・ミャオの死。
 いまだに、この家の周りにはミャオの思い出があふれている。母の時と同じように、平静な思いに戻るまでにはまだ数年はかかるだろうが・・・。

 だから、また新たにネコを飼う気にはならないけれど、ネコを見るのは好きだ。
 前にも、ここに書いたことがあるが、動物写真家の岩合光昭氏によるNHK・BSでの『世界のネコ歩き』シリーズは素晴らしい。
 今回見たのは、アメリカはフロリダ州の最南端、キーウェストのネコちゃんたちである。

 まず驚いたのは、6本指のネコたちが多いこと。こちらに向かって歩いてくるさまは、まるで北海道のユキウサギの足と同じではないか。
 ユキウサギの足が普通のウサギより大きいのは分かる、つまり雪にもぐらないように、ワカンやスノーシューのように進化して大きくなったのだろうが、ここのネコの場合、雪も降らない暑い南国の街に住んでいるのだ。 
 ただ、周りが海だから、忍者のようにその太い足先で、海を歩いていたりして・・・いや、もちろんそんなことはない。
 事実は、近親交配による多指症であり、あのネコ好きの文豪ヘミングウェイが飼っていた時代からのネコであり、その遺伝子を受け継ぐネコたちが、今でもこの町のヘミングウェイ博物館の敷地内で飼われているとのことだ。

 (私の好きな作家の一人でもあるヘミングウェイについては、書きたいことがあまりにも多すぎるので、ここではこれ以上触れないことにするが、ネコが出てくる彼の作品の中で、ただ一つだけ選ぶとすれば、それは『雨の中の猫』である。)

 さらに町の人々とともに生きているネコちゃんたちには、それぞれ名前がつけられているのだ。
 例の足の形から、ビッグフット、そしてタイガーやグレタ・ガルボ(往年の名女優)等々。さらに驚くことは、ノラネコというべきか放し飼いというべきか、港には20歳のネコがいるし、有名なホテルのプールサイドには21歳にもなるネコが出入りしているのだ。

 ネコは13歳を過ぎれば年寄りネコであり、15歳まで生きたミャオは十分に天寿を全うしたのだ、と動物病院の先生は言っていたけれど、こうして長生きして皆に可愛いがられているネコたちを見ると、私がずっとそばにいてやれば、ミャオをもう少し長生きさせてあげられたのにと思うのだ。
 母に対して、ミャオに対して申し訳ないという気持ちはいつまでたってもなくなることはないだろう。それは、人間誰しもが負うことになる、亡くなった家族に対する十字架なのだ。

 さらに、イヌネコつながりでもう一本の番組についても、書いておきたい。
 数日前にNHKで放送された、震災関連のドキュメンタリー『21頭の犬たち― ふるさとへの旅』である。
 震災後の原発事故で、放射能に汚染されて、住み慣れた土地を離れざるを得なくなった飯館村の人々、それは動物たちも同じであり、見捨てられたものもいたのだろうが、依頼を受けた犬たちは幸いにも、岐阜県にある、要介護の犬たちが飼われているボランティアの施設に引き取られることになったのだ。
 そして2年間、それは犬たちにも、飼い主たちにもあまりにも長い時間であり、その施設の責任者は、犬たちを一度故郷に返してやり飼い主たちにも会わせてやるべく、21頭の犬をトラックに積んで、日本海側周りで一路福島を目指し、二日目に飯館村役場前に着いたのだ。
 そこには、犬たちの飼い主家族たちが待ち構えていた。
 犬たちは飼い主の臭いを忘れてはいなかった。飛びついては飼い主の顔をなめまわし、しっぽをちぎれんばかりに振りながら。

 犬たちの思いと、避難先では犬を飼うことができない飼い主たちの思い・・・本来の犬好きである私は、目をうるませながら見続けた。
 その中の一頭の犬は、飼い主の軽トラに乗せられてなつかしいわが家に帰るのだが、そこにはもう自分の臭いも飼い主の臭いも残っていないかった。犬はそさくさと、自ら再び軽トラックの荷台に乗り込んだのだ。ここは自分の家ではないと。
 ”犬は人につき、猫は家につく”のたとえのように。

 その家に住めるようになるまでには、何年かかるかもわからない。おそらくは、消えることのない放射能がずっとついて回ることになるのだろう。
 自分たちがいた家には住めなくなり、それまでの生活を失い、家族が離れ離れになり、イヌやネコたちもまた・・・。

 誰も責任を取りはしない。そこに原発を作ったのは誰なのか。遠い昔のことに誰も口をつぐんだままだ。
 まして、あの原発から遠く離れた所に住む私たちにとっては、同情こそすれ、やはり遠い土地での出来事にすぎないのだろうか。
 人生とは、単なる、運不運だけなのだろうか。

 暖かい南国で、周りの人々に優しく見守られて長生きするネコたち・・・。
 飼い主と離れて、施設の狭いオリの犬小屋で、同じ境遇の犬たちと暮らす他はないイヌたち・・・それでも、彼らは、心あるボランティアの人たちに見守られていて幸せなのだ。
 おそらくは誰知らず死んでいったであろう、たくさんのイヌやネコたち、牛や馬たちもいただろうから・・・。
 まして人間の世界では、数々の悲劇が生まれて、いまだにその中にある人々がいること・・・。

 思えば、何と自分の小さな幸せがありがたいことか、自分の不幸が何と小さいことか・・・ともかく今は、こうして元気に生きているのだもの。