ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

春の日高山脈

2013-04-29 21:44:38 | Weblog
 

 4月28日

 昨日は、風速10数メートルにもなるだろう強い北西の風が吹き荒れていた。それでも朝のうちは、雲の多い空の下に、白い日高山脈の山々が見えていた。
 何度見てもあきることはない、早春(そうしゅん)の白雪の山々の連なりである。
 特に楽古岳(らっこだけ、1472m)から十勝岳(とかちだけ、1457m)、さらにピリカヌプリ(1631m)から神威岳(かむいだけ、1601m)にかけての南日高の山々がくっきりと姿を見せていた。(写真は楽古岳と十勝岳) 
 その後、風が強いままに雲が増えてきて山を隠し、さらに広大な十勝平野の畑のあちこちからは、春の初めの頃の風物詩でもある、大砂塵(さじん)が空高く舞い上がっていた。

 気温は10度くらいだが、吹きつける風のためにずいぶん寒く感じる。とても、外には出られない。こういう日には、風の音を聞きながら一日中、ストーヴの燃える部屋にいればいいだけのことだ。
 去年収穫して貯蔵しておいた、ジャガイモを煮てつぶし、大きなイモ団子を作る。こうして冷蔵庫に入れておけば、いつでも取り出して切り分けて、フライパンでハムや野菜とともに炒(いた)めるか、電子レンジでチンしてチーズを乗せた昼食として、あるいはこれも作っておいたアズキぜんざいに小さな団子として入れて、おやつとして食べることもできる。
 極端に言えば、ジャガイモさえあれば生きていけるのだ。インカ帝国から伝えられたジャガイモは、その昔、やせた冷涼な土地で食糧難に悩んでいた北ヨーロッパの人々を、どれほど救ったことだろうか。

 物は考えようだ。何もわざわざおいしいものを食べに外に出かけなくとも、ひとりでいれば、なんとか手軽に作れる料理を考えだすものだ。
 さらに言えば、おなかが空いていれば、何でもおいしく思えるものだ。世の中で評判の高級フランス料理などはもとより、B級グルメでさえ食べたことがないとしても、人間はお腹さえ満ち足りれば、その時々の食事だけでも十分なのだ。
 もっとも、こんなことを言うのは、貧乏人の味覚音痴ということになりそうだが、開き直ってそれがどうしたと言いたくもなる。
 人それぞれに楽しみは違うのだから、”蓼(たで)食う虫も好き好き”のたとえ通り、自分の食事に満足していればそれでいいのだし、何もこの連休のさ中に、名物料理を求めてわざわざ人の多いところに行かなくてもすむのが、私のような粗食慣れしたぐうたらな人間の楽なところだ。

 世の中には、二種類の人間がいる。
 にぎやかなところが好きな人と、きらいな人。
 町中が好きな人と、田舎が好きな人。ディズニーランドが好きな人と、別に行きたいとも思わない人。スポーツ観戦にスタジアムに足を運ぶ人と、行きたいとも思わない人。欲しいもののためには行列に並ぶことも気にならない人と、そうしてまで並びたくない人。レストランで誰かと一緒に食事をしたい人と、家でひとりで食べたい人。皆と一緒に楽しく騒ぎたい人と、ひとりで静かに家にいたい人・・・。
 それはつまり、群れたい人と、群れたくない人。まめな人と、ぐうたらな人。誰かがそばにいないとさびしい人と、ひとりでいる方が気楽な人のことなのかもしれない。

 もちろん大多数の人は前者に属するのだろうし、後者に属するのは極めて少数の人たちにすぎないのだろう。
 それは、私みたいな、変わり者の年寄りとか、心に傷を持った人とかなのだろうが。
 そして、それはもちろん、生まれながらそうだったということではないということ。つまり、その人の周りの環境によって、偶然にもそういうふうになってしまっただけのことだ。いつも心のうちでは、皆と仲良く話しては笑っている夢を見ながらも・・・。

 かといって、そうしてひとりでいることのすべてが悪いばかりではない。神様はいつも、50パーセントずつの苦しみと楽しみを用意しておいてくれるものだ。
 寂しさの代わりに、いつもどこにでも行ける自由さがあり、好きな時にいつでも味わえる愉(たの)しみもある。
 数日前、私は山に登ってきた。

 今の時期は、まだらに雪が残る残雪期というよりは、山全体に雪がついているのでまだ積雪期といった方がいいくらいだし、ましてこの日高山脈の主稜線上の主峰群は、まだ冬と同じような雪の状態だから、それなりの装備をして登らなければならない。
 ただこの積雪期には、その雪を利用して登山道もない山に登れるし、夏道があっても別なルートから登ることもできる。天気の日を選んで、そして雪崩(なだれ)や雪庇(せっぴ)にさえ注意すれば、厳冬期ほどには厳しくない爽快(そうかい)な雪山歩きを楽しむことができるのだ。

 あの春の初めに登った大山(だいせん)などはそのいい例だ。(3月12,19日の項)
 しかしこの時期に日高山脈の主峰群に登るには、残雪で林道が通行止めになっている場合が多くて、そこまでのアプローチやそれから先の数時間以上の登行を考えると、もうこの年ではひとりで挑戦する気にもならないのだ。そこで、山脈の前衛峰である低い山に登ることにした。
 今ごろはいつも、そうした低い山々に登っていて、その中でも忘れられないのは、8年前に登った野塚岳西峰から長く伸びた南尾根の途中にある1120m標高点である。そこから見た、あの南アルプスの盟主、北岳(3192m)を思わせるような十勝岳の姿が今も忘れられない。

 今回はどこにするか、2万5千分の1の地図を見ていて目をつけたのが、あのカムイエクウチカウシ山などへのルートでもある札内川沿いの道の途中、札内(さつない)ダムの手前の両岸に続いている低山帯の一つの山である。
 この地域には、今までに何度か足を踏み入れているが、今回はコイカクシュサツナイ岳からの派生尾根が長々と続くその末端付近、前に登った1263m標高点や1016m標高点(’09.4.29の項)などを経て続く、最後の高まりの759.1mの三角点がある山である。
 三角点が設置されているということは、眺めがきくということだし、もうがんばりがきかなくなった私には、これくらいの低い山が今の自分にはふさわしい所だ。

 もちろん、夏山登山道があるわけでもなく、ただ地形図を確かめながら、かた雪の上を登っていくしかないのだが、ふと調べた中札内村のネットの資料には、同じ位置の同じ高さの山に、何と瓢箪(ひょうたん)山という名前が付けられている。
 ということは、近くにある有名なピョウタン(ヒョウタンではない)の滝にちなんでつけられたのか、それとも1263m標高点などから見えたように、瓢箪を半割にしたような形から名づけられたのか。
 ともかくその山が名前のある山だと分かって、名もない藪山(やぶやま)に登るというのではなくて、一つの大義名分(たいぎめいぶん)を通して、その目的をもって山に登るというお膳立てができたのだ。もうこれは、行くしかないでしょ。

 数日前の快晴の日の朝、南札内の牧場わきの道を少し入った所に車を停めて、そこから歩き始めた。
 少し回り込んだ山影の所から浅い谷になり、一面の雪の斜面を登って行った。積雪は50cmほどだが、かた雪とやわらかい雪が入り混じっていて、時々はまり込んでしまって歩きにくい。そこで早々と持ってきたワカンを靴に取りつけた。
 確かにスノーシューの方がもぐる雪面には効果的なのだが、いかんせん急な登りでは滑りやすくなってしまうから、こうした急斜面が続く日高山脈の山では、ワカンの方が対応しやすいのだ。

 靴は、もう20年以上も使っているプラスティック・ブーツ(早く言えばスキー靴の登山靴版)である。
 去年、ある有名な登山用品店に行って、中型のザックを買ったのだが、その時に雪山の話になり、まだプラスティック・ブーツを履いていると言ったら、あきれたような顔をされ、買い替えることを促された。
 それは大分前に、冬山でプラスティック・ブーツが割れるという事故が何件も起きて、それ以降、店頭からはプラスティック・ブーツはほとんど姿を消していたからだ。
 しかし、根性の曲がったひねくれ者の私は、そうしたプラスティック・ブーツが数年前に各店舗で大処分された時に、その半額以下にもなったものをこれから先のためにと購入したのだ。
 今もまだ20数年前のものをこうして使っているし、だからその2足を古い方は短い登山の時に、新しい方は長い距離の時に(’09.05.17~21の項など)と使い分けているのだ。何といっても、こうした春先から残雪期にかけての湿った雪の時には、プラスティック・ブーツのほうが効果的なのだ。

 急な尾根の斜面には、シカやキツネの足跡が幾つかついているだけで、幸いにもヒグマの足跡はなかった。(ヒグマの足跡で山に登るのを中止しこともある。’10.5.6の項参照)
 ダケカンバの梢から、一羽のウソの声が聞こえてきた。私も、口笛で鳴き交わしてやった。

 上に青空が見えるあの尾根までと、深くなってきた雪の急斜面に何度も足を取られながらたどり着くと、そこは頂上からの稜線になっていて、相変わらずダケカンバの木々が、展望をさえぎってうるさいものの、十勝幌尻岳をはじめとする日高主稜線の山々が見えてきた。 
 その先には、待望の歩きやすいかた雪の雪堤(せきてい)が続いている。(写真)

 

 最後の一登りで、(雪の下で確かめられないが)759.1m三角点に着いた。
 登山口からの標高差420mほどを、2時間半もかかったことになるが、写真を撮りながら、ゆっくりと登ってきたので疲れはない。一休みした後、今度は南に続く雪堤をたどって、ひょうたん型のもう一つの高みの方へと向かうことにした。

 途中からは東側が大きく開けて、十勝平野から太平洋の眺めが素晴らしいのだが、肝心の西側の眺めは、日高山脈主稜線の山々がやはりダケカンバにさえぎられてしまっている。
 それでも木々の間からは十勝幌尻岳(1842m)からカムイエク(1980m)、1823峰、コイカク(1721m)、ヤオロマップ(1794m)、ルベツネ(1727m)、ペテガリ(1736m)などの山々が見えていて、特にA,B,Cカールを擁(よう)したペテガリ岳の姿が一際素晴らしかった。(写真下)
 ゆるやかに下り少し登って740数mの高みに上がるが、ここも山側の展望はよくない。そこでそのまま先に続く尾根をたどってみるが、先の方で少し展望のきくところはあったが、その先で雪堤が途切れて厚いササが横たわっている。もうこれ以上は無理だと判断して、戻ることにした。

 時間は十分にある。時々、倒木の上に腰を下ろしては休んだりした。
 風の音にまじって、ヒガラの声が聞こえていた。
 静かな雪の山の中に、ひとりでいることの心地よさ。それは林の中の一軒家に住んでる時の、静かな暮らしとはまた違う、自分の体だけが、自然の中に包まれている心地よさでもある。
 人は自然の中から生まれたのであり、その自然の胎内にいる時ほど、心安らぐことはないのかもしれない。

 さすがに、雪山の下りは早い。1時間余りで下りて来てしまった。久しぶりの登山だったが、余裕を持って山を楽しむことができたのだ。
 近くにある温泉に入って、さっぱりと汗を流し、まだ夕方前に家に帰ってきた。

 快い疲れと、風呂に入って温まった体、山に登ってきた小さな満足感・・・冷蔵庫に入れておいた、もらったばかりのシラカバの樹液を、コップ一杯飲む。
 ほの甘い冷たさが体の中に広がっていく・・・私だけの小さな幸せ、それで十分だ。

 二日間も吹き荒れて、道東オホーツク海側に雪をもたらせた北風もようやく収まってきた。青空が一面に広がり、春の日高山脈の山なみが、夕暮れの照り返しを受けながら、それぞれに立ち並んでいた。
 私は、今、ここにいるのだ。